第8話 スカイフォール(3)


   *


 姫香は電力室にいた。

 姫香を拉致したのはアバラッドであり、彼の操るゾンビがそれを実行した。

 暗がりから襲ってきた人影に姫香は果断に抵抗したが、影には首から上がなかった。死んでいるものを殺すことは出来ない。数発の弾丸をゾンビの胸に撃ち込んでそれを確認した姫香は、何も言わずに拉致された。

 諦めたわけではない。ただ、今の自分に出来ることがないと認識したのである。その証拠に、ゾンビに車椅子を押されている間中ずっと、その眼は屈辱と復讐の火を絶やしていなかった。誇り高い彼女にとって、自らの行く先を他人に任せるのは我慢ならないことだった。

「よくよく来たね」

 過剰な繰り返し。不安定な言葉に人は傾注せざるを得ない。壊れた再生機器のような喋り方はすべて、相手に影響を及ぼすため計算づくのだった。

 彫りが深く、意志の強さをうかがわせるスラヴ人風の顔立ち。薬草の香り。大量の指輪にピアス。見える範囲だけでも肌すべてにびっしりと刺青を刻んだ男。前時代的な姿とは裏腹に、手元でタブレット端末――監視カメラに繋がっているのだろう――を操作している。それが姫香の見たアバラッドの姿だった。

 どれも偽物だった。呪術師らしく見せるということも、周囲にかけられた呪術の一種に過ぎないのだ。本物があるとするならば、彼が選んだ肉体の外見だった。スラヴ人は言語による民族集団の区分であり、『スラヴ』とは彼らの言葉で『言語』という意味を持っていた。か細いアイデンティティ。それだけが彼を今まで混沌から隔てていたのだった。

 姫香はそのことを知らない。しかし、目の前の男が酷く哀れに思えて仕方がなかった。常に何かを捨て続け、何かに追われ、何かを恐れている。優しくない世界で生きる人間の痛みが、あまりに剥き出しになっているように思えた。それは姫香が常にさらされている視線と同質のもので、そんな彼女だからこそ気付けたことだった。

 姫香は自分の左右に立ち、実質的に拘束している二体のゾンビを見た。室内には他にも数体のゾンビがいた。屈強な肉体に犯罪歴を主張する入れ墨。しかし、全員首がない。そのせいか、部屋全体に酷く空虚な雰囲気があった。そこにいるのに存在はしていない、幽霊のようなものだった。

 アバラッドは幽霊の親玉だった。彼自身が最も空虚なものだった。

「重要なのは脳なんだ。臓器も売れるけど、今必要なのは脳なんだって。生体だから切り離したら長持ちはしないけど、演算装置としてはしばらく機能するんだ。それにしても、金持ちはもったいないもったいないことをする。そう思わないか、元お金持ちのご令嬢?」

 ゾンビたちの首の血管は巧妙に結紮けっさつされ、血のにおいは少しもしなかった。洗練された機械製品のような扱い。姫香の心を砕くために、それを意識させる言葉が投げかけられた――お前もこうなるのだ、と。

 人から人間性を徹底して奪い去る所業を前に、しかし姫香が見ていたのはアバラッドの心の有り様のみだった。

「哀れな奴」

 ぽつりとこぼされた言葉に、アバラッドは反応した。表情は偽物で覆い隠されていたが、姫香にその痛みは隠せなかった。

「哀れ、哀れ、哀れとはまさに今のオマエのようなことを言うんだ、禍月姫香。自分で自分の舵を取れないちっぽけな難破船だ。おまけに向かうべき方位も、まるでまるで見えちゃあいない」

「違うわね。私にはプランがある。このクソッたれな船から抜け出して、お父様とも違った手段でのし上がる。アンタたちみたいな、その場のノリで殺したり殺されたりを繰り返してる連中とは違うものを見てる」

