第19話


 がしゃん、と遠くで何かが割れる。


 途端、強烈な光と共に空間が弾けた。飛び散る光が破片となって駆け上がり、飛沫しぶきの如く空全体を歓喜で満たして染め上げる。

 きらきらと舞い散る光の片鱗はまるで白い羽の様に映って、シキはぼんやりした視界の中で光を受け止めながら見惚みとれていた。


「シキ君ッ!」


 満たされながら呆けていると、切羽詰まった悲鳴がシキの傍に寄ってきた。望んだ人の気配が感じられて、シキは確認する様に手を伸ばす。

 実際、伸ばす力があったかは分からない。

 けれど、確かに自分の腕は持ち上がり、手を包み込んでくれる温もりを感じられた。


「シキ君! シキ君、しっかりして!」

「落ち着け、アリシス。これならお前でも治せる」


 言葉通り落ち着いた低い声が近くから降ってくる。同時に首元が優しい熱に包まれていくのを感じ取って、シキはどっと体から力が抜けていった。――それが安堵なのだと知るのはもう少し先の話だが、シキはこの時心から安堵した。


 来て、くれたのだ。


 死ぬ直前に願っていた三人が、本当に傍に来てくれた。いてくれた。

 シキが、呼んだのに。


〝しんどい〟


 あの時とは違って。

 彼らは、本当に。



「ふふふ。良かったね、シキ。ちゃんと助けを呼べて」



 ぼんやりしていた視界が少しずつ開けていく。命の雫が手元に戻ってくる感覚に満たされながら、シキは力いっぱい首を動かして天を仰いだ。

 そこには、腰に手を当てながらにんまりと見下ろしてくるパートナーの姿。口の端は面白そうに吊り上がり、瞳も試すようではあったが笑っていた。


「感謝してよね! 我の加護がなかったら、もうとっくにシキ、死んでたからね!」


 えっへん、と胸を張って宣言する内容は結構恐ろしいものだ。

 しかし、それもそうだろう。

 実際、首の皮膚を突き破り、食い込んでくる激痛に襲われ続けた。普通なら即死でなくとも命など無かっただろう。実際。安心したから体に意識を集中させて理解した。致命傷だったらしく、体を動かすこと自体が辛い。


「ちょっとー! よく言うねー! 魔王君がもっと早く助けてくれていたら、シキ君ここまでダメージ無かったのに!」

「あっはっは! 知ーらない! 我、知ーらない!」

「何ですってー! あたしのあらゆる炎の乱舞攻撃全部無効化して邪魔したくせに! 邪魔したくせに!」

「あっはっは! 我、魔王だし! 強いからね! 強いからね!」

「なにおー!」


 ばかー! と思い切り力の加減もなく、全力でえぐる様に殴るアリシスの拳を、しかしルシフェルは彼女の宣言通り軽やかに流していた。空さえも突き破る如く業火をまとった豪速アッパーも「やっほー!」と上体をわずかに反らすだけで回避していた。流石は魔王。普段ふざけてはいても、実力だけは備わっている。

 それは、加護の対象になったシキが一番知っていることでもあった。


「ま、もしシキが、ここで死んでもいいやー! お陀仏だぶつ! とか言うんだったら、助けなかったんだけどね!」

「おい。それ、東方の小神様の念仏じゃないか」

「気にしない! 我、魔王だし!」

「てめえ、クズ魔王」

「でも、生きたいみたいだったから助けることにしてあげたよ! 感謝しなよ!」


 今の説明に途方もなく釈然しゃくぜんとしないものを感じ、指摘したい部分も山ほどありはしたが、それでも助けてくれたことは事実だ。それに、本当に助けないつもりだったのならば、シキが何を言おうと、何をしようと静観していたに違いない。

