スクランブル・エッグ!

第1話 カジノ・ロワイヤル(1)

 クラス替えの後やアルバイトの面接なんかで知らない椅子に座る機会は誰にでもあると思うのだけれど、どれも居心地が悪いものだということには同意してもらえるだろう。

 探偵稼業なんてものをやっているとその機会ってやつが、人よりも多くなる。中でも、今座っている椅子は値段だけで言うなら過去最高だったけれど、座り心地は最悪だった。

「人は勝ち続けることが出来ない」

 血がしたたるような肉をキコキコと切り分けながら、灰川は言った。その左手には完全な形の六本目の指があり、小指側に近い薬指には飾り気のない銀色の指輪がはまっている。

 周囲の調度品はどれもマットな質感と重厚さで、控えめながら、だからこその高級感を主張している。この空間にある人や物のにおい、音などは完全に抑制され、管理下にあるように感じる。事実、ここの壁を隔てた向こうが海だなんて、ちっとも想像出来ない。

 男装の探偵、灰川真澄。不自然なまでに黒々とした髪に、黒曜石の瞳は炯々と好奇心の光を放っている。タキシードは体格が良い人間の方が似合うものだが、灰川はタイトにそれを着こなしていた。

 隣に座る僕が着ているのは普段の学校の制服で、手持ちの中では一番高いし冠婚葬祭にも使えるはずなのだけれど、どうにもみすぼらしい感は否めない。

 ステーキだけではなく、その他にも大量の料理が給仕によって入れ代わり立ち代わり運ばれては、僕たちの目を楽しませる。もっとも、食べたことのない高級なものばかり(灰川曰く、貧乏人にもわかりやすいように金をかけた、せこい料理)で味まで楽しむ余裕は僕にはないのだが。

「少しでも真面目に生きていれば、誰でも気付くことです。何であれ、自分より上手く出来る人間がいる。学校のマラソン大会で優勝しても、オリンピックには出られないし、チーターより速く走ることは出来ない」

「それは灰川君、キミであってもかね?」

 対面に座ったこの食事会のホスト――仕立ての良いスーツを装甲のように着こなす男。くすんだ金髪をクルーカットに刈り上げ、自分の頑強さを押し出すことに慣れた態度。軍隊上がりだろうか、と見当をつける。

 灰川はフッとかすかに笑った。

「生き物はすべて、生まれたならいつか死ぬ。それは僕とて逃れられない、当然のことわりですよ」

 どうしようもなく傲慢な態度だが、僕には灰川が事実を言っているつもりだというのがわかる。ひょっとしたら、謙遜している気でいるのかもしれない。どっちにしても、彼女(あるいは彼?)の平常運転である。

「それが致命的なものになり得るかは人によりけりとしても、誰でもいつかは負けるものです」

「随分と悲観的な考え方だね。少なくとも今夜のキミは勝利者だ」

 男は大げさに手を打ち鳴らした。もちろん皮肉のつもりなのだろうが、灰川はこたえた様子もない。

「由良君、これをあげよう。食べるといい」

 こっちに話を振るなよ。喋らないようにしてたんだから。

 灰川はトマト以外何でも食べられるが、選り好み出来る時はメチャクチャにこだわる口だ。グルメと言っていいだろう。かといって、食べ物を捨てることをよしとするわけでもないので、灰川が食べないものは僕の皿に回ってくることになる。

「トマトはナス科だから、悪の親玉であるナスは君にあげよう。美味しいよ」

「……そう思うなら自分で食べろよ」

「鳥のもも肉もあげよう。僕はパリパリにローストされた皮だけで充分だ」

「聞けって」

 食べるけどさ。

 僕たちがいるのは大海のど真ん中、超級豪華客船アデライードだ。

 豪華客船というのは乗るだけでも大変なお金が必要で、その中には船内の様々なサービスを受ける分まで込みなので、食事に関しては一々財布を取り出す必要はない。もちろん、例外もある。

