第2話 カジノ・ロワイヤル(2)
*
その女は、異様な風体をしていた。
豪華客船の中だから、というのではない。恐らく、どこにいても浮いていただろう。
彼女の居場所があるとしたら、それは戦場のみか――不吉のにおいを纏った女は、片桐忌名といった。
艶やかで長い髪を無造作に後ろで結わえてある。顔立ちは彫りが深い。険しさと女性らしさ、そして獣じみた生命力が奇妙に同居した、凄絶な美貌の持ち主だった。
身に付けているのは墨染めの旅衣。元は黒かったのであろう道着と袴は、汚らしくはなかったが着古しているのだろう、所々が擦り切れて灰色に見える。足元には足袋を履いていた。大抵の男が見上げるほど背が高く、遠目にはモデル風の体格である。もっとも、近づけばその肉体がワイヤーを束ねたように無駄のない筋肉で覆われていることに気付くだろうが。
ここに人がいれば、組まれた腕に押し上げられた豊かな胸よりも先に、歪な拳に目が行ったはずだ。
どのような鍛え方をしたらそうなるのだろうか。彼女の拳は脱臼と骨折、傷の上に傷が重なり歪んではいるが、それ以上に強固な存在感があった。傷は拳から腕にかけていくつも連なり、服の下へと潜っている。刺し傷や切り傷、その他どのような武器でつけられたのかも予測出来ないような痕が彼女の壮絶な過去を物語っていた。
酒を飲んでいた。におい立つようなラム酒であった。早いペースだったが、ちっとも酔った風はなかった。
船の一室、乗客のほとんどにあてがわれた部屋。オンリーワンではないが、誰もがいられるような場所ではない。
そこに、きん、と澄んだ音が響いた。
空になった瓶に穴が開いていた。ちょうど、人の親指程度の穴だ。通常、ガラスに力を加えると割れるか砕けるかするものだが、そうはならなかった。驚異的な
部屋の奥、シャワールームには死体が一つ放置されている。その額にも、親指ほどの穴が開いていた。彼は片桐忌名の雇い主だった。この船で行われるゲームのために大枚をはたいたが、ゲームに参加すること自体が目的の忌名にとって、もう用が済んだ相手であった。そういった枝葉への躊躇や執着のなさが、忌名の強さの本質でもあった。
忌名は立ち上がると、ゆっくりと、一分ほどもかけて足を頭上に持ち上げた。見る者の背筋を凍りつかせるような軌跡である。その間、忌名の体幹は鉄の芯でも入れられたかのようにまったくブレなかった。
同じようにいくつかの型を再現した。銃の手入れをするように、忌名にとって最も信頼出来る武器の動作確認をしているのだった。申し分のない仕上がりだった。もっとも、『いつでも、どこでも、誰とでも』が武の本懐であると信じる彼女にとっては、闘いが始まった瞬間が常に自分のベストコンディションなのだが。
ゆるゆると動きながら、意識を丹田に集中させ、息を吸って、吐いた。血液の中に含まれる酸素の一粒まで感じ取れるようであった。
片桐忌名は孤児の生まれである。その名前も、自分で付けた。
親はおらず貧しかったが、強さは最低限あれば充分で、本来ならそこまで身体を鍛える必要はなかった。盗みに必要なのはコツであり、いざという時の足の速さが確保できれば言うことはない。幼い忌名を動かしたのは、ただの衝動であった。
――強くなりたい。
そう思って、忌名は鍛えた。一人で運動することもあれば、ヤクザ者の中に混じって敵を求めることもあった。働いて稼いだ金は、道場やジムで使った。貪欲に身体を最適化し、技を求めた。
