第13話


『天歴5875年 今日何度目かの日記


 夕食を食べた。


 久しぶり過ぎて、食べ方が分からなくなっていた様だ。ルシフェルが割って入ってくれなかったら、醜態しゅうたいさらしていたかもしれない。

 三ヶ月の付き合いになるが、つくづくルシフェルは不思議な生き物だと思う。生き物なんて言ったら、笑いながら殺されそうだ。


 けれど、不思議なんだから仕方がない。


 彼は魔王なのだから、人の機微に敏いのは当然なのかもしれない。

 けれど、何故それをきちんと生かすのだろう。自分に。

 何故、助けてくれるのだろう。

 パートナーだからだろうか。任務を遂行するためだろうか。

 それとも――』






「シキ」


 食事が終わり、後片付けを手伝い、一番広い部屋にルシフェル達を通した後。居間に戻るのも何となく気が引けて、壁に寄りかかってシキは日記を書いていた。

 その日記を書いている最中に、名を呼ばれた。途中で声をかけられるのは珍しいなと顔を上げる。

 顔を上げれば、想像通りルシフェルの顔があった。相変わらず近い距離だ。最初は身を引いていたが、もう慣れてしまっている自分に気付く。

 しかし、曖昧な笑顔は本当に笑っているのかどうか判別がつかない。

 ただ、いつもと雰囲気は微かに異なった。自然と背筋が引き締まる己の反応に、面白いという理由の笑みでないことだけは悟る。


「今回の日記、我への疑問を書いてるんだね」

「よく読めたね、その態勢で」

「魔王だからね!」


 理由になっていない。

 小さな子供が相手なら、「父さんだから」「わあすごい!」の尊敬の眼差しが授けられるやり取りでもある。彼も、そんな気分で使っているのかもしれない。全く尊敬出来ないのが残念だ。


「我、前に言ったよね。今度質問考えておいてね、って」

「……うん」


 出発前だっただろうか。他人に興味が無いのか、主張は無いのかと何故か怒られた。

 もちろん主張はしてきたつもりだったし、他人がどうでも良いと考えたことはない。

 だが、彼にとってはそう映るらしい。無愛想だからかとシキなりに分析してみたが、通じるかどうかは怪しかった。


「それ、質問?」

「……」


 ベッドにごろごろ転がっていたアリシスや、椅子に座ってコーヒーを飲んでいたミカエルもこちらに視線を向けてくる。急に居心地が悪くなって、シキは視線を逸らして日記を閉じた。