 たとえば、カジノだ。もっと言うと、今僕が気まずく尻を乗せている椅子の在処は、その奥にあるスタッフルームである。

 いつだってそうなのだけれど、僕の相棒の灰川は探偵で、探偵であるからには傲慢で自分勝手で気まぐれで社会性が皆無で性格が破綻していて人の気持ちが全然わからなくて、取り返しのつかないことを勝手に進めてしまう。その上、僕は探偵助手で、探偵助手であるからには小心者で主体性がなくて人生には何が大切なのかまったく理解していなくて、探偵の言いなりになって動くしかないのだ。

 灰川と僕は、虫々院蟲々居士の痕跡を追っている。灰川にとっても僕にとっても奴は敵であり、その手は世界中のどこにでも伸びている。虫々院は組織であって組織ではないのだが、説明は難しいのでここでは割愛する。ともかく、奴の手先を減らすために地球全土を飛び回らなくてはならないのだが、その過程で「豪華客船による世界一周旅行に行くぞ」と言い出した灰川に対して僕は、(パスポートを取らなきゃなあ……)とぼんやり思っただけだった。それはもう決まったことだったからである。

 カジノに入った時、僕は自分に運がないのを知っているから(灰川に目を付けられた時点で、誰もこのことを疑わないだろう)、灰川の後ろについて回るだけだった。きらびやかさと妖しさが混交し、どんどんとエスカレートしていく欲望にあてられてクラクラしていたせいで、灰川の手元にあるチップが一人では持ち運べないほどの山になるまで気が付かなかった。僕は馬鹿だ。

 勝ちすぎた灰川の元に、カジノの支配人とスタッフが来て遠回しに帰るように言ってきたが、灰川は換金すると譲らなかった。仕方ないのでとりあえず(何がとりあえずなのかわからないが、大人の世界ではよくあることらしい)、食事をしつつ話すことになった。その間、僕はずっとただ流されているだけだった。

「勝ち方にも色々あります。例えば、鉄火場で小銭を稼いだところでそれを五体満足で持ち帰れるかは、また別の話だ」

「おやおや、物騒な話ですな」

 男が言った。内容とは裏腹に、嘲弄ちょうろうの気配がにじむ言葉。背後からも追従の声が上がった。

「人は皆、緩やかに失墜しているのです。遅いか速いかの違い――もっとも、僕にとってそれが今日のつもりではありませんが」

 灰川が何か言っていたが、僕はほとんど聞いていなかった。

 男の後ろに二人、窓側に一人、僕たちの背後のドアに二人、黒服のスタッフがいる。高級なお仕着せに身を包んではいるが、荒事の予感に緊張する肉体も、懐にある拳銃もまるで隠せていない。

 僕の指がカタカタと震え出したのを見て、対面の男が笑みを深めた。恐怖をパッケージして売りさばく売人ハスラーの態度。僕のような人間はきっと上客なのだろう。

 今更言葉にするまでもないが、カジノで荒稼ぎした灰川を、彼らは脅しているのだ。場合によっては、生かして帰す気などないのかも。僕はそこに紛れ込んだおまけに過ぎない。

 豪華客船なんてものを動かすのにどれだけの金がかけられているのか僕にはわからないが、短時間で灰川はそれをも揺るがす額に手をかけたらしい。具体的な数字は聞きたくない。

 現代の文明の極致とも言える最先端の娯楽の場でも、一皮剥けばこのような、暴力が支配する原始の荒野が広がっているのかと思うと、僕は酷く寒々しい気持ちになった。

「さて」

 ナプキンで口元をぬぐうと、灰川は立ち上がった。あまりにも自然な動作だったので、誰もそれを止めようとしなかった。

「ごちそうになりました。あとはそこにいる彼に、話を通してください」

 周囲の視線が僕に集まった。

「それでは」

 由良君、たっぷり食えよ――そう言うと、灰川は当然のように部屋を出て行った。

 ぽかんとした表情の黒服たちが自分の失態を悟り、二人、灰川を追った。

 残った男たちが僕を見た。

 すぐに追いついて失点を取り戻すつもりだろうが、それだけでは彼らの気が収まらないのだろう。嗜虐への期待が肉の内側でふくれ上がり、部屋の温度がわずかに上がったような気がした。

