宇宙の旅
こたつを抜けたら、宇宙だった。
家がとても冷えていた。消し忘れていたこたつだけがあたたかだった。鼻がつんとこおりかけていたから、顔を突っ込んだ。電気のオレンジ色が目にもやわらかに、魅力的だった。今度は手のほうが冷たく思えてきた。それで、体の半分以上がこたつに呑み込まれた。こうなったらせっかくだから、と、そのまま足の先まで進んだ。柱の中で丸まっているうち、入ったのとちょうど逆のほうに、読みかけの漫画を置いてあったのが、頭によみがえってきた。それで、こたつを抜けたら、宇宙だった。
どこを向いても遠くできらめいている。本当に空間の中にいる。無重力、ゼロ・グラヴィティ、そういうものだと思っていたのに、立ち上がることができたのは本当に謎だ。ガラス張りの床の上、小さなプラネタリウムで、自分とこたつ以外が塗りつぶされたのかもしれなかった。だけれど、それにしても、このうつくしさはあまりに不思議なことだ。
むつかしいことを考えなければ、うつくしい散歩のようだった。木は一本として見つからないけれど、吸い込めば空気はそこにあった。自分はやはりくたびれた服のままであるのに、苦しいことは何もなかった。少なくとも、家への帰り道よりは愉快な心持ちだった。
しばらく歩いていると、なにか、ゴウッと風が吹くような感じがした。振り返ると、大きな丸い宇宙船が、こちらへ向かって、ゆったりと進んでくるのが見えた。いや、ただ見ると、彗星と見分けがつかないのだけれど、あれが宇宙船に違いないのは、自分の好みだ。
足を止めて待ってみることにした。やがて、自分のとなりに同じく止まったそれは、やはり宇宙船だった。ガラスかなにか、とにかく透明な窓から、薄黄色のアメーバがのぞく。
「やあ、どちらへお向かいで?」
男らしくて、とても楽しそうな声だった。自分がぎょっとしたのに気づいて、アメーバは少し落ち込んだようにしてから、「ああ」ぐにゃりと、とにかくぐにゃりとした。それで、どこか見覚えのある人間になっていた。
「これなら話しやすいかな。言葉も見た目も、君の記憶を少し拝借したよ。無断ですまないね」
控えめな茶髪、鼻筋のいい顔、人のよさそうな目。声は記憶が薄いけれど、そうだ、あれは高校の同級生だ。あまり交友はなかった。だが気のいいやつだつた。今はもう、どこで何をしているかも知れない。
「いや、構わないですよ。…とてもすごい技術だなあ」
「そうかい?我々にとっては、自然なことなんだけど。それより、君はいったい、どこへ向かっているんだい?」
「いや、それがね、よくわからないのです」
ことのあらましを話すと、相手はとても愉快そうに笑った。
「不思議な話だなあ。だが、話から察するに、君の種族はおいそれと宇宙に行くことはできないんだね?」
「ええ。まあ、あと80年……うーん、1人の人間が生まれて死ぬくらいには、皆行けるようになるかも分からないけれど、少なくとも自分は、行けるとは思っていなかったですね」
「なら、とても幸運なことじゃないか!」
「そうなのかな」
不思議だとは思ったけれど、幸運とは考えなかった。あたりは変わらず、きらめきで満ちている。確かにこれは、幸運のうつくしさだ。
「そうだ、折角だから、我々の星へいっしょに行かないか!」
自分はふたつほどまばたきした。
「幸運はそう巡って来るものじゃないよ。我々はちょうど帰るところだし、君が満足がいったら、きちんと君の宇宙の旅が始まったところへ送ると約束するから」
宇宙船の扉が開かれる。正直、星に行くことよりも、その中のほうに興味があった。
「……じゃあ、ご厚意に甘えます」
宇宙船は、どんな技術を使っているのか知れないが、外見とはあまりにかけはなれて広かった。乗組員は皆アメーバだったが、そのうちの何人かは、おもしろがってぐにゃりとして、また微妙に見覚えのある人間になって、自分を囲み、親しげに話しかけてくれた。アメーバのままの彼らも、その輪の中には加わっていた。
「宇宙の旅は長かったけども、出会った種族の中で、君が一番おもしろい見た目だと思うよ」
