第15話


 ルシフェルは空に飛び立ってから、すぐには目的地には赴かなかった。空をくるんと一度旋回して、悠々と下界を見下ろす。

 月明かりを背負い、見下ろした遥か先には、一人の男性が漫然と佇んでいた。そのまま何をするでもなく、シキの家の方角を少し離れた場所から見つめ続けている。

 下手をすればストーカーかと疑いたくなるが、ルシフェルにとってはどうでも良い些末事だ。第一、ストーカーという単語はあながち間違ってはいないだろう。

 最初は無視をしようとも思ったのだが、先ほどのシキとのやり取りで気が変わった。景気よく、笑って声をかけてやる。


「やあ、こんばんは、オトウサン!」

「――――」


 ばさり、とわざと羽ばたきを響かせて、空から降り立ってやる。ふわりと風に舞いながら、己の漆黒の羽が優雅に辺りをたゆたった。

 声をかけた相手は、無言。地に舞い降りる羽を興味なさげに一瞥いちべつしてから、にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべて挨拶してきた。


「こんばんは。確か、ルシフェルさん、でしたね」

「敬語はいらないよ! 虫唾むしずが走るからね!」

「そう。じゃあ、お言葉に甘えて。僕も、敬語は苦手でね。村にいる時は気楽でいいんだ」


 平然と言葉を打ち返してくる様は、柔らかな物腰に反して芯が通っている。その上彼は自然体のまま、空気を物騒な方向へと一変させた。びりっと、ルシフェルの頬に切れた様な痛みが走る。

 一瞬でまとった覇気は、もう一般人のものではなかった。歴戦の勇士さえも脂汗を掻きながら膝をつき、平伏してしまうだろう。それほどまでに彼の発する気迫は鋭く、大きく、圧倒的だった。空気を伝ってくる振動だけで、ルシフェルの肌がびりびりと焼けそうに痛くなる。

