第17話


 ミカエルの足音が、宮殿の静寂な廊下に不気味に響き渡る。

 自らのものだというのに、まるで自分を追い立てる影に思えて、ミカエルは先を急ぎながら、しかし慎重に歩を進めた。

 進めば進むほど、寝静まった部屋の扉が薄闇の中に整然と並ぶ。


 なのに、ここに来るまで一切の気配が嗅ぎ取れなかった。


 普段なら夜更かしをしている者特有の気配や静かな寝息、起きて勤勉に励んだり談笑の空気が混じり合っているはずなのだが、今夜はまるで聞き取れない。通る部屋全てがもぬけの殻で、一層それが不気味さに拍車をかけた。

 シキの部屋にあと数歩で辿り着く、というところで、部屋の近くの床に一条の光が真っ直ぐに走っているのが映る。そういえば、ここまでの道程も妙に薄暗かった。だから、緊張していたのだろう。

 光という明かりを発見し、安堵しかけて――。


「――――――っ」


 立ち止まった。ざわりと、足元からおぞましい悪寒が立ち上る。

 この廊下には窓が少ない。しかも、丁度シキの部屋あたりは、窓と窓の長い間隔の中央にあたる。月明かりが照らすはずもない。光が差し込むとしたら、シキの部屋からしかありえないのだ。

 つまり、扉が開いている。無人であるはずの、彼の部屋の。

 その事実が一層ミカエルの緊張感をあおった。自然と手が腰の剣に伸びる。

 そうだ。兄がいる。

 だから当たり前なのだ。部屋は今、無人ではない。そんな当たり前の判断すらまともに出来なかった。

 けれど。



〝――来たんだ、ミカエル〟



「……っ」



 脳裏に閃くのは、かつての大戦の兄の姿。

 大戦も半ばの頃。

 宮殿の一室で、兄は整然と影を背負って佇んでいた。

 敵だというのに平然と敵地の中心に乗り込み、自分を待っていたと言い放ったあの時。兄は、仲間の血で指先から足先に至るまで全身を濡らし、垂れる紅い雫を楽しそうに眺めながら自分を招き入れた。

 まさしく、堕天使を束ねる長に相応しい。昏い熱を帯びたあの視線は、まだ兄を信じていたミカエルを脳天から叩きのめしたのだ。


 ――違う。ありえない。


 頭で最悪の想像を打ち消しながらも、ミカエルは剣の柄から手を外せなかった。ぐらぐらと沸騰した様に、頭が過去と現在でまばらに揺れる。

 部屋から溢れ出ている光の線が、一瞬真っ赤に輝いた。漏れ出てくるもやの様な黒い気配は血液ごと凍らせ、牙を立てる。

 ――否。

 下手に触れれば、即座に木端微塵になる。研ぎ澄まされた刃の殺気が頬をかすめ、血が噴き出す幻覚を見た。


 嫌だ。見たくない。違う。ありえない。


 過去の自分が、普段仕舞い込んでいた本音を吐く。

 兄が、『あちら側』へ行った時。



 ――本当は、手を伸ばしたかった。



 周りの声など、どうでも良い。殺されても構わない。ただ、兄を一人にしたくなかった。

 行くな。



 行かないで。



「……」


 だが、そんな弱い自分はもういない。過去は戻らない。

 だから。


「……魔王」


 えて声を発して、扉の枠に手をかける。もう近くに来たことくらいお見通しのはずだ。だからこその牽制だった。

 扉を蹴り飛ばして足を踏み入れた途端、ごとり、と遠くの足元で何かが落ちる音がした。月の光が逆光となってよく見えなかったが、影の塊が部屋中にいくつも転がっている。ぴくりとも動かないあたり、意識はもう無いのだろう。

