#14 透花

 言葉は無い。

 聞こえるのは荒い息遣い。

 聞こえるのは鈍い音の連続。

 走るのは鈍い衝撃の連続。

 両腕の隙間から見えるのは、義父の足――その間から見える母親は、酒瓶を呷ってばかりで止めもしない。

 ああ、これは昔の記憶かと理解した。これ以上とない、最悪な回想だ。

 暴力は日常茶飯事だった。

 実父は、幼い頃に死んだらしい。よく覚えていない。その後、母親が付き合ったのが、この義父だった。


 成長した雄のライオンは、親のいた群れから追い出されると、自分の子孫を残すために、新しい群れのリーダーになる必要がある。そして群れのリーダーになるために、主に二つの行動を取るという。

 一つ目は、ボスがいない群れに迎えてもらう方法。

 二つ目は、群れのボスと戦い、殺してしまう方法だ。

 群れを乗っ取ると、雄ライオンは、以前のボスの子供を殺す。子供を持った雌ライオンは発情しないため、雄ライオン自身の子供を作れないためだ。そこで子供を殺して、雌ライオンと交尾できる準備を整える。

 雄ライオンが我が子を殺そうとするのを、雌ライオンは止めない。それがライオンの社会の掟だからだ。

 だが、なにもこれは、ライオンに限った話でも無い気がする――そう思った。

 もし、これが人間にも通用する理屈だとしたら、こういう言葉に言い換えられるだろう。


 子供が邪魔だった。


 結局、ケダモノも人間も、大差無いのである。あらゆる行動の理由を言葉に出来るというだけで、行動そのものは変わらない。

 日に日に殴られた。日に日に蹴られた。日に日に体中の青痣は増えて、日に日に元気は無くなった。やがてあらゆる事に無感動になり、そして暴力への耐性の対価として、健全な子供だという精神を捨てた。

 自分はこういうものだと納得し、受け入れて、ただ殴り終わるのを、じっと待つようになった。何も反応しない事。それが求められた。泣けば逆上される。うめけば踏まれる。だから死んだように、じっとしていた。

 だが、暴力は、より大きな暴力によって幕を閉じる事になる。

 原因は、義父が雀荘の賭け金を滞納した事らしい。金額にして、ちょっと小さな家が買えるくらいだ。借金取りが来て、恐慌する義父は、何かを泣き叫んで訴えていた。

 彼が何を言っているのか聞いていなかった。だが、それがどういう意味なのか、なんとなくは分かっていた。けれどこの闇から抜け出せるのであれば、どちらでも良い気がした。

「悪いが、それはできねぇよ」

 その声は、どこまでも冷酷で、無慈悲だった。無感動を装い続けた彼女でさえ、その声には畏怖を抱いた。

「テメエのケツはテメェで拭え。親がガキのケツを拭くなら分かるし、親がオイボレになって、子供が介護するのは共感できるが、今のテメェは、自分で拭けるはずだよなぁ?」

 自分の行いには、当人だけが責任を持てという台詞。

 たとえ、それが善行でも。

 それが、たとえ悪行でも。

 行為の発端も責任も結果も、誰にも縛られない。一人でやった事の結果は、その独りに帰ってくる。暗い中でも、整然とした道理を示した退廃の聖人。それが高野孝明。彼女にとっての廃通りの象徴だった。

 悪行にも、最低限の筋があると。

 悪事とは、理不尽の事を言うのではない。自分が破滅しうる権利を、自ら行使するという意味なのだと。

 何を原因としていても、自分がやった行為の責任は、自分だけが負うのが筋だと。

 負えるのならば何をしても構わない。負えないのならばどうなるか。それは代替となる贖罪を背負わせられる事になる。

 そして父親と母親は背負わされたようだった。少女の視界から消え失せて、どことも知らぬところで、小さな家を買えるだけのお金を、どうにかして稼がされているらしい。

「んで、本来なら託児所に引き渡すモンなのかも知れないが……」

 高野は、まだ小学校の低学年だった少女を見て、戸惑っているらしかった。

「コイツは俺の持論だが、理不尽を受けた者は、ある権利を得る事が出来る。理不尽を押し付け返す、ってワケじゃない。それじゃイタチごっこで、つまらんからな。なら、なんだか分かるか?」