 なるほど。確かに、シキがあれだけの剣技を身に着けたわけである。これほどの使い手に師事できたならば、大抵の敵にも立ち向かえる様になるだろう。

 正しく、彼はシキの師であり、父だった。


「オトウサン、何してたんだい? ここは、シキの家だよ! ストーカー? 我、恐れ!」

「うん。そうだよ。ストーカーなんだ」


 あっさりと肯定される。

 初対面の時から思っていたが、彼は本当に面の皮が分厚い。大半の者は彼の表向きの人当たりの良さに騙されるかもしれないが、彼ほど食えない人物はいないだろう。

 三千年も眠りに就いていた間に、随分と興味深い人間が生まれ落ちたものだ。その瞬間に立ち会えなかったことを、残念に思う。


「うわー、ストーカー恐いね! あのオカアサンがそんなに好きなんだね! 確か、昔の大勢のファンの一人だとか!」

「よく知っているね。一応、今も見守っていただけなんだけど」

「でも、別にストーカーの相手、オカアサンじゃないもんね! シキだもんね!」

「……」


 一瞬言葉が詰まった。

 本当に、シキによく似ている。シキも彼に関しては感情が強く表に出るが、彼もシキに関しては感情が揺らぐ様だ。なかなか可愛い部分もある。


「……シキ君には、初めて会ったんだよ」

「喋り方、それなりに似てるね! そうそう、あの万年筆なんだけどね! 我、もらったから!」

「――――――――」


 ほら、と手元に魔法で出してやれば、彼の表情が一瞬落ちた。

 すぐに柔らかな笑みを浮かべていたが、それだけ見られれば充分だ。


 ――彼は、記憶を完璧に有している。


「ふふ、面白い顔だね!」

「……」

「冗談だよ! これ、我が今作り出した幻影だから!」


 ふっと軽く手を振れば、霧の様に万年筆が掻き消える。これくらいの魔法、欠伸あくびが出るほど簡単だ。

 その一部始終を眺めながら、彼はふーっと軽く息を吐いた。しばらく俯き加減で笑っていたが、やがて困った様に頭を振る。


「うん。魔法の匂いがしたから。幻影かな、とはすぐ思ったよ」

「でも、一瞬驚いたね! 大体、万年筆って言っただけですぐ反応するとか、シキのこと気にし過ぎだよね! ……どうして、知らないふりをしているんだい?」


 最後は声が低くなった。正直、ずっと高いテンションで話すのが疲れる時もある。

 だからこその処置だったのだが、相手は臨戦態勢に入ったと勘違いした様だ。少しだけ、彼を覆う覇気が物騒に尖る。


「僕は、シキ君のことを知らないよ」

「ふーん、そう。じゃあ、堕天使である我がパートナーでいいんだ?」

「……そうだ。聞きたかったことがあるんだけど、いいかな」


 答えになっている様な、なっていない様な。

 一度目を閉じ、依然として柔らかな笑みを浮かべながら、彼は真っ直ぐに自分を見据えてきた。



「どうして、魔王である君が、シキ君のパートナーなのかな」

「……」



 今度はこちらが黙る番だった。

 別に、意表を突かれたわけではない。彼がこちらの正体を見抜いているのは分かっていたことだ。現に、先ほどわざと漆黒の羽を広げて近付いたのに、全く驚いていなかった。そこら辺はシキと違って可愛げがない。

 知らないと言いながら、彼のパートナーである自分を気にする。

 知らないと言いながら、自分に殺気を隠すことをしない。

 いつでも腰に差した双剣を抜き放ち、こちらの首を掻っ切る様な錯覚を叩き付けてくる彼に、ルシフェルも楽しげに笑みを浮かべた。


「オトウサン。シキのこと、どうでも良いんだよね?」

「どうでも良くはないよ」

「知らないのに?」

「メリナさんの、……息子さんだからね。危険物は排除しようかと思って」


 間を置いたのは、彼の心境からだろう。とはいえ、ルシフェルには激しくどうでも良いことだった。結果的にシキを傷付けているのだから、本当に彼の心の揺れなど興味が無い。

 しかし、本気で魔王を相手取ろうとする人間がこの世にいるとは。大戦時などは、天使でさえ怖気づいていたところがあったのに、彼は全く臆することなく自分に向かってきている。しかも、たった一人で。

 そして、それなりに善戦するだろうということは、ルシフェルにも推し量れた。それくらい、彼は強い。下手をすれば、現四大天使も苦戦か敗北かはするだろう。

 ゆらりと、彼の周りが陽炎の様に立ち上る。強い者には特有の象徴ではあるが、ここまではっきりと視認できるとなると、よほどの腕の持ち主だ。


 ――こんな人間が、死んでしまったのか。


 彼の愚かな過ちは心底興味がないが、彼という人間自身に関しては惜しい気がした。


「……シキが呼んだんだよ。我をね」

「……シキ、……くん、が」

「そうだよ! ま、彼の中に眠る力や属性は、ちょっと天使には毒でね。我以外だと、今の四大天使くらいしか、彼のパートナーにはなれないんじゃないかな!」


 他はみんな、即、堕ちるだろうね!


 告げてやれば、今度ははっきりと彼の表情が歪んだ。

 怒りか、悔しさか、悲しみか。

 どれもだろうと結論付けながら、ルシフェルは肩を軽くすくめた。

 何故なら、これは真実だ。シキの能力は、類稀なる逸材。

 そして同時に、天使の天敵である。


「彼の持つ属性は、とても特殊で深い闇なんだよね! しかも、通常ならそれが恐くて近付かない天使たちにとっても、甘美に映って引き寄せられる。不思議で、危険な人間なんだよね!」

「……、そんなの」

「人も天使も、誰もが欲望を持っているよね! それを簡単に増幅させちゃうって言えばわかりやすいかな。シキ自身は、とても強い心を持っているみたいだから制御できるけど、直に天使が触れたら、人より誘惑に弱い天使は一発で堕ちて欲望を解放しちゃうだろうね!」