「おい、興味深いのほうがあっていそうだ」
「なかなか難しいな」
「ところで、君から見ると、我々はどう見えるんだい?とても興味があるよ」
緑色がぐにーっと伸びる。
「似た生物は星にいますよ。でも、あれはしゃべらないし、みなさんのほうが愉快だ」
「君の星というのは、いったいどんなところなのかな」
「地球といいます。太陽……恒星からの距離がとてもちょうどよくて、ゆたかな海と多様な生物が見ものです」
目の前にいるのは、さえない見た目のわりに発音がよかった、高校の英語教師。その左で緑のアメーバとなにやら話しこんでいるのは、小学校でいっしょになにかの委員会をやった……同級生だったか、クラスは違かったか。少しななめを向くと、サークルの新歓宴会で隣になったが、結局口をきいていない浪人生がいる。だいたいが、姿を見て、ああ、いたな、と思う程度の知り合いばかりだ。やはり、大切な記憶には触れないでいるのだろうか。
「みなさんの星は」
「それはもう、すばらしいところだよ!」
受験に失敗して目を腐らせていた、中学の先輩は、その目をきらきら輝かせている。
「我々の星は、他の星の生命体とも、友好的な関係を築いてきたんだ。今では、多くの種族が暮らす、愉快な星さ!」
「逆にだな、我々の中のもので、別の星へ移り住むものもある。実は我々は、そういった同胞の様子を見てきた帰りなんだよ」
緑のアメーバも、誇らしげに床に広がってみせる。
「みなさんは、みなさんの星が、とても誇りなんですね」
『もちろん!』
宇宙船中の彼らの声が轟いた。そのあとには満足げな静けさが広がる。それに沿うように、しだいに彼らは自分のほうから離れていって、自分の持ち分らしいことをし始めた。放っておかれても、嫌な心地はしなかった。やわらかな希望の雰囲気だったからだ。多分、もう少しで着くのだ。すばらしく愉快で優しい星へ。
「……すみませんが、ここらで降ろしてもらって構いませんか」
最初に窓から顔を出した、あの高校の同級生が、悲しそうに自分を引き止めたが、自分はどうしても、このまま宇宙船に乗っているわけにはいかなかった。すみません、と繰り返した。
彼らの全員が別れを惜しんでくれた。最後にはすべて人間の手を振っていた。
扉から出て、またあの奇妙な星の床に足を降ろすと、自分を見る彼は、卒業式のあとと変わらず、目元を赤く染めていた。
「どうしてもなのかい」
はっきりとうなずいた。
「みなさんの愉快な星へ、みなさんの宇宙船で行ったら、それはもう、自分の宇宙の旅ではないでしょう」
だから戻るのです、と聞いて、彼は出会った場所のほうを振り向いた。少しばかり愉快そうだった。
「人間、よい旅を祈っているよ」
「みなさんの故郷の繁栄も」
彼は黄色に戻り、扉を閉めた宇宙船はまた遠くなっていった。
自分は歩きながら、彼らの星のことを考える。多くの種族が暮らすと言っていたが、それはもしかして、記憶を借りて多様性を真似ているだけではないか。自分に話しかけてきたのも、見慣れない姿をしていたから、故郷という美術館のコレクションにひとつ加えよう、というだけのことだったかもしれない。
だがそれでもよかった。それでも自分は心から、彼らの星の繁栄を祈っていた。自分の誇りに思う世界を星だとするのなら、自分の地球は想定外に狭かったのだ。それを彼らに教えられて、自分は恥ずかしいとは思わなかった。それが、ずいぶんと誇りに思った。
みんな宇宙だった。遠くのきらめきにまじるのは、よくよく見れば地球だらけだった。誰かの地球だ。そういうことに、思い出したら気がつけばいいのだ。あれの平安を願ってやるのは、まったくなにかのついでで構わない。そう、たとえば、宇宙の旅とか。
こたつはじっとそこに待っていた。上も右も左も下も、愛すべき誰かの地球だ。でも、こたつを抜けると、自分への優しさに満ちた、自分の地球だった。
SF小品集 阪本 菊花 @kikuka
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