 見渡せば、びっしり跳ね返る真っ赤な液体の跡が、無造作に壁や床を濡らしていた。鼻をつんざく異臭に吐きそうになったが、軍人としての本能が平静を取り戻させる。

 途端。



 ぴちゃりっ。



「――――――――」



〝来たんだ、ミカエル〟



 眼前に佇む人物の手から、雫がしたたり落ちた。

 ぱたり、ぱたりと床を濡らしていく様を面白そうに眺める瞳は狂気に満ちていて、知らずうめきが漏れる。


「――来たんだ、ミィ」


 かつてと、ほぼ同じ言葉。

 それがざわつく心を更に逆撫でし、あおる。


「てめ、え。……クズ魔王っ」

「来るとは思ってたよ。今日は月がとても綺麗だね」


 にこりと笑いながら、兄が両手を広げて迎える。

 その際、兄は足元の塊を蹴り飛ばすのも忘れない。跳ねながら転がってきたのは、嫌な予感そのままに人の形をしていた。抵抗もなく転がるあたり、もう手遅れなのかもしれない。

 殺した。兄が。また、あの時と同じ様に。

 今度は誰かを――シキを、巻き込んで。


 兄は、また遠くに行くのか。


「お前、シキまで巻き込むつもりか!」

「まっさかー! 我、シキまで悪者にするつもりはないよ!」

「ほざけ! なら、この惨状は――」

「だってこの部屋汚したの、こいつらだしね!」


 更に蹴り上げながら、兄は朗らかに笑う。

 彼らの血で汚したとでも言う気か。益々激情が膨れ上がって、本格的に剣の柄を強く握り締め、いつでも抜ける様にした。


「てめえっ、この期に及んで言い逃れしようってのか!」

「いや違うし。ほら、よく見て!」


 飄々ひょうひょうといつも通りの調子でリズミカルに指を指す兄に、ミカエルは怒りで理性をぶち切ろうとしたが、根性で理性の頭をもたげさせた。荒々しく息を吐き出しながら、お望み通りぐるっと一回転する勢いで部屋を見回してみる。

 改めて見ても酷い惨状だ。

 あちこちに転がる軍人達の末路。壁や床を一面に塗りたくった赤黒い惨劇。立ち上る異臭も鼻をひん曲げるほどの暴力で、ミカエルは思わず唇を噛み切りそうになる。


「クズ魔王。貴様、覚悟はできてるんだろうな」

「えー、ミィってば、ほんとに分からないのかい? 判断力落ちすぎだよ! しっかりして!」

「おい!」

「じゃあ一個だけ。こいつら生きてるよ」


 人差し指を立てて可愛らしくポーズまで決める兄に、噴火して炎をぶっ放しそうになったが、寸でで止まる。生きていると示唆しさされれば、確認せざるを得ない。

 従うのはしゃくだったが、転がっている一人の近くにしゃがみ込んだ。手つきが雑になったのは、誰も咎められないだろう。

 そのまま、おもむろに首元に触れ。


「――」


 ミカエルの時間が停止する。冷や水を脳に直接ぶちまけられた様な衝撃で感情も冷えた。入口に立っていた時と違い、生の気配が部屋に満ちているのを感じられたからだ。

 緩慢に覗き込んでみれば、彼らは苦痛に顔を歪めてはいたが、一様に気を失っているだけだった。全員、苦悶を浮かべこそすれ、生命だけは曇りもなくきらめいている。


 どういうことだ。


 ミカエルが顔を上げると同時に、兄が足元の別の塊を蹴り上げた。がらん、とそれは派手な音を立てて空中に弧を描いて跳ね上がり、そのまま床に固く、重く、乾いた音を響かせながら転がってくる。

 自分の元に転がってきたものは、銀のバケツだった。いぶかしげにつかんでみれば、内側に何かが乾いた跡が貼り付いている。独特の匂いが自分の鼻を直撃したが、その異臭は先程部屋に入った時に嗅いだ種類と酷似していた。


「……、まさか」


 改めて部屋の壁に近付く。躊躇なく手の平を壁に押し付けると、血の感触とは全く異なるものを伝えてきた。一応乾いてきてはいるが、べったりとまとわり付くのは、戦場で覚えた感触とはかけ離れていて脱力する。

 その上、よく見ると床に大量の物体が大なり小なり散乱していた。一部をまみ上げてみると、魚の骨らしきものが揺らめいて挨拶をしてきた。はーい、とでも言いそうな有様に、怒りのあまり床に叩き付ける。