 天使は大昔、人と切り離されて生活をしてきた。

 生きる意欲、食べる欲求など、それらを自然と持ち合わせていた人と違い、天使は数日食べなくても、数日寝なくても生きていける。

 そんな風にあらゆる欲望とはあまり縁がなく、同時に無垢だった。始めの頃は、人の強い欲求と交わって影響され、一緒にいるだけで堕ちることも多かったものだ。

 今では人と共に生きる者が多くなってきたため、毎日食べたり寝たりもするし、大分欲に対する耐性は強くなった。

 だが、それでも人に比べれば、強い欲求に流されやすい。



「シキが嫌われる理由も簡単。我を呼び出したってだけじゃない。近付けば、彼の懐に飛び込んでしまえば、堕ちてしまう可能性があるって無意識にみんな分かっているのさ」

「……堕ちる」



 そう。一種の防衛本能だ。

 どうしようもなく惹かれながら、しかし一度受け入れてしまえばそこで人生が終わる。堕ちる。帝国から追われる身になる。

 それを本能で察知しているから、弱い者達はシキを嫌う。遠ざけるために。

 彼に近付いても全く問題ない天使は、それこそ普段から己の足で人生を歩き、己の中に眠るくらい欲望や、穢い自分と向き合えている者だけだろう。

 他者に寄りかかり、自分の頭で判断せず、ただ周りと同調し、日々を何となくしか過ごしていない者達では、土台、抗うことなど無理である。


 実際、シキが加護儀式を受ける時、彼の周りには有象無象の天使が殺到していた。


 彼の持つ闇に惹かれ、我先にと無数の手が彼に伸びる光景は、とても滑稽で醜悪で、夢うつつにたゆたっていたルシフェルは大笑いしたものだ。

 しかし、加護を受けるに一番最適なのは、その者にとって最良で、相性が最も優れた天使だ。

 だから、ルシフェルが目覚めた。間違いなく、シキと一番相性が良い天使は、魔王である自分だったのだから。


「まあ、ミィ達でも務まるけどね! でも、我が一番安全だったってわけさ」

「……」

「他の天使がシキの加護を務めたら、あっという間に天使が堕ちて、シキは今頃処刑されていただろうね。天使をかどわかす大罪人だって」

「……っ」


 シキの様な存在は、稀にではあるが存在する。

 どこかの国で、こんな神話があったはずだ。蛇にそそのかされた人間が、美味しそうなリンゴを食べて楽園を追放されてしまうという様な内容。

 シキは、そのリンゴの様な存在だ。蛇の様にそそのかしはしないが、あまりに甘美で魅力的な闇をその身に宿している。

 故に、天使はその闇に無性に惹かれ、抗う力を奪っていってしまうのだ。シキ自身の意志など無関係に、周りを堕落させてしまう。

 エデンも、うに気付いていただろう。

 それでも、黙って見守ったのは――。


「……まあ、そういうわけだから! 別に、排除する必要はないよ!」


 思考を切って、現実でも話を切り上げる。彼にはもう十分、必要な情報は渡せただろう。こちらも、それなりに興味を満たせた。

 彼は無言。少し考える素振りを見せたが、もう答えは出したのだろう。先程まで荒れ狂っていた殺気は、綺麗さっぱり収まっていた。



「……そう」

「そうだよ!」

「じゃあ、君をシキ君のパートナーと認めようかな」

「――――――――」



 その言葉を聞いた瞬間、ルシフェルの時間が一寸停止する。

 次いで、くつくつと喉を鳴らしてしまった。自然と口角が上がるのを止めることが出来ない。


 ――ああ、本当に惜しい人間を亡くしたものだ。


 試していたのは、向こうも同じか。シキを抜きに考えれば、これほど面白い人材もいない。毒を混ぜながら、さかずきだって交わせただろう。

 もう叶わぬから、興味はぽいっと投げ捨てる。


「じゃあね! 我、行くところあるから!」

「僕に、それを告げても良いのかな」

「ふふ。シキは、そんな簡単にやられはしないさ。ミィやアリシスもいるしね!」


 自信満々に告げて、翼を広げる。

 そんなルシフェルの姿に、彼は一瞬目を瞬かせてから。



「……、そうだね。シキ君だから」



 破顔しながら、空を見上げた。まるで夜空の中に太陽が生まれた様な輝きに、彼の喜びを見出す。

 そこで、ようやくこの『死人の村』の構造を理解する。

 ここは、彼にとっても、――シキにとっても、『終わり』であり、『始まり』なのだと。

 シキは気付くだろうか。全ては、決着次第である。


 ――ああ。本当に楽しみだ。


 その決着の瞬間を、今から思い浮かべ。

 ルシフェルは、高揚する未来へ羽ばたく様に、月明かりの照らす闇夜に溶け込んだ。


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