#06 咲良
井中教諭に、文字通りぶん殴られた咲良は、そのまま総合病院で手当と検査を受けた。歳の離れた大人の男女が二人、そして女の方が大きな青あざを作っているともなれば、病院では目だって仕方が無いだろうと、咲良は駐車場からは、あえて一人で病院に向かった。
医師には「家の風呂場で掃除をしていて、転んでバスタブの角にぶつけてしまった」と、ありきたりな嘘を説明した。医師は深くは追及しなかった。ヒビは入っていなさそうとの事だったので、とりあえず安心した。
駐車場のクルマに戻ると、井中は自ら、携帯電話で理事長に報告していた――潔いことだ。
「本当に、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。事故とはいえ、これほど目立つ怪我を負わせたのだから、当然といえば当然だろう。
「そんな……私が変に割って入ったのがいけないんですし……」
「いえ、そんな事はありません」
井中は目を伏せた。怒りに任せて体罰をしようとしたこと、そして結果として教員である咲良を巻き込んでしまったことを、ひどく後悔しているようだ。
「己の未熟さに腹が立ちます……教師失格です……」
本当にそう思っていてくれれば助かる――が、まさか言えるわけも無い。
「……まぁ、ここで話すのもなんですし……理事長は、なにかおっしゃっていましたか?」
「それなんですが……」
井中は、随分と言いにくそうだったが、咲良が聞きたそうにしているのに気付いて、続けた。
「理事長はひどくお怒りでして……可能ならば今すぐ、学校に戻って来いとの事です」
言いにくそうにしていたのは、咲良の体調を気遣ってのことかと納得した。同時に、井中は理事長の冷たさにも、疑問を抱いているだろう。まったく、こちらでフォローしなくてはいけない。理事長への違和感から、下手に嗅ぎ回られたら面倒になる……井中は、そういう性格ではないので、おそらく無いとは思うが。
「分かりました、では行きましょう」
井中は目を見張った……それくらい、見た目には酷いのだろう。
「大丈夫ですか? お身体が……」
「心配要りません。怪我も大した事はありませんでしたから。それに理事長も、いち早く状況を知っておきたいのでしょう。外で起こったことですからね」
「そうですか……」
井中は、静かに車を発進させた。
学校に戻って来ると、既に時間は午後七時を回っていた。校舎は、ほとんど夜の闇に包まれている。一階の理事長室や、二階の職員室だけが、ぼう、と光っていた。
職員用玄関から校舎に入り、一直線に理事長室に向かう。井中がノックをすると「どうぞ」と室内から男の声がした。
「失礼します」
井中が、はきはきとした大きな声で言って扉を開けると、デスクの向こうで、理事長が待っていた。
「いくら事故だったとはいえ、体罰を行おうとしただけでも問題です。その上、他の教員に怪我を負わせるような事になるとは……」
話が始まってから数分経っていた。理事長がどう言い詰めても、井中は全く言い訳しない。もともとの性格ゆえだろう。理事長と咲良の二人にとっては都合がいいが、あまり愉快ではなかった。同情するつもりも、さらさらないが無いが。
「それも生徒の目の前で……しかも通行人などで、目撃された
理事長は井中ではなく、咲良を指名した。咲良は、できるだけ二人にとって都合の良い方向に話を誘導する。
「そうですね。学校外での指導でしたが……その、井中教諭は、かなり大きな声を出されていましたので、目立ってしまいました」
ありがとうございます、と言って、理事長は再び井中を射竦める。井中が仁王のように生徒を威圧するのと対照的に、理事長の目は、あくまで冷静だった。その冷たさは人間のそれではなかった。
「見方によっては、未成年に対する恫喝と取られかねない……が、それを大々的に説明するというワケにはいきません。井中先生……学校としては、今回の事件は庇い切れません。まして我が校の教員を、意図的ではないとはいえ負傷させました。学校として、あなたを傷害罪で訴え……」
「待ってください」
事を大きく見せて井中を牽制する理事長を、咲良が制止した。話を中断されたが、理事長は嫌な顔一つしない。ここでの咲良の静止は、彼にとっても良い流れだろう。理事長と咲良の意見が反していることを井中に印象付けられれば、裏で繋がっていると疑われる可能性を潰せる。
「たしかに井中先生がやったことは問題ですが、これは学校内での問題ではなく、学校外での問題です。それを学校が訴える理由はありません」
咲良の言い分は詭弁でしかない。理事長は目を伏せる。
「どうであれ、彼は我が校の生徒に、指導を行いました。それは教師として指導したということだ。その結果として……」
対応可能で安易な返答に、咲良は薄く笑った。
「理事長……子供が煙草を吸っているのを見かけたら、ひとこと注意するのが善良な大人でしょう。彼は教師である以前に、一人の大人です。そういう理由ならば、これは学校ではなく、井中正さんという個人がやった注意、そして起こしてしまった事故です」
組織ではなく個人がやったことであれば、組織が介入するべきではない――建前としては有効だ。