「彼女はああ言っていたようだが?」

「はい。僕が承ります」

 こう言うしかないじゃないか。

 皿の上のブロッコリーをつつき、転がして、気乗りしないまま口にした。ドレッシングの味が好みではなかったが、数度噛んでそのまま飲み込んだ。僕にはそれが可能だった。だから、した。残すことも出来たが、そうはしなかった。

「そうか。なら言うが、灰川君が稼いだ額はこちらの許容を超えている。だから程々で手打ちにしようという大人の提案をしたつもりだったのだが、残念ながら彼女にはわからなかったようだね」

「はい。結局のところ、僕たちはまだ高校生ですから」

 これは僕の本音だ。ちょっと人と違ったところがあったって、僕たちはまだティーンエージャーで、知らないことがたくさんあって、これからもたくさんの間違いを犯していくのだ。そこのところをみんな、勘違いしているように思う。

「若さは関係ないんだ。受けてもらえないとなると、こちらも少し手荒な真似をせざるを得ないということだ」

「カジノのルールからしても、法の観点からしても、灰川がしたことは何の問題もないのに?」

「大事なのは表向きの言葉じゃない。誰も本当にそんなもの気にしてはいないよ。それにだね、広い広い海の真ん中で人が一人か二人消えたところで、誰が気にすると思うんだね?」

 ただの決定事項を告げるように、男は言った。

 手慣れた様子でフォークを置き、手慣れた様子で指を屈伸した。それが彼の日常へと回帰するための動作だった。

 事が始まる前に、急いで灰川から押し付けられた食べ物をすべて頬張った。僕にも好き嫌いがないわけじゃあないが、まあ、礼儀と自分の中のルールの問題である。

 どれも決して美味しくはなかったけれど、問題なく食べ切った。そんな僕の様子を見て、最初は笑っていた男たちの空気が徐々に困惑の向きへと変わっていった。

「言ってませんでしたが」

 手が震えて、食器がカタカタと音を立てた。恐怖だけじゃない。どうしようもないほどの暴力への衝動だった。奇妙なことに、それらは僕の中で矛盾しなかった。

 僕は己の狂気を握りしめた。

 震えは止まった。

 目の前の言った男の言ったことに、僕は内心で賛同していた。この豪華客船はちょっとした治外法権で、人が何人か死んで消えたところで、誰も咎められないのは本当のことだ。それが誰であっても。

「僕に毒は効かないんだ」

 男たちが一斉に、僕に銃を向けた。

 彼らの指先が引き金にわずかな圧力を加えるよりも早く、僕はその言葉を口にしていた。

『――変身』


   *


 少し前の話をしよう。

 僕と灰川は豪華客船アデライードに乗り込むためにフロリダの港に立っている。人間しか入ることを許されないゲートを越えた先にある場所だ。世界をぐるっと一周する旅行に多くの人が詰めかけ、その多くは(当たり前だけど)外国人で、日本語しか喋れない僕としては中々気まずい。

 スタッフを含めて一万人以上を乗せられる、三十万トンの船。以前、キャンピングカーに乗ったことがあって、生活に必要な需要を細かいところまでフォローしていて感心したのだけれど、どうやらそれとは比べ物にならないらしい。豪華なホテルを想像していた自分が馬鹿馬鹿しくなるような、むしろこの一隻でちょっとした街を思わせるほどの風格がある。