 ぱたん、と閉じた音がやけに心臓に悪い。早く切り上げたくて仕方が無かった。


「どうだろう」

「どうだろう?」

「疑問と言えば疑問だけど。強く知りたいっていうわけではないし」

「……」

「答えたくないなら、別にいい。かな。それくらいの疑問」


 立ち上がって、日記を魔法で空間に仕舞しまう。

 次いで、万年筆を胸ポケットに差そうとして――。



「嘘だね」

「――――――――」



 がっ、と腕を取られた。万年筆を取り落とさない様にと、それだけに集中したおかげで何とか手中から零れ落ちるのだけは回避する。

 しかし、それでルシフェルが許すはずがない。


「……っ」


 更につかむ力がこめられる。瞬間、骨が砕けた錯覚に陥った。

 それでも万年筆を取り落とさなかったのは、果たして執着だったのか。


「ルシフェル。痛い」

「そうだろうね! 痛い様にしてるから」

「……」

「この三ヶ月、ずーっと思ってたよ。君って面白くないしつまんないし自分に無頓着だし他人に興味なさげだし生きてて楽しいのかなーって!」


 酷い言われようだ。

 だが、事実だから何も言えない。


「でも、別に人に無頓着なわけじゃないんだよね! 他人の仕草とか見てるし、鈍いところはあるけど困っていたら助けるし、一応気遣いってものは備わってるし」


 褒められているんだろうか。意図が霧の向こうに隠れていて、答えにきゅうする。

 そして、次の言葉に、更に返答にまることになった。



「でも、ここに来てなんとなーく分かったよ。君、興味持ちたくなかったんだね、人に」

「――――っ」



 息が一瞬出来なくなった。水中深くに沈められたかの様に、呼吸が一気に不自由になる。

 何故だろうか。自分でも理解が不能ではあったが、確実に胸はざわめいた。


「……、そんなことは」

「別に君の意見なんてどうでもいいよ。自分でも分かってないだろうし」

「っ、あ」


 ひょいっ、と手の中の万年筆を取り上げられた。

 瞬間的に空いた手で追いかけるが、ルシフェルはそれすらも軽くいなす。


「ねえ。我らに、何か言うことないの」


 意味が分からない。

 彼の手の中で泳ぐ万年筆にだけ視線が集中して、頭が真っ白になっていく。


「返して」

「君、本当に我らには何も言うことはないの」

「そんなの」

「クロワッサンの時も思ったよ。どうして何も言わないの」

「それは」

「追いかけるほど、万年筆は大事なのにね」

「――――――――」



 大事。



 その一言に、目の前が閉塞していった。無理矢理深く水中に沈められていた手が、いきなり離されたかの様な感覚になって、上手く意識を泳がせることが出来ない。

 大事なのだろうか。

 だから、シキはこの万年筆を五年間も使い込んでいたのだろうか。


 ならば、それは何故だろうか。


 父からのプレゼントだったからだろうか。確かに父に恩義は感じていたし、安らぎを覚えることもあった。大切な人からの贈り物だったから、という意味はあっただろう。

 だから、大切だったのだろうか。

 でも。


〝――君が生きているせいで〟


 シキは、あんな風に苦しめることしか出来なかったのに。

 本当に、あの万年筆を。

 父は、シキに。



〝君は、誰かな?〟



「……っ」



 ――覚えていること自体が、苦痛だった自分に。プレゼントなど、したかったのだろうか。



「……、……欲しいの、その万年筆」

「は?」


 脈絡など無かった。

 ただ、終わらせたかった。もうこの話題を口にしたくなかった。


「欲しいなら、あげる」

「……」

「ちょ、シキ君!?」


 それまで見守っていたらしいアリシスが、慌てた声を上げる。

 ルシフェルは、虚を突かれた様に無言だった。彼がそんな風に空気を止めるのは珍しい。シキはそれほどまでに変な話を振っただろうか。


「お父さんからもらったものだって言ってたじゃない、シキ君!」

「うん」

「何であげるの! お父さん悲しむよ!」

「悲しむかな」

「そうだよ! だから」

「オレがいない方が良かったのに?」

「……良かったって、……」


 代わりに声を荒げていたアリシスが言葉を詰まらせる。

 困らせたいわけではなかった。

 だが、どんな風に説明すれば納得してくれるのか。自分でもよく分からなくて、率直な言葉しか出てこない。


 そうだ。


 あの日は、シキの誕生日の前日だった。

 出稼ぎから帰ってきた時の父の様子は、いつも通りだった。「後で話がある」と笑顔で呼び出されて、何だろうと浮き足立ったのも懐かしい。

 なのに、いつもの様に自分をかばって、父が母を連れていった後のことだ。酷く疲れた顔をして、様子がおかしかった。今にも死にそうな蒼白加減に、シキが声をかけようと部屋の中に足を踏み入れた時。


〝どうして、……君が〟


 いきなり押し倒して、首を。


「……、オレ」



 ――ぱあんっ!



「――――――――」



 ひどく間近で、大きな破裂音が響いた。

 正しくは打撃音だったのだが、それは吐息が触れ合うほどまで迫った誰かの顔に引き寄せられて、鈍い思考を動かしてから理解する。

 じわじわと両頬に熱を帯び、鈍い痛みも外から内へとにじんでいって。


 ああ、自分は叩かれたのか。


 実感すると同時に気になるものが頭をもたげ、目の前に集中する。

 まじまじ見つめてみれば、深い海を思わせる蒼い光が飛び込んできた。次いで燃える様な緋色が広がって、「ああ、アリシスか」と納得する。



 綺麗だと思った。



 彼女は能天気に破天荒に行動しながら、いつだって真っ直ぐに己の道を歩んでいる。

 自分の中に眠る正義も、真実を見極めようとする冷徹さも、そのせいで犯すかもしれない罪も、全て自ら背負う様に力強く前を向いていた。それこそ緋色の髪の様な燃え上がる心と、海の瞳の様に広い覚悟。

