第14話


「お前、今何しようとした?」


 静かなミカエルの質問が、更に静まり返った室内に響き渡った。

 何を。

 ミカエルに問われて、考えるのは一瞬。


「気絶させようとしていました」


 簡潔な答えだ。

 母との口付けなど、倫理的にも心情的に不可能である。父となら許されるが、自分は息子だ。いつも首の裏に手刀を入れて黙らせていた。

 苦肉の策ではあるが、母のためにこそ導き出した回答だった。

 しかし。


「息子が母親に暴力を振るうな」

「……」

「振るいたくないなら、助けくらい求めろ」


 端的に、だが強い言葉で諭される。いや、叱られるといった方が正しいだろうか。

 彼は、どうして怒るのだろうか。そんな義理はないだろうに。目の前で起こった出来事だから、放り出せなかっただけだろうか。

 しかし、もう一つ。彼らにはそう言える要素があったのだろう。



 助けを、求める。



 きっと、彼らには簡単な行為なのだ。例え簡単な話ではなくとも、プライドをかなぐり捨てて、地べたを這いつくばるほどの屈辱だったとしても。恐らく彼らには、周囲にいたのだ。求められる人が。


〝教会から出て行って下さい〟


 だけど。


「……、誰に」


〝俺、お前の友人やるのしんどいわ〟



「誰に、言えば良かったんですか」



 ぽろっと零れ落ちたのは無意識だった。

 けれど、本心だ。

 だって。



 ――みんな、離れていったのに。



 かつてぶつけられた言葉が脳裏によみがえって、思わず目を閉じる。

 昔からそうだった。

 そう。この家は――特にシキは、村の者達からうとまれ、遠巻きに厄介者扱いされていた。

 理由は知らない。

 だが、物心ついた時にはもう、それが当たり前だった。

 かつて友人だと思っていた人も、シキが重荷になって遠ざかっていった。鉢合はちあわせしない様に避けていたのも知っていた。その度に最初は心が重く沈んで陰っていったが、その内慣れてしまった自分がいた。


「オレの家は村長にも疎まれていたし、父や隣に住んでいたおじいさんに全部押し付けていました。村人だってオレと目を合わせるのを避けていたし、いざ目が合えば、逃げる様に家に入っていく」

「――」


 空気が引く音がする。

 だが、シキには関係が無い。全て真実だ。

 村の者達は父には一目置いていたのか、彼がいる時は表面上はにこやかだった。隣の老人に対しても同じで、二人がいる間はこの家もまだそれなりに平穏だったのだ。


 けれど、それも二人が生きていた時まで。


 村長は、父がいなくなってからは一層この家を煙たがる様になった。幼い頃から世話になっていた隣の老人も、あれからすぐに亡くなった。

 残ったのは時折狂う母と、七も離れた弟と妹。

 環境的に、誰かに頼れる状態ではなかった。

 だからこそ、これが最善の結論だったのだ。逃げたいと思わなかったからこその、シキなりの決意でもあった。

 しかし、ミカエルは言う。一人で解決するなと。

 ならば、誰に言えば良かった。純粋な疑問が腹の底で黒く渦巻く。


「みんな、みんな、逃げていった。他国に知り合いもいない。誰も、いない」

「シキ」

「それなら他に、……他に、誰に言えば良かったんですか」


 不可能だ。

 見知らぬ者に助けを求めたとして、家庭の事情など介入する余地もないし、義理もない。胡散臭げに切り捨てられるか、哀れむ眼差しをしつつも関わるのを避けるだろう。容易く踏み入りたい領域でもない。

 彼らもシキの同僚であり上司だから、この家の内部に踏み込んでしまっただけ。そうでなければ、彼らも。



〝しんどい〟



 きっと。


「とりあえず」


 唐突に声が乱反射した。ぱん、と弾かれた様に世界が動き出す。

 のろのろと顔を上げれば、パートナーであるルシフェルが手を叩いて楽しそうに空中に浮いていた。そういえば彼にも事情を話したことはなかったなと、ぼんやり記憶をさかのぼる。


「シキは、超絶不器用っていうことがかったね!」


 にっこり笑って決め付けられる。その笑顔のきらめき方は、これまでにないくらいに輝いていて眩しかった。


「そして、ミィにはデリカシーが無いのも判明したね!」

「……ほっとけ」

「そんなところも愛してる!」

「消えろ」


 可愛い弟よー、と叫びながら抱き付き、手加減なしのアッパーを食らっているルシフェル。流石は兄弟だと思う。こんな風に暴力的に振る舞っても仲が良いと思えるのは、じゃれ合いだと分かっているからだろうか。


 少しだけ、眩しい。


 シキは、この時初めて抱いた感情に微かにだが当惑した。

 何故だろう。彼らは本当に賑やかな空気を作り出す。今まで仕事で渡り歩き、色んな人と仕事をこなしてはきたが、ここまで自由なパーティは初めてだ。

 だからと言って、シキを輪から外すわけでもない。絶妙な立ち位置はシキにとって初めてのことだらけで、だからこそ戸惑うことも多かった。


「ま、いいや! シキはこんな調子だし、我、見回り行ってくるね!」


 シキ役立たずだしね!