「立派な夢だな。だが叶わない。何故ならお前には力がないからだ。自分で自分の言葉を嘘にしてしまうのが哀れでなくて何なんだよ?」

 首のないゾンビたちが、姫香を車椅子に縫い付けるかのように押さえ込んだ。懐の拳銃に弾はまだ残っていたが、取り出す気になれなかった。必要もなかった。

「私は憐れみを受けるのが嫌い。自己憐憫に浸ることも、私は私に許すつもりはないわ。私は私自身を必ず取り戻す。だから今は、由良に私を“助けさせてやる”のよ」

 ふいに、アバラッドの手元の端末から由良の声が聞こえた。

『待ってろ。姫香は必ず助ける』

 アバラッドの表情から取り繕うものが消えた。しかし、代わりに表れた苛立ちもまがい物だった。まるで劣化して弾性を失ったゴムの塊のようだった。

「哀れな奴」

 もう一度姫香は言った。

 今度は返事がなかった。

 代わりに、姫香も通った部屋にたった一つのドアが応えを奪うかのように開いた。

 初め、姫香はそれが何だかわからなかった。獣か、黒ずんだ襤褸切れに見えた。血化粧を上から施されたガスマスクに隠され、顔は見えない。

 不吉な訪問者の姿を認めたアバラッドは、苦々しげに言った。

「片桐忌名――」

 返事はない。アバラッドの言葉が届かない場所に、はいた。

 武装したゾンビたちが銃口を向ける。

 しかし、黒ずんだ塊はものすごい速さで動き、姫香が瞬き一つする合間にゾンビたちの腕を飛ばした。首から上がないゾンビたちは、苦痛の声を上げることも許されなかった。先程まで姫香を押さえつけていたゾンビも胸をえぐられ、後方に跳ね飛ばされていた。

 凶手が片腕だけで器用に槍を反転させると、動く死体特有の固まりかけたどす黒い血が飛散した。左手は肘から先の部分で奇妙な角度に折れ曲がり、ブラブラしていた。そのせいもあってか姫香には一見、人間とは思えなかったのだった。

 獣の気配を振りまく女――それが片桐忌名だった。

 片桐忌名の名前は、彼女が自分で付けた名前だ。忌み名とはそのまま、口に出すことがはばかられる本当の名前だった。そのはずが、その意味を持つ名前が後から付け足された。贋作の手順で作られた本物に、呪術師アバラッドは触れることが出来ない。

 アバラッドが持っていたタブレット端末が落ち、画面が砕けた。たったそれだけの間に、ゾンビのほとんどが解体されている。

 死に続ける肉の壁が稼いだ寸毫の間、アバラッドは魔法陣が刻まれた羊皮紙を取り出すことに成功していた。

「光あれ」

 ヘブライ語で唱える/言葉に紐付けられた意味が、力を励起する/しゅの発動に伴い、羊皮紙が燃え尽きた。

 ――破裂音と閃光。

 それは閃光手榴弾と呼ばれるものに似ており、姫香は車椅子の上であまりのまぶしさに背を丸めた。

 網膜が焼け付くほどの強い光は、受けた人間から一瞬、思考力を奪う。音は通常のスタングレネードよりも抑えられていた。光によって生じた意識の空白に最初に到達するのは、アバラッドの言葉でなくてはならない。

 目も耳もないゾンビたちが何の支障もなく動く。

 アバラッドが口を開く。彼の肉体は既にゾンビとほぼ変わらず、自ら発動した閃光魔法の影響を受けていなかった。

「片桐忌名、オマエが頑張って鍛えたところで何の意味が――」

 ゾンビらが銃を拾うよりも早く、短槍がアバラッドの開いた口から頸椎を貫いていた。冗談のような速度と威力で、彼は壁に縫い止められていた。

 忌名は立っていた。自分の肉体を完全に意志の管理下に置いて統率していた。

 くらくらする頭を振りながら、姫香は見た。

 アバラッドの仮初めの肉体が、絶命する様を。

 ゾンビたちは主の息が途絶えても動き続ける。それどころか、死んだばかりのアバラッドだった肉体が真っ先に忌名を襲った。傷口をメチャクチャに広げながら、壁に刺さったままの槍の柄を滑るように喰らいつく。