 どちらもシキにはない輝きだった。だからこそ、一層綺麗に映るのかもしれない。


「悲しむよ!」

「……、え」

「いなくなったら悲しむ! 魔王君も! 茶化さないで返す!」


 シキの両頬を叩いた手をひるがえし、アリシスがあっという間にルシフェルの手から万年筆をふんだくった。

 ちえーっと舌を出す彼は、最初から万年筆の存在などどうでも良かったのだろうか。だとしたら、渡すわけにはいかなかったなと鈍く考え直す。


「シキ君って、結構人のこと見てるくせに、自分に向けられた感情には鈍いよね」

「……そうかな」

「そうだよ! お父さんが色々考えたプレゼントのこと、疑ってるんだもん!」


 鈍いのか。

 指摘されてもいまいちしっくりこない。

 よく他人には平手打ちをされたり、ける様に遠ざかられたり、怒られたりということはあった。家族以外の人でシキに好意的に接してくれた人はあまりいなかったし、家族であっても今では好意を持ってくれていたのか自信が持てない。


 父は、血が繋がっていない。


 いつも優しい笑顔を浮かべていたけれど、あの日は憎悪にたぎった視線で貫いて、首を絞めてきた。

 あの人は泣いていた。シキのせいだ。

 何故なら。



〝君が生きているせいで、全然、僕を見てくれない!〟



 ――何故なら。母の心は、全くもって、あの人に向いてはいなかったからだ。



 父はそれで良いのだと言っていたけれど、本当は苦しくて仕方が無かったに違いない。

 シキも苦しかったけれど、あの人はもっと追い詰められていただろう。

 だから。


「はい、これ」


 アリシスが、無理矢理万年筆をシキに握らせる。こちらの心境などお構いなしなあたり、彼女らしい。

 知ったらどうなるだろうか。変わらない気がしたから、抵抗するのは諦めた。


「アリシス」

「シキ君。この万年筆の色、もう一度ちゃんと見て」


 見ている。もう五年もの付き合いだ。今更見直す箇所なんて無い。はずだ。

 しかし。


「本当に、わからないの?」

「……」

「違うよね。本当はシキ君」

「――シキ?」


 アリシスが何かを言いかけた時に、向こうから声が飛んできた。直観的に危険信号が閃いたのは、長年の経験からだろう。

 シキが振り向けば、扉のそばには母が呆然と佇んでいた。アリシスの「あ、お母さん」と呑気のんきに口にする響きがやけに遠くに聞こえる。

 すがる様に扉のふちに寄りかかる母は、儚く、今にも消えそうに映った。風が吹けば飛びそうで、少し触ればそのまま崩れ落ちてしまいそうな砂の城にも思える。

 そんな風情をまとっている時の彼女は、大抵ろくなことにはならない。アリシスから急いで距離を取って、母の方に歩み寄った。


「母さん」

「母さん?」


 オウム返しで口ずさむ母の表情が崩れ落ちていく。信じられないと目をみはり、ゆっくりと理解し、絶望に染まっていく姿は、本格的に地雷を踏んだとシキに教えてくれた。

 いつもはこんな失敗をしないのに、下手を踏んだのは彼らがいるからだろうか。その理由がシキには見通せなかった。


「母さん。……そう、私は母なの」

「……違う。これは」

「そんな風にごまかしていたの? そう……やっぱりその人が、今度の新しい愛人なのね」

「違う、母、……メリナ。落ち着いて」

「今更! ごまかされないわ!」


 持っていたお盆を落としてうずくまる。

 がしゃん、と淹れてくれたらしいお代わりのコーヒーの液体が綺麗に床に散らばった。染み渡っていく色が、まるで黒い血だまりみたいに鈍く光り、シキはひどく焦りを覚えてアリシスを背に隠す。


「ごめん、オレが悪かった。メリナ、落ち着いて」

「うふふ、そう。そうよね。男の娘と言ったって、外見は女性ですもの。可愛かったら誰でもいいんでしょう? ねえ」

「違う。メリナ、彼女、彼、は」

「とっても可愛らしい上に、若いわよね。お肌もすべすべ。白くて細いし。髪も燃える様に艶やかで、本当にお姫様のよう……」


 うっとりした瞳は、ぎらぎらと異様に輝いてアリシスを真っ向から凝視する。零れ落ちそうなほど見開かれた瞳は狂気の渦を映し出し、口元も奇妙に歪んでいった。

 え、お姫様? と能天気に口にするアリシスは鈍いのか図太いのか。どちらにせよ、火に油を注いだことに間違いはない。

 ぱき、と母が足の裏で破片を踏み砕く。


「さぞかし良い思いをしたでしょうね。シキはとっても優しくて男前だもの。食事の時も体をていしてかばってもらって、嬉しかったでしょう? ……私の前で、よくもいちゃつけたものねっ!」

