第12話
「さあ、どうぞ。急なことで大したおもてなしはできませんが」
いそいそと用意しながら、母が恥ずかしそうに全員に席を勧める。
テーブル一面を埋め尽くす料理は三ヶ月経っても変化はなく、相変わらずの一言だった。ルシフェル達はそれぞれ、「おー」と目を丸くしながら眼前に広がる料理の塊を見やる。
母はいつも決まって、自分が帰ってくる時には用意している品が二つある。
その一つは、大量のクロワッサン。
大皿にこれでもかというくらいに盛り付け、天上に
そしてもう一つは、
シキが昔好きだと告げたら、その日から何か特別な日があるごとに、これまた大量に揚げまくってくれる様になった。こちらは皿一つとは言わず、五皿に山の様に積み上げられ、到底一人では片付けきれない量だ。もちろん唐揚げを取る時は、ブロック崩しの如く慎重に取っていかなければならない。
二品だけではなく、母は出稼ぎに行った父やシキが帰って来た時には、他の料理も手抜きをせずに揃えてくる。
ボールに入れたシーフードコーンサラダに、簡素ではあるがクリームシチューにビーフシチュー、骨付きのスペアリブに鹿肉のたたき、他にはぼたん鍋があり、デザートには数多の種類のプリンを用意していた。弟達が作ったらしく、形は津波に潰された砂の城の
それでもとにかく、メインは唐揚げとクロワッサン。火を見るより明らかなラインナップだった。
「いやあ、
「雑とか言うなクズ魔王」
「うふふ。シキの好物ですから。帰ってくる日は、必ずこの二品をメインにしているんですよ」
「へー、そうなんだー! って、……好物? シキ君の?」
不思議そうな声を上げるのは、もっともだろう。三人の視線が集中砲火したことに、シキは無言を通すしかなかった。ハルとミリーも
シキは帝国でクロワッサンを勧められても、一度も食べはしなかった。実際、おにぎりの方がずっと食べやすいのも事実である。
だが、そんなことはこの家ではどうでも良い話だった。特に、母にとっては大事なのはそこではない。
集約されるのは、シキがクロワッサンを食べる場面を見ること。それだけだ。
「じゃあ、いただきます」
さくりと香ばしい食感。ほのかな甘い匂い。生地も外はさくさくで、中はふんわりと楽しい歯触りだ。極上の一品である。
母は昔からこのパンの焼き方が上手だった。恐らく死に物狂いで練習したのだろう。『父』のために。
昔は、このクロワッサンが好物とはいかなくても好きだった。今だってそれは変わらない。
しかし。
「美味しいよ、母さん」
「そう? 良かったわ」
自分の感想に、満足そうに胸を撫で下ろす母。ほっと秘かに緊張を解くのも、いつものことだった。
「……シキは、昔からこのクロワッサンを食べていたのですか?」
「はい。父親が大好物で、息子のこの子も大好物になって。……それからは何かあるたびに、好物のからあげと一緒に作る様になったのですよ」
左に座っていたミカエルの質問に、母が嬉しそうに話す。弾んだ声も
彼らの会話に無理に入りたいとは思わない。それよりも今は、ただ目の前のクロワッサンを平らげることに専念する。食べる速度も手に取る間隔も緩めずに、ひたすらにシキの『好物』だというものを食べ続けた。
これが、いつもの日常風景。
出稼ぎから帰ってきた時の、決まった儀式だ。三ヶ月前に家族は全員失ってしまったし、これも仮初めの瞬間でしかないが懐かしい。
だから大丈夫。全部平らげられる。
胸から込み上げてくる吐き気を無視しながら、シキは黙々と飲み込み続けた。
――あと半分。
量を見て判断する。どれだけの数を食べたかは数えていない。数えたら気が遠くなりそうだからだ。
ああ、しかし。
〝父親が大好物で〟
吐きたい。
「……っ」