 だからきっと、ルシフェルは本気で自分のために待ってくれていたのだ。あとの二人は猛抗議するだろうが、少なくともシキはそう推測した。


「うん。ありがとう」


 言ってから、首に違和感を覚えながらも何とか普通に話せることに感謝した。二人が急いで治癒してくれたのだと分かって、少しだけ頬が緩みそうになる。


「お礼! 言っちゃうの!? 駄目だよシキ君! このろくでなしに!」

「助けてくれたことは、本当だから。アリシスも、将軍も、ありがとうございます」

「うっ、……お礼なんか言われたら、あたし、反論できなくなっちゃう!」

「何でだ。……まあ、無事で良かったな」

「そうそう。大変だったよ! アリシスとそこの子供二人の攻撃けながら、お母さんの援護するの! 我、ほんと悪者だね!」

「――――――――」


 冷や水を被せられた衝撃を覚える。一気に意識が覚醒して、勢い良く飛び起きた。首に激痛が走って倒れかかったが、根性で踏み止まる。

 そうだ。シキは母に押し倒されていたのだ。罵倒を吐きながらシキを殺そうとして、彼らはそれを助けてくれた。

 ならば、その母は今――。


「……、え」


 背中を支えられながら見た光景は、理解を拒絶したがる様な凄惨せいさんさだった。


 ありえない方向に四肢や胴体を折りながら、母は目の前に横たわっていた。

 床に散らばる漆黒の乱れた髪は、闇を思わせるほどによどみながら広がっている。手の端から伸びる異様に長い牙は、爪か。無残に折れてはいるが、それでも狂気のほどが垣間見えて、シキは知らず喉を引きつらせた。

 逃げる様に部屋全体に視線を移せば、大量に散らばる黒い羽が血の様に粘つきながら、床や壁を溶かしている様が目に入った。その先からは黒煙が立ち上り、まるで戦地の成れの果てを思わせる凄絶さにシキは更に視線を転じた。


 だが、逃れられるはずがない。それはもう一度、シキに現実を直面させた。


 崩れ落ちた母の姿は、もう直視出来ないほどに歪んでいた。堕天使の力の影響か、生前の母とは何もかもが違っていた。髪の色も皮膚の色も爪の長さも服すらも、原型を留めてはいない。

 そして力を失った母の顔は溶け、皮膚も黒い斑点がぎっしり浮かび上がっていた。背中から突き出した三日月の黒い羽の塊も端から溶け、落ちた先の肉を侵食していく。

 ぱたり、と落ちるたびに肉を焼く音が上がり、シキは自然と頭を振った。



「……、かあ、さん」



 母が、死んだ。二度も。

 シキは、生き残った。

 最初は、いつだった。父が、シキの首を絞めた時だろうか。


〝どうして、……君が――生きているの〟


 苦しそうに、辛そうに。泣きながら、怒りながら父はシキの首を絞めてきた。

 父のことが好きだった。

 母はシキを父と混ぜて見る。

 その中で、父はシキだけを見つけてくれた。血のつながりもないのに「可愛い」と笑いながら頭を撫でてくれて、稽古けいこもつけてくれて、愛しそうに抱き締めてくれるのが嬉しかった。

 多分、シキは気付きたくなかったのだ。父が、その陰で苦悩しているという現実に。


 だから、罰が当たった。


 父さん、と。扉を開けて入って。様子や空気がおかしかったのに首を傾げるだけで、不用意に近付いて。無邪気に、触れようとしたから。


〝――何で、君がっ〟


 吐き捨てる様に振り返って押し倒された。

 全くの不意打ちで為す術もなく、片手で首を締め上げられて為されるがままになった。


〝どうして、……君が――生きているの〟


 どん、ともう片方の手で肩を殴り付けられた。

 歴戦の傭兵として名の通っていた父の拳は手加減もなく、簡単に骨が軽く砕ける音がした。潰れた悲鳴を上げるシキに、だが父は容赦などしてくれなくて、一層強く首を絞めてきた。