 出港を待つアデライードを首が痛くなるまで見上げていると、脇腹を灰川に軽く突かれた。

「あんまりキョロキョロするなよ。田舎者丸出しじゃないか」

「本当に田舎者なんだから、しょうがないだろ」

 僕は自分が大したことのない人間だと思っているし、分不相応な望みは自分自身を不幸にするものだと決めつけているから普段は接することのない価値観だけれど、多くの人はこういった豊かさに憧れるのかもしれない。大量消費の資本主義社会を腐すつもりはないけれど、人の欲望はもっともっとで、僕にはそれに付き合うだけの器量がない。だというのに、とっとと田舎に帰ることもせずにここにいるのは、皮肉なことだ。

 唯物の世界にある現時点での文化の極致を前に、そんなことを思った。

 僕らが生きているこの世界には唯物と超常の二つの側面があって、本当はそれらは単純に分けて考えられるようなものではなく地続きであるはずなんだけれど、固定観念や無知さと、それを利用しようとする者たちによって分かたれている。

 悪魔が存在するということを言っても多くの人は信じないだろう。僕はそれを利用しているし、信じてもらえないことにもどかしさを感じる時もある。

 僕は人間じゃない。魂を糧に唯物の世の理を曲げる悪魔だ。

 人の魂は本当は無限の力を持っていて、世界をどんなふうにでも変えてしまえるのに、多くの人はそうしない。魂の力の引き金になるのは認識であり、その源は人の心だからだ。

 世の中は変わらないと多くの人が認識しているから世界は変わらないし、本当は心の底で変わることを恐れているから変えられないのだ。人はどうでもいいことには本気になれない。不満がないわけじゃない。それでも変わるほどの気力もない。もっと美味しいものが食べたいと思いながら、みんな栄養バランスの悪いカップ麺を食べている。もっともっとの中で餓えながら、自ら望んで毒を食うのが人間なのだ。そうして生きるのが終わるまで死んでいく。

 そうした人のカルマを僕は軽蔑しないし、嫌悪もしない。自分もそうしたサイクルの中に組み込まれているのがわかっていて、ならばもっと上手く回すことだけを考えるのが自分の幸せに繋がるはずだからである。

 僕は悪魔で、悪魔は人の欲望と引き換えに魂を糧にする。この船にはどれだけの欲望が詰まっているのだろうか。

「食いきれるかな?」

 そう独りごちると、列が動き出した。

 灰川がこの船で満たそうとしている欲望がどんなものなのか、想像するだに恐ろしい。しかし、もう既に後戻りは出来ない。何故なら僕は探偵助手で、探偵助手は嫌々事件に巻き込まれなければならないのだから。


   *


「馬鹿なことをした……馬鹿なことをしたもんだ……」

 恐れに打ちのめされたような虚ろな声が、薄暗がりに響いた。

 船の外側の絢爛さからはかけ離れたようでいて同じくらいに複雑で入り組み、そして繊細な機械類が押し込められているのは、その心臓部となる機関室である。

 男は、血管のように張り巡らされた配管の陰に隠れるようにしてうずくまっていた。

 彼は雇われてアデライードに乗っていた。そうでなければ、一生縁がなかったことだろう。男は豪華客船に乗れる余裕があるどころか、多重債務者だった。

 楽な仕事だと聞いていた。

 そう言われて本当に楽な仕事だったことなんてなかったことを、男は忘れていた。

 ――もうすぐ、船は止まる。

 360度周りを見渡しても陸地の影も知れない、海上のど真ん中で。

 ――そうしたら、船内の至る所で殺し合いが始まる。

 詳しい理由を男は知らない。

 同じ境遇で居合わせた同輩たちは、マフィアの代理戦争だとも、金持ちどもの悪趣味な娯楽だとも噂した。彼らを雇った者は何も語らず、実際のところ、確かめる術はないのだった。