「あっ」

 姫香が声を上げる。

 半身になっていた忌名は、折れた左腕の肘でアバラッドの死体の胸骨を砕き、突き飛ばした。その方が早いし、折れているのは前腕部である。だからといって、それを実行出来る人間は稀だった。

 ふと、忌名は何もない空中を見つめた。姫香にはそう見えたが、事実は異なる。忌名はアバラッドの魂の緒を見ていた。

 呪術師にとって肉体を乗り換えるのは珍しいことではない。人の肉体は脆い。たかだか百年の経年劣化にも耐えられない以上、志ある者なら誰でも備えをするのは当たり前だった。

 自らの尾を喰らい、生まれながらにして死に、死にながら生まれてくる朽縄まどか程ではなかったが、アバラッドは外法を執り行うことによって疑似的な不死を身に付けていた。

 乗り換える次の肉体に、既にアバラッドの魂は紐付けられている。忌名が見ていたのは、その緒である。

 常人には知覚出来ない曖昧な次元に存在する魂は、普段は肉体という器に守られることで一時的に安定していられる。逆に言えば、死んだ直後の魂は酷く不安定なのだ。

 忌名の目は、浄眼である。

 量子力学では観測することも対象に影響を及ぼすと考えられている。見ることによって波動関数を収束させる、魔の存在を許さない瞳だ。

 浄眼が、アバラッドの魂の緒を断ち切った。アバラッドは抵抗しようとしたが、魂が不安定な状態では、呪術的に守られた忌名に対して出来ることはなかった。そもそも、死にたくないという意思を保つことすら、剥き身の魂には不可能だった。

 行き場を見失った魂は、ただのエネルギーの塊だった。熱が空中に逃げていくように、アバラッドの存在は霧散して消えた。呪術師のあっけない最期であった。

 アバラッドの本当の死を以て、ゾンビたちが文字通り糸の切れた人形のように倒れ伏した。

 グロテスクな戦闘の一部始終に居合わせた姫香は、それを哀れだと思うよりも、捻じ曲げられていたことわりが正しい位置に納まったように感じた。彼らにようやく安らぎが与えられたことが、上手く言葉には出来ないが姫香にとっては何だか納得のいくことのように思えた。あのアバラッドさえも、例外ではなかった。

 敵がすべて沈黙したことを確認するまで、忌名は残心の構えを崩さなかった。

 死体が完全に動かないことを認めて、やっと忌名はガスマスクを脱ぎ、どす黒く腫れた骨折の手当を始めた。緋蜂と別れ、アバラッドの元にたどり着くまでずっと闘い、走ってきたのだった。

 姫香には知る由もなかったが、アバラッドにとって天敵となり得る忌名への対策が遅れたのには、彼女のなりふり構わない疾駆が背景にあった。

 ずれて不安定な骨を元の位置に戻す作業は酷い痛みを生むはずだったが、忌名はわずかたりとも苦痛の声は漏らさなかった。表情すらも変わりない。

 凄まじい女だった。

 何もかもを捨てることが出来る女だった。自らの痛みすらも。しかし、それ故にどうしようもなく生きてここにいる。この世のありとあらゆる難行に研磨されてなお、黒く輝くダイヤモンドの有り様。

 この部屋に生きて存在しているのは二人だけ。

 姫香はその片割れだった。闘う力はなかったが、あえて忌名に向けて口を開いた。

「何故、私を殺さないの」

 絶望的な状況を前に、姫香の声に恐れはなかった。生きているとは、つまりはそういうことだった。自分の意志でステージに立つ。ただそれだけのことが多くの人には出来ない。姫香は違った。

