第16話


 かつかつと、綺麗な足音を響かせて廊下を渡る。

 周囲を彩る緻密ちみつに描かれた繊細な装飾と、真っ白な壁。その宮殿は、神が住まう場所としては至極相応しい光を模していたが、今のミカエルにとっては煩わしい以外の何物でもない。闇のとばりをぼんやりと照らす白い燐光りんこうも、さながら迷い人に希望を抱かせて粉々に砕く悪魔のささやきだ。

 舌打ちし、全てを振り払って歩き続ければ、やがて道の終わりに大きな扉が姿を現した。

 豪勢でありながらも、どこか華奢な女性を連想させる意匠いしょうは、現在天使の長に就いている者のためにデザインされたものだ。空白すら上手く使い、壮麗に綴られた模様は、見る人に思わず溜息を引き出させるが、ミカエルにとっては馴染みが深すぎてげんなりする。伊達に、四千年以上の時を一緒に生きてはいない。

 がんがん、と乱雑にノックをして、「入るぞ」と添えてから扉を開ける。抵抗もなく開いたその扉に、威厳の音は感じられない。まるで流れる水の様に清らかな開き方は、天使長である彼女の力を体現しているかの様だった。


「おい、ガブリエル。話がある」


 適当に扉を閉めて、奥に座る女性を見やる。

 その傍らに書類を手にして立つ男性は、軽薄そうな笑みでへらへらと楽しそうに黙っていた。どうしてこんな男が彼女の補佐に就いたのだろうと、ミカエルにとっては不思議でならない。

 だが、仮にも四大天使の一人であるし、二人は気が合う様なので口には出さないでおく。面倒だ。


「あらあらー」


 しかし、彼女にとっては、ミカエルの心境の全てがどうでも良いらしい。時間の流れさえも引き伸ばされたのびやかさで、顔を上げてきた。



 ――これで、水を司る四大天使の一人。



 そして軍を束ねる総司令官なのだから、本当に不思議でならない。世の中謎で溢れている。


「ミィ君、二日ぶりねー。どうしたのー、そんなお化けも真っ青な顔でー」


 のんびりと頬に手を当てて首を傾げるこの姿は、上に立つ貫禄というものがどこから見ても、どの角度から観察しても、どう見積もっても、欠片かけらも嗅ぎ取れはしない。

 だが、それでも彼女は天使長である。普段からのんびりしているが、いざ戦闘に立ってものんびりしている。軍略を立てる時ものんびりし、のんびりしたまま部下に過酷な道のりをのんびり歩かせ、のんびりしたまま全てを殲滅するのだから世も末だ。

 そして、今回も。のんびり成り行きを見守っていたのだろう。たまったものではない。


「ガブリエル。今回の死人の村の件だが、お前、黙ってたな」


 誰に、とは言わない。こうして乗り込んでくる羽目に陥るとは、ミカエルは予想すらしていなかった。

 だからこそ問い詰めたかったのだが。


「あらー。だってー、シキ君の要望を叶えるためだったんだものー」

「そういう意味じゃねえ」

「うふふふー。ミィ君ってば、相変わらずねー。だから黙っていたのにー」

「何だと?」

「だってー、事前に教えちゃったら、ぜーったい、シキ君に肩入れしちゃうでしょー」


 だってミィ君だものー。


 のんびりと平然と当然の様にのたまわれて、ミカエルは一瞬言葉を切った。確かに事前に打ち明けられていたならば、心情的にはもしかしたら彼女の言う通りになったかもしれない。

 だが、それで任務に私情を挟むと判断されたのなら心外だ。

 しかし、先回りして否定される。思惑は違う箇所にあったらしい。


「ミィ君はー、私情は持ち込まないと思うけどー。万が一、計画が露呈されたら困ったのー。だってルシ兄様って、勘が鋭いんだものー」


 ねー、と隣の男性と相槌を打ち合う。

 更に、ねー、と一緒に同じ方角へ体を傾ける男性の軽薄さは、可愛らしさも何もない。気持ち悪い。というか、今すぐこの男性を引きはがしたくなったが、体力の無駄なので中止した。