「メリ、ナ、何、言って」

「良かったわね、お姫様。ご褒美に……殺してあげる」


 絞り出す様な低い声は、呪いだ。

 いつの間にか握っていたナイフが、やけに差し込まれた光を反射する。うつむき加減で表情はよく見えなかったが、口元の大きな笑みだけはくっきりと瞳に焼き付いた。


「うふふ。大丈夫よ、シキ。すぐに目を覚まさせてあげるから」


 顔を上げた母の顔は満面の笑みだ。曇りのない真っ白な笑顔は子供の無邪気さを思わせるが、手にしたナイフが狂気を主張する。まっさらな笑顔にナイフを添えて、少女の様な母はゆっくりと歩き出した。

 一歩一歩、波の上を歩く様に。

 けれど、だんだんと氷の上を滑る如く歩調は加速していき。



「……しねええええええええっ!」



 そのまま弾丸の如く突進した。呆けていたアリシスが我に返り、構えるのと同時。


「母さん!」


 すり抜けるのを許してしまったシキは、後ろから母を抱き締める様に掴む。

 がくん、と母の身体が傾ぐ様は、糸が切れた人形を連想させた。


「離しなさい! シキ! あの女、許さない! 私の、シキ! あああああああっ!」

「母さん、……メリナっ。落ち着いて」

「シキ! そんなにあの女がいいのっ。私の体が弱いから、だからっ、満足できないの!」

「違う。違う、メリナ。違う」

「ああ、シキ、……っ、シキ! どうして。どうしてなの……っ。あなた、言ったじゃない。私だけを愛しているって。それなのに、……それなのにっ!」

「ああ、そうだよ。愛している」


 腕の中の体を更に引き寄せる。そのまま強く抱き締めようとしたが、どうしても引き寄せるだけで終わってしまった。完全に抱き締めることは出来ない。

 いつもそうだった。本当は、ここで抱擁ほうようを与えればもっと簡単に楽になれるだろうに、シキにはそれが出来ない。密着すること自体におののいてしまう。

 父はいつも強く抱き締めていた。それこそ息が出来なくなるくらいに苦しく、折れてしまうのではないかと言わんばかりにぎゅうぎゅうに抱き締めていた。

 だから。きっとそれは、父の役目なのだと。シキは幼心に刻み付けていたのかもしれない。


「愛している、メリナ。君だけだ」


 父が、かつてささやいていた。シキはその言葉をなぞるだけだ。

 シキは誰かを愛したことはなかった。愛された記憶もない。相思相愛なんて、程遠いおとぎばなしだった。

 だから、どんな言葉を吐けば本物らしく聞こえるのか、満足させられるのか分からない。全て父がしてきたこと、口にしてきたことを真似するしかシキには手段がなかった。

 けれど、母はそれだけで気が済むらしい。腕の中の体が弛緩しかんする。とろける様にしなだれかかってくる姿は、妖艶で手練れの女性にしか映らなかった。

 相手など誰でも良いのだ。だからこそ、シキには一層理解出来ない境地でもあった。


「……本当? 本当に、私だけ?」

「もちろん。オレが嘘を吐いたこと、あった?」


 嘘だらけだ。

 父の言葉は心からの願いでも、シキにとっては鎮静剤の役割以上の意味はなかった。

 だが、それでも良い。母にとっては、この言葉そのものが何よりも必要なのだ。

 薬と同じ。心を保つのに欠かせない常備薬だった。


「そう……そうよね」


 一つ一つ丁寧に言葉をほぐしながら、母はほころぶ様に笑みを零す。花びらが咲き零れる様な笑みだと、いつか父が表現していた。

 自分にはよく分からない。アリシスの方が、よほど綺麗に花開く笑みを見せる。

 ただ、きっと世の男性はこんな風に、己から見た女性の花の様な美しさに惹かれるのかもしれない。それだけは、曖昧でしかないが納得出来た。

 だから。


「シキ、好きよ。シキはいつだって私だけよね。他の女なんてどうでもいいわよね」

「うん」

「そう……そうね。シキが私を置いていくはずがないもの」


 何度も何度も頷いて、言い聞かせる様に母は己の言葉を染み込ませていく。