「お前がまだ生きているということは、私があの由良という悪魔を殺し損ねたのだろう。あいつは弱い。だが、まだ私はあいつに勝っていない。それが許せない」

 姫香から見て忌名は一度、由良に完全に勝利していたが、彼女はまだ納得していない。勝利への常軌を逸した執着。己の中の人間性を消し去ってしまうほどの。

 しかし、失われたものの空白が、かえって輪郭を明らかにする。それ故に、片桐忌名はこれ以上ないほどに人間だった。

「目を見ればわかる。お前はまだ諦めていない。お前がいれば、由良が向こうから来る。また闘える」

 忌名がせいで、由良が姫香に結び付けていた魔力の糸は切れてしまっていたが、それでも忌名は彼が来ることを疑っていなかった。忌名が敵だと認めるということは、つまりはそういうことだった。

 青い炎のような情念が、忌名の瞳の奥にある。姫香は炎に魅入られた。その熱は、姫香の中にもあるものだった。もっともっととこの世のすべてを食らいつくそうとする、人間の欲望の根源。自分自身を殺してしまう毒にもなりかねないもの。心の内に巣食う恐ろしい資質だったが、決して捨てる気にはなれなかった。その点においても二人は共通していた。

 忌名は続ける。

「強さとは何かと考えた時に、私の答えは力そのものだと決まっている。勉強が出来る、優れた芸術作品が作れる、そういったことは立派なことだが、すべてに共通するのは自分の意志を達成する力が必要だということだ。そして、死んでしまったらすべての意志は途切れる。私は勝ち続けることで私の強さを証明する」

「アンタその腕、お父様を殺した奴に折られたんでしょ。そいつにもまだ勝てないで、逃げてきたんでしょ。目を見ればわかるわ。それを負けたっていうのよ」

 責めるような口調になったが、殺されるかもという打算程度ではもう立ち止まれない場所に、姫香はいた。華美に入り組んだ豪華客船の心臓の一つである電力室が、彼女らの目には荒野として映る。

「まだ負けていない。腕を折られただけだ。私はまだ生きている。何も終わっていない」

 他の者が言ったのなら、酷く惨めな言い訳になっただろうが、忌名が口にすると不思議にそうは聞こえなかった。それは彼女が自分の言葉を、誰にも立ち入らせないほどに強く信じているがためだった。もはや決着をつけられるのは闘っている当事者のみである。

 忌名の応急手当が終わった。腰帯の後ろから抜き出した剣鉈と冗談のような力で断ち切られたライフルの銃身を添え木に、折れていた腕が機能を取り戻した。すなわち、必殺の武器として戦線復帰したということである。

 折れた方の手の平をじっと見つめると、本来ならほぼ動かせないはずの指が忌名の狂気に応えた。ゆっくりとだが、開いて閉じてを繰り返す。

 忌名の凶器の向かう先は父の仇の緋蜂であり、自分を助けてくれる由良のはずだったが、何故か姫香の心は凪いでいた。

 緋蜂は敵だったが、ことさらに復讐を掲げて見せる気にはなれなかった。悪業と暴力の螺旋に身を置くことは、より大きな悪業と暴力に取り込まれることであり、父にもその瞬間が来たのだとわかっていたためである。そして、由良がそれほど強くないこともわかっていたが、姫香には彼の死ぬところがまるで想像出来なかった。それだけで充分だった。

 姫香は言った。

「行くわよ。私、お腹が減ったの」

「そうか。わかった」

 忌名は従った。姫香は車椅子を自分で操作し、忌名もそれを手伝おうとはしなかった。手が塞がるのを嫌い、短槍を無造作に持ち歩いた。奇妙な関係が築かれつつあった。

 忌名は思う――姫香の行くところに由良が来る。そこが戦場だ、と。

 戦場こそが、忌名にとって唯一の居場所だった。


   *


「犯人は緋蜂と呼ばれる殺し屋だ。不死身の肉体を持っていても、毒によるアナフィラキシーショックには勝てない」

「不死者に毒が効くのか?」

「アレルギー反応の一種だ。毒に耐性があることが死の条件となる。僕の由良君の前にわざわざ一度、姿を見せた時点で確信した。だがその後、死体を加工した者がいる。それがお前だ、グレイマン」