ある時、忌名は修行の終わりを感じた。彼女には才能があった。それは人並み外れた鍛錬に応える肉体の素質であり、技を覚える頭の良さだった。それらが告げていた。
――自分はもう、ボクシングのヘビー級チャンプに勝てる。
――オリンピック選手がやっているスポーツの記録のほとんどを塗り替えることだって出来る。
何だって出来るという確信は幼児めいた全能感ではなく、シンプルな自己評価だった。
しかし、忌名は鍛えることをやめなかった。野に降り、闘いを欲した。強さの限界を認めなかった。
暗黒街にその名が響く頃には、忌名の強さは誰にとっても持て余すものになっており、それは彼女自身、例外ではなかった。
ただ闘争のための闘争を欲して、戦争に参加したことがある。忌名は一人で戦車を破壊することが出来た。彼女の考える強さはまず生き、そして殺すことにあったため、近代兵器を使用することに忌避感はなかった。しかし、それはあくまで個人としての力であり、戦況を覆すに至らないことに、すぐに気付いた。やがて、兵士にとっての死神がドローンや無人機による爆撃に成り代わられた時、片桐忌名は自分が誰にも必要とされていないことを悟った。
元より、誰かのために闘っていたわけではない。何かの思想やイデオロギーのためでもない。そもそも意味などなかった。しかし、管理された死(あるいは平和と呼ぶべきもの)が蔓延する中では、社会に反旗を翻すことすら量化されてしまう。
そんな鬱屈とした思いを抱えていた中、忌名は悪魔と出会った。
妖怪や化け物と呼ばれる、化外の者たち。昔話に語られるような彼らが実在し、語られるがままに恐ろしく、そして強いという事実に忌名は狂喜した。片端から情報を集めては、悪魔に喧嘩を売った。それはもはや狩りだった。
そして忌名は、豪華客船で行われる死亡遊戯を知る。
闘争のための闘争を求めて。
――強くなりたい。
片桐忌名の夢は、まだ叶っていない。
*
船内にいくつかあるバーの一つ。
琥珀色の光が点在し、ゆるやかに流れるジャズが逆に静謐さを保っている。
その一角に、男女がいる。
薄暗い部屋の中でも目に痛いほどに黄色い雨合羽を着た男が二人――
通り名の元にもなった自閉症の弟は、座った格好からでもわかるほどひょろりと体躯が長い。テキーラのショットグラスを干しては高く積み上げる作業に没頭し、他の二人の会話には入ろうとしない。
背が低く、ずんぐりむっくりした方――兄である――が、煙草に火を点けた。
紫煙が漂うと、合羽の二人組に挟まれた少女が鼻をヒクつかせた。嫌がる風ではない。歳に不相応な、嘲りの表情であった。
「酒に煙草……程度の低い麻薬じゃ。昔はもっと良いものがあったというにのう」
豪奢なフリルとシックな色調のゴシックロリータに身を包んだ少女――朽縄まどかが言った。幼い見た目に反し、老獪な口調である。眼はぞっとするほど暗く、爬虫類を思わせる。
「やはり、嗜好品はこれに限る」
そう言うと、朽縄まどかはどこからともなく真っ赤な果物を取り出した。チェリーに似ているが、それよりもわずかに小ぶりである。手元に置かれたマティーニのグラスに落とすと、ステアして一気に飲み干した。けぷ、と可愛らしくげっぷをするも、アルコールの扱いには手慣れた様子だった。
「それは?」
「ふむ、お主ら人間は『禁断の果実』だとか言っていたような気がするの」
――口にしてみるか?