 デス・ゲームだ。

 ルールがあり、それに逆らえば殺される。その手の娯楽作品を読んだことはあったが、実際にあるとは思わなかった。

 しかし、男をここに送り込んだ人間は、狙撃手の配置を通達した。今はもうそれを疑う気にはなれない。

「馬鹿なことをした」

 知らず、男の口からまた声が漏れた。続けて、歯の根が鳴る。

 一定時間が過ぎればゲームは終わる。その時まで生きていられれば、男の借金はチャラになる。そういう条件だった。

 しかし、どれくらいの時間でゲームが終わるのか、男は知らなかった。聞けなかったのだ。彼の借金の原因も、そういう弱気にあったのだろう。

 つまりはそういう積もり積もった弱さや愚かさが、ついに彼の足を捕まえたということである。

 ただ時間いっぱい逃げ回るために男は派遣されたのではない。

 彼は殺すべき対象の指示を受けていた。しかし、もう生き延びるだけで精いっぱいだった。

 無駄死にを避けるため、注意すべき対象を事前に男は知らされていた。

 曰く――彼らは人にして人にあらず。

 曰く――人知を超えた怪力乱神の類。

 曰く――銃で死ぬのなら、運が良い。

 聞いた時は与太話だと思った。

 ビビらせて、尻を叩くための冗談だと。

 そう思っていたのは船に乗るまでだった。

 男は酷く怯えている。

 機関室に隠れていれば、流れ弾の危険性を考えて発砲してくるやつはいないだろう。

 しかし、やつらにそんな人間の理屈は通用しないのだ。

 七人の魔人たちには。


   *


 ――どこにもいない男グレイマン


 ビジネスライクで、几帳面な殺し屋。

 変装の天才で、どんな体格の人間にもなりすますことが出来る。

 とあるアメリカの実業家は、抱き上げた自分の息子に“正面から額を撃ち抜かれた”。

 本物の息子は後日、湖の底から発見された。

 彼の本当の顔を知るものは誰もいない。


 ――雨男レインマン


 二人で一人の兄弟殺人鬼。

 ちびの兄と、自閉症レインマンでのっぽの弟。

 元々人殺しが好きだった弟の趣味を実益につなげた、やり手の兄貴。

 両手に持った肉厚のククリナイフと、返り血を防ぐための黄色い雨合羽が、彼らのトレードマークである。

 合計四本の凶器によって解体された死体は、常に凄惨なものとなる。


 ――変形変化キンダーサプライズ・由良俊公。


 探偵・灰川真澄の助手、由良俊公。

 多くの人から怨みを買い、狙われる灰川のガードマンである。

 その若さから組みやすしと見て襲った暗殺者たちを、由良はことごとく返り討ちにした。

 魔力含有量が低く、使う術式も位階の低い“変化へんげ”が主だが、あなどれない。


 ――廃世のテロリスト・朽縄くちなわまどか。


 ゴシックロリータのファッションに身を包んだ少女。

 しかし彼女の存在は古く、さかのぼれる限りでは中世のフレスコ画にその肖像が見られる。

 “朽縄”とは蛇の謂いであり、その性質は不死である。

 現在では複数の宗教過激派やテロリスト集団に籍を置き、彼らの思想を語り/煽動し/活動しているが、彼女自身はそれらを一切信じていない。

 イラクで文化遺産を爆破した一週間後には、中国の雑踏で毒ガスをばら撒いている。それが朽縄まどかだ。

 彼女にとっては世界を燃やして落とすのが娯楽であり、生き甲斐なのである。

 最悪のテロリストであった。


 ――呪術師カースメイカー・アバラッド。


 呪術とは祈祷や占いを包括的に指すこともあるが、彼は多くの人が想像する呪術の邪悪な側面を一手に引き受け、体現したような男だ。

 彼、と称したが実際の性別はわからない。アバラッドというのも本名ではない。

 “本物”は力を持つ。同時に、うし刻参こくまいりに代表されるように、奪われれば呪いの起点にもなってしまう。