 つまり、この独特の異臭は、塗り立てにはよくあること。そして床にばら撒かれた液体の中に、散乱した異物の臭いが混ざって、相乗効果で腐った様な堪えきれない異臭へと昇華され、吐き気をもよおしたということだ。


「これは、……ペンキと生ゴミか」

「そういうことだよ! さっすがミィ! 鋭いね!」


 どこがだ。


 兄の静かなる猛毒の殺意。

 気絶する様に沈み込んだ空気に警戒しすぎて、周囲の観察を怠った。最初から決め付けで入ったせいで、冷静な判断力が欠けていたのだ。これで将軍を名乗っているのかと自分を殴りつけたくなる。

 兄がどうしてこの部屋に来たのか。転がっている人間達やシキの日頃の評価から、もやが晴れていく様に想像が形になる。



「三千年か。平和になったね、ミィ」

「……そうだな」

「こんなこと、まあ三千年前にもあったんだろうけどね! 彼らには呆れ果てるよ」



 暇だね。



 暗にそう告げてきた兄に、ミカエルは同意したくなった。同時に己の時のことも思い出して、兄はやはり自分の境遇も知っていたのだろうかと自然、心が暗くなる。


「ミィも頑張って乗り越えたよね。しかも帝国で栄えある四大天使の一人! お兄ちゃん鼻が高い!」

「ほざけ」

「シキもね、この三ヶ月ずっとこんな感じみたいだよ。我に隠し事なんて無理なのにね!」

「……」

「ミィ、ほんとに気付いてなかったの?」


 それなりに気にかけてたくせに。


 知った風な口をかれ、激怒するより先に口ごもった。何とか動揺を抑え込んだのは、これ以上兄に茶化されたくないためだ。


 ――違う。そうではない。


 今の一言でいつも思い知らされる。兄にとって自分は、いつまでも手のかかる弟だということ。いつだって自分の行動原理や気持ちが見透かされているということ。

 それは、敵に回った時だって変わらなかった。敵として会うたびに「元気ないね!」「昇格おめでとう!」とか、本当に敵対しているのかという言葉をかけてきた。

 その度に食って掛かって、虚勢を張って、周りに馬鹿にされない様に、弱みを見せない様にしてきたのはもう意地でもあった。



 兄が、堕ちた。



 その一報で、自分の環境は驚くほど変わった。光と闇が引っ繰り返って世界が映し出され、見るもの全てが一転したのはある意味新鮮だったが、全くありがたくなかった。

 今まで仲が良かった者は手の平を返して見下し、罵倒し、暴行に走る様になった。当時一兵卒に過ぎなかったミカエルは、上官からの嫌がらせも目に見えるほどに酷く、前線で騙し討ちの様に孤立させられることも少なくなかった。


〝西に千の堕天使を確認した。魔王の弟ならば、一人で討ち果たせるだろう? 行け。全て倒すまで戻ってくるな〟

〝討ち死にしてこい。戻ってこれば、お前は断頭台行きだ〟


 難癖をつけられ、罰を与えられる。

 いつだって死と隣り合わせだった。敵は堕天使だけではない。身内のほぼ全員だ。生き残れたのは、がむしゃらに剣を振るって力をつけていったのと、変わらず友でいてくれた者が裏で手を回し、師や神も人知れず助けに入ってくれたからに他ならない。

 それでも、ミカエルは運が良かった方だろう。一つでも下手を打てば死んでいた。

 その三千年前に比べれば、今のシキに対する周囲の反応は平和だ。

 嫌がらせを受けていたのは知っていた。それに淡泊に対応していたことも。

 シキ本人が淡々とこなしているから、周囲はそれも面白くなかったのだろう。高嶺の花と言われるアリシスと交友があるのも一層油を注いだはずだ。

 ミカエルは表立って助けに入ることはしなかった。逆効果だとも思った。

 だが、それだけではない。


 ――兄は、それを見抜いている。



「シキは、ミィとは違うよ」

「――――――――」



 不意に落とされる評価。どくりと、心臓が騒がしく耳元で跳ねた。


「ミィはもう何が何でも上に行こうとしてたよね。本当はリル――ガブリエルも受けるはずだった非難や中傷も、全部受ける勢いで進んでいったでしょ。もう周囲から見たらハリネズミだよね! そんなミィも可愛い!」