 少女は、首を横に振った。単語は難しくても、何を問われているのか、本質は分かっていた。それでも答えは分からなかった。

「それは躊躇わない権利だ。お嬢ちゃんは今、ただの女の子じゃない。その辺に転がってるナイフを拾って刺せるんだ。なんでもできるんだ。死人ってのはな、そのヘンから笑って飛び降りられるもんだ」

 それは、あらゆる権利を剥奪されてきた自分が、その先に手に入れた一つの権利。こっちに踏み出せる権利だった。余人なら恐れるリスクであろうと、少女にとっては塵芥も同然だった。考慮に値しない些事になった。

 その道理を示してくれたのは、他でもない彼だった。

 だからこそ、自分はこの権利を、彼のために――。


 ピリリリリ、と、夜気を切り裂く電子音。部屋の中で閉じこもるそれが、川澄透花の意識を覚醒させた。

 心臓が強く脈打つ。なにごとかと思考が巡り始め、スマートフォンが音源だと気付いて、手を伸ばす。相手は高野だった。通話ボタンを押す。

「なに?」

『悪いな透花。夜分に。大変なことになった』

 いつになく緊迫している。悪態をつく暇はなさそうだ。

「どうしたの?」

『ハートペインの元売りが殺された』

 思考が、空白に染まる。

「え、え? マジで?」

『元売りは外に出て、チマチマ小売屋に売ってたんだが……それが殺されたんだ。在庫を全部持っていかれてた』

 眠気が飛ぶが、脳味噌はまだ寝ぼけている。思考が上手くまとまらない。 

「外で殺されたって事?」

『そうだ。だからサツを抑えるのは無理、マンハントの時間だな。どっかは賞金かけるだろうよ』

「けど……これでハートペインは根絶やしになるわね」

 死人が出たとなれば、下手な事をして疑われるような事態は避けなければならない。小売屋は軒並み全滅だろう。

『そうだろうな。だが釣り合わねぇよ……ったく、オヤジは菓子折り持って警察署に謝罪訪問だ。滅多に見れる光景じゃない』

 オヤジとは、沖野グループの長のことだ。普段は傲岸不遜で通っている老人が、頭をぺこぺこ下げて警察のご機嫌取りの商談をする姿を想像するが……あまり笑えない。

「私は、どうしたらいい?」

『捜査できることは……そうだな、一応、怨恨の線がある。警察より先に捕まえて、手土産くらいにはしておきたい。こっちでも接触するが、噂くらいは聞けるだろ? 一応、高校でも当たっといてくれ。それと、こんなときに廃通りに入りたがる馬鹿がいたら、止めろ』

 なかなかの無茶振りに、透花は戸惑った。

「止めろって言われても……」

『先生にチクればいいだろう? とにかく頼んだぞ。こっちは忙しくなりそうだからな』

「分かった。過労死しないようにね」

『努力はするさ』

 通話が切れる。ツー、ツー、という電子音が、真っ暗な自室に響く。一時のつながりが乖離した事を示していた。

 急に、頭が冷静になる。さっきの過去の夢のせいか、寝巻きや下着が体中に張り付いて、気持ちが悪いのに気付いた。汗の臭いは鼻につく。

「……シャワー浴びよ」

 呟く声は霧散する。部屋の空気に、孤独な鼓膜に。

 ホームセンターで購入した、プラスチック製の半透明な三段ボックスから、下着を取り出す。少し考える。もうこの寝巻きを来て寝る気分でもない。白いパーカー、それからジーンズを取り出して、一階へと向かう。

 トイレや風呂、キッチンといった『水回りの黒いダイヤ』の出現ポイントは、すべて一階に集中している。そのため、ヤツに部屋で遭遇する事は無いが、トイレに行くだけでも、わざわざ一階まで降りなければ行けないというのは、少々面倒だった。特に、店が空いている時間帯だと、客に声を掛けられる事もあり、やや面倒である。

