第22話


 朗らかに挨拶をしてくる父は、生前と全く変わりはない。

 いつも記憶の中の父は、こんな風にシキを受け止めてくれた。



「こんばんは、父さん」

「……僕は、君のお父さんじゃないよ」

「うん、そうだね。ただ、これだけは伝えたかったから」



 ばくばくと心臓は鳴っている。反して、言葉はひどく静かに紡ぎ出せた。震えそうな足は意識を集中させて踏ん張らせ、シキは一呼吸置いてから手を胸の方へと動かす。

 胸ポケットから万年筆を取り出した。夜空を連想させる藍色の万年筆。父からの最期の贈り物だ。

 今日まで五年間、シキはこの万年筆を使い込んできた。インクは何度入れ替えたか数えきれない。これからも、シキはこの万年筆を使い続けるだろう。


〝シキ君、この万年筆の色、もう一度ちゃんと見て〟


 本当はとっくに理解していた。アリシスに言われるまでもなく、すがっていたのは自分だ。

 この色は、自分の瞳と同じ色。



〝シキの瞳は、夜空みたいに綺麗で。僕は、好きだな〟



 頭を撫でながら、そう告げてくれたことがあった。忘れることなんて、出来なかった。

 ずっと、ずっと。その言葉は支えだった。


「父さん。この万年筆、ありがとう」

「……」

「例えもう、父さんがオレに憎しみしか抱いていなくても。オレにくれた想い出は、オレにとって死ぬその時まで大切なものだよ」


 一瞬言葉を切ったのは、声の震えを押さえるためだった。

 相手に気付かれなければ良いと願いながら、シキは一生懸命笑って見せる。上手く笑えなくても、笑顔で伝えたかった。



「大好きだよ、父さん。苦しめて、ごめんね」

「……っ」

「それでもオレは、……まだそっちに行けない。だから」



 罪を背負って、生きていく。



 宣告して、シキは双剣を構える。羽も呼応して輝きを更に強めていった。

 父は静かに聞き入っている。一度だけ頭を振って、――いつの間にか双剣を構えていた。

 あまりに自然な動作で注意が向けられなかったらしい。この、どこまでも研ぎ澄まされた洗練さが父の強さの由縁ゆえんであり、そして厄介な特技でもあった。

 風が散る。木々も月の光も全てが寝静まり、対峙したのは一瞬。

 それだけで充分な時間だった。


「……っ!」


 いきなり父の顔面が間近に迫る。考える前に本能で剣を前に滑らせた。

 だが、遅い。寸分遅れた合間をって、父の剣が自分の胴の横で閃いた。灼熱しゃくねつが走り抜けるのを唇を噛み締めて押し殺し、シキも一歩踏み込んで滑らせた剣を前に凪ぐ。

 しかし、それも簡単に受け止められる。

 容易く、舞う様に相手の刀身に軌道を逸らされ、手首をひるがえしながらシキの肩を神速で薙いだ。


「あ、ぐっ!」


 咄嗟とっさに地面を蹴って後退するが、それさえも遅い。父の双剣がわずかな月の光さえも吸収しながら弧を描く。

 父の双剣が紡ぐ二つの綺麗な弧は、まるで夜空に輝く流れ星の様に美しい。一つ、二つと弧を重ねるたびに煌めく閃光は、束になって闇を照らし、全てを切り裂いて光の虹を相手に叩き付けていく。


 シキは、父の剣が好きだった。


 どんなにしおれた景色の中でも、寂れた風景の中でも、ひとたび父が剣を振るえば、生命が輝きと共に息を吹き返し、幻想的な絵画を創り上げるのだ。

 今もそう。この場が戦場であるということを忘れるほどに、父の剣の輝きには果てが無い。

 勝てるのか。この人に。シキは一度だって、彼を地に伏したことはない。

 しかし。



〝きちんと、自分で決着をつけておいで〟



 ――負けたくない。



 初めて抱いた熱を握り締め、シキは剣を振るう手に力をこめた。


「……させないっ!」


 残光を引きながら振り下ろされた二撃を、シキは辛うじて受け流す。派手にぶつかり合う金属音と共に力を逸らし、シキは地面を蹴る勢いで双剣を一思いに振り上げた。確実に父の胴を捉え、剣先が吸い込まれる。