 拳を握って可愛らしくアピールする兄に、だがミカエルは反応が出来ない。当時、家族同然だったガブリエルの盾になっていたことまで見抜いていたのか。我が兄ながら嫌になる。

 あの頃は、確かに無我夢中だった。死と隣り合わせだったからこそ、常に強く、背筋を伸ばし、誰にも負けない力を欲した。権威はどうでも良かったが、結果的にそれが、自分にとっての護る力に直結しただけだ。

 自分にとっては、何が何でも必要だった。だからこそ、いじめどころか殺人とも言える虐待を耐え抜いてきた。

 しかし。


「シキにはまもるもの、何もなさそうだよね」


 だから気を張る必要が無い。虚勢もいらない。

 何が何でも上に行く野心も、彼には見当たらない。


「売られた喧嘩は適当に買ってたけどね! でも、自分への嫌がらせに頓着とんちゃくしないっていうか、自分に無関心っていうか。ひどく傷ついてる感じもしないし、どうでも良さそうだし、あげくの果てに、その辺の人間や天使が石ころみたいに見えてるみたいだし、お前人間かー! ってくらい、心なさそうだよね!」


 あっはっは、と楽しそうに笑うルシフェルの言葉は、全く笑えない。



 ミカエルのシキへの印象は、まさに『無感動』だった。



 彼が初めて帝国に訪れ、天使の加護儀式を受けに来た時も、覇気はまるで感じられなかった。淡々としていて、特に何かに執着する志も感じられず、何故儀式を受けに来たかも謎だった。

 加護儀式は相性はもちろんだが、互いに心が動かされる「何か」が備わっていることも重要だ。力を得、何かしらの目的のために邁進まいしんし、その結びつきがあるからこそ、契約が成立する。

 なのに、シキからは何も感じられなかった。

 引き寄せられる様に有象無象の天使が寄ってきてはいたが、求めるものが何もない以上、恐らく失敗するだろうとミカエルは遠巻きに判断を下していた。



 だというのに、加護を与える天使があろうことか魔王。兄だった。



 それだけで周囲は色めきだったが、神はそれを受け入れ、取り敢えず様子見をすることになったのは青天の霹靂でもあった。もちろん周囲は納得していたわけではない。

 だが三千年前に比べ、危機感は地に落ちるほど消えていた。

 放置は良くない。それでも監視をつける程度で釈放されている現状は、三千年前なら絶対にありえなかった光景だ。

 魔王を伴う、シキへの嫌がらせ。その内容の軽さに、ひいては魔王に殺されるかもしれないという警戒心が周囲にまるで無いことにまず腹が立った。魔王という存在を甘く見ていられるその神経が――兄が軽んじられている事実にも怒りが湧いた。


 しかし、それ以上に苛立ったのが、シキの存在だった。


 魔王の使いとなったことで、遠巻きに見られる対象となった彼。命の危機にさらされることが無いとはいえ、嘲笑や罵倒の対象になっているというのに、彼は涼しい顔でいつも受け流していた。

 背筋は伸ばし、けれど中傷にはまるで耳を傾けず。なのに、無抵抗というわけではなく、売られた喧嘩は兄の言う通り買い、適当にのす。


 ただ、そこに主張が感じられない。


 息をしているだけ。見ているだけ。食べているだけ。歩いているだけ。寝ているだけ。

 何かをするには、必ず自身の感情が伴う。

 生きたいから。見つけたいから。美味しそうだから。用があるから。眠りたいから。

 なのに、彼にはない。必要だから、というよりは、ただあるがままにそうしているだけ。感情はあっても全て二の次にして、ないがしろにしていた。

 ミカエルとは違う。そこに、「生きたい」という意志がまるで嗅ぎ取れない。何が何でも生き抜くという力を見通せなかった。

 腹が、立った。

 当時の自分より恵まれているから、必要に迫られないから、彼は適当に周りをあしらっているのだろうか。兄といても、何も感じないのか。仇を追っていると聞いてはいたが、本当はそこにもあまり執着していないのではないか。