 灰川が指さしたのはメシエ・ブラックマン――彼が連れている盲導犬シドだった。

「不死身の技術が実在することは信じるのか」

 ブラックマンは言った。分厚いサングラスに遮られ、盲人の表情は見えない。

 張とクロエは話が見えない、とでも言う風な顔。かたくなに握られたリードの先をいぶかしげにのぞき込むが、黒目がちな犬の表情からは何も読み取れず。

「僕相手につまらんはぐらかしが通じると思っているのか。事実として、クローンと脳の転写によるものは疑似的とはいえ、成功している」

「NO。あの不死性は映像で見る限り、我々の技術とはまったく異なるものでした」

「存在しないことと、未知であることは違う。グレイマンはそのことをわかっていた。だから真っ先に首を処分したんだ。ゲームマスターの腹を大袈裟に爆破したのは、脳を破壊したのをわからなくするためだ。内臓は飛び散ってはいるが、あまり焼けていないだろう。。だからどこを探しても頭は見つからない。区別がつかないほど炭化したものから記憶を転写出来るなら、探してみてもいいかもしれないけどね」

 残念そうな顔をする張。しかし、不死の法が漏洩することを一時的に防ぐことが出来たため、大きく不満を表しはしない。

 口笛でも吹くかのような表情で、灰川は盲導犬をさした指をクルクルと回す。

「裏切り者のグレイマン。何にでもなれるグレイマン。誰も信じられないグレイマン。君がこの事件の画を描いていたんだ。ここにいる三人の悪人とそれぞれに契約して」

『信じてないんじゃない。俺には愛国心がある。ちっぽけな個人が得る金なんかよりも、よっぽど崇高なものだ。これは裏切りなんかじゃない』

 犬が喋った。だらりと垂れた舌の奥から聞こえるのは、抑揚のない電子音声。

「グレイマン……」

 張が思わず漏らした声は、驚きか、それとも裏切られたことへのショックか。

 与えた衝撃も冷めやらぬまま、今度はブラックマンの額から、コルクの栓のように肉の塊がぼこり、と抜けた。酷く粘っこい血と脳漿が流れ出す。

「メシエ・ブラックマンが雇っていた殺し屋はグレイマンと片桐忌名の二人。しかし、どちらにも裏切られた。船に乗り込む伝手だけが必要だった忌名に用済みとして殺され、不死の法を狙う欲深どもを監視するためにグレイマンに死体を利用された。常に電気信号を与え続けることで、細かい表情を作ったりは出来ないが、生きてるようには見せられる。まあ、見せるだけだけど。目の前で胸ポケットからライターを取られるなんて、命の危機を感じていたならありえないことなんだよ。ボディーガードの犬が少しも反応しないことも、ね」

 技術は人の矮小な倫理観が追いつくよりも早く、どんどんと進歩する。生と死の境目が、曖昧になる。

 情報が漏れることを嫌い、盲導犬=グレイマンが跳ねた。灰川は自分に襲い掛かる牙をのけぞってかわす。シェルターの役目を果たすために固定されたソファが、どこまでも柔らかく灰川を受け止めた。

 空中であらわになった犬の腹は毛が剃られており、内臓に何かを詰めたような縫い目があった。犬の身体に、人の脳。すべてを捨ててもなお残るものが愛国心とは、灰川には到底理解出来ず、失笑が漏れた。

 跳んだ先で、灰川の代わりに張・占任の喉が引き裂かれる。順番が多少前後しても変わらないということか。

「かひゅー」

 一瞬、首元の断面が外気に触れた。普段、人間たちが何気なく食べている牛や豚と何ら変わりない、赤身に白い脂肪が入った肉が見え、わずかの後、ものすごい量の血が噴き出た。赤い動脈血。誰がどう見ても、とりかえしのつかないもの。