不意に逆流しそうになるのを、口元で抑え込む。ぐっと出そうになったが、根性で飲み下した。
どうしたのだろう。いつもならば、平らげるまでは大丈夫なのに。
〝シキ、好きでしょう?〟
いつも当然の様に微笑んでくる母。
違うよ、と首を振っても聞いてはくれなかった。ハルやミリーが察して手を付けると母の顔が曇ったから、シキが食べる以外に方法も無かった。
さくさくと、クロワッサンに手を付け続ける。
さくさく、さくさく。
最初は軽い音が、しかしだんだんと背後から迫ってくる足音の様に響いてくる。
後ろから手が伸び、自分の顔を覆おうとする幻覚が見えて、思わず手の中のものを握り潰してしまった。ぐしゃりと、無残に
「シキ?」
「え、あ。ごめん、母さん」
謝りながら、それでも背後に誰かいる気がして指が上手く動かせなくなった。無心で食べようとしても、消えたはずの雑音が鼓膜を破る様に乱打して心が乱れる。
まだ飲み込める。
言い聞かせながら、それでも背後から手は伸びてきて。すっぽりと抱きすくめられる感覚に、
違う。
『―― ソコ ハ オレ ノ バショ ダ』
「――――――――」
父は。
「……っ、う」
駄目だ。
吐く――。
「ずるいよ、シキ!」
「――――――――」
いきなり物凄い力で右腕を掴まれた。そのままぐいっと右手を持っていかれ、シキの体も一緒に持っていかれる。
「シキばっかり食べてずるい! 我にも食べさせようよ!」
ばくりと、掴んでいたクロワッサンにかじり付かれた。一気に手の中のものが半分以上減った状態になる。
もっくもくと豪快に咀嚼して、ごっくんと飲み込む。犯人である魔王ルシフェルは、実に満足げに腰に手を当て、仰々しく何度も頷いた。
「うん、美味い!」
「……」
「オカアサン、クロワッサン焼くの上手なんだね! 我、感動!」
超絶スマイルで褒め称え、またルシフェルは別のクロワッサンを手に取る。
母が、あらあらと頬に手を当てて笑い、そこでようやく時間が動いた。アリシスがふてくされた声を上げる。
「ちょっと、ずるーい魔王君! あたしだって食べたかったのに!」
「ふ。アリシスじゃ力不足だね! だって我、シキのパートナーだし!」
「むー。確かにあたしは将軍のパートナーだけど! 将軍も食べたかったよね!」
「は? 俺はこっちでいい。三角関係は二人でやってろ」
「えー、ミィってば冷たい! そこは『俺の兄に手を出すな』とか、超壮絶なるどす黒い声で喧嘩売るところでしょ! さあ、カモン! 四角関係!」
「消えろ」
クロワッサンを頬張りながら、漫才を繰り広げ始める三人。もうこの三ヶ月で見慣れたといえば見慣れたが、どこかいつもよりも明るくシキの目には映った。闇が色濃く沈む場所に、微かな灯火が宿った様な、不思議な感覚だ。
手元に半分残ったクロワッサンを見やる。
――そういえば五年前までは、こうして父さんも同じ様に場を和ませながら平らげていたっけ。
ぼんやり回顧する。
そうだ。父が、生きていた頃。初めて食卓に着いた時からそうだった。
一人でもくもくと食べ進めていたら、させるかと言わんばかりに笑顔で柔らかく、しかし頑として聞き入れずに父は割って入ってきた。そうして競う様に食べ進め、母もいつの間にか自然と笑って見守る様になったのだ。
懐かしい。あの食事風景を、そんな風に思う日が来るなんて。
「よーし、最後の一個もらったー!」
「って、おい! アリシス、調子に乗ると……」
「え? あ、うわわわわ!」
「! アリシス!」
ミカエルを
アリシスの頭はシキが身体ごと受け止めたおかげで、直撃を逃れた様だ。それを確認して、シキはほうっと安堵の息を吐いた。
「大丈夫、アリシス」
「え。あ、うん、――」