 何故なら、彼は何も行動を起こさない。


 任務がある時に、ついでに仇を探している風な、そんな軽い気持ちで動いている様に映った。

 ミカエルは、彼に嫉妬をしていたのか。

 そう言われると、恐らく違う。何に腹を立てているのかと言われると、明確には言葉の形にならず、けれど苛々いらいらは募った。

 彼は、人形だ。

 人の形をした、空っぽの心を持った『何か』だ。そう、思っていた。



 しかし、違った。――今回の任務で、気付かされた。



 堕天使に襲われた時、彼は自分と兄の衝突を避けようと動いた。

 村に着いた時、父が己を忘れていることに激しく動揺していた。

 食事の時、無心にクロワッサンを食べながら、誰かに追われている様に怯えていた。

 表情はあまり動かないし、表に感情はほとんど出ないが、それでもミカエルは天使だ。人の心の動きには自然と敏感になる。


「そもそもシキってば、最初から仇なんて討つつもりなかったしね」


 何故、天使の力を望んだのか。

 本当に心のない人形ならば、そんな力は望むはずがない。仇だって、無視しただろう。



「ミィと違うのは当たり前だよ。だって、彼――」

「――――――――」



〝オレがいない方が良かったのに?〟



 兄のその先の言葉に、頭が沸騰した様にぐらぐらした。せっかくシキが望んだ力は、彼の唯一の執着を叶えてしまった。


〝それなら他に、……他に、誰に言えば良かったんですか〟


 先程のシキの言葉が耳によみがえる。彼の本音が欠片かけらでも引き出された瞬間だった。淡々とした夜の瞳の奥に、迷子がいた。

 彼にとって、一人で全てをこなすのは当然で。それは生まれた時から、当たり前の習慣だったのだ。

 母は最初から自分を見ず、庇護対象の弟と妹の面倒も見なければならず。

 友人は離れ、村からも疎まれ、彼は期待を打ち捨てた。

 父や老人という存在は、きっと彼にとって心のり所ではあったのだろう。しかし友人が離れていったのならば、彼は二人に頼りきりになることを良しとはしなかったはずだ。

 いつ、彼らも離れていくか分からない。

 それは。


〝誰に〟


 ミカエル達に対しても、同じなのだ。

 みんな、同じ。いつ離れていってもおかしくない『群衆』だ。


「……てめえは、最初から」

「わかってたよ! だって、シキは我の『遣い』なんだから」


 にこやかに、だが残酷に断言される。

 彼は最初から分かっていた。その上で彼はきっと。



〝ところで、我に質問はないかい?〟



 誰よりもシキを見ていた。

 魔王という人類、そして神や天使の敵であるはずの彼が一番、玩具おもちゃであるはずの人間を、付かず離れず見守っていた。

 それが、たった今分かった。その事実に、かっと一気に身を焦がされる様な熱を感じる。

 ミカエルは何と、愚かだったのか。


「……っ、俺は」


 四大天使なんていう大層な肩書など、形だけだ。

 大戦を生き抜いてきたという傲慢さで目隠しをしていた。その証拠に、部下一人の事情に、本当の意味で気付いてやることが出来なかった。


「ねえ。どうするの、ミィ」


 我はそろそろ戻るけど。

 あくびをするみたいに気楽な口調で問われる。益々ますます兄の本心が読めなくなった。

 何故、魔王として活動していたのか。何故、弟などに封印されたのか。何故、今になってまた封印を破ったのか。何故、シキをパートナーとして選んだのか。



 答えは、ミカエルが本当の意味で前に進まないと、教えてはくれない。



「……っ、てめえら、起きろ!」


 思い切り転がっていた部下共を蹴り飛ばす。力の加減は、一応死なない程度に落としておいた。

 だが、加減はしても手加減はしない。

 案の定、猛烈にき込みながら部下が次々と起き上がる。いきなり叩き起こされた形になって困惑と激怒が一気に立ち上るが、ミカエルの顔を見た途端に怒りの煙は霧散した。代わりにきょろきょろと辺りを見渡し、部屋の惨状を確認し、今度は真っ青な煙を顔に塗りたくって震え始める。