そう言うと、朽縄まどかはちろりと舌を出して見せた。その先端は二つに割れ、脳がとろかすような誘惑を発散させた。
しかし、レインマン兄はぶすくれた表情を変えなかった。応える代わりに、手元の酒を放りこむように飲んだ。
それを見た弟は自分も真似をしてテキーラを口に運んだが、度数が強すぎるせいで酷くむせた。その時とっさに横を向いたせいで、近くの席にいた男の席につばが飛んだ。
「おい、そこの君」
唾を飛ばされた男が立ち上がり、言った。上品な響きの奥に、怒りが噴き出す瞬間を待っているのがわかった。
「今汚したものについて、謝りたまえ」
レインマン弟はぽかんとしている。他人と会話する能力に難があるのだろう。しかしその態度は、男を苛立たせるのには充分だったようだ。
男はレインマン弟の胸ぐらをつかみ、無理やり立たせた。黄色い雨合羽が擦れて、カシャカシャ大袈裟な音を立てた。
「――弟を貸してやる」
レインマン兄が言った。騒ぎなど知らぬ、川の流れに研磨されて丸くなった岩のように、変わらない態度だった。
「助けないのか、腰抜けめ」
「やるなら、トイレでやれ。その方が早く済む」その言葉は男か弟のどちらに向けたものか。
胸ぐらをつかまれてもぽかんとしたままだった弟の顔に、ようやく得心した風な表情が浮かんだ。そして、そういうことになった。
連れ立って二人がトイレに消えた。
一分も経たずに、銃声が二度聞こえた。それきりだった。
更に五分ほど経って、トイレからレインマン弟だけが出てきた。彼の全身は血でずぶ濡れで、酸素をたっぷり含んだ明るい赤が合羽の黄色を驚くほど綺麗に引き立てていた。
もはや原形を留めていない死体を見て、弟は手を振った。手のひらは自分の方に向けられており、その仕草は逆さバイバイと言われる発達障害の子供によく見られる症状の一つだった。自分と相手の立場を置き換えて考えることが難しいためである。
異様な出で立ちのレインマンを見ても、店内の誰も何も反応しなかった。
「では、行くとするかのう」
そう言って朽縄まどかが立ち上がると、店内の照明が消えた。暗闇の中に、更に暗い人の影が濃く
『HA・HA・HA! HO-HI-HA!!』
それに応えるように、店内の男たちが順々に立ち上がり、荷を
銃を担ぐと、彼らは最後に防毒マスクをかぶった。カウンターの奥のバーテンダーも例外ではなかった。服装や銃の種類はどれもバラバラだったが、ガスマスクだけは統一されていた。
最後に、レインマン兄弟もガスマスクを装着した。彼らは銃こそ持たなかったが、代わりに分厚い刃のククリナイフを両手に携えている。
「行くぞ、毒装兵団。この船の命のともし火を、ひとつ残らず消し尽くせ」
*
そして、ゲームが始まる。
船内には千を超える数のモニターとスピーカーが至る所に配置されており、それらが一斉に宣告した。
『紳士淑女の皆さん、ようこそアデライードへ』
灰川と僕は、それをシアターでポップコーンを食べながら見ていた。ここの画面と音響が一番良いと灰川が言ったからだった。
僕らの正面のスクリーンに映っているのは、人形であった。西洋人形と日本人形の中間のような、無国籍な美しさだった。しかしそれは、人形特有の命を持ちえない空虚さをより引き立てるのみだった。背後にいる何者かの姿は、映像越しには確認出来ない。声は加工され、“何者かがいる”という不気味さだけが伝わってくる。
『さっそくですが、皆さんには殺し合いをしてもらいたい』
船内の人間は大きく分けて二種類。デスゲームの存在を前もって知っていた者と、知らなかった者。後者には弛緩した空気が漂っているが、前者は皆一様にそわそわしている。抜け駆けをしないのは、何がルール違反になるかわからないからだ。
「何の話だ!?」
お、さっそく話が飲め込めない人が文句を言い出した。よろしくない傾向だ。
『ルールはただ一つ。生き残った最後の一人が勝者』
「映画の続きを見せろ~!」
ぱしゅっ、と空気が抜けるような音がして、ひときわ大きな声で上映室に向かって怒鳴っていた男が倒れた。運営側の狙撃手である。
『ゲームの進行を妨げるものは、排除させてもらう』
