#05 咲良

 テスト週間に入ると、咲良は放課後に、井中と廃通りのバー『シャイン』に行くようになっていた。学校から直接、井中のクルマで『シャイン』まで行くわけだが、そこを生徒に見られないよう、生徒の下校時刻からは、しばらく開けるように工夫する必要があった。

 そして今日も午後五時前に、井中のクルマに乗る。

 井中のクルマは、意外と清潔感があった。おっさんのクルマというのは、煙草くさく埃っぽいイメージがあったが、少なくとも彼は違うようだ。クルマの室内プライベート・ルームというのは、その人の性格が反映されるのかも知れない。

「こうしていると、まるでデートみたいですね」

 三日ほど、夕食を共にするようになると、多少の冗談は言い合える仲になっていた。

「やめてください……家内がいますので」

「そうですか」

 咲良は愉快になって小さく笑った。井中は困っているようだ。安心して欲しい、と咲良は内心で思う。異性のタイプとして、井中は好みではない。


 廃通りの中にありながら、『シャイン』という店は、比較的、落ち着いた雰囲気で、廃通りの外にあってもおかしくない感じである。店員も物々しくないし、客も……どちらかといえば、大人しそうである。

 ここに来るのは今日で四日目になるが、未だに高校生徒らしき人物は現れていない。昨日は『今回のテスト週間は来ないかも知れませんね』と二人で言い合った。

「赤坂先生は、こういうお店には、よく来られるんですか?」

 言って、井中か教諭は、その手には小さなグラスのお冷を飲んだ。

「いえ。お酒はあまり飲みませんので」

「そうですね。女性が一人で来るようなお店じゃ、ありませんし」

「都心の方では、そういうお店もあるみたいですけどね」

 軽食に近い夕食を済ませつつ、しばらく雑談した後に、井中は真面目な口調で、こう切り出した。

「……正直なところ赤坂先生が、ここまで教育熱心な先生だとは、思っていませんでした」

 咲良も一口お冷に口をつける。本心を明かしてくれるようになったし、ある程度の信頼関係は築けたようだ。

「まぁ私は、数学の少数指導ということで呼ばれましたからね。生徒指導に感心が無いと思われるのは、無理もない話だと思います」

 まさか『貴方を退職に追い込むためです』なんて言えるわけが無い。言ったらどんな顔をするのだろうかと、咲良は想像したくなった。

「それだけじゃありません。……失礼を承知で言いますが、赤坂先生は、もっとドライな人物だと思っていました」

「よく言われます」

 子供の頃は、感情表現が苦手だった。今でも表情の起伏に乏しいくらいだ。普通になるために、言葉の選び方と共感性を養うのは、簡単な事ではなかった。

 だが、今でも本質的には変わっていない。言葉の選び方も共感性も、自分にとって都合のいい状況を作り出すための道具でしかない。自分の都合のために他人を利用し、そして理事長に利用されている。

「だから今回のような非行の問題についても、必要最小限の興味関心以外は、持たれて無いと思っていました。教員の中には『酒くらい』とか『煙草くらい』と考えている人も、大勢いると思います。私だって、そうかもしれない」

 井中は、突然に本心を吐露し始めた。酒は飲んでいないが、揮発したアルコールと構築された信頼関係のおかげで、警戒心が緩んでいるのかもしれない。

「私が高校生の頃は、男子は、むしろ吸ってる生徒ばかりでした。中には、親も煙草を吸うのを認めていて、堂々とリビングに灰皿を置いているという奴までいました」

「それは……ちょっと驚きですね」

 咲良の感覚では、信じられないことだった。

「ですが、それはただの不良というわけではないんです。さきほど言った極端なヤツは、学校に行きながら、家の仕事を手伝っていました。だから親も文句を言えません。一人前に働いているのだから、文句を言う筋合いは無いとね」

 学校に行っているのだから、子供である事に代わりは無いと思うのだが、この教師が……いや、この男が言いたいのは、そういう事では無いのだろう。

「だが今は違う。未成年か成人か。ただ年齢だけで、それを決めてる。親のスネを齧ってバイトもしないような大学生が煙草を吸うのは認められ、高卒で働いている未成年が煙草を吸うのは認められない……おかしいと思いませんか?」

 井中の意見は極論である。正直、咲良としてはどうでも良い事だったが、一応、建前を使い分ける。

「違和感はありますね。しかし未成年の健康を考えれば……」

 井中は「確かに」と言って頷いた。

「だが自分の健康を考えるのは、国やお役所さんじゃない、本人だ。そして働いているのであれば、自分の健康を管理するのは、保護者ではなく、当人の責任だ。それは未成年であっても同じだ」

「一人前の人間が自己責任で煙草を吸うのであれば、それがたとえ未成年であっても良いと、井中先生はおっしゃるのですか?」

「そうです」

 井中は、はっきりと肯定した。PTAなんかが聞いたら、総叩きは必死だろう。

「自分の事は、自分の問題なのだから、他人にどうこう言われる筋合いは無い……が、それは一人前なら、という前提での話です。働きもしないような奴が、法律が許すからという理由で煙草を吸うのは、でたらめな話です」

