第14話 失われた技術

『とても高価な本ですよね』

「ええ。平和な時代なら、お城が買えたかもね。でも、いまは価値がないわ。誰も読めないし、黄金すら、魔物相手では意味がないもの。この本より、剣一本、パン一切れの方が大事でしょうね」

 私はうなずいた。売買が成立しないほど追いつけられた現在の人間たちに、黄金はそもそも意味がない。他の本は、立派に役に立った。火を起こし、寒さを退けたのだ。

 私は何枚かめくってみて、最初のページに戻ろうとした。母が言った。

「もう、一人でいい子にしていられるわね」

『私がこの本がなければ一人でいい子にしていられないと、どうして思うのです?』

「そういう可愛くないことは言わないの。私はお風呂を沸かすわ。ちょっと待っていて。ようやく、お湯で体を洗ってあげられる」

『母上が私を洗うのですか?』

「そうよ。一人じゃ、自分のお尻にも手が届かないでしょ」

 確かに母の言う通りだ。私は、自分が赤ん坊だということを忘れていた。他人に体を洗ってもらうのは、実はそれほど久しぶりでもない。約半年ぶりなのだ。

 前回洗ってもらった時、すでに私は死んでいた。

 洗ってもらったのは、葬儀のために死体を洗浄したためだ。


 母は部屋の奥に行きながら、水を呼び出していた。

 部屋の奥には風呂場がある。

 軍師マルレイに連れられて色々に部屋も覗いたが、風呂と思われる施設があるのは限られていた。もちろん、室内で風呂を炊く設備があるわけではなく、ただ風呂桶と思われる石造りの箱があっただけだ。お湯は沸かして入れるのか、あるいは母のように魔術を使うことを前提としているのだろう。

 お風呂のことは母に任せてもいいだろう。母は人間世界で唯一の魔術師で、ちょっとしたコツを把握したら、色々と自分で応用させて使用している。

 私が世話を焼く必要はない。

 さっそく本に向かおうとした時、訪問者があった。

 聞き覚えがある声だった。

「あらっ? 軍師ちゃんね。一緒にお風呂に入る?」

 母は尋ね。私は返事に困った。

 赤ん坊として軍師マルレイに風呂に入れてもらったからといって、何も悪いことはない。だが、その反応次第ではまた母にからかわれると思ったのだ。

 困っている私に破顔し、母は私を抱き上げた。

 一緒に来いと言うのだ。

 こういう時は勝手である。

 私は、またしても『源魔法』をお預けにされた。


 母に抱かれて、私は軍師マルレイと再会した。

 前に別れたてから、一時間ほど経過している。

 つまり、さっきまで私はマルレイに抱かれていたのだ。

 相変わらずののっぺりした体形と丸い眼鏡が印象的な、年若い娘である。

 年は若いが、内政を司る大臣たちが国を捨てた結果魔物に皆殺しにされ、学者たちも誰一人として城塞までたどり着けなかった以上、国を支える頭脳なのだ。

「軍師ちゃん、どうしたの?」

「だぁっ」

 私は何気なくマルレイに挨拶をしたつもりだったが、つい声に出てしまった。恥ずかしいことに、その声は意味をなさなかった。

 マルレイは私に小さく手を振り返したので、失敗ではないだろう。

 母に向かって言った。

「その呼び方はおやめください」

「ああ……そうね。私たちは、あなたの判断にかけるしかないのだものね。見下したような言い方はよくないわ。軍師マルレイ、いかがいたしたのです」

「突然あらたまらなくてもいいです。ただ、ちょっと恥ずかしかったので」

 マルレイは少し動揺したようだ。母が、突然王妃として作り上げてきた威厳を出したためである。

 母は良い人物だが、人をからからって楽しむ癖がある。王族とはそういうものかもしれないが、ただ誠実であることを旨としてきた私は、眉をひそめたかった。

 眉をひそめるのがただの願望で終わってしまうのは、顔の筋肉がまだまだ未発達なのだ。

「それで、ご用は?」

 すぐに母は親しげな口調に戻った。マルレイも苦笑しながら答えた。

「はい。王陛下よりご伝言です。『しばらく城の守りを固めるから部屋には行けない。留守を頼む』と」

「……そう。そんなこと、わざわざ軍師であるあなたに言わせるなんて、よほど人が足りないのでしょうね」

「いえ……私が伝令に来たのは……つまり、私も王陛下には不要な人間となったからです」

 マルレイは寂しそうだった。私を抱いていてさえ、マルレイは王の不興を買っていた。

 少なくとも、実の息子である私には、王は優しかったのだ。私や母にあまり近づかなかったのは、王としてあまりにも追いつめられた状況であるため、八つ当たりしてしまうのではないかと恐れているのだと、私は考えている。

 もう、王を放棄して、最後は父として、夫として生きようと考えても不思議ではない状況である。父王は立派だと思うが、その分当たられたマルレイは気の毒である。

「そんなはずがないじゃない。あなたがいなかったら……この国はどうなるの?」

「いえ……私も父の後を継いだだけで、実績はそれほどありません。それに、私にもわからないのです。食料の備蓄も少なく、この城塞にたどり着くまでに、7割の人間が死にました。人間を滅ぼそうとしている勢力だけで4つ存在し、この城塞の守りが硬いとはいえ、あまりにも守る人間が少なすぎます。私の役目は終わっているのかもしれません」

「……そう。なら……私と一緒かもね。王妃としての役目なんて、本当はもう意味がないことは解っているの。後は、この子と少しでも長く、一緒にいられることを願うだけ……お茶でも飲む? よかったら、お風呂も沸いているわよ」

 母の言葉にしんみりとしていたマルレイが、目を大きく見開いた。私からは、眼鏡が目を拡大してとても面白い顔に見えていた。

 ついキャッキャッと笑ったが、赤ん坊であるためマルレイを怒らせるには至らなかった。ただ、私を抱いた母は私の反応が面白かったらしく、どうして笑いだしたのか探ろうとしていた。

「お茶までなら解りますが……お風呂というのは……」

 私がどうして笑いだしたのか究明するために、私をひっくり返していた母の動きが止まる。

「えっ? 軍師さんはお風呂というものを知らないの?」

「もちろん、国があったときは入ったこともありますが、この城塞内で、どうやって……まさか、魔術で?」

「ええ。便利よ。入ってもいいけど、私もまだ入ってはいないの。私が入っているうちに、この子の体を洗ってくれたら、その後で使わせてあげるわ」

 母は私を軍師マルレイに差し出した。

「……是非、お願いします」

 マルレイは私を抱き上げた。

『母上、わざとですね』

「さあ、なんのことかしら」

 母は、私が女性との接触に赤ん坊らしくない感情を抱いていることを理解しているのだ。普通に会話をしているうちに、察したのだろう。

 それを知り、楽しんでいるのだ。

 私が抵抗できないことをいいことに、マルレイに私の体を洗わせることについては……いたし方ないと諦めることにした。

 母は鼻歌を歌いながら、部屋に戻る。

 マルレイが私を抱いて続いた。

「王妃様だけが、王宮にいたときよりお元気ですね」

「あぶあぶ」

 事実そうなのだろうと私は思ったが、きちんとした言葉にするには、もう少し時間がかかりそうだ。

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