 寸前。



「――残念。遅い」

「――――――――」



 微笑って指摘される。

 直後、父の姿は一瞬にして掻き消えた。同時に足に鈍い激痛が走る。

 たまらず転がる――のを根性で制御してしゃがみ込むだけにしたが、頭上で鋭く風が鳴った。反射で剣をかざすが、上からはこない。後ろから強く踏み込む様に蹴られた。


 地面を滑り、背中から強烈に大木に叩き付けられた。


 踏み込まれる音と共に突風の如く死神が迫る。

 それをシキは、何とか死に物狂いで地面を蹴ってかわす。斬り付けられた足が痛んだが、かばってなどいられなかった。

 直後、ばきばきっと、大木がへし折れて沈んでいくのを背に聞きながら、羽の力だけで飛び上がる。そのまま父の頭上目掛けて一気に双剣を振り下ろした。

 捉えた。

 寸前。


「それも、まだまだ」

「――――――――――」


 横にステップを踏みながら父が移動する。無理矢理一歩距離を取ろうとしたが、それすらも遅い。首根っこを掴まれて地面に叩き付けられた。

 転がりながらも背後に剣を振るったが、既にその時には父は離れ――そして、体を起こした直後に懐に飛び込まれた。


「はい、終わり」


 どっと、再度地面に叩き付けられる。

 息が出来なくなりながらも起き上がろうとすれば、それさえも抑え込まれた。馬乗りになり、首元に冷えた殺意を押し当てられる。


「は、あ……っ」

「こんなものか。……まあ、そうだね。君には教えていないこと、まだまだたくさんあったから」


 笑いながら、父は首に当てた剣を深く押し込んでくる。小さな痛みが突き刺さって、皮膚が切れたのだろうと予想がついた。



 シキは今、父に命を握られている。



 その事実に震える様な、落ち着く様な、奇妙な感覚が芽生えた。

 シキは、父に殺されるために仇である彼を探した。家族を殺した太刀筋を、シキが見間違うはずがない。

 だが、五年前に父が死んだのは、この目ではっきりと確認している。

 故に恐らく、堕天使が関連しているのだろう。旅をしている時に聞いたことがあった。全てはそこから仇探しは始まったのだ。

 この状態は、シキが望んでいたことだった。ここで父の望みを叶えれば、シキの旅はここで終わる。

 贖罪も終わる。願いは叶うのだ。

 けれど。



〝死にたいなら、我が今、この手で殺してあげるよ〟



 あの時、頷かなかったことで。旅の終焉は、お預けになった。



「……ごめ、ん、……っ」


 シキは願ってしまった。

 今までそんな風に小さく、けれど自分の胸の内に強く根差す想いなんて抱いたことがなかった。


〝そうだよ! あたし達がいるよ!〟


 シキのそばに、誰かがいてくれる。そんな未来を想像したことはなかった。

 それなのに、彼らは言う。傍にいてくれると。一緒に、生きてくれると。

 思い描いてしまったら、もう過去を振り返るばかりではいられなくなった。

 自分は、生きたい。

 もっと、もっと、彼らと共に歩いてみたい。


〝取り敢えず、人に頼るところから始めてみればいい〟


 未だ、自分の心がどこに向かっているのかも、何を考えているのかも、いまいち理解は出来ないけれど。

 それでも、一つだけ分かったことがある。


〝助けを求めてきたら、もう少しだけ力を貸してあげようかなって〟


 呆れながらも、馬鹿にしながらも、蔑みながらも、見守ってくれる人がいる。

 そんな風に、シキの傍にいてくれる人もいるのだと気付けたから。

 シキを思ってくれる人がいると分かったから。

 だから。


〝おにいちゃんは、ちゃんと生きなきゃ駄目だからね!〟



 ――だからっ!



「……オレはっ! もう二度と! 自分を、粗末そまつにはしない!」

「――――――――」



 力の限り剣を握り締める。

 その瞬間、体にたぎる熱が集中した。手を貸さないと言っていたくせに、人が悪い。


「……はあっ!」

「っ⁉ くっ……!」


 ルシフェルの息吹を感じながら父の肩を突き上げる様に押し出した。同時に、もう片方の手で渾身の一撃を叩き込むために剣を振るう。

 これをかわされたら、次に攻撃されても動けないだろうくらいの力をこの一閃に集中させた。

 そして。

 父の体に剣が叩き込まれる、直前。



「――、そっか」

「――――――――」



 にっこりと、父が笑った。



 笑いながら、シキの剣を全身で受け止めた。



 鈍く、肉を断つ感触。

 怯みそうになりながらも、力は緩めずに剣を振り切った。

 まるで全てがスローモーションの様に映る。黒い血が、父の傷口から飛沫を上げて噴き出す様も、無防備に父が地面に倒れ込む瞬間も、父が口から黒い塊を吐き出す場面も。


 全てを瞳に焼き付かせるために、シキは瞬きも忘れて見つめていた。


 のろのろと亀よりも遅い速度で、シキは悲鳴を上げる全身にむちを撃ち、這いながら父に近付く。もしかしたら相討ち覚悟で最後の攻撃を繰り出されるかもしれないと警戒もしたが、それでもシキは父に近寄らずにはいられなかった。