 ささやき、呟き、口遊くちずさみ。それはまるで呪いの様に刻まれていく。


「そうよ! だって、貴方の子供も生まれたのよ。私達を置いていけるはずないわ」


 ――子供。


 最後に行き着くのは、いつもそこだ。まるでかせの様に、最後の切り札の如く、母はシキに告げてくる。

 子供は、父を繋ぎ止める単なる道具なのだと。



「シキって言うの。貴方と同じ名前なのよ」

「――――――――」



 背後で空気が少し揺れた。いや、詰まったというべきか。

 どちらにしろシキには関係がない。


「そう」

「髪も瞳の色も貴方と一緒。ふふふ、将来きっとカッコ良くなるわ。女の子たちが放っておかないかも。ちょっとやそっとの娘にはあげないんだから」


 楽しそうに未来を語る母は、場所が違えば将来を想像する優しい母親に映ったことだろう。子供を抱え、愛しい存在の明るい夢を祈る姿は、柔らかな光に包まれる聖母の如き錯覚さえ覚えそうだ。

 しかし、実際は違う。



 子供は目の前で大きくなっているのに、母は子供を夫だと盲信している。



 そして、なだめた人全てに言うのだ。「子供は『あなたと』髪も瞳の色も一緒。名前も一緒」だと。

 父は、いつもこの言葉を聞いてきた。実際シキは、父と繋がりなんて何もなかった。

 父の髪の色は太陽に透かすと綺麗な光で、瞳の色は宝石を思わせる翡翠だ。

 シキは、大地を淡く溶かした栗色の髪で、瞳は夜空の様に濃い藍色だ。

 全然違う。笑顔の優しさも、誰かを抱き止める包容力も、剣の腕も、絶望の中で立ち続けていた強さも。


 シキは、一つだって父親には似ていない。


「愛しているわ、シキ」


 なだれかかりながら、顔が近付いてくる。スローモーションの様に流れたのは、シキの思考も緩慢になっていたからだろうか。

 それでも体は動く。

 もう慣れた。右手を、母の首の裏に回して――。



「――ところで、お母さん」



 一気に引き離された。ぐんっと後ろに勢い良く引っ張られる。

 母も同じ様な感覚だったのだろう。夢見心地だった瞳が急に覚醒で見開かれた。え、え、と泡を食いながら元凶を見やる。


「彼は、一応今は俺の部下なので。そろそろ任務についての話し合いをしたいのですが、よろしいでしょうか」


 淡々と諭すのはミカエルだ。

 まさか、割って入られるとは思わなかった。家庭の事情に分かりやすく口を挟むということはしなさそうな人だったから、余計に虚を突かれて、されるがままになる。

 母も、はっとした様に焦点が彼に合う。完全に現実に返ってきたのが、はたからでもよく把握出来た。


「あらまあ、すみません。私ったら、シキが帰ってきたことがよほど嬉しかったみたいで」

「いえ。こちらこそ、家族の憩いを邪魔して申し訳ない」

「そんな……。ごめんなさいね、シキ。私はもう寝るから。お仕事、頑張ってね」

「……、うん」


 にっこりと笑って、母が元来た廊下に戻っていく。

 だが、去り際にもう一度だけ振り返ってきた。

 遠くに離れる息子を、送り出す様に。



「――どうか、私と、の息子のこと。これからもどうぞ、よろしくお願い致します」



 頭を下げて彼らに挨拶をした。その姿はすっかり『母』のものだった。何となくその瞬間に立ち会ったことに、シキは当惑を覚える。

 しかも、父の名前の愛称まで口にした。はっきりと己の意識を保っている証拠だ。

 何故だろう。三ヶ月前までは、いつものことだったのに。

 それでも。


「おい、シキ」


 考える前に思考を引っ張り戻される。この人達の前では考え事も難しい。

 帝国に仕える前までの仕事では、静かな時間を大量に持ててぼんやり出来たのに、彼らはそれを許してはくれない。



「お前、今何しようとした?」



 静かなミカエルの質問が、更に静まり返った室内に響き渡った。


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