一部で恐慌が起きた。シアターの外に出ても殺し合いは広がるばかりだから、良い手とは言えない。まあ一概に悪いわけでもないけれど。
船内の他の場所でもこういった運営側のデモンストレーションは行われているのだろう。
灰川はそんな人たちを横目にポップコーンをむしゃむしゃ。立ち上がろうともしない。
「僕の分も残しておいてよ」
「ん」
たかがポップコーン、と思うかもしれないけれど、これが今まで食べた中でも特別に美味しい。本当の豊かさとは、ささいな人の欲求をトップクラスの水準で満たすものなのだと痛感した。
「人形にボイスチェンジャーって本当にセンスないな~。何かが流行るとすぐ安っぽいパクりが出まくるB級ホラー映画コーナーじゃないんだからさ」
口いっぱいにポップコーンを頬張って映像にケチをつける灰川は、完全に金曜ロードショー感覚である。
「ねえ、本当にこれで滞りなくゲームが始まると思う?」
「そんなわけないだろう。今はまだ『運営に逆らったら殺す』という負の動機付けしか出来ていない。このままだと、僕らと同じように運営を打倒した方が得だと判断する人間が出てくるだろう。確かに狙撃手を揃えて船も抑えてご立派かもしれないが、黙っててもどうせ死ぬだけなんだし、無茶する奴もいるだろうね」
「運営としてはそれは避けたい」
「そういうこと。ほら、もうすぐ正の動機付けが始まるぞ。俺様の言う通りに殺し合えばこ~んなお得なことがありますよ、ってやつさ」
灰川に言われるがままに、僕は再びスクリーンの方を向いた。
『勝者には、不老不死の法を与えよう』
沸騰寸前だった辺りの空気が、また違う方向に向かってざわりと動いた。デスゲームに自ら乗った者たちも、これは初耳だったらしい。
隣の灰川も、口元に手を当てて考え込んでいる。
「……由良君、どう思う?」
「僕は本当だと思う。不老不死なんてものが実現可能なのかは知らないけど、嘘をついている風じゃない」
魂の契約を交わせば、ある程度は実現可能だ。もっとも、絶対と言えるものが空想の中にしかない以上、殺す手段はいくらでもあるだろうが、ただの人間にとってはそれでも充分だろう。
僕にとっての心配事は、敵に悪魔がいるかもしれないということ。
僕と同じ。
灰川には見えない側のまぶたが、暴力の予感にぶるりと痙攣した。
「根拠は?」
「声が、そう聞こえる」
「ボイスチェンジャーで加工されていてもかい?」いじわるな問いだ。暗がりで表情は見えないが、声が笑っている。
「うん。灰川は、奴の言うことを嘘だと思う?」
「そうは言ってない。君の嘘を見抜く嗅覚は素晴らしい。しかし、同時に危うい。そのことについて考えていた」
僕は自分の能力を卑しさから来る処世術の一つだと思っているのだけれど、灰川に言わせればそうではないようだ。何にせよ、有効活用してもらえるならそれに越したことはない。
「君の感覚は、嘘をついている人間の心の在り様に反応している。本人すら目を背けているような、精神の根深い部分まで探ることが出来る。だが、その嘘をついている人間が間違った情報を信じ込んでいたり、事実が純粋に記憶から抜け落ちている場合には、まったく反応することが出来ないのだよ」
「あのゲームマスターが騙されているってこと?」
「それもあるが……不老不死の法、本当に実在するのかもしれない」
灰川はまだ実証されていないものとして、オカルトの存在を肯定してもいる。しかし、不老不死という突飛なものまで受け入れるとは思っていなかったので、僕は少し驚いた。
「そもそも豪華客船で世界一周なんて遊びをやってる時点で、ある程度みんな金には困ってないだろう。だからこういう場合、わかりやすく大金で釣ることは難しい。そして、この世の春を楽しんだ権力者が求めるのは古来から変わらず健康な肉体であり、その究極が不老不死だ。もし実現出来るのなら、これ以上の動機はないのだが……」
いかんせん確実性に乏しいということか。
『口約束では信じられないだろうから、今からそれを証明しよう』
灰川の疑念に応えるように、人形の後ろの人影が動いた。
顔は目だけ穴が開いたシンプルな仮面に覆われている。服もゆったりした部屋着で、男のようにも女のようにも見えた。