〝もう、シキは死んでいるのに! 君が生きているせいで、全然、僕を見てくれない!〟

〝……辛いんだ、もう。……君さえ死ねば、楽に、なれるのに〟

〝全然、楽に、なれないんだ、……シキ〟


 畳み掛けられる言葉。きっと、母と一緒に暮らし始めた時からずっとくすぶっていた憎悪の灯火。

 その時に思い知らされた。



 シキは、結局誰の傍にいても駄目なのだ。



〝俺、お前の友人やるのしんどいわ〟


 一度だけ、友人が出来たと思えた。母のことで疎まれがちな村の中で、初めて一緒に遊んだ友人だった。

 なのに、数日ですぐ離れていった。十を数えた頃の出来事だ。

 その時慰めてくれたのは父だった。大丈夫、いつかきっと伝わる。そう繰り返し教えられた。

 何が大丈夫なのかと疑念は抱いたが、あまりににこにこと屈託なく笑うので、父の言葉を信じることにしたのも懐かしい。

 そして、今。今度はその父が、シキから離れて行きたがっている。

 それがどうしようもなく悲しくて、――けれど、父の力になりたかった。


〝……う、ん〟


 だから、頷いた。もしかしたら、逃げたかったのかもしれない。

 だが、それだけではなかった。

 五歳の頃から十年間、父はずっと苦悩しながら、殺意を抱きながら、それでもシキを何度も救い、傍にいて、養ってくれた。シキにとっての父親は、血のつながりのある死んだ人間ではなく、彼だった。その恩返しがしたかった。


 シキが死ねば、父は楽になれる。


 だから頷いた。朦朧もうろうとしていく意識の中、抵抗しながら、けれど受け入れながら、奇妙でちぐはぐな態度で父の願いを受け止めた。

 なのに。



〝……、あ、……あああああああああああああああああああああ〟



 壊れた様に、狂った様に、父は飛び退いた。

 己の両手を見つめて、シキを凝視して。何度も手とシキを交互に見つめながら、父は最後に頭を抱えて奇声を上げた。


〝ああああああああ、ち、がうんだ。し、き。あ、僕、は、……あああああああああああああああああああああっ!!〟


 弾かれた様に飛び出し、父はその日姿を消した。

 最初は呆然として、徐々に凍り付いた思考が動き出した時、シキは急いで父を追った。月が雲に隠れ、葉が数多に茂る森の中、光の差さない真っ暗な闇に逆らう様に無我夢中で父を捜した。

 嫌な予感がよぎった。それを暗示する様な周囲の景色に抵抗して、探して、探し続けて。

 翌朝。朝日が無情に地平線から顔を出す時刻。



 父を発見した。首を吊って、――事切れた状態で。



 それからどうしたのか。

 シキは、父の死を野党に襲われたことにした。村をまもって死んだのだと、作り話をしたのだ。もちろん、体もそれらしく斬り付けておいた。きっと父は向こうで激怒しているだろう。死んだら、今度こそ殺されようと誓いながら父の体を剣で抉った。