 この時間帯だが、店をやっていることもある。しかし今日は早めにお開きしたらしく、既に一階の電気は消されていた。常世の闇のように暗いが、空気は人の脂の臭いで淀んでいる。

 脱衣所に入って、服や下着を脱ぎ捨てて、洗濯機の隣にある、大きなカズラのバスケットに入れる。高校時代に、ナオが夏休みの家庭科の課題で製作したものらしいが、いまだに現役となると、かなり本格的に作ったのだろう。

 古臭い調節板で、湯の設定温度を四十七度に設定する。性能が悪いから、実際に出る湯は四十三度くらいだろう。

 浴室は、ホテルほど洒落てはいない。立方体に近い、石かコンクリートみたいな素材の水色の浴槽。壁には、ピンクと水色の正方形のタイルが、市松模様みたいに並んでいる。古臭く、黴臭く、酒臭い。たぶん、少し前にナオが入ったのだろう。店主のクセに、飲んでいたらしい。

 風呂の蛇口のひねりは二つあり、透明な部品の中に、赤と青のシールが見えるが、どこからか水が侵入したらしく、黄色く濁っている。

 壁に掛けてあるシャワーヘッドを取ると、壁に向ける。

 赤い方を捻り、間にある、黒いレバーを左に捻ると、シャワーから飛沫が出てきた。触ると、まだ冷たい。しばらくすると、それは生暖かい湯に変わったので、シャワーヘッドを自分に向けて、熱い飛沫を浴びる。

 湯が、肌を撫でて汚れを落とし、身体を蒸して温める。まるで野菜か何かの下ごしらえみたいに思え、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を想起する。小学校の頃、教科書の読み物で出てきた。恐ろしかったが、それ以上に、いつの間にか弱肉強食の立場が逆転しているというユーモアは、興味深かった。

 逆転という言葉から、『王様と奴隷の関係』という話を思い出す。王様は奴隷を使っているけれど、実は使わされているだけだという話。使わされていくうちに、だんだん自分が奴隷よりも低能になっていき、逆に奴隷は働いているうちに、さまざまな力を身につける。

 これからいくと、肉食動物は、狩る側にばかり立っている『王様』だから、自分が駆られる側に立つと、弱いということになるのではないか。人間も同じで、自分たちで作り上げた楽園の加護から離れると、誰よりも弱いのではないか。

 つまりそれは――廃通りでも、同じ事。

 売る側に立っていた売人……いや、元売りは、自らの危機に鈍感だった。だから殺された。ある一つの面で優れた人間は、自分が凡俗である事実から逃れるために、優れている面ばかりを見て盲目になる。結果、弱点を不意打ちされることによって、深刻なダメージを負う羽目になる。

 シャワーを冷水に切り替える。毛穴が閉まり、内臓が絞られるように苦しい。冷水を頭から被って、発汗を抑制する。

 バスタオルで身体を手早く拭いていく。毛布みたいなバスタオルは、水気を吸うと重たくなり、持っているのも煩わしくなり、肩に掛ける。少し疲れて、壁にもたれかかる。

 衣を着ず、布だけを纏う自分の姿は、傍目から見ると、ひどく扇情的なのではないかと思った。

 バスタオルの上から、己の身体を抱き締める。細い腰からくびれをなぞり、それなりに隆起した丘陵を撫でて、喘ぐように、小さく声を出してみる。

 ……溜息が出る。馬鹿馬鹿しくなった。さっさと服を着よう。

 透花はバスタオルをバスケットに入れると、さっきの暢気な遊びは無かったかのように、事務的に無駄なく、手早く着替えた。

 階段を上り、自室に戻る。少し身体が熱いが、ベッドにもぐると、一気に眠気が押し寄せてくる。クスリで催されるそれとは違い、健全な眠気だった。

 柔らかい布団の感触が心地いい――しばらくそれを楽しんでいると、いつの間にか、安らかな眠りについていた。

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