 どろどろと、少しずつだが父の指先が溶け始めている。もう力が枯渇したのだ。命が尽きるのだろう。


 シキは、二度も父を殺してしまったのだ。


 それでも生きたいと願うのだから、勝手過ぎて泣けてくる。


「あーあ、……負けちゃった」

「……、そう、かな」

「うん。でも、シキの成長を見られたから、良かった」


 シキ、と名を呼ばれる。父ではないと突っぱねてきたのに、彼はもう自分が父なのだと認めていた。


 どうして知らないフリをしたの。

 どうしてそんな風に笑ってくれるの。

 どうして最後、笑って剣を受けたの。


 問いかけたいことは沢山たくさんあったのに、喉が痛くて何の言の葉も生み出せない。目の奥が熱を持ち始めるのを、大きく息を吸って飲み込もうとした。

 なのに。


「こら」


 こつん、と。触れているのかも分からない加減で父の手が頭を叩いてくる。

 それを契機に、飲み込んだはずの熱が逆流してきた。は、と呼吸が意思に反して震える。


「そうやって感情を飲み込むの、悪いくせだよ。……そうさせたのは、僕だけど」


 ごめんね。


 苦しそうに頭を撫でて、そのまま引き寄せられる。

 まだ崩れていない手で抱き締めてくれて、シキの中で何かが決壊した。震える息をそのままに、父に触れながら感情を吐き出す。


「ごめん、なさい、父さん。……ごめんなさい……っ」

「シキ」

「苦しめて、ごめんなさい。オレが、もっとしっかりしていたら、母さんのことだって、もっと」

「それは違うよ、シキ」


 違うんだ。


 静かに、だが有無を言わせない強さで父は首を振る。ひく、と喉が引きつったのを微笑って、父は優しく背中を撫でてくれた。


「悪いのは、僕と、母さんだよ。シキには何も罪はない」

「でもっ」

「大人として子供の手本にならなければならなかったのに、僕達は成長しようともしないでそれを怠った。進むことを、止めてしまった。……子供は、僕達よりずっと成長していたのにね」


 馬鹿だよね。


 懐かしみながら語る口調は、にじんでいた。父は悪くないと言いたいのに、それさえも許されない響きがあふれている。

 どうして、こんな結末を迎えてしまったのだろう。考えても詮無せんなきことなのに、それでも思わずにはいられない。


「シキ。ごめんね。五年間、辛い思いをさせたね」

「……、そんな、違う」

「君のこと。確かに、苦しくなる時もあったよ。いなかったら、母さんはいつだって僕を見てくれるのだろうかと思ったこともあった」


 淡々とした語り口だ。何事も無かった風に平坦ではあったが、そのなだらかな響きの奥には、ひどく苦悶したのだろう熱が見え隠れした。

 そうしてまで身を削る父の心遣いが堪らない。体ごと揺さぶられて苦しくなった。


「君と血が繋がっていないのに。悔しくて、苦しくて、残念で、何度絶望したか分からない」


 でもね。


 一旦言葉を切って、父は笑みを崩す。泣きそうに表情を歪めながら、それでも強い瞳でシキを真っ直ぐに見上げてきた。



「君と一緒にいる時間は、僕の幸せだった」



 声の端に光明を差しながら、父は続ける。


「朝おはよう、って挨拶するのが楽しみだった。一緒にいただきますって、手を合わせて微笑んで、美味しい食事を軽口叩きながら食べる時間が好きだった。剣を教えている時は、どんな剣士になるんだろうって想像すると胸を張りたくなったし、尊敬の眼差しで見てくれると誇りが芽生えた」

「……」

「少し落ち込んでいるのを見たら僕も悲しくなったし、何とか笑ってもらいたくて、色々右往左往したりもしたよ」

「……え。でも、父さんいつも笑っていたよ」

「うん。だって僕が一緒に辛そうな顔をしたら、シキはもっと辛そうな顔をするでしょ。だから、いつも笑っていようって心がけていたんだ」


 にこにこと、父は歌う様に紡ぐ。

 語る合間にも、ぽろぽろと父の顔の輪郭りんかくが崩れてきていた。

 それでも父は何事もない風に笑っている。ハルやミリーもそうだったなと、胸が締め付けられて痛かった。逃れる様に父の服を強く握り締めて、揺れて溢れそうになる慟哭どうこく誤魔化ごまかそうと踏ん張り続ける。

