第20話
最初から、死ぬつもりだったもんね。
喜劇を鑑賞して感動した様な口調でルシフェルは告げる。からっと、遠くでシキの心が鳴いた気がした。
空気が静まる。え、と声なく絶句する気配が後ろで揺れた。
「最初、君、言ったよね。仇を追いたいって。そのために天使の力を借りに来たって」
「……、それは」
「でも、復讐じゃないって言った。じゃあ何だろうって思うだろうね、――他の天使だったら」
だけど、と。得意気にルシフェルは人差し指を唇に当てた。まるで悪魔が獲物に
「我は、元々加護を与えた人間の思考、読み取れちゃうから。最初から仇の手にかかるつもりだって、知ってたよ」
いつから、何て愚問だ。魔王はそう呼ばれる
最初から全てお見通しだったのか。急速に力が抜けていくシキに、しかしルシフェルは悪魔の――魔王の笑みのまま、見下してくる。
「家族を殺した太刀筋は、君のよく知る人物のものにそっくりだった。だから、ありえないと思いながらも、もしかしてと君は予想した。旅の中で、堕天使によって生き返る人間がいるって聞いていたから」
暴かれる。自分の根っこに巣食っていた泥が、無遠慮に掻き回された。
その感覚が
だが。
「それで、君は考えた。五年前、自分のせいで死んだ父に、今度こそ殺されようと。だから、絶対に見つけるために天使の力を借りたかった」
笑いながら、手を掴み返される。骨が
「最初、我は君が死にたがっているのかと思った。だから色んな物事に淡泊で、興味が無くて、どうでも良いのかと思ってた」
でも、違った。
そう思い込んでくれれば良いと願う人物像を
「君は、単純に怯えていただけだよ」
「……、それ、は」
「君は自分の気持ちにひどく鈍感だけど、人の気持ちにはとても敏感。それに、自分のことをどうでも良く思っている様でいて、やられたらやり返すから別に大事にしていないってこともない」
「……、……どうして」
違う。知らない。
いつもなら困惑だけで返すはずなのに、今に限ってはそれが出来ない。
疑問なんてここ数年、ほとんど持たなかったのに。今になって
「じゃあ、どうしてオレ、死のうと思ったの」
「うん?」
「オレは、オレが大事だったら死ぬために旅なんてしなかった。違うの?」
「違わないね! 父親死んだ罪悪感から死ななきゃって思ったんじゃない? 滑稽だね! ありえないね! 馬鹿じゃない? 我、軽蔑!」
「っ、だったら! 何で!」
軽蔑したと言う口で、笑いながら母に触れるのを止めてきた。その矛盾がどうしようもなく苛立たせる。
「何で、助けたの」
「……」
「どうして、あんたは、オレを助けたの」
本当に軽蔑したなら、見限ったなら、助けを求めても無視すれば良かったのだ。
死んでも良い存在で、
なのに。どうして。
「死ぬって決めておきながら、オレは今更生きたいって言ったけど。軽蔑したなら、馬鹿だと思ったなら、そのままっ、……っ」
「……そういうところかな」
最後まで紡げずに喉を引きつらせれば、ルシフェルが指で喉を突いてきた。
意味が分からないと視線だけで訴えれば、彼はにこやかに満面の笑みを浮かべ、更に腕を掴む手に力をこめた。
「っ、痛い」
「君さ、今どうして最後まで言えなかったか自分で分かってないよね!」
「……、うん」
素直に頷けば、「やっぱり馬鹿だね!」とけらけら笑われる。笑うところなのだろうかと
「望んでないからだよ。『今の』君は、助けて欲しいから」
「……」
「でも、我に見捨てられるのが嫌だってことが自分で分かっていない。君ってつくづく馬鹿だよね!」
あはははは、と実におかしそうに腹を抱えられた。そんなにおかしいだろうかと思いながら、彼の指摘は的を射ていたので黙った。そして今でも己は本当にそう考えていたのだろうかと、飲み込みきれていない。
