第16話
かつかつと、綺麗な足音を響かせて廊下を渡る。
周囲を彩る
舌打ちし、全てを振り払って歩き続ければ、やがて道の終わりに大きな扉が姿を現した。
豪勢でありながらも、どこか華奢な女性を連想させる
がんがん、と乱雑にノックをして、「入るぞ」と添えてから扉を開ける。抵抗もなく開いたその扉に、威厳の音は感じられない。まるで流れる水の様に清らかな開き方は、天使長である彼女の力を体現しているかの様だった。
「おい、ガブリエル。話がある」
適当に扉を閉めて、奥に座る女性を見やる。
その傍らに書類を手にして立つ男性は、軽薄そうな笑みでへらへらと楽しそうに黙っていた。どうしてこんな男が彼女の補佐に就いたのだろうと、ミカエルにとっては不思議でならない。
だが、仮にも四大天使の一人であるし、二人は気が合う様なので口には出さないでおく。面倒だ。
「あらあらー」
しかし、彼女にとっては、ミカエルの心境の全てがどうでも良いらしい。時間の流れさえも引き伸ばされたのびやかさで、顔を上げてきた。
――これで、水を司る四大天使の一人。
そして軍を束ねる総司令官なのだから、本当に不思議でならない。世の中謎で溢れている。
「ミィ君、二日ぶりねー。どうしたのー、そんなお化けも真っ青な顔でー」
のんびりと頬に手を当てて首を傾げるこの姿は、上に立つ貫禄というものがどこから見ても、どの角度から観察しても、どう見積もっても、
だが、それでも彼女は天使長である。普段からのんびりしているが、いざ戦闘に立ってものんびりしている。軍略を立てる時ものんびりし、のんびりしたまま部下に過酷な道のりをのんびり歩かせ、のんびりしたまま全てを殲滅するのだから世も末だ。
そして、今回も。のんびり成り行きを見守っていたのだろう。たまったものではない。
「ガブリエル。今回の死人の村の件だが、お前、黙ってたな」
誰に、とは言わない。こうして乗り込んでくる羽目に陥るとは、ミカエルは予想すらしていなかった。
だからこそ問い詰めたかったのだが。
「あらー。だってー、シキ君の要望を叶えるためだったんだものー」
「そういう意味じゃねえ」
「うふふふー。ミィ君ってば、相変わらずねー。だから黙っていたのにー」
「何だと?」
「だってー、事前に教えちゃったら、ぜーったい、シキ君に肩入れしちゃうでしょー」
だってミィ君だものー。
のんびりと平然と当然の様に
だが、それで任務に私情を挟むと判断されたのなら心外だ。
しかし、先回りして否定される。思惑は違う箇所にあったらしい。
「ミィ君はー、私情は持ち込まないと思うけどー。万が一、計画が露呈されたら困ったのー。だってルシ兄様って、勘が鋭いんだものー」
ねー、と隣の男性と相槌を打ち合う。
更に、ねー、と一緒に同じ方角へ体を傾ける男性の軽薄さは、可愛らしさも何もない。気持ち悪い。というか、今すぐこの男性を引きはがしたくなったが、体力の無駄なので中止した。
「それで。シキがこっちを裏切るかどうか図るのか」
「んー、そうねー。それもあるわー。だって」
一度区切って、ガブリエルは首を傾げる。
さらりと流れる金がかった水色の髪は、絹糸の様に滑らかで淡く辺りを照らす光の様だ。つくづく外見で得する相手だと、ミカエルは呆れ交じりに感心した。
「貴方も感じているでしょう、ミィ君。伝説なんて、三千年も経てばただのおとぎ話にしかならないのよー」
持ち出されたのは、昔の出来事。その指し示す意味にミカエルも押し黙った。
忘れもしない。神の右腕とまで言われた兄が、親友である神を裏切り、反旗を翻したこと。
その頃は奇しくも、天使が人の欲に釣られて次々と堕ちていき、人間の世界を好き勝手に掻き回し、己の欲望を満たす者達が増加していた。そこに兄が加わったことで堕天使の軍団は更に勢いを増し、遂にはこちらに牙を
自分にとって、兄は両親が戦で亡くなった後の親代わりみたいなものだった。弟を溺愛する
その兄と敵対し、この手で封じたこと。
今だって昨日のことの様に思い出せる。
「あの大戦は厳しかったわよねー。まさかこちらが勝てるなんてー」
「おい」
「終戦して、半分以上一般天使も減ったしー。あの時の生き残りだって今や、わたくしたち四天使に上層部の数人、あとは各地で旅をしている変人天使くらいしかいないしー」
「変人とか言うか」
「言うわよー。わたくしたちも含めてー。ねー?」
「ねー」
「含めんな! そして、そこだけ声出して同意すんなウリエル!」
隣の男性は
だというのに、当の本人は「おっと」とからかい気味に呟いてまた押し黙った。つくづく人を食った性格だと腸が煮えくり返る。
「まあまあ、ミィ君、落ち着いてー。あんまり怒ると、
「だから何だ」
「わたくし、ミィ君のお顔が大好きなのー。だからー、いつまでも若々しくいてねー?」
「お褒めの言葉をどうもありがとうよ。んなことは、どうでもいいんだよ!」
無理矢理話の軌道を戻せば、「残念」とガブリエルはしたり笑顔で溜息を吐く。