 それすらも、笑ってたしなめられたけれど。声には出さずに、背中を撫でながら促してくる。


「シキ」

「……っ、うん」


 心地良い温もりに、視界は歪んだ。

 自分がもうどんな表情をしているか鏡を見たくもなかったが、見なくても分かる。酷い顔だと背けたくなったが、父の顔が見えないのはそれ以上に嫌だったから、顔を上げて真っ直ぐに見つめた。


「父さん、シキのこと、好きだよ」

「……、うん」

「あんなことして今更って言うだろうけど。僕は、シキが可愛くて仕方が無かった。可愛かったからこそ、自分はどうしてこの子と血が繋がっていないんだろうって思ったりもしたけど、それってあんまり関係なかったね」

「……」

「僕が、君を好きであるならどうでもいい。生きている内に、気付ければ良かった」


 遅すぎたね。


 まぶたを閉じて、父は息を吐く。

 堕天使に力を借りた成れの果て。死を意味する黒が侵食していく速度が上がっていっている。父と話せる時間はもう数分もないだろう。

 父と、今度こそ別れが近付いている。その事実に焦って、シキは更に服を握る指に力をこめた。

 伝えなければ。

 シキは努力をしてこなかった。肝心な時に言葉を引っ込めて、伝え損ねてきてばかりだった。

 もう、そんな後悔はしたくない。父が伝えてくれた様に、自分も想いを届けたかった。



「オレも、……父さんのこと、好きだよ」



 振り絞って、想いを運ぶ。

 父の手を――もう既に半分消えている手を握って、懸命に想いを言葉に変えた。


「父さんとおはようって笑い合う時間が好きだった。一緒に食事して、他愛もないお喋りするの、楽しみにしていた。父さんの背中に追い付きたくて、夢中で剣を習っていた。きっと父さんと長くいたいっていう理由もあったと思う」

「……、そっか」

「おやすみって、頭を撫でてくれる手、好きだったよ」

「うん」

「成人したら父さんと、お酒飲むって約束したね」

「うん」

「いつか一緒に旅もしてみたかったな」

「うん」

「絵本もまた、読んで欲しかった」

「うん」

「相談にだって乗って欲しかったし。もっと、一緒に、……」


 もっと、もっと。色んなことを共に過ごしてみたかった。話したいことだって沢山ある。

 シキは魔王のパートナーになったとか。ミカエルという厳しそうでいて優しい上司が出来たとか。アリシスという明るくて可愛い友人がいるとか。帝国の暮らしは楽ではないけれど、楽しいこともあるのだと。伝えたかった。

 そんなに会話をぽんぽん出せるシキではないけれど、それでも父と話したいことは尽きないだろう。五年も離れていたのだ。剣の腕だってまだまだだ。もっともっと教えてもらいことは山ほどあった。



 もっと、一緒にいたかった。



 だが、それももう終わる。

 父は、二度目の死を迎えるのだ。


「父さん、ありがとう。……オレのこと、好きだって言ってくれて、ありがとう」

「……僕こそ。こんな自分を父と呼んでくれて、ありがとう」

「っ、……オレっ。もっと、ちゃんと、生きる。生きてみる」

「うん」

「それから、父さんに会いに行く。いつか、遠い未来、会いに行くから」


 だから。

 崩れていく父の手を両手で握り、シキは嗚咽おえつを漏らす。

 行かないで。置いていかないで。

 そう願いながらも、ちゃんと見送るのだと奮い立たせた。


「その時は、笑って、……迎えてくれる?」


 精一杯笑って見せた。

 自分はきちんと笑えているだろうか。普段笑顔なんて意識して作ったことが無かったから、下手な歪み方をしていたらどうしようと心配になる。

 だが、父には正しく届いた様だ。目を細めて、一度瞳を閉じ。


「……じゃあ。今度、会ったら」


 手を握り返して、父は微笑う。木漏れ日みたいに暖かい、柔らかな笑みはシキが知るものと同じだった。


「今までのシキの話。たくさん、聞かせてね」

「――、っ」

「それまで、待ってるから」


 最後の力を振り絞ったのだろう。起き上がってシキを抱き締めた途端、父の体が急速に散り始める。

 それでも父は動くのを止めず。頭を撫でながら、笑みをシキの胸に落とした。



「幸せに、シキ。僕の、可愛い息子」



 嬉しそうに、満足そうに。

 幸せそうに笑いながら、父は空に散った。


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