 呪術師にとって自分の“本物”を他人に握られるのは、この上ない弱みなのだ。

 アバラッドはブードゥーの秘術を使い、街を丸ごとゾンビにして操ったと言われているが、それも定かではない。

 呪術師の口から生じる言葉は、すべて呪いの性質を帯びているからである。


 ――緋蜂フェィファン


 一見しただけでは、ただの成金の華僑かきょうとしか思えない老婆。

 彼女は必ず一度は暗殺対象の前にその姿を現し、品定めをする。

 二度目に彼女が姿を現す時、それは対象の死ぬ瞬間である。

 常に笑みを絶やさぬ穏やかな風貌を装うも、その手口は残忍。

 得物の太い釘を人間離れした膂力りょりょくで打ち込み、蜂の巣にするというものである。

 彼女が持つ釘は、ペンキじみて派手な赤色に塗装されているが、その理由を知る者はない。


 ――片桐忌名かたぎりいみな


 殺し屋たちが『彼女』と言う時、そのほとんどは片桐忌名のことを指している。

 彼女はただ、ひたすらに強い。

 特別な血統を継いでいるだとか、悪魔と契約しただとか、宇宙の意思に選ばれたのだとかそんなことは一切関係なく、ただ強い。

 誰かが、彼女は突然変異個体なのだと言った。

 それで納得するものもいるのかもしれないが、彼女はそもそも納得など求めていなかった。

 片桐忌名は自分自身にただ強くあることを望み、生まれ持った資質と狂ったような量の鍛錬により、それを実現し続けた。

 誰も彼女を打ち倒すことは出来なかった。




 魔人たちはそれぞれの思惑を胸に、豪華客船アデライードに降り立つ――。


   *


「――デス・ゲーム?」

 食べすぎたせいで膨れたお腹をさすりながら、灰川の言葉をおうむ返しに口にした。あのあと、念入りに変化へんげしたから血のにおいはしていない、と思う。多分。

「そうだ。この船に乗っているほとんどの人間は、それに対応するため、つまりは荒事のために集められている」

 灰川はカジノでくすねてきたチップを数枚、左手の指の間で弄んだ。通常人とは異なる指の数のせいで、回転→パーム→現れる/回転→パーム→現れる……の繰り返しが立体的な万華鏡のように見える。

「この船は魔女の鍋の底だ。すぐに煮え切ってしまうだろう。それをかき回すのは僕らだ」

 戸籍がなかった原始時代じゃあるまいしそんな大量の人死にを揉み消せるわけがないとか、そんなことをして誰が得するんだとか、どこでそんな情報を仕入れたのかとか、色々なことが頭の中でグルグルと渦巻いたが、次第に諦観と自棄がそれらを鎮火させた。代わりに憂鬱が吐き気を呼び寄せて、さっきお腹の中に詰め込んだ大量の料理と数発の銃弾が逆流しそうになった。

 灰川が言うのなら実際にそれはあるのだろう。ジャンクな暴力に次ぐ暴力。貧乏で何もない高校生の僕が豪華客船に乗ることなど考えたことがなかったように、誰の一歩先にも知らない世界が広がっているというだけのことなのだ。

 カジノを出て行く僕らとすれ違う他の客を見ると、確かにゴツい男が多い。シャツの袖口から腕輪のようなタトゥーが見えた。

 七人の殺し屋の話を僕にしたということは、きっとそういうことなのだろう。

「ほら、キョロキョロするなと言ったろう」

 灰川の声に振り向くと、正面から歩いてきた婦人にぶつかりそうになっていた。

「あ、すいません」

労駕ラオジャ

 天鵞絨ビロードの赤を基調に、金糸を散らしたチャイナ風意匠のドレス。くっきりと深い皺が笑みの形に顔中に刻まれた女性だった。歳は七十代より上だろうか、しかし姿勢は正しく歩みもしっかりとしている。恐らく中国語で何かを一言言うと、すぐに行ってしまった。キッチリと結われ、綺麗に色の抜けた白髪が遠ざかり、すぐに廊下の角に消えた。

