#27 咲良
川澄がエレベーターから出てくると、一直線にこちらにやってくる。助手席に向かうものかと思ったら、こんこん、と運転席の窓を叩く。咲良がウィンドウを開けると、
「高野が、話があるって」
なんて言った。後ろで、高野孝明が手を振っている。
「分かった……お前は先に、助手席に乗っとけ」
咲良は扉を開けて運転席から出る。高野がまだ手招きするので、仕方なく扉を締めて、高野の元――クルマまで十分距離をおいた場所――に歩み寄る。
「今日は色々、スミマセンね」
「いえ……」
丁寧な口調に面食らったが、正直今は、さっさと話を終わらせて欲しかった。
「なんでしょうか?」
催促すると、高野は煙草を取り出した。長くなりそうだな、と思い、憂鬱になる。
「いえいえ、ちょっと世間話ですよ」
「私の事ですか?」
生徒たちから引き離した事で、容易に想像がついた。
「鋭いですね……アナタ、なにか変に気負ってないかな、って思いまして」
内心、ぎくりとしたのは隠したが、高野には通用しなかったらしく、動揺している前提で話を進める。
「確かにアンタは、俺みたいな悪党から見ても、教師としてはどうかと思いますよ。けど、逆にそれは付加価値を得たとも言える」
「付加価値……?」
「今のガキ……それもこういう所に来るような奴らが、普通の教師の言い分を、素直に聞くと思いますか?」
ぬるりと擦り寄ってくる蛇のように、甘言は咲良の脳髄に浸透する。
「まぁ何が言いたいかって言うとですね、上から引っ張り上げてやるだけじゃなくて、下から押し上げてやる教師がいても、いいんじゃないですか? 手を握るのは勇気がいるし、あの年頃になると、自分の身体を支えるには、細い腕ですよ……大人になったら太くなるとは言いませんが」
グラウンドにある遊具の
既にやった大人がいれば、やらせないような工夫が出来る。
「それを私ができる、と?」
「ええ。アナタにしかできないでしょう」
聞こえの良い言葉は、キャッチセールスの謳い文句のようでもある。こちらを慮るのは、咲良をコントロールしたいからだろう。何を考えているのかは知らないが、うさんくさい事に代わりはない。
しかし……メリットはある。校長の指示は継続中だ。毒は毒をもって制す、問題に対処するため、彼らの力を借りることができれば、早期解決に繋がる。
「お気遣い、ありがとうございます」
咲良は肩をすくめて、自ら高野から離れる。背中を向けられても、後ろの男は呼び止めなかった。
中内を送ってから、本田の家に向かう。咲良の家や透花の家は反対方向なので、沖野のビルから透花の自宅が一番近いが、あえて最後に回した。
本田の家の前につく。呼びかけると、後部座席の扉が開き、本田が外に出る。お辞儀をするものかと思ったら、彼はウィンドウ越しに咲良を見たまま、動かない。どうかしたのかと思い、咲良はクルマから出る。
「赤坂先生……本当に、ご迷惑おかけしました」
咲良が出てくるなり、本田はそう言って、大きく頭を下げてきた。
「なに言ってるんだ。こっちこそ巻き込んで悪かったな」
「いえ、そんな……」
ぶんぶんと首を横に振る。
「赤兎馬に接しちゃダメって言われてたのに、勝手なことして、無断で学校休んで、迷惑掛けて……馬鹿です、僕」
「そんなに気負うな。人間なんだから失敗くらい、幾らでもあるさ」
本田の肩に手を置く。それは、とても小さく、弱々しかった――かけてやれる言葉は、突き放す一言だけだった。
「せいぜい、私たちと一緒に沈まないようにな」
本田が顔を上げ、一心に咲良を見詰める。咲良は、どうとも言わなかったが、それで全て通じたようだった。
気まずそうに、本田は、はい、と頷いて、自宅に戻って行く。玄関の扉を開く直前、もう一度お辞儀をしたので、咲良は片手を振って、微笑んで応じた。
なぜだろうか? 自分が運転席に戻らないのは……全身が、少し震えているのに気付いた。顔が硬直しているのは、何かを抑えているからだった。
後部座席の扉が開く音が聞こえた。川澄透花が、車外に出ていた。咲良の横顔を見て、気まずそうな笑みを浮かべた。
「アンタまさか……教師のクセに、アイツの事好きだったの?」
「ん? ああ……そういうんじゃないさ」
たぶんな。
「というか、お前、そんなキャラだったんだな」
「ああ……猫被ってますからね。学校だと、お淑やかじゃないと」
一応、敬語は使うらしい。最初の一言は、よほど驚いたから、ついうっかり言ってしまったのだろう。
「今は全然お淑やかじゃないけどな」
「そうですね」
開き直って、川澄はポケットから煙草のパッケージを取り出すと、煙草を取り出して、火を点けた。
「教師の目の前で煙草吸うとは、良い度胸だ」
「吸います?」
まともな精神状態じゃなかったからだろう。差し出されたパッケージの口から突き出す、白い一本の煙草が、とても魅力的に思えて、つい、咲良は呟いた。
「……一本だけな」
教師失格な発言をして、受け取った。川澄が、わざわざライターで火を点けてくれる。
煙草を吸うのは、久しぶりだった。大学時代、先輩に吸わされて以来だ。慣れない紫煙を吐き出すのは、なんとも奇妙な感覚だった。
「よく吸うのか?」
隣で、同じように紫煙を吐く透花は、遠い目をしていた。その眼には寂寞があるが、本田のそれとは違った。乾いていて、じっと、暗闇を見ていた。
「たまに吸います……仕事手伝った後とかに」
「いつもじゃないのか?」
「遊びで吸うのは躊躇いがありますよ。まぁ、なんていうか、ご褒美みたいなもんです」
「良識のある生徒で何よりだ」
いま言える最大限の皮肉に気付いたらしく、透花が口元を僅かに吊り上げた。
「生徒と煙草を楽しめる先生で何よりですよ」
不機嫌ではないが、そういうポーズを取るため、鼻を鳴らした。
「お前みたいに、廃通りに、ずっと巣食ってる奴に褒められるのは、嬉しくないな」
「同属嫌悪ですか?」
「失礼な奴だな。だれが同属だって?」
川澄を――いや、透花を見ると、そこで彼女は、冷たい笑みを――けれど傷つける意図の無いそれを――浮かべていた。
「いえ――今の先生は、こっちと同じ眼をしてますよ」
指摘されて、やっと咲良は自覚した――潤んでいた涙腺は、既に渇いていることに。
「悪徳教師誕生の瞬間かな」
「そうですね」
このときの自分は、とても健全とは言えないけれど、どこまでも似合った笑みを浮かべていた気がした。
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