どこまでものんびりした笑顔を保てるのが彼女の特技だ。感嘆する。見習いたくは無かった。
「三千年も経てば、歴史だっておとぎ話に変わる。んなことは分かってんだよ。生き残りだって少ない。下っ端の奴らなんか、あのクズ魔王に敵意持ってるし排除もしたいくせに、その実本気で襲いやしねえ。シキが強いってのもあるけどよ、三千年前だったらありえねえ」
「そうよー。だからこそ、なのー」
同意されてミカエルは舌打ちしたくなったが、納得はする。
三千年前は、それこそ
堕天使も今以上に勢力を有していたし、力も強大だった。ひとたび魔王が姿を現せば、それこそ天使達は一斉に命を
まさしく血で血を争う戦争。おびただしい血の惨劇や、折れ重なる屍の山を見てきた。躊躇いは無くなったが、慣れることはなかった。
無力感に常に襲われ、辺り一帯を埋め尽くすほどの同胞の墓場を前に、ミカエルは兄を必ず討つと心に決めた。
だが。
〝さっさと死んでくれることを願おうぜ〟
平和になった現在はどうだ。
死人の村へ出発前、陰口を叩いていた堕落した人間や天使達を思い返す。
「平和ボケした世の中、か」
今の彼らに、本物の覚悟を求めるのは難しい。
堕天使の残党狩りで命を落とすことはあるが、三千年前に比べれば格段に危険は減った。人間との歩み寄りも、昔より近くなった。本気の命のやり取りなど、頭では理解していたとしても、現実に思い描くことなど不可能だろう。
平和を
しかし、有事に備えて精進を怠ることほど怖いものはなかった。
彼女は、そのことを
「牙の抜けた狼なんて、何も恐くないですものー。だからー」
にっこりと笑い、彼女は両手を組んで肘を突く。
可愛らしいのに、どこか得体の知れない涼やかな空気を
「わたくしたちがー、試すしかないのよー」
「……シキが、魔王が、いつ敵に回ってもおかしくないからか」
「うーん、そうだけどー。シキ君に関してはー、魔王を背負っても大丈夫かどうかー、も兼ねてー?」
「疑問形かよ!」
がなれば、「そうよー」とのんびり肯定される。毒気が抜かれて馬鹿馬鹿しくなった。
「そうかよ。……ま、隙があれば俺が殺す。心配すんな」
「あらー、駄目よー」
「駄目なのかよ!」
「そうよー。だってー」
にっこりと笑みを
「それはー、私の役目だものー」
「――――――――――」
両手を合わせて、可愛らしく宣言される。
瞬間、足元をじわりと冷たい手で撫でられた様な悪寒が走った。そのまま足首から這い上がり、背筋が音を立てて凍えていく感覚にミカエルは眉を
彼女は、変わった。
昔は見た目通りの温厚な性格だった。こんな浮遊霊みたいな存在で生き残れるのかと、心配した日も少なくはなかった。
だが、今は違う。その温厚さの中に、したたかさと冷徹さが芽を出した。――あれだけ慕っていた『兄』代わりを殺すと言えるくらいには成長してしまった。
本当はそんな成長の仕方は、ミカエルだけで良かったのに。
「……保証はしねえ」
「えー」
「
「むー、分かったわー。ミィ君の顔が好きだからー、皺を刻まない様な処置はするわねー」
「あーそうかよ」
話してもこれ以上実になりそうに無い。
ただ彼女の意図は掴めたので、それで溜飲を下すことにする。あまり長く話していたい相手ではない。
だから、もう話を切って出ようとし、
「……、あ?」
違和感が、さざなみの様に頭の片隅を駆けていく。
意識を集中すれば宮殿の隅、ここから少し離れた場所で兄の気を認識した。
何故、ここに。
疑問符が渦巻く合間にも、ガブリエルがのんびりと首を傾げた。
「あらあらー、シキ君のお部屋かしらー」
いつの間に、とガブリエルも大して焦るでもなく呟く。
彼女とも認識が一致した。どうやら今、兄がこの宮殿に足を踏み入れたらしい。
一体、何の用事で。気配を全く隠さずに、むしろ堂々と豪奢な椅子に腰かける勢いで主張してくる兄に、良い予感はしない。
「……あれを連れて、そのまま村に戻る。いいか、ガブリエル」
「大丈夫よー。任務が終わるまでは、何があっても邪魔はしないわー」
仕方ないから。
そう言いながら、彼女は楽しそうだ。執務机の前に腰掛けたまま一歩も動いていないはずなのに、部屋中をダンスしている様なウキウキ感が伝わってくる。隣でほとんど声を発しない男性も同じだ。
彼らは空気で雄弁に何かを物語る。
――俺も、対象か。
一度ミカエルが倒したとはいえ、相手は兄だ。
弟である自分がいつ裏切るか。当時を知る者は気が気ではないだろう。三千年前と違い、疑惑は目に見えるほど黒く吹き荒れてはいないが、血の繋がりがあれば疑っても不思議ではない。
それは、彼女自身もだろうか。かつて、兄を慕い、ひよこの様に後を追っていた彼女。
〝ルシにいさまー〟
のんびりしながら、笑顔で屈託なく兄の背中を追いかけていた彼女は今、容赦なくその兄に牙を剥いている。
――
過去の断片が耳元を
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