 死にゆく彼の目には何も映っていなかった。死ぬとは、つまりはそういうことだ。ただの途方もない、無。しかし、それ以上に張の目は最初から最後まで、自分自身に対しても投げやりな色をたたえていた。限られた条件下でハイスコアを目指す人間が、あっけなく投了をするような、醒めた眼差し。

「今死んだ張・占任も、実はとっくの昔に死んでいる。君が使う肉の着ぐるみや、電気信号で無理やり動かしていたメシエ・ブラックマンと同じ、不死の夢の残滓ざんしだ」

『馬鹿な。こいつには生体反応があった。俺のように機械化もされていない』

 真っ赤に染まった口から漏れる電子音は、あくまで理知的。人と獣の境界が、曖昧グレーになっていく。

「クローンと脳の転写さ」

 灰川は、応用問題を根気強く教える塾講師のような口ぶりで言った。

 対してグレイマンも、目撃者を消すことを忘れて応答する。言葉が行動を制限する。優れた話術は、呪いめいて対象の行動を規定する。

『理論上は可能だが、こんな海のど真ん中で実行するだけの設備はない』

「人の脳がそのまま演算装置になる。雇った連中の首から上を集めれば転写装置は作れる。さっき、停電があっただろう? かなり電力を食うが、可能は可能だよ」

 ――電力室でアバラッドが引き連れた、大量の首なしゾンビの群れ。灰川は知らない。ただ、探偵の直感が事実だけを知らせる。

『どうしてそこまでする必要がある?』

「本人に聞いてみたらどうだい?」

 一転、からかうような口調。

 クローン技術の先駆者・クロエは酷く怯え、焦った表情でグレイマンを見ている。彼女の部下である“素体”たちは拳銃を抜いているが、そんなものが狭い密室の中の獣に対して、どこまで通じるだろうが。

「NO。あなたはもう終わりです。緋蜂が殺しに来る! 彼女は決して自分の同胞はらからを見捨てない!」

 自らの声に反応して、クロエの興奮が高まっていく。それに応え、二人の素体の指に力が込められ――

 銃声。

 素体の親指が撃ち抜かれ、拳銃が床に落ちていた。素体たちの表情は変わらない。彼らはある一定以上の痛覚を遮断するように、脳外科手術が施されている。しかし、何が起こったのか本人たちも理解出来ておらず、室内へ血のにおいが更に上塗りされていった。

 硝煙にけぶる拳銃を持っているのは、素体たちではなく、灰川だった。抜いた瞬間が見えない、認知の外の早撃ち。

 もう片手に構えた拳銃はグレイマンへと向けられ、暴力による報復を抑えている。暴力に対する抑止力は、より大きな暴力で形成される。限定的な社会に新しくもたらされた秩序。灰川は、素体たちのように優しくゆっくりと撃ったりはしない。そのことがこの場にいる誰にもわかっている。