そして、やはり彼にはそれが伝わっていた。
「今までは問題が起きても一人で解決せざるを得なかったんだろうし、実際一人で解決してきたんだろうからね。そこに自分の意思が挟まる余地なんて、それほど数えるくらいしかなかったんだ。それはクロワッサンの件でよく分かったよ」
「……え」
「あんな大量のクロワッサン、まさか一人で処理しようとするなんて思わなかったしね! でも、きっと今までずーっと、君一人で食べてきたんだろうね!」
言われて、頷くしかない。
確かに今まで山盛りになったクロワッサンは、一人で平らげてきた。弟妹が食べようとすると母の顔が少し険しくなったし、何よりそれを見て実の父を重ねているのだと見通せたから食べざるを得なかったのだ。父がいた時は協力してくれたが、五年前からはずっと一人で食べてきた。
それが当たり前だった。
誰も助けてくれない。
隣に住んでいた老人も、父が亡くなって後を追う様に死んだ。
数日だけだった友人も離れていった。村の人達は会話を交わしてはくれるが、厄介事には関わりたくないと常に距離を置いてきた。
出稼ぎに行っても、一緒になったグループには敬遠されてきた。腕が立つからと一人で任されることもあったし、恐らく口下手なこともあっていつも楽しそうな輪からは少し離れた場所にいた。
弟や妹の暮らしを護りたい。もう父はいない。母は病弱な上に精神を病んでいる。シキが世話をしなければ、誰がするのか。
だから。
〝助けくらい求めろ〟
今まで、一度も――。
「ミィに言われた時にも、誰かに助けを求めるなんて考えもしなかったって顔してたから。長年思考停止していた君に、一度だけ気まぐれに賭けてみようかと思ったんだよね!」
「……、何を」
「助けを求めてきたら、もう少しだけ力を貸してあげようかなって」
本当に気まぐれだ。賭けにするほどのことだっただろうか。
つまらない。
この三ヶ月、常々彼にそう評価されてきたシキだ。彼は何故そんな面倒な賭けをしようと思ったのだろうか。魔王だから、思考を読み取ろうとする方が馬鹿げているのか。
けれど。
「ねえ、シキ。今でも、死にたい?」
「……」
「死にたいなら、我が今、この手で殺してあげるよ」
優しいよね!
きゃっと両の拳を握って可愛らしく首を傾げる魔王に、しかし承諾出来なかった。死ぬために仇を探し続けていたはずなのに、その理由が目の前で音を立てて崩れていく。
父を苦しめた上に死なせて、母のことも長年苦しめてきた。挙句の果てに弟や妹も守れずに、誰かを苦しめるだけだったシキだけが生き恥を晒している。
分かっていた。それなのに、シキは。
〝悲しむよ! いなくなったら悲しむ!〟
たった、三ヶ月の付き合いだけだったのに。
「……いや、だ」
「……」
「まだ、……死にたく、ない。……死にたくない」
生きたい。
「……いき、たい」
「――」
「生き……たい……っ」
――この人達と。
最後の言葉は声にならなかったが、きっとルシフェルには伝わってしまっているだろう。思考が読めると暴露してきた。恥ずかしすぎて顔が爆発しそうだ。
それなのに、ルシフェルは「あっそ」と軽く流し。
「じゃ、もう少し自分と向き合ってみるんだね!」
「――――――――」
言い捨てて、こきこきと肩を鳴らしてルシフェルは屈伸運動をし始めた。
そのまま、シキのことなど最初から気にも留めていなかったかの様に腕を伸ばしてストレッチに熱中する彼に、何となく呆けていると。
「――悪かった」
ぽん、と頭を叩かれる。何故謝罪をしてくるのだろうと顔を上げると、将軍は少しだけ罰が悪そうな表情で更に頭を撫でてきた。
「取り敢えず、人に頼るところから始めてみればいい」
「……」
「大丈夫だよ、シキ君!」
がばあっと、背後から勢い良く抱き締められる。突然の出来事でそのまま後ろに倒れ込んでしまったが、アリシスは更にぎゅうぎゅうと可愛いぬいぐるみを抱き締める如く容赦なく抱き締めて。