間近で見つめた彼女は、いつもの様な快活さが鳴りを潜めていた。ぱちくりと、大きな海の瞳を瞬かせ、ひたすらに自分を凝視し続ける。心なしか頬も紅潮していた。
どこか痛むのだろうか。桜色の唇も呆けた様に半開きになっているし、声も出せないのかもしれない。不安になって、シキは彼女を抱き起こしてみた。
「ごめん、どこか傷付けた?」
「え! ううん、そんなことないよ! だってシキ君、決死のスライディングしてくれたからねー。ありがとう!」
「そう。良かった」
取り敢えず元気そうなので、胸を撫で下ろす。
ふと目の前にあった頭に視線をやると、綺麗な緋色の髪が少し乱れてしまっていた。もったいないと、無性に惜しい気持ちが膨らんで手が伸びる。
「アリシス、じっとして」
「え。あ、はい」
何故か敬語でアリシスが正座をする。反応に首を傾げながらも、くしゃくしゃになった髪の毛先を手で
滑らかな感触が指の間を滑っていき、図らずも気持ちが良い。きちんと手入れがされているのだなと感心した。
腰にまで伸びる長い髪だ。大変だろうに、それでも艶やかな美しさを保っているのだから、適当な言動に反して几帳面なのだろう。
凄い凄いと手入れをしていたら、アリシスはそれこそ借りてきた猫の様に静まった。
彼女らしくない。やはりどこか痛めたのだろうかと顔を覗き込むと。
「……、やっほい!」
ごん!
思い切り、頭突きをされた。
ハンマーで叩き割られた様な激痛が、脳内を乱打して揺れる。
「っ、……アリシス。痛い」
「あたしもだよ! さ、食べよう!」
食べよう食べよう、と何度も呪文の様に繰り返し、アリシスは椅子に座り直して食事を再開した。猪が一心不乱に突進する勢い、否、むしろ吸い込む如き素早さで皿の上の料理を平らげていく。その速度は光さえも裸足で逃げるほどで、シキは呆然と見つめた。
何か気に障ることでもしただろうか。痛みが脈打つ額を押さえて、シキも席に戻ると。
「……お前、本当にタラシだな」
「はい?」
「ま、いいけどな」
横目で嘆息して、ミカエルもまた黙々と食べ始めた。「これがシキだよね!」と訳の分からないルシフェルの賛同にも首を傾げる。教えてもらえそうにないので仕方なく、もぐ、と唐揚げを口にする。
途端、じゅわりと溢れる肉汁が最高だ。この世のものとは思えぬ美味である。
そんな風に堪能していると、くいっと横から袖を引っ張られた。
「ねえねえ、おにいちゃん!」
「おにぎりも! たべてたべて!」
くいくいと袖を引っ張って、弟と妹が指を差す。
そこに鎮座していたのは、真っ白なおにぎりが二つ。肥大なる存在感を持って、ふてぶてしく居座っていた。太った白猫を連想させて、少し可愛い。
「あのね! からあげをいれたんだ!」
「からあげが見えないように、おっきくごはんをもりつけたの!」
「そう」
端的に頷く。
この子供達はいつも、何故か普通のおにぎりを作らなかった。形にはこだわるらしいのだが、ミリーの方はいつも平べったくなるし、ハルはハルでとても手には持てないお月様サイズで差し出してくる。この母にしてこの子ありという格言を、直に体現する瞬間だ。
しかし、それでも構わない。シキにとっては些細なことだ。
「じゃあ、もらうね」
「うん!」
「たべてたべて!」
取り敢えず平べったいサイズと、お月様サイズの両方を両手で一緒に掴む。どちらか片方だけだと、別のおにぎりを作った方が泣き出すからだ。
一瞬見つめた後、そのままがぶりと両方にかぶり付いた。
普通は難しいだろうが、
ほどよい固さの米粒が口の中に広がる。見た目はどちらも異様ではあるが、握り方は向上していたらしい。最初のがっちがちのぼろぼろに比べると、随分と真っ当なおにぎりだった。
こんなに、上達していたのか。
もう三ヶ月も前の出来事のはずだったのに忘れていた。仇に固執し過ぎていたのかもしれない。