 井中の言い分は、個人としては正しくても、社会で肯定されるものではない。法治国家で、法より個人の自分勝手な主張を優先してしまえば、社会は成り立たなくなる。

「そしてそれは、高校生にしても同じです。真面目に勉強する人間がいる中で、不貞腐れてこんなところに遊びにきたりするのは、言語道断だ」

「なるほど……」

 一応、感心したような態度は取っておく。

「さっきの灰皿をリビングに出してた奴ですが……なぜ彼が、灰皿を堂々と出していたのか。隠さなかったのか。吸うのを認められたから、という傲岸不遜なだけの話じゃありません、下手に物陰に隠せば――」

 井中の言葉が、途中で止まった。何事かと咲良は視線を、店の入り口に向ける。

 カランコロンと、扉が開くのに続いて、上についているベルが鳴る。入ってきたのは若い男――いや、男子生徒の二人組。矢田と寺原だ。

 二人がカウンター席に着き、やってきた店員に何か注文する。二人のポケットから取り出されるのは煙草のパッケージだった。テーブルにある灰皿を寄せてくる……家や学校で吸えない分、ここで鬱憤を晴らしたい、と言っているように思えた。

 この場合、タイミングは最高というべきか、それとも最悪というべきか。問題解決は一度にできて便利だが、一度に二つも非行を働いては、もう井中を抑えることなど不可能だ。ここに来る前から限界なのに、火に油を注いでしまった。

 ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる井中は、まるで獰猛な肉食獣じみていた。

 井中は横から二人の元にずかずかと歩いて近付くと、静かで重い響きを帯びた声で言う。

「おい」

 矢田の指先から煙草を奪うと、灰皿に押し付けた。

「あ? なん……」

 矢田が文句を言いかける。その先は、くすぶる紫煙が掻き消した。矢田と寺原は、信じられない状況に目を剥いていた。

「ちょっと出ろ」

 静かな怒気が身体の全体から迸っている。これほど怒りに包まれながら、周囲に配慮できてる事は奇跡だろうと、咲良は割と本気で思った。

 全員が店から出て咲良が戸を締めると同時に、井中の口が開いた。

「ふざけるなお前ら! テスト週間に何やってんだ!」

 屋外だというのに、咆哮の如き怒声が、鼓膜を破らんばかりに反響した。遠くの電柱の上にまっていた一羽のカラスが、驚いたように飛び去った。

 ついさっきまで「なんでこんなところにいるんだよ」と言いたげな顔をしていたのに、そのような弛緩した雰囲気は、一瞬で吹き飛んだ。

 なんとなく予感があった咲良でさえ、仁王のような形相と、怒気を孕んだ声音と呼気に、ひるむしかなかった。

「すみません……」

 寺原が萎縮し、消えそうな小さな声で呟いた。逆に矢田は、一瞬とはいえビビったことに苛立ったらしく、苦々しい表情を浮かべていた。

 そっと咲良は、井中の後ろから、矢田と井中の間に移動する。

「謝って済む問題じゃねぇだろうが!」

 二人を見下ろし、威圧する。その迫力は半端なものではなかった。現に寺原は余裕を喪失している……が、矢田は違った。寺原を誘っていただけあって、こちらは反抗的な態度を崩さない。視線を右下に落としている寺原と、じっと井中を睨む矢田は対照的だった。なるほど廃通りに出入りするだけあって、なかなか筋の入った悪党ぶりだ。

「つーか関係ねーじゃないすか……」

「なにが関係ないってんだ!」

「いや、だって学校の外……」

「学校の外だから何だってんだ! テメェ自分がやったこと分かってんのか!」

 ここまで井中が怒れば、上々だろう。もう少し伸ばすと、井中の頭ががある。

 そろそろか……咲良は盛大な芝居に打って出る。井中は怒り心頭の方がいいが、矢田にはもらわなくてはいけない。

「矢田、寺原、どうしてこんなところに来てたんだ?」

 井中は不服そうだが、その方が都合がいい。咲良は先を続ける。

「あ? いや飲みに来てたんスけど」

 矢田が、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。井中が「ふざけるな!」と怒号を上げるが、咲良は黙殺する。

「テスト週間に飲みに来るとは、いい御身分だな。まさか二十歳にならないと酒飲んじゃいけないなんて当たり前のこと、分かってないわけないよな?」

「あー、はいはい、そうっすね」

 矢田が笑った。井中は、矢田の不敵な態度に、怒りで震えている。

「で、店員には何を注文したんだ? 酒か?」

「そうっすよ。訊かなくても分かるじゃないっすか」

 ネチネチと指摘したことに、矢田は腹を立てているようだった。矢田を煽ることは、間接的に井中を煽ることになる。矢田は悪いことをしているというのに、この不遜な態度を崩さないのは、井中にとって許せないだろう。