「それで。シキがこっちを裏切るかどうか図るのか」

「んー、そうねー。それもあるわー。だって」


 一度区切って、ガブリエルは首を傾げる。

 さらりと流れる金がかった水色の髪は、絹糸の様に滑らかで淡く辺りを照らす光の様だ。つくづく外見で得する相手だと、ミカエルは呆れ交じりに感心した。



「貴方も感じているでしょう、ミィ君。伝説なんて、三千年も経てばただのおとぎ話にしかならないのよー」



 持ち出されたのは、昔の出来事。その指し示す意味にミカエルも押し黙った。

 忘れもしない。神の右腕とまで言われた兄が、親友である神を裏切り、反旗を翻したこと。

 その頃は奇しくも、天使が人の欲に釣られて次々と堕ちていき、人間の世界を好き勝手に掻き回し、己の欲望を満たす者達が増加していた。そこに兄が加わったことで堕天使の軍団は更に勢いを増し、遂にはこちらに牙をいたのだ。

 自分にとって、兄は両親が戦で亡くなった後の親代わりみたいなものだった。弟を溺愛する鬱陶うっとうしい兄で、けれどいざという時は躊躇ためらいなく危機に立ち向かい、全ての天使をまもろうと奮闘していた頼もしい存在だった。尊敬さえしていた。


 その兄と敵対し、この手で封じたこと。


 今だって昨日のことの様に思い出せる。


「あの大戦は厳しかったわよねー。まさかこちらが勝てるなんてー」

「おい」

「終戦して、半分以上一般天使も減ったしー。あの時の生き残りだって今や、わたくしたち四天使に上層部の数人、あとは各地で旅をしている変人天使くらいしかいないしー」

「変人とか言うか」

「言うわよー。わたくしたちも含めてー。ねー?」

「ねー」

「含めんな! そして、そこだけ声出して同意すんなウリエル!」


 隣の男性はえて空気として認識していたのに、声を出されれば無視が出来なくなる。

 だというのに、当の本人は「おっと」とからかい気味に呟いてまた押し黙った。つくづく人を食った性格だと腸が煮えくり返る。


「まあまあ、ミィ君、落ち着いてー。あんまり怒ると、しわができちゃうのよー」

「だから何だ」

「わたくし、ミィ君のお顔が大好きなのー。だからー、いつまでも若々しくいてねー?」

「お褒めの言葉をどうもありがとうよ。んなことは、どうでもいいんだよ!」


 無理矢理話の軌道を戻せば、「残念」とガブリエルはしたり笑顔で溜息を吐く。

 どこまでものんびりした笑顔を保てるのが彼女の特技だ。感嘆する。見習いたくは無かった。


「三千年も経てば、歴史だっておとぎ話に変わる。んなことは分かってんだよ。生き残りだって少ない。下っ端の奴らなんか、あのクズ魔王に敵意持ってるし排除もしたいくせに、その実本気で襲いやしねえ。シキが強いってのもあるけどよ、三千年前だったらありえねえ」

「そうよー。だからこそ、なのー」


 同意されてミカエルは舌打ちしたくなったが、納得はする。


 三千年前は、それこそ命懸いのちがけの死闘だった。


 堕天使も今以上に勢力を有していたし、力も強大だった。ひとたび魔王が姿を現せば、それこそ天使達は一斉に命をかえりみずに突撃し、この帝国を死守する。戦で命を落とした者など、両勢力を合わせれば数えきれなかった。

 まさしく血で血を争う戦争。おびただしい血の惨劇や、折れ重なる屍の山を見てきた。躊躇いは無くなったが、慣れることはなかった。

 無力感に常に襲われ、辺り一帯を埋め尽くすほどの同胞の墓場を前に、ミカエルは兄を必ず討つと心に決めた。

 だが。


〝さっさと死んでくれることを願おうぜ〟


 平和になった現在はどうだ。

 死人の村へ出発前、陰口を叩いていた堕落した人間や天使達を思い返す。


「平和ボケした世の中、か」


 今の彼らに、本物の覚悟を求めるのは難しい。

 堕天使の残党狩りで命を落とすことはあるが、三千年前に比べれば格段に危険は減った。人間との歩み寄りも、昔より近くなった。本気の命のやり取りなど、頭では理解していたとしても、現実に思い描くことなど不可能だろう。