彼(あるいは彼女?)は太いナイフを手に取り、躊躇なく自分の首に突き刺した。
「ひいっ」
館内で誰かが悲鳴を上げた。
僕も目を背けようとしたが、実際には眼球が渇いてしまうほど映像に集中してしまっていた。
その間、ゲームマスターは傷口からものすごい量の血を流しながらも、ぞぶりぞぶりと刃の動きを進めた。狩人が鹿の解体をするような、手慣れた動きであった。
やがて頸椎を切り離して刃が首を一周すると、頭が落ちた。
残った胴体は、どこからも信号を受けていないはずだったが、「どうだ?」と言わんばかりに手を広げた。コメディアンじみた仕草は、血みどろの刃物と真新しい切断面のせいでちっとも笑えなかった。
シャツと比べてまだ汚れが少ないズボンで血をぬぐうと、ゲームマスターは人形の背中に触れた。そうすると頭がなくなった彼の代わりを務めるように、人形から声が再生された。
『まだ証拠が欲しければ、私を見つけてみたまえ。それでは皆さん、ゲームを楽しんで』
――暗転。
「灰川、これからどうする?」
僕の問いかけに、灰川は気付いた様子がない。その瞳は好奇心に煽られて
「動画はいくらでも偽造が出来る。こちらが偽造を疑うということも向こうは気付いている……」
僕にはあの一連の惨劇が偽物には見えなかった。僕がそう考えていることは、灰川にはとうにお見通しなのだろう。唯物の世界で生きる探偵にとって、大事なのは確かな証拠である。だから、簡単に与えられた情報に飛びつくわけにはいかない。
灰川は探偵である。
探偵であるからには、サメのように貪婪に謎を暴き続けることでしか生きられないのだ。
告知が終わったことで、館内の照明がゆっくりと点き始めた。
ふと気付くと灰川がいる反対側、右隣の席には黒人の男がいた。
屈強な体格とは裏腹に、物音ひとつ立てない静かな動作で彼は自分の腕時計を外した。
「良い時計ですね」
返事はモーションなしの拳打。拳が当たる部分には時計の文字盤=即席のナックルダスター。
そう来ることは読めていたので受け流し、すれ違うように伸ばした右手を黒人の首にかける。荒縄のような筋肉が盛り上がり、悪魔の膂力と言えど、折ることは防がれた。しかし、そのまま手のひらを変化させて吸盤を作り出し、口と鼻をふさいだ。
「ぐ、むう」
苦しそうにしながらも黒人は柔軟に足を振り上げこちらの顔を蹴ってきたが、僕は彼の左手をまだ離していないため、邪魔になって届かない。
黒人は呼吸をしようともがくが、僕はそれをことごとく抑え込んだ。彼は最初と同じ座ったままの姿勢だったが、僕はゆっくりと立ち上がり、彼の力が発揮される前に潰すようにのしかかっていった。
「ぐむう」
「ぬぅ」
「う」
うめき声も徐々に弱くなり、やがて彼の瞳に恐怖が浮かんだ。だがそれも一瞬のこと、すぐに意識が混濁し、何も映らなくなった。
辺りでは既に、僕たちがやっていたのと同じような殺し合いが始まっていた。
「灰川、どうする!?」
僕は再び聞いた。
「行く」
「どこへ!?」
「不老不死があるのかどうか、確かめに」
そう言うと、灰川は近くにいた男を瞬く間に二人昏倒させ、懐からトランシーバーを奪った。こちらに投げて寄越す。
「ゲームの機密性を保つために、ゲームマスターによって携帯電話の通信は封鎖されているだろう。だが、船内だけなら連絡は可能なはずだ。周波数を合わせておけ」
「僕はどうする?」
灰川――にやり。
「好きにしたまえ」
*
死んでもいい人間なんていないと僕は思っている。
もし仮にいたとしても、それを人が判断するのは傲慢だ。
人に暴力を振るってはいけないと僕は思っている。
法律は破るべきではないし、何より暴力は連鎖してどうしようもないほどに膨れ上がってしまうものだからだ。
そんなことを考えながらも、一方で僕の身体は動く、動く、動く。
僕が拳を振るう度に肉が裂け、蹴りを放つ度に骨が折れる感触が伝わってくる。
はっきり言って、僕には暴力への適性がある。一種の天才ですらある。
灰川は好きにするように言った。僕は好きにしている。その結果、他人が傷ついている。
