第13話 黄金の価値
日が落ちていた。
松明でかがり火をたく準備もできず、城塞は闇に包まれていた。
軍師マルレイは、上半身の服の紐を解き、肌を晒した。
上半身の一部である。
体が薄く、ほんの少し膨らんだ乳房があり、ほんのりと色づいた乳首に、私の顔を近づけた。
母の平均よりかなり大きなものとは違う、あまりにも控えめに乳房に、私は目を背けようとして、それが一般の赤ん坊の行動ではないことに気付く。
私はいざなわれるまま、軍師マルレイの乳首を口に含み、吸った。
そうするしかなかったのだ。
「……このまま、人間は滅んでしまうのでしょうか。王が言った四つの軍勢がいずれも人間を滅ぼそうとしているというのは間違いのないことです。しかし、放っておいても飢えて死ぬのだとわかっているのに、どこにいるのかも解らない敵におびえて備えることが、私の役目なのでしょうか」
マルレイは私に尋ねたわけではないだろう。私の口に乳首を吸わせ、本人はただ、じっと空を見上げていた。
私は同じように空を見上げたが、同じことはしていなかった。
空を見上げ、『知覚魔法―遠視』を使用し、この一帯の地形を見降ろしていた。
暗いため、よくは見えない。魔物がいても、気づくことはできないだろう。
私はマルレイの裸の胸に両手をあて、乳首を吸い続けた。
「……可愛い」
マルレイはぼそりと言った。
「本当に、子守になるのもいいかもしれませんね。相手が、キール殿下であればですけど」
私の口から、ぽろりと小さなふくらみが外れた。私は眠くなっていた。
母から離れ、やはり緊張したのかもしれない。
次第に眠くなり、私の頬に口づけする軍師マルレイの唇の感触を最後に、眠りに落ちた。
私が目を覚ましたのは、母と父のベッドの上だった。父が城塞に着いていらい母と寝ていないので、正確には現在母のベッドである。
私が目を覚ますと、さっそく母が私を抱き上げた。まるで、私の寝ているのをずっと監視していたようなタイミングである。
「召使いたちから聞いたわよ。軍師ちゃんと、ずいぶんな仲が良さそうだったみたいね。まるで、姉弟のようだって言っていたわ。私のいるときより、ずっと楽しそうだって言っていた娘もいたわね」
母は、私に対して時々おかしな気の使い方をする。私は母の大きな胸に顔を埋め、母に尋ねた。
『母上、私はもう……みんなが望むような赤ん坊に戻ったほうがよいのでしょうか』
「それは……私に話しかけるのをやめるということ?」
母は戸惑っていた。私は念話を続けた。
『軍師マルレイは、戦いよりも人々の生活を安定させるべきだと進言して、王の怒りを買いました。その後、とても落ち込んでいましたが、私を抱いて笑ってくれたのです。私は、もっと赤ん坊らしくいるべきなのでしょうか』
「……そうね……でも、キールと話ができなければ、私はきっと、魔物に殺されていた。生きていたとしても、水もないし、ずっとみじめな思いをしていたに違いないわ。落ち込んで、キールと一緒に自殺したかもしれない。でも……普通の赤ん坊を育てるのって、平時でも大変だって聴くわ。今からキールがそんな風になったら……余計に耐えられないかもしれない。あなたの気持ちは嬉しいけど……今のままでいいわ。時々、可愛い仕草でもしてくれれば、十分よ」
色々なことを考えたのだろう。母は表情を何度も変えながら、自分の考えをまとめるように話してくれた。
『では……このままでもいいですか?』
「そうね。それなら……時々軍師ちゃんに子守に来るようお願いしようかしら。それなら、キールも嬉しいでしょう?」
そういう結論に至った理由が私には理解しかねたが、軍師マルレイは信用できる。何より、感情の起伏が理解できたのは大きい。私は言った。
『母上がそれでよろしいなら、私も結構です』
「そういう言い方が、可愛くないのよ」
『これから気をつけます。ところで、先ほどの本を見せてもらえませんか?』
母は意外そうな顔をした。
「ああ……キールはあれを、本だと思ったのね。だから見たがったのか……私は、てっきり軍師ちゃんの臭いが染みついているから、欲しがったのだとばかり思ったわ」
生後半年の赤ん坊に、どんな印象を持っているというのだ。母は私を軍師マルレイに預ける時、『浮気しちゃ駄目よ』と言った。てっきり私は『念話』を使用しないように注意したのだと思ったが、言葉そのままの意味だったのだろうか。
もっとも、私は母以外に『念話』を使うつもりはない。
話がすすまないため、私は本題に戻った。
『とても大切な本だと思います。きっと、火でも燃えない細工が施しているのでしょう』
「でも、キールに読めるの?」
『中身を見ていないので、断言はできませんが、タイトルは読めました。私は文字を知らないため、他の字は読めません。ですが、あの本のタイトルだけは読めたので』
私は正直に言った。うっかり勘違いをされると、母はどこまでも勘違いし続けかねない人であると思い始めていたのだ。
もちろん悪意はない。ただ、少しだけ思い込みが激しいのだ。
「まあ、いいわ。私は全部目を通したけど、理解できる文字は一つもなかったから。キールにあげる。役に立てばいいわね」
それだけ言うと、母は私にお預けになっていた『源魔法』を渡してくれた。
しっかりとした装丁の、重い本だった。
私は両手で受け取り、本の下敷きになった。
私がようやく本の下から這い出る様を、母は楽しそうに見ていた。
表紙の文字は、やはり私が知るはずのない文字だった。
だが、『源魔法』と書いてあることだけはわかった。
「読めるの?」
『……はい』
私は緊張しながら、本のページをめくろうとした。
表紙は一番しっかりとした素材で作られているらしく、私の頼りない腕ではめくることすら難しかった。
「手伝いましょうか?」
母は私を覗き込み、にこにこと笑った。
『いいえ。頑張ります』
「はい」
私の言葉を聞かなかったのだろうか。そもそも聴くつもりもなかったのだろうか。母は表紙をめくった。
中のページは、紙ではなかった。軍師マルレイと母の会話から、この世界でも紙を作り、本を残す知識と技術は存在していると考えて間違いない。
だが、この本に使用されているのは、技術ではなく魔法だ。
金色に輝く金属に、文字が踊っている。紙よりも薄く伸びる金属といえば、黄金しかない。あらゆる金属の中でもっとも安定し、錆びることのない金属だ。
だが、黄金を伸ばして本を作る技術など、私の前世ですら、存在しなかった。私が知らないだけで、あるいは誰もやろうとしなかっただけで、実際にはできたのかもしれないが、私は知らなかった。
一枚をめくってみた。
破れることなく、紙と同等、あるいはそれ以上の強度を持ちながら、限界まで薄い。魔法によるものだと断言していいだろう。
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