そして……理事長には、その建前で納得するだけの理由がある。ポーズとして「被害者に説得されては、仕方が無い」といった感じの溜め息をついた。
「そうですか……だが解雇は止むを得ない。赤坂先生、あなたが傷害罪で彼を訴えないのと、我が校に籍を置く教員が人に怪我を負わせたというのは、別問題だ」
一つの事実を、意図的に視点を変えて別々に対応するとは、まったくいやらしい考えである。刑事および民事で同時に告訴、といった感じだ。井中本人がいる今、笑いそうになるのを堪えないといけない……なかなか表情筋が苦しいものがある。
本来なら、被害者が学校側というのもあるので、事を小さくしようとするのが筋だろう。咲良も、そのセオリーに従う。
「理事長、懲戒解雇にするよりも、井中教諭から自己都合で退職してもらった方がよろしいのではありませんか?」
「と、いいますと?」
「今回の件は、あくまで生徒の指導中に起こった事故です。井中教諭ご自身が、ご自分のされたことに十分反省されているのであれば、わざわざ学校が、先生を懲戒解雇に処す必要は無いと、私は考えます」
井中からの反抗の芽は摘んでおくに限る。理事長の言い分で本来はこのくらいの大事になったと見せ付けておいて、咲良がそれの火消しをする形を取ることで、井中教諭の今回の件に関する反抗心を奪い取る。誰だって、尻拭いを他人にやってもらっておいて、あげく、さらに要求を出すような調子に乗った真似はしたくない。まして井中教諭は自他共に厳しい性格だ。少々横暴に処分されても、彼は謙虚に受け入れるだろう。
「そうですね……スキャンダルにでもなったら大変な事態だ。その前に井中先生には、自己都合退職という形を取ってもらいます。よろしいですね? 井中教諭」
任意の方向性を提示しておきながら、異論は許さない言い方は、事実上の強制だった。学校側が『あくまで井中教諭は自己都合で退職した』という建前を手に入れるためと、井中自身分かっているだろうが、彼は不服と異を唱えることもしない。
「わかりました」
井中の肯定は、潔よいものだった。
井中が退室して、理事長室は理事長と咲良の二人になった。正しい意味で空気が弛緩し、間違った意味で空気が緊張する。急に、空気が黒く濁った気がした。
「蓋然性の事故……というわけですか、赤坂先生。殊勝な事ですね、自ら『被害者』役を買って出るとは」
「もしかして理事長、『被害者』役をやりたかったんですか?」
いやみを言うと、理事長は首を横に振った。
「……遠慮しておきましょう。貴女の顔は、かなり痛々しい。そうはなりたくないですね」
理事長の顔は、心底勘弁、という表現が、実にふさわしいものだった。家に帰って鏡を見るのが、怖いの半分、楽しみ半分である。
「有給休暇を取ってください、赤坂先生。日をあけて風化させたいですし、その顔で授業をされると…………生徒への悪影響が懸念されます」
後半のジョークは、あまりセンスが無い。咲良が理事長の立場なら『その顔で授業されると、我が校の風評被害に繋がりかねない』と言うところだっただろう。
「分かりました。お気遣い感謝します」
「これからも、どうぞよろしく」
それが教師としてなのか、このような仕事の事なのかは、言うまでもなった。
「そういえば理事長……担任が大宮先生になるのでしたら、副担任は……なんなら私がやりましょうか?」
咲良の具申に、しばし考え込んでから理事長は肯定した。
「……そうですね、お願いしましょうか。今回のような事もあります。校長先生にも、私から話を通しておきましょう」
話はこれで終わりだろう。咲良は「ではこれで失礼します」と言って会釈をしようとしたが、その前に理事長が口を開く。
「赤坂先生、一つ質問があります」
「なんでしょうか?」
「体罰の問題が騒がれる昨今、今はどちらかといえば、体罰根絶の傾向にある。建前を抜きにして答えてもらいたい。あなたが体罰を認めないか、認めるか」
咲良が一瞬、顔をしかめると、理事長は表情を緩めた……まるで笑ったように見える。
「分かりやすく言うならば、社会を舐めた横暴な子供が増えるのと、独善の元に子供を殴り殺す教師が増えるのと、どっちが良いかということですよ……メディアやその他の影響を除いた先にあるのは、この二択だ。赤坂先生は、どちらがいいと思いますか?」
咲良は首を横に振る。そんな論理に意味は無い。目の前にあるのは論理ではなく、現実だ。
「どちらが言いかと訊かれて、素直に『こちらがいい』とは言いたくはありません。AかBかと訊かれたら、Cと答えられるようになりたいです」
「ではCの答えとは?」
「それは今から探さないといけませんね」
二兎追う者は一兎も得ず。だがいつまでも一兎だけと諦めては、いつまで経っても一兎しか手に入らない。ブレイクスルーのためには、絶えず可能性を模索する執念が必要だ。
けれど誰もが薄々感づいている。問題を解決した先に待っているのは、もっと大きな問題が生まれる事なのだと。
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