少し気が早いかもしれないが、もう何人かと魂の契約を交わした。人間としての僕と、悪魔としての僕の妥協点だ。好きで殺し合いをしに来た人ばかりではないのだから、逃げる手助けをしてやったのだ。それが正しいかどうかはわからない。が、そもそも僕は正しさに価値を見出していない。
この世の贅沢を味わった人間ほど、命あっての物種だということを知っている。僕が扱っているのは経済の極々原始的な形の一つだ。
生き延びたいか? 空を飛べるように翼が欲しい? 陸に戻るために泳ぐヒレが欲しい? 問題ない、僕に任せなさい。
叶えられる願いの規模は、契約者の魂の価値に比例する。さすがに瞬間移動が出来るほどの人はいなかったが、最後にはみんなある程度の満足と共に船を後にしたと思う。
ゲームを途中で抜けようとするのはルール違反なのだろう、運営側の狙撃手が発砲するのが何度か見えたが、そこから先には僕の責任はない。ただ普通に海に飛び込むよりよっぽど生き延びる確率は上がったはずだ。
貧乏人ほど肝心な場面で出し惜しみをするせいで大きな損をし、金持ちは更に富んでいくというシンプルかつ残酷な社会の構造を、僕はほんのわずかな時間でたっぷりと学んだ。ちなみに、僕はラスボス戦でもエリクサーを使わないタイプだったが、今後は少し考えようと思う。
残った奴は皆、望んで僕を打ち倒しに来ている。殺しのために雇われたのがほとんど、不老不死に目がくらんだのが少し。運営側の狙撃手も敵だが、そちらは後回しにする。彼らはその結果として死ぬこともあるが、それはあくまで結果に過ぎない。
何が言いたいのかと言うと、僕は今の所、そこそこ上手くやっている。僕にしては珍しいことに、ね。
船内は広く入り組んでいるせいで自分がどこにいるのかわからなかったが、敵には事欠かなかったので、僕は僕に向けられる殺意に望んで飛び込んで行った。
気が付けば、デッキに出ていた。
四方を海に囲まれた中で真水のプールに入るという冗談みたいなコンセプトの憩いの場所だったが、辺りには人が誰もいなかった。いや、正確に言うと、生きている人間がである。
皆、死んでいた。巨大なプロペラに巻き込まれたような、酷い死に様の死体ばかりだった。
殺し合いを忘れて、僕はぼんやりと足を止めた。
さっきまでは半袖で歩けば火傷しそうなほど日が照っていたはずなのに、不気味なほど空は曇っていた。巨大な怪物の
海はどす黒い。寄せては返す波の中に、命の気配は欠片もない。
ぬるく、生臭い風が吹いた。
すべての命に平等な死が、僕にもその清算を求めているようだった。
「嵐が、来るよォ」
不意に、声がかけられた。
黄色い雨合羽は血に濡れて鮮やか、両手には命を刈り取る形のククリナイフ。
目を合わせようとしないがこちらを確かにうかがう奇妙な視線、僕が見上げるくらいの上背は、聞いていたレインマンの弟と一致する。
ゆらゆら、そわそわと身体を揺らす。合羽の黄色がブレる、ナイフの切っ先が波のように
嫌だな。この距離だと、拳銃なんかよりも刃物の方がよっぽど速い。
「
僕が来たデッキへの出入り口をふさぐように、もう一人雨合羽の男が現れた。小柄な体格にもかかわらず、生きているのか死んでいるのかわからない人間を平然と引きずっていた。
「流行ってるのか? そーいうあだ名付けごっこがさ」
「由良俊公だな」
今度は断定的な口調だった。引きずっていた人間の足を投げ捨てた。これで彼が死んでいるのが確実になった。
酷く陰にこもってそのくせ固い、嫌な雰囲気だった。
「そうだよ」
「お前には死んでもらう」
「こっちもそのつもりだよ」
両側からじりじりと迫る兄弟を、僕は同時に視界の端に収めていた。あまり言いたくはないが、随分と殺しにくそうな相手だった。
「おっ、お前の雨が、みたっ、見たい! そそそそうすれば、母さんが迎えに来てくれるかもしれないから」
「なら一緒に見よう。濡れないように気をつけろ」
示し合わせた風でもないのに、二人が襲いかかってくるのはまったく同時だった。
*
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