「あたしも、ずーっと
「……っ」
「それにね、シキ君のお母さんにも頼まれたんだもん」
「……、え?」
何故、そこで母の存在が出てくるのだろう。
疑問符で頭をいっぱいにしていると、アリシスは呆れた様に腰に手を当てて人差し指を突き付けてきた。
「ほら、夕食後だよー」
「え?」
「あたしを攻撃した後、正気に戻ったでしょ? その時、お母さん、言ってたもん。……私と『レオン』の息子のこと、よろしくお願いしますって」
「――――――――」
「それって、シキ君の本当のお父さんとのことを言ってたんだよね? ……ちゃんとシキ君のことを息子って認識して、あたしたちに最後のお願い、託してきたんだよ」
ねーっと小首を傾げて笑うアリシスの顔は、花の様に柔らかかった。思わず、ぽろっと、何かが自分から零れ落ちる音がする。
母は、確かに行った。「私とレオンの息子」と。
今までずっと、シキのことを父と混合していて、記憶も混ざり合っていたけれど。
それでも、あの時は。
〝どうか、私と、レオンの息子のこと。これからもどうぞ、よろしくお願い致します〟
あの時だけは――。
「……、そっか」
彼女の言葉を
「一緒に、いてくれる?」
「うん! もちろん!」
「そっか」
「うん!」
一緒にいてくれる人がいる。
頼っても良い。
長い間呪縛に囚われていたはずの母も、送り出してくれた。
もう、本当に一人で頑張らなくたって良いのだ。
辿り着いた答えに、シキの心が緩む。視界がぼやけてきたが気にならなかった。
「――そっか」
何かが壊れていく音が聞こえる。薄暗い世界の向こうで、小さいシキがこちらを見て微笑んでいる気がした。微笑みながら背を向けて、崩れていく世界の中に消えていく。
未だ、シキが何を望んでいるのかは完璧には理解していない。
それでも、もう一人で頑張らなくて良いという事実がシキをこれ以上なく安心させた。
安心して、もう一度己の手の平を見つめる。いつの間にかルシフェルの手は離れていて、あれだけ痛かったはずの腕も自由になっていた。
この手は、今までずっと何かを求めて伸ばすことなど無かった。
だけど、もし。彼らがそれに応えてくれるというのならば――いや、応えてはくれなくても。
頑張って。
「よかったね、シキおにいちゃん!」
「――――――――」
手を、伸ばしてみよう。
決意した矢先に、弾んだ声が引き留める。一気にまどろみから覚めていく感覚に、シキは思わず手を引っ込めた。
だが。
「だめだよ、おにいちゃん!」
ぎゅっと小さな手に包まれる。そのままルシフェルの手に、将軍の手に、そしてアリシスの手にシキの指先を乗せていく。
そうして最後にまた、小さな手の平に握られた。四つの暖かな手はまるで宝物を抱く様に優しく、愛しく、そして離れがたい想いを乗せてシキの手を包み込んでくる。
「おにいちゃん、今度は離しちゃだめだよ!」
「だめだよ!」
目の前で、可愛くて大切だった弟と妹がにっこりと笑う。
屈託のない笑顔は、端の方から徐々に黒い羽に侵食されていっていた。まだ二人の顔を覆うことはないが、いずれそうなるのは時間の問題だ。
先程までは普通の人の形を保っていたのに。どうして、と喉は動くだけで声になってはくれなかった。
「おにいちゃん助けようとおもって、魔王おにいちゃんにたくさん攻撃しちゃったから。けっこう痛かったよ!」
「いたかったー!」
「あっはっは! ごめんね! でも、邪魔されたら困ったし!」
「うん。本当にあの人ころしてあげたかったんだけど。でも、おにいちゃんのためだって言ったから、力を使い果たしたところで見守ることにしたんだ!」
「したんだー!」
殺す。
そんな単語が平気で吐ける様になってしまったのか。