 そんな風に言い捨てて、ルシフェルは軽やかに部屋を後にしていく。何というか、彼はいつでもどこでも自由気ままで唐突だ。もう慣れたので「いってらっしゃい」とだけ言って見送ったが。


「……俺も行く」

「え」

「アリシス。なるべくシキから離れるな」

「ほえ?」

「この村は、どうやらシキに深く縁があるようだからな。……何が起こるか分からん」


 言うだけ言って、さっさとミカエルがきびすを返した。扉向こうに溶け込みながら姿を消す様は、ひどく自然だ。やはりさまになる男性というのは、何をしても様になるらしい。

 しかし、一人――ではなく二人、取り残されてしまった。しかも、微妙に家庭の事情に巻き込んでしまったアリシスとである。

 先程の騒動が起こった後だと、家にそのままいるのも気まずい。

 だが、一人になることも許されない。

 だとしたら、連れ出すしかないだろう。適当に散歩しようかと、アリシスに振り向くと。


「シキ君はさ」


 静かに問われる。

 抑揚はまるでなく、いつもの明るさから一転、静かな湖面を思わせる響きに、シキの背中が自然と伸びた。


「あたし達がその時一緒にいたら、助け、求めた?」

「……」


 すぐには頷けなかった。

 そんなことは想定したこともないし、実際考えても詮無きことだからだ。過ぎ去った過去は取り消せないし、やり直しもきかない。だからこそ、もしもの世界には何の意味もないとシキは考える。

 だが、彼女が欲しい答えはそんな類のものではないのだろう。彼女だって過去をやり直せるなんて思っていないだろうし、無理だと理解もしている。

 だから、彼女の意図するところは別の場所にあるはずだ。


 もし、彼女達が昔からそばにいたのなら。


 そもそも、どんな関係を築けていただろうか。ルシフェルは自分に構わず村を駆け回って、弟に蹴られていただろうか。ミカエルは何だかんだで真面目で責任感が強そうだから、もしかしたらシキを放っておかなかったかもしれない。アリシスは実際に、帝国でも厄介者扱いされているシキに臆することなく話しかけてきたし、もしもの世界でもそうだったかもしれない。

 ならば、シキは。

 彼らに、話していただろうか。家族の問題は家族のものと、他人に話すことを考えもしなかったシキは。

 果たして。


〝俺、お前の友人やるの――〟


 ぎりっと、指先でコートの裾を引っ掻く。震えそうになったのは、どんな感情から来たものなのか判別は付かなかった。


「――、オレ」

「いいよー、無理に答えなくても」


 あっけらかんと却下される。

 質問しておいてばっさり切るあたり、彼女らしい。自由奔放で、いつでも己を貫いている在り方が少し眩しかった。


「シキ君ってさ、割と答えが出ていると即答に近いんだよね」

「……、そうかな」

「うん! だからさ、シキ君が答えを迷っているってことは、真剣に考えてくれてるってことだよね。流したりしないで」


 それはもちろんだ。彼女達とは上司と部下の関係とはいえ、シキにとっては大切な部類に入るだろう。彼女達からすれば単なる部下なのかもしれないが、普通に話しかけてくれる存在は貴重だ。


「そういう真面目で、だけど不器用なところがシキ君のいいところだよー。だから、今はその回答だけで充分!」

「――――――――」


 薄暗い部屋の中、太陽の様な明るい花が咲く。

 先程まで冷たかった空気もほんのり暖かくなり、燐光りんこうが散りながら室内を照らしていった。大丈夫、と背中を撫でてくれる様な優しい空気に頭が垂れる。

 どうして答えることが出来ないのだろう。シキは強く疑念を抱く。

 分からない、と答えるだけでも彼女の気持ちに応じることが出来たはずだ。こんな風に気遣われるのが、心配をかけるのが不本意ならば、優柔不断に口ごもらず、すぐ答えれば良かったのだ。

 しかし、その選択が出来なかった。その行動こそが、彼女の言う通りなのかもしれない。シキは彼女達との関係を、今までとは違った風に考えているのだろう。

 それはシキにとってはひどく新鮮で、戸惑うことで、けれど手放したくないキッカケだ。


「……でも、そうだねー。シキ君ばっかり、秘密を暴かれていくのはフェアじゃないかも!」


 んー、と人差し指をあごに当てて、アリシスは考え込む。

 活発に動き回る彼女の仕草は、時折可愛らしくなる。明るくて元気いっぱいのひまわりの中に、小さな花がひっそり咲く様な一面が彼女には備わっていたことを新たに知った。



「あたしねー。実は男の人、苦手なんだ!」

「……、え」



 急転直下な暴露だ。

 常に真っ直ぐ、奔放を貫く強さを持つ女性。あれだけ男の人に高嶺の花と言われ続け、ミカエルやルシフェルと対等に話す彼女の姿に、男性と距離を置く素振りは見られなかった。