 平和を謳歌おうかすることは悪くない。戦など無い方が良い。

 しかし、有事に備えて精進を怠ることほど怖いものはなかった。

 彼女は、そのことを危惧きぐしている。


「牙の抜けた狼なんて、何も恐くないですものー。だからー」


 にっこりと笑い、彼女は両手を組んで肘を突く。

 可愛らしいのに、どこか得体の知れない涼やかな空気をかもすのは、可憐な仮面の下に牙を隠し持っているが故か。


「わたくしたちがー、試すしかないのよー」

「……シキが、魔王が、いつ敵に回ってもおかしくないからか」

「うーん、そうだけどー。シキ君に関してはー、魔王を背負っても大丈夫かどうかー、も兼ねてー?」

「疑問形かよ!」


 がなれば、「そうよー」とのんびり肯定される。毒気が抜かれて馬鹿馬鹿しくなった。


「そうかよ。……ま、隙があれば俺が殺す。心配すんな」

「あらー、駄目よー」

「駄目なのかよ!」

「そうよー。だってー」


 にっこりと笑みをかたどって、ガブリエルは一言。



「それはー、私の役目だものー」

「――――――――――」



 両手を合わせて、可愛らしく宣言される。

 瞬間、足元をじわりと冷たい手で撫でられた様な悪寒が走った。そのまま足首から這い上がり、背筋が音を立てて凍えていく感覚にミカエルは眉をしかめる。


 彼女は、変わった。


 昔は見た目通りの温厚な性格だった。こんな浮遊霊みたいな存在で生き残れるのかと、心配した日も少なくはなかった。

 だが、今は違う。その温厚さの中に、したたかさと冷徹さが芽を出した。――あれだけ慕っていた『兄』代わりを殺すと言えるくらいには成長してしまった。

 本当はそんな成長の仕方は、ミカエルだけで良かったのに。


「……保証はしねえ」

「えー」

ねるな。だが、今度からこんな試し方するなら、俺にも言え。正直胸糞悪い」

「むー、分かったわー。ミィ君の顔が好きだからー、皺を刻まない様な処置はするわねー」

「あーそうかよ」


 話してもこれ以上実になりそうに無い。

 ただ彼女の意図は掴めたので、それで溜飲を下すことにする。あまり長く話していたい相手ではない。

 だから、もう話を切って出ようとし、きびすを返した瞬間。


「……、あ?」


 違和感が、さざなみの様に頭の片隅を駆けていく。

 意識を集中すれば宮殿の隅、ここから少し離れた場所で兄の気を認識した。

 何故、ここに。

 疑問符が渦巻く合間にも、ガブリエルがのんびりと首を傾げた。


「あらあらー、シキ君のお部屋かしらー」


 いつの間に、とガブリエルも大して焦るでもなく呟く。

 彼女とも認識が一致した。どうやら今、兄がこの宮殿に足を踏み入れたらしい。

 一体、何の用事で。気配を全く隠さずに、むしろ堂々と豪奢な椅子に腰かける勢いで主張してくる兄に、良い予感はしない。


「……あれを連れて、そのまま村に戻る。いいか、ガブリエル」

「大丈夫よー。任務が終わるまでは、何があっても邪魔はしないわー」


 仕方ないから。

 そう言いながら、彼女は楽しそうだ。執務机の前に腰掛けたまま一歩も動いていないはずなのに、部屋中をダンスしている様なウキウキ感が伝わってくる。隣でほとんど声を発しない男性も同じだ。

 彼らは空気で雄弁に何かを物語る。



 ――俺も、対象か。



 一度ミカエルが倒したとはいえ、相手は兄だ。

 弟である自分がいつ裏切るか。当時を知る者は気が気ではないだろう。三千年前と違い、疑惑は目に見えるほど黒く吹き荒れてはいないが、血の繋がりがあれば疑っても不思議ではない。

 それは、彼女自身もだろうか。かつて、兄を慕い、ひよこの様に後を追っていた彼女。


〝ルシにいさまー〟


 のんびりしながら、笑顔で屈託なく兄の背中を追いかけていた彼女は今、容赦なくその兄に牙を剥いている。


 ――難儀なんぎな奴。


 過去の断片が耳元をかすめるのを無視しながら、ミカエルはシキの部屋に向かうべく、その場を振り返ることなく後にした。


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