「もしも私たちが割って入らなかったら、そのまま飲んでただろう?」

「ん?」

 気付いた――咲良は矢田の勘の良さに、思わず笑いそうになる。

「っつか先生たち、なんでこんなところいるんですか?」

 よし、いいぞ――咲良は内心で、思わず応援してしまう。それと同時に、視界の端に映る、井中への警戒を最大限に高める。

「見回りのパトロールに来てたんだ」

「え? 先に店内にいましたよね? 先生たち、店の奥から来たじゃないですか」

 咲良は出来るだけ、動揺しているフリをする。

「…………ああ、そうだ。お前たちみたいなヤツが、ここに来てるって話があったんだよ」

「はぁ? 嘘でしょそれ。偶然なんじゃないっすか?」

 矢田は決め付けてかかっていた。彼の考えは当然だろう。事実、そのような話は無く、咲良は二人の会話を盗み聞きして手に入れたのだから。

 だが井中教諭の認識では違う――彼の中では、咲良が目撃情報があったという話を聞いたから、ここで待ち伏せしていたのだ。

 咲良の話を信用しているため、井中は齟齬があることに気付けない。

「あー分かった! そんな偉そうなコト言って、自分たちも飲んでたんじゃないですか!?」

 両手を叩いて矢田が喚く。演技をしている咲良でさえ、その調子の乗りっぷりには、イラっと来た。井中を視界の端で捉えるが――まだ耐えている。もう一押しだろうか……?

「イヤ、待て、飲んでない……」

「しかもどういう組み合わせなんですか、これ? 赤坂先生とか生徒指導関係なくね?」

「人手が足りなかったり、他の先生の都合が出ることもあるんだ」

「赤坂先生、今はどうだっていいでしょう!」

 井中としては、素直に会話に付き合うな、という意味合いだったのだろう。だがその一言が、逆に矢田に下種の勘繰りを促してしまう。

「…………あー……、もしかして先生たち、付き合ってんの?」

 それは、この場で決定的な一言だった。自分で言った言葉に、矢田は次第に確信し始め、目に見えて表情が変わる。

「何言ってる、そんな話は今は関係……」

 咲良はあえて、誤解を招く否定の仕方をする。が、完全に調子に乗った矢田は、咲良に台詞の続きを言わせない。通行人に聞こえるよう、大声で喚き散らす。

「えー? 本当ですか? 実は先生たちー、もしかして不倫してたんじゃ……」

 教員への反抗的な態度をとって、さらに揚げ足を取って貶めては、もはや井中の許容を超えていた。咲良が劣勢に追い込まれていることも、火に油を注いだのだろう。

 耐えかねた井中の腕が振り上がるのを、咲良は見逃さなかった。

「待っ……!」

 腕が振り下ろされる直前――咲良は二人の間に、割って入るようにして飛び出す。

 隆々とした筋肉から放たれた拳は、矢田の頭頂部を狙って放たれたが――咲良が割って入ったことで、彼女の顔面――目の下あたりに直撃した。打撃の方向に吹っ飛ばされるようにして、矢田も巻き込み、もつれるようにして後ろに倒れる。

 井中教諭は呆然としていた。矢田に向かって放ったつもりが、変に咲良が制止に入ったため――結果として、不良生徒ではなく、教員の方を殴り飛ばしてしまったのだから。

「大丈夫ですか!」

 井中が吹っ飛ばされた咲良に駆け寄る。殴り飛ばされた教員を、殴り飛ばした教員が真っ先に気遣うというのは、なんともシュールな状況である。

 ――しかし、パーでなくグーとは……。

 一番の誤算はそこだった。軽く脳震盪を起こしているらしい。ふらふらとして、立ち上がれない。

 軽く周囲を確認する――通行人が何事かと、こちらを見ていた……三人くらいだが、目立っては元も子もない。矢田と寺原は……突然のことに、呆然としていた。まだ自分たちが殴られていた方が、予想の範囲で驚かなかっただろう。

「救急車を呼んだ方がいいでしょうか……」

 言いながら携帯電話を取り出すので、慌てて咲良はその手を押さえた。

大事おおごとにしないでください、先生……二人もいます」

「しかし……」

 ここで言い争っていたら、面倒なことになる……咲良はあえて井中に甘えてやる。

「すみません……病院まで乗せて行ってもらえますか?」

「分かりました」

 井中に肩を貸してもらって、立ち上がる。足元がおぼつかない。成人男性の怒りの一撃は、咲良に深刻なダメージを与えていた。頬骨にヒビが入っていなければいいが……。

「とりあえず君たちは、すぐに家に帰って、いいか?」

 息も切れ切れに咲良が言うと、二人は素直に頷いた。完全に泡を食っていた――咲良の顔を見て、ひるんだような表情を浮かべた。たぶん、顔がひどいことになっているのだろう。

 二人が立ち去るのを尻目に、咲良たちも駐車場に急ぐ。――あとは理事長に連絡すれば終了だ。咲良は不敵に笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る