「……美味い」
ぽろっと零れたのはお世辞ではない。本当に美味だった。
自分は表情に乏しい。声にもそれほど起伏が表れるわけではない。
だというのに、昔からこの二人は自分の感情を読み取るのが得意だった。ぱあっと、顔がひまわりの様に明るく咲いていくのが自分も嬉しい。
「よかったー!」
「よかったー!」
「ありがとう。作るの、大変だったでしょ」
「ううん!」
「おにいちゃんのだもん!」
にこにこと幸せそうに笑う。こんな風に表情豊かに育って一安心だ。自分に似てしまったら、無愛想で人付き合いも大変だったかもしれない。
将来、ハルはどんな大人に育っていただろう。自分と同じく剣を習っていたみたいだから、元気いっぱいで明るい、人に慕われる
ミリーはどうなのだろう。可愛らしい顔立ちをしているから、大きくなったらさぞかし美人になっていただろう。魅了されて求婚してくる男は自分が追い払って、幸せにしてくれる男性に
何故だろう。
もう三か月も前に亡くなった。覚悟も、終えたはずだった。
それなのに今になって、あるはずだった彼らの未来を思い描く。
「ねえ、ハル、ミリー」
「うん?」
「なーに?」
にこにこと邪気のない笑みを惜しみなく向けられる。もうすぐ倒さなければならない可能性が
「二人とも、大切な弟と妹だよ」
「? うん!」
「もちろん!」
「離れても、いつも想ってる」
忘れない。
これは、シキが伝えたかった言葉だったのだろうか。
それとも、感傷に浸っているだけだろうか。二人には意味不明だろうが、それでも言葉にしたかった。自己満足でも。
そんな自分の身勝手さに、二人は一瞬だけ目を丸くしてから。
「ぼくも!」
「わたしも!」
元気良く乗っかって、勢い良く抱き付いてきた。ぎゅうぎゅうに首を絞める勢いなのは、元気がありあまっていて微笑ましい。
ただ、その明るさが少しだけ、涙の様に心に染みた。
シキにとって、家とはほとんど父や弟妹との交流の場だった様に思う。
母はいつも病弱な上に、自分がクロワッサンが大好きだと勘違いをしていて、思い込みが激しく、いつしか諦めと共に色々と受け入れた。
弟や妹とは血が繋がっていなかった。それでも関係は良好に築けていたように思う。
いつも「おにいちゃん」と慕ってくれて、本を読んで欲しいとか、剣の稽古を一緒にしたいとか、何かあるごとにせがんできた。それが秘かな楽しみの時間で、心待ちにしていたのも懐かしい。
周りに何を考えているか分からない、と言われるのが普通だったのに、彼らはよく自分の感情を読み取る。自分が少し心をすり減らしている時は、常以上によくくっついてきたし、自分の心が弾んでいる時は、にこにこの度合いが彼らも増した。
父も同じ。自分の感情を見抜くのが上手だった。
落ち込んでいる時には気晴らしに外へ誘ってきたし、ささいなことに喜びを見出していた時は、一緒になって締まりのない笑顔を垂れ流して頭を撫でてくれた。
今思えば、村にいる時の唯一の憩いの時間だったかもしれない。彼らと共に在る時は、シキも特に母について、気負ったりすることは無かった様に感じた。
だが。
『シキ』
時折母は、こんな風に泣きそうな声で名前を呼ぶ。
そんな時、決まって助けに入ってくれたのは父だった。血の繋がりなんてなかったのに、いつも頼もしい背中で
普段はへらへらした顔しかしないのに、笑顔を崩さないまま救い出してくれる。それが申し訳ないと同時に嬉しかった。
小さな小さな、けれど安らぎの灯火だった。
だが、それも。
『――父さん』
あの日。
枝にぶら下がっていた父を見て、終わりを告げながら消え去った。
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