「丁寧すぎてあまり使われないが、あれは『すみません』という意味だね。あと、彼女が緋蜂フェィファンだ」

「は? さっき言ってた殺人鬼の?」僕はさっきから間抜けな質問ばかりしているな。

「そうだよ。由良君、案外モテ期が来てるんじゃないかい?」

「嬉しかないよ」

 さっきの話では、緋蜂は殺す相手の目の前に一度は姿を現すと言う。僕は既にターゲットに入っているのか。

「きっと、僕じゃなくてお前を狙っているのさ」

「そいつは怖いな。君に守ってもらわないと」

 くつくつと地獄の窯が煮立つような含み笑いをする灰川が指差すのは、僕の胸元。

 指示されるがままに制服の内側のワイシャツの胸ポケットを探ると、真っ赤に塗られた釘が入っていた。不穏な名刺/悪意に満ちた自己紹介。

「いつでも殺せるってことか」

「頼りない騎士様ナイトじゃないか。そんなんで大丈夫かい?」

「大丈夫じゃなくても、やるしかないんでしょ?」

「フフ、わかってきたじゃないか」

 僕は人殺しはよくないことだという良識を持っているつもりだし、おっかない連中に混じって世界の暴力の総量を増やすのに加担するなんてまっぴらだと思っている。でも僕はきっとやめない。今から海に飛び込んで泳いで帰りたいと思うことも、灰川について歩いて事件現場を引っ掻き回すスクランブルことも、安っぽい願いと引き換えに魂を巻き上げることも、全部僕を構成する要素の一つ一つだ。

「あのお婆さんが緋蜂だって、灰川は知ってたんだろう? 顔と名前が知れてる殺し屋ってどうなのよ」

「まあ、普通ならお話にならないが、それでもやっていけるくらい強いってことだろ」

 頑張りたまえよ~、という灰川の気持ちの入らない台詞に、頭がクラクラする。

 きっと酷いことになるだろう。僕も、他の乗客も。大半はその命で思い知るだろう。今からもう、悲惨な予感で胸がいっぱいになった。けれど同時に、期待が僕の背中を押した。

 世界中のどこにでもいる凡庸さでパンパンになった人たちと同様に、僕は心と行動が比例しないのだ。それは有り余った豊かさで欲望がダイレクトに叶えられるこの船の乗客のほとんどだって、きっと変わらないのだろう。

「デスゲームが始まるってのは聞いたけど、何でわざわざそんな物騒な所に乗り込んだんだよ?」

「殺し合えと言われてハイそうですか、と応じる奴はそうそういないだろう。ルールには強制力が必要だ」

 そんなに長く船内を歩き回ったつもりはないけれど、それでも二つは隠し部屋らしきものを見つけた。そして時折、狙撃手くさい視線も感じる。つまり、彼らがその強制力ということだ。

「それもそうだね」

 法律と同じか。警察や軍隊がいなくては、犯罪した者勝ちだものな。

「豪華客船を丸ごと使って、人殺しを強制出来るだけの力を持った組織。どうだい、ちょっとしたものだろう?」

「うん」

「だから、そいつを乗っ取る」

「まぁじでぇ」

 やっぱりこいつ、ろくでもないことを考えてやがった。でも灰川はろくでもないことをたくらんでいる時が一番楽しそうだし、そんな彼女と僕はどういうわけだかきっと唯一無二の友達なのだ。うへぇ。

「さぁて、楽しくなってきたぞぉ! 出撃スクランブルだ!」

 グルグルと腕を回す灰川。彼女だけは常に心の赴くままに行動しているのだと思うと、何だか妙にうらやましくなった。


   *

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