 灰川は言う。

「張は、自分も黒孩子ヘイハイズの孤児出身にもかかわらず、身分のない同輩の脳を取り出して片っ端からAIにしていたんだ。それが緋蜂にバレて殺されたわけだけど」

『緋蜂が殺したのなら、張は穴だらけだったはずだ。すぐに誰がやったのかわかる』

「普段はそうする。毒を使っていることと、アナフィラキシーショックの秘密を隠すためにね。でも、張は元々同胞だった。死体を冒涜する気になれなかったんだろうね」

『馬鹿な。報復の相手だぞ。そんなことを思うなら、そもそも殺さなければいい』

「だよねえ。でも、人は自分で思っているほど、行動や倫理観に一貫性を持てないんだ。たまたま、その時の緋蜂もそういう気分だった」

『俺は違う』

「おや、誰も君のことだとは言っていないが、心当たりでもあったのかな?」

『知った風な口をきくなよ』

 吐くそばから火が点きそうなほどの怒りが含まれた、グレイマンの電子音声。無機質さ/人間性/獣性が同居した、不思議な響き。

 対して灰川の声は、常温の中で液状を保つ金属のように、硬質の輝きを保ちつつもどこまでもスムーズ/どこにでも入り込む。

「ところがこの世で唯一、僕だけは知った風な口をきく権利がある」

『何故?』

「探偵だからさ」

 灰川の目がぎらりと光った。黒曜石の瞳は、誰とも分かち合えない餓えに濡れている。

 敵だらけの密室の中で、推理する必要のない事件と向き合うのは何故か。爆弾を抱えたグレイマンを無意味に挑発するのは何故か。

 それは灰川が探偵だからだ。

 灰川は孤独を感じない。灰川は誰とも共感しない。灰川は意味や価値を外には求めない。

 ただひとつだけ、悪魔が強迫観念に駆られ他人からは理解されない自らの儀式を繰り返すように、灰川は自分自身であるために暴くことをやめられない。見る者によっては無意味な行いとも取れたが、灰川はそうは思わない。それどころか、嬉々として無意味の渦に他人を巻き込んでいく。

 灰川がクロエを見る。傲岸不遜な視線はまるでレーザービーム。

「クロエには、張の死因がわからなかった。しかし、不死の技術を開発する過程で張と組んでいた自分が真っ先に容疑者に挙げられるのはわかったはずだ。怪しいというだけで、緋蜂は自分を殺すだろう、とね。それで豪華客船まるまる一隻分の電力を使ってまで記憶の転写をしたってわけ。死体を発見した直後に都合よく張の器となる肉体が用意出来たのは、いずれかの段階で自分が疑われないように殺して傀儡かいらいにするためにクローンを持ち込んでいたから。まあ結局は、タイミングの問題でしかなかったんだね」

 ふと、灰川がほんのわずかに銃口をグレイマンから逸らした。

 たった一瞬だったが、獣が人の喉首に喰らいつくのには充分すぎるほどの間。

「NO、死にたくない」

 出血。

 どんな特権を持っているように見える人間でも、死の瞬間は同じなのだった。

 グレイマンが噛み千切った肉を吐き捨てる。

 一拍の後、クロエ・ミュラーの致命傷を感じ取ったセンサーが、ボディーガードの素体へと信号を送った。彼らの体内に埋め込まれたカプセルから毒が注入され、用済みになった素体たちの機能を速やかに停止した。

 残った灰川に向き直るグレイマン。船内の至る所に仕掛けた爆弾の起爆スイッチを抱えているため、容易には撃てないと計算しての行為だったが、灰川の目に恐れの色は微塵もない。カメラに映っていた人形を弄び、クロエの死にも動じた風がない。それがどうにも、グレイマンの心を不安定にさせた。

「それもクローンだよ」

『何?』

「自分の複製を作れる人間が、死ぬかもしれない場所にノコノこやって来るわけないだろ。記憶を転写された脳の寿命は約72時間、もうすぐだ」

『何故知っている?』

「誰に言ってるんだ。僕は探偵だぜ。調べればわかることさ。だから言っただろう? 事件はもうとっくに終わっていると」

 もはや、グレイマンにはわからなくなっている。灰川を殺すことで、この事態は収拾出来るのか。豪華客船ごと、謎の存在を爆破解体することが任務だったが、自分にそれが達成出来るのか。

 すべてがグレーゾーンにある。

 どこにもいない男グレイマンが、何者かになることを求められている。

 灰川が腹話術師のように、廃棄された人形でグレイマンを指さした。

「始まったものは何であれ、終わらなければならない。どんなにくだらないものでもね。お座りだ、ワンワンちゃん。物語は聞き手がいなければ成り立たないんだからな」


   *

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