 何かの間違いではないか。そう思いながらも、アリシスは「えへへー」と誤魔化ごまかす様に頭をく。


「将軍とか上の天使と話すのは、あんまり抵抗無くなったんだけどね。ほら、天使使いの人とか、遠巻きに見てくるくせにひそひそ話をしてくるからさー。あたしのこと言ってるんだな、と思うけど内容聞こえてこないから。視線は感じるのに接してこないし、居心地悪くて」


 それは人気があるからだ。

 告げたとしても、彼女は信じないだろう。

 確かに、彼女は色んな人と言葉を交わしていても、かなり直球勝負な部分がある。もちろんこの四百年、上に立つ者でもあったのだから権謀術数を操る場面にも立ち会ってきただろうが、普段の付き合いに遠回しな態度は好まないのかもしれない。

 つまり、周囲の者達はかなり、いや、ほぼ全てにおいて損をしている様だ。哀れな事実に、だが訂正してやる義理はシキには無い。どうでも良かった。


「あたし、こんなんだし。女性扱いもあんまりされたことなかったからさー。シキ君が普通に話してくれたり、さっきみたいに髪の毛梳かしてくれたりとか、慣れてなくて」

「……、うん」

「シキ君のお母さんにもさ。女性として嫉妬? されるというか、認識されるのも慣れてなかったから、反応遅れちゃった」

「……、ごめん」

「ううん。まあ、何が言いたいかっていうと。あたしにも苦手なことはあるってこと!」


 だから、と。アリシスはうんうん唸りながら、それでも話を頭の中でまとめ、一生懸命考えながら伝えてくれる。

 その誠実さがシキにはとても眩しく、優しく感じられた。


「シキ君も、苦手だろうけど。大丈夫だよ。少しずつでいいからさ!」

「……」

「あたし達は、待ってるからね」


 急かすわけでもなく、背中を押すわけでもなく。

 ただ、そこに在ろうとしてくれる。自分が手を伸ばそうとすれば、いつでも手を取ろうと差し出してくれる。

 そんな風に聞こえた。

 聞こえて少しだけ、シキは胸に湧き起こる衝動のまま、うつむいた。






『天歴5875年 シキ・イースレイター


 この村に来てから、自分の感情がよく分からない。

 疑問にばかりぶつかるし、考えることが多くて眩暈めまいがしそうだ。

 それとも、今までも本当はそうだったのだろうか。

 自分の感情がよく分からないことは多かったけれど、本当は見ないフリをしていて。それが今回、噴き出しただけなのだろうか。

 その結果、彼らからも疑問が溢れ出して、対立して、考えなければならない問題が一気に噴出した。そういうことなのだろうか。

 それとも――』











 あの日。いつもの様に出稼ぎから帰ってきた、あの瞬間。


 転がる三人の死体を呆然と見つめながら、シキは空っぽになっていた。


 家族の死に衝撃を受けている。それもあった。

 父が亡くなってから五年間。出稼ぎに行くことが多くなり、家を空ける期間も増えたが、それでも帰って来た時に「おかえり」と出迎えてくれる場所はここしかなかった。弟や妹に旅の話をせがまれることも嬉しかったし、母の作る唐揚げは楽しみの一つでもあった。

 例え、戻ってきた時の村人達の視線が奇異であっても、特に気にはならなかった。最初から気にはしていなかったし、その中にかつての友人が混じっていたとしても、特段心に揺さぶりをかけてくることはなかった。

 だが。


「……、どう、して」


 この時ばかりは、シキにとって衝撃が遥かに大きすぎた。


 まさしく心を揺さぶる出来事だったのだ。

 ゴミの様に転がされた体を、そっと抱き起こす。四肢がそのままだったのは、犯人のせめての情けだろうか。あれだけ元気で笑顔を絶やさなかった弟の顔が恐怖に歪んでいて、居た堪れなくなる。

 そして、斬りつけられたであろう殺傷痕を凝視した。はたからすれば、凝視というよりは眺めているだけに映ったかもしれない。

 だが、シキにとっては正しく凝視だった。

 そっと傷口をなぞる。



 ――小さい頃から教えられ、長く見てきた太刀筋だ。



 見間違えるはずがない。懐かしい瞬間に立ち会った様な感覚に、不意に込み上げてきた熱が何だったのかは考えない様にした。

 どうしてだろう。家族は帰る場所だったけれど。

 同時に、心が軽くなった気もした。


 犯人は、どこまで計算に入れていたのだろう。


 シキにとっては最初から、犯人を追うというよりは、その謎を追うことが目的になっていた。


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