 分かりやすい輩だ。こんな人物が直接でないとはいえ、部下だと思うと呆れ果てる。

 しかし、ミカエルも同じ穴のムジナだ。


「お前らだよな、この部屋」


 色々要点を省いてはいるが、正しく彼らに伝わった様だ。正座をしながら飛び上がりそうな怯え方だが、容赦はしてやらない。


「ここはシキの部屋だ。お前らの同僚だよな?」


 反射的に首を横に振りそうになって、慌てて首を固定する部下達の何と憐れなことか。

 本当なら、魔王を守護天使――ならぬ守護魔王にしている人物を、同僚と称するのも嫌なことなのだろう。自分が同じ立場なら迷ったかもしれない。

 だが、それを理由に人をおとしめるなど、矜持きょうじに反する。


〝お前、魔王の弟じゃねえか! 視界に入るんじゃねえよ!〟

〝俺の家族、堕天使に殺されたんだよ。兄の責任取って死んで償え!〟

〝西に千の堕天使を確認した。魔王の弟ならば、一人で討ち果たせるだろう? 行け。全て倒すまで戻ってくるな〟


 彼らはただ暴行しているだけではない。

 理由なんて、いつしか建前になっていた。ストレスのけ口に、都合の良い生贄を見つけて面白がっていただけだ。

 自分は、彼らの様にはならない。――絶対に。


「お前ら、俺がつかさどる二つ名を言えるよな?」


 暗に、知らないとは言わせないと圧力をかける。想像通り震え上がって、彼らは首を機械の様に縦に振るばかり。しばらく使い物にもならないだろう。天使使いとしての戦力もそんなに上の方で無いのは、見るだけで読めた。下っ端過ぎる。

 だからこそ、シキをストレスの捌け口にしたのだろう。上を見上げるだけで、努力もしない人間が走りやすい末路だ。


「俺は〝神の正義〟。全ての邪気を炎で浄化し、あるべき場所に還す正義の象徴。その俺のいるこの膝元で、よくもまあ正義とはほど遠い所業をしでかしてくれたものだな」

「っ……、あ、の」

「す、す、み、……ん」

「黙れ」


 何かを言いかけている彼らの文言など聞きたくもない。どうせ、全て上っ面だけで中身のない言葉だ。ここで反省している素振りを見せたって、またシキを目の前にすれば、彼らは同じことを繰り返すだろう。大人しくなったって、陰湿な嫌がらせは続く。

 それが、ひどく。



〝誰に言えば〟



 ひどく、苛立った。

 昔の自分が、追いかけてくる様で。



「俺たちが戻ってくる前に、ここを全て元の状態にしろ」



 塗りたくられたペンキ。転がった生ごみの数々。引き出しもあちこち乱雑にひっくり返されて、中身は無造作に散乱している。その中には、ペンキやゴミで使い物にならなくなった書物や生活用品も入っていた。

 それを全て元通りだ。彼らのふところが痛むどころの騒ぎではないだろう。

 だが、知ったことではない。


「いいか。もし、少しでも前と違う場所が発覚してみろ。俺の名の下、更なる罰を科す」


 引きつった声が空気に弾ける。先程から人としての言葉が聞こえないなと、眼前の人の形をした塊を見下ろした。

 ミカエルは一体、何と対話しているのか。もう本当に全てがくだらなく思える。


「わかったら早く動け! 俺たちは、明日には帰還する!」

「は、はいっ!」


 最後の返事だけは威勢が良い。氷の様に固まっていた塊は、慌ててばたばたと出ていった。掃除道具を一式揃えるためだろう。それは単なる言い訳で、この場からすぐにでも逃げ出したかっただけかもしれない。