思いながら、シキはぎゅっと二人を抱き締める。そんな風に育ってしまったのは堕天使の影響下だからなのか、それともシキのせいなのか。
もう何を言ったところで言い訳にしかならない。シキが死のうとしていたこと、もう二人は死んでいたこと、そして彼らをこの手で討たなければならなかったこと。最初からきっと、二人は理解していたはずだ。
なのに、二人はシキを助けようとしてくれたのか。薄情な兄には出来過ぎた家族過ぎる。
「ハル、ミリー。護れなくて、ごめん」
「いいよ!」
「いいよー!」
間髪容れずに許してくれる。
どうして二人が死んでしまったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。
「最後まで、ごめん。……死のうとして、ごめん」
「ほんとうだよ! おにいちゃんは、ちゃんと生きなきゃ駄目だからね!」
「だめだからね!」
「うん。――うん」
抱き締めた指先から、二人の体が少しずつ少しずつ、崩れていくのが伝わってきた。強く抱き締め過ぎたら壊してしまうかもしれない。
堕天使は、討った後は跡形もなく崩れ去り、
もう、二人は何も残らないのか。
――否。二人が生きた証は、シキの中に眠っている。
だからこそシキは、生きなければならないと改めて強く切望した。
「色々、気付けなくてごめん」
母は、発狂している時、二人に暴力を振るっていた時期もあったのかもしれない。死体に憑依されたとはいえ、思考や性格は生きていた頃そのままだっただろう。
だから、先程の仕打ちに出たのは、常日頃の行動パターンからきていたのかもしれない。
ならば、出稼ぎに行っている間、二人はどんな耐え忍ぶ日々を送っていたのだろう。もっとまめに帰れば良かったと今更過ぎる後悔が押し寄せてくる。
そして、気付く。どうして三ヶ月前まで、シキは足取りが重くとも家に帰ることが出来ていたのか。
「父さんが死んで、隣の爺さんも死んで。母さんのあの行動は苦しかったけど。でも、それでも耐えられたのは、二人がいたからだ」
「――――――――」
「二人がオレのこと、好きだって言ってくれたから。オレ、頑張れた」
こんな簡単な事実に今更気付くなんて、自分で自分を殴りたくなる。
もしかしたら、二人がいたら今も死ぬことなんて考えなかったかもしれない。
だが、それが単なる空虚な弁明でしかないことも分かっていた。
「二人のおにぎり、好きだった」
「……うん」
「帰ってくる時、それが楽しみだった」
「うん」
「オレのこと、支えてくれてありがとう」
「……、うん」
「大好きだったよ。……ありがとう。……大好きっ」
ぎゅうっと抱き締めて、手を放す。
もう二人の顔は半分近く崩れていたけど、それでも微笑っていた。嬉しそうに、泣きそうな顔で、それでも太陽の様に明るく笑顔を咲かせていた。
「ボクも! おにいちゃん大好きだよ!」
「ミリーもー! だいすき!」
「だから、いってらっしゃい。お父さんのこと、ちゃんと乗り越えてね!」
「のりこえてね! いってらっしゃい!」
いつもと同じ。出稼ぎに行く時と同じく、ハルとミリーが一生懸命手を振ってくれる。
きっと、崩れていく姿は見せたくないのだろう。そして何より、シキのために手を振って送り出そうとしてくれているのだ。
だから。
シキも、いつも通りに手を上げて。
「うん。いってきます」
背を向けて、扉を開ける。ルシフェル達が静かに付いてきてくれるのが背中で読み取れた。
決して振り向かない。衝動に駆られながらも、決してシキは二人を振り返らなかった。
今まで振り向いてばかりだった自分に別れを告げて、この時初めて、シキは一歩を踏み出した。
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