 母は泣いた。弟と妹も泣いた。近所でよく世話をしてくれた老人は、眉間に深いしわを刻んでいた。


 どうして、父が死ななければならなかったのだろう。シキのせいだったのに。

 だから三ヶ月前、母や家族を殺した人間に刻まれた殺傷跡に気付いた時。それが、見慣れた人のものだと確信した時、「今度こそ」と思ったのだ。

 なのに、現実はどうだ。

 死を拒み、生きたいとさもしく願い。

 結果、母はまた死んだ。


「……っ、は」


 結局口だけだ。

 大切な人を苦しめるくらいならば、相手が死ぬくらいならば自分がと言いながら、いざその状況に直面すれば我が身可愛さに手の平を返す。

 母は既に死者だった。死人が住まういびつな村。

 これは自然の摂理だ。結果は上々なのだ、帝国にとっては。

 だが。


「……オ、レ。また」


 納得出来ない。

 理性では分かっていても心が追い付かない。頭と心がばらばらの方向に走って千切れそうだ。

 何をやっていたのだろう。この旅の目的はまさに『それ』だったのに。

 だから、仇を追ってきたのに。

 シキは、生きたいと願ってしまった。今も変わらず、あざける様に。



 目的が、絶える。



「かあ、さん」



 ずるっと手を伸ばす。致死に値する傷を受けた影響か、まだ思う様に体は言うことを聞かない。

 それでもうのを止めることはできなかった。じゅくじゅくとほとんど溶けてしまった母の体に触れる。

 否。触れようとして。


「何やってるのさ」


 寸でで腕を掴み上げられた。腕に食い込むほどに握り締められて、わずかに喘ぐ。


「痛い、ルシフェル」

「当たり前だよ! 痛い様につかんだからね!」


 このやり取りは、前もあった。ぼんやりした頭で、視線は母に釘付けのままシキは旅立つ前の日を思い出す。

 ルシフェルに黙っていたことが暴露された夜。毎晩同僚に嫌がらせをしていることをどうして白状しなかったのかと問われて、自分は「心配されるのが嫌だから」と答えた。

 その時の彼は、怒っていた。

 けれど、お礼を言ったら毒気を抜かれた様に脱力していた。気がする。

 どうしてだろう。今になって、そのことが頭にこびり付いて離れない。


「離して、ルシフェル」

「そうだね。君がオカアサンを諦めたら離してあげる!」


 瞬間、ざわざわと無遠慮に心を直接手でき回されている様な不快感が襲う。全身の皮膚を這う様なざわめきがどうしようもなく辛くて、振り払う様に腕を動かした。


「諦めるって何。最初からオレたち、みんなを倒さなきゃならなかったじゃない」

「じゃあ、何で未練たらたらなわけ? 魔王、分かんない!」

「ルシフェル。離して」

「何で?」

「――離してくれっ」


 腕を引っ張ってみるが、びくとも動かない。未だ力が入らないからという理由もあるだろうが、あの夜と同じで恐らく彼が本気になれば自分の力など赤子の手と変わらないはずだ。

 だから、空いた手を無理矢理伸ばす。

 黒い羽が落ちた場所に触れる、寸前。



「――駄目! シキ君!」



 もう片方の腕も抑え込まれた。

 抱き締める様に掴まれて、体も一緒に引きずられる。


「シキ君。前に、堕天使に魅入られた人のパターンのことなんだけど」


 今更何を言い始めたのだろう。

 吐き捨てようとした声は、しかし喉の真ん中で引っ掛かって零れなかった。零れないまま、嫌な音を立てて喉が引きつる。


「これなの。……堕天使と同化して、侵食されたパターン」


 だから、何。

 言いながら、シキの目の前では母の体がほぼ溶け切った。もう形も成さない。

 泥の様に崩れ落ちて、母が見えなくなっていく。


「まだ軽い症状だったら救う方法もあるんだけど、お母さんはもう手遅れだったの。多分、死体に堕天使かもしくは力を憑依させてほとんど同化が完成していたから。……倒したら、そのまま溶けて、無くなっちゃうの。無防備にそれに触れたら、……触れた部分も」


 淡々とした語り口だった。

 いやに冷静なその響きは、恐らくシキを気遣ってのものだったのだろう。微かに腕を抑え込む彼女の体が震えていたから、感じ取ってしまった。

 どうして感じ取ってしまったのだろう。そして、どうしてシキは冷静に物事を考えられるのだろう。


 母が亡くなったのに。衝撃を受けているのに。もう溶けて消えてしまうというのに。


 だが、それは当たり前だ。

 シキにとってどうでも良いことなのだ。唇を噛み締めて、己の心を今一度受け入れる。

 だって、シキは。


「まあ、どうでもいいよね、そんなこと!」


 ぱっと手を離してルシフェルが高らかに笑う。

 ぱん、と楽しそうに手を叩く様は異様で、けれどシキには相応しい顛末てんまつだとも感じ入った。



「お母さんが死んでショック? そうかもね! 二回も死体を見せつけられてきつかった? それはそうだよね!」

「ちょっと、魔王君! そんな言い草……!」

「だってシキ、最初から死ぬつもりだったもんね!」

「――――――――――」



 ルシフェルが、シキの心の奥を暴いた瞬間。

 空気が、固まった様に凍り付いた。


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