 だが、どうでも良い。ミカエルにとっては些末な出来事であり、道端の小さな石ころの様に気にも留めない程度のことだ。


「うわあ、ミィってばカッコいいー!」

「消えろ」


 きゃ、と可愛らしくハートマークを飛ばす兄はおざなりに扱っておく。

 もうここに用は無い。速やかに任務先へ戻らなければ。


「でもミィってば、大口叩いたね! 今夜には片を付ける気なんだ?」


 にこにこ笑いながら、瞳は真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。笑っているのに鋭い刃で貫かれ、ミカエルの息が一瞬詰まった。

 兄は本当に容赦がない。弟を溺愛しているフリをしながら、試してくる。挑戦してくる。――追い詰めてくる。

 正直迷っていた。今回の任務は、シキに縁がある人達で構成されていること。

 彼の心に配慮するべきか。もちろん遂行は最低条件ではあるが、猶予ゆうよを与えるか悩んでいたのだ。

 しかし、もう必要ない。


〝シキは、超絶不器用っていうことが分かったね!〟


 動くべきなら、動くだけだ。


「俺は行く。お前も適当に行け」

「ふふ。我は、ちょっとお遊びしてから行くよ!」


 直行しないのか。

 疑問は、けれどすぐに溶ける。どうせ彼の行動は、ミカエル達には到底理解しにくい意味が眠っているのだろう。ならば、こちらが何かを言うだけ無駄だ。

 指先で炎の光を空気に閃かせる。灼熱の光が空間に走り、踊り、流れる様に弧を描いて魔法陣を形成していった。

 指先から離れ、炎は楽しげに辺りを舞い、流れながら自由に泳ぐ。ミカエルを囲みながら炎は更に輝きを増し、紅く、淡く、しかし熾烈しれつに周囲を染め上げていき――。


 太陽の様に光が爆発した。同時に、ミカエルの意識もこの部屋から飛んでいく。


 そうして光は収束し、羽の様に炎が空間に散らばっていった。ぱちぱちと弾ける音はむしろ嬉しそうに笑っている気がする。

 やがて。



 ふつっと、全ての余韻を残して、唐突に部屋から輝きが消失した。



 残されたのは燃え上がりながらも静かに眠りに就く無音と、その場に佇むルシフェルだけだ。


「……ふーん」


 にこりと優しげに、どこか満足げに弟の転移魔法の一部始終を目にして、ルシフェルはしばらく沈黙を保っていたが。


「腕を上げたんだね、ミィ」


 微笑わらう様に風が足元にかしずくのを感じながら、名残惜しげもなくその場を立ち去った。











「ねえねえ、エデン」


 夢の様に遠い記憶が、ルシフェルの脳内に映し出される。

 あれは、三千年以上前。神と決別をする場面だったはずだ。

 天使の、国の、そして世界の頂点に君臨しなければならなかった神であるエデンは、自分の軽い呼びかけにも、しかめっ面で応対してきた。無言であったのは、きっと自分がこれから放つであろう言葉を予測していたからだ。


 ――流石さすがは親友だね。


 隠し事なんて出来ない。だからこそ、彼は止めはしないだろう。


「我、魔王になるよ」


 宣言は軽く、けれど重苦しい塊となって地面に転がる。空気に亀裂が入るかと思ったが、塊は塊のまま、むなしくありのままに転がるだけなのは少し意外だった。

 彼はしばらく言葉を発しなかった。深く深く頬杖を突き、瞳を閉じる。眉間にしわが寄っているのはいつもの癖であったが、今回はその皺の深さが文字通り彼の苦悶の深さの表れで、心の中だけで謝罪した。

 それでもひるがえさない。自分はもう決めた。

 エデンは許してはくれないだろう。しかし、どこかで背中を押してくれる気もしていた。

 だから。


「――好きにしろ」


 その言葉にこめられた、無数の感情を捧げられた時、爆発させない様に静かに受け取った。

 最後の、彼からの贈り物だったから。ルシフェルは最後まで笑って、飛び立った。


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