第8話


「あ、我は見学ね! 同族殺しなんて嫌だしね!」

「――――――――」


 堕天使の群れを目の前に、凍りつく様な爆弾発言をかました後。

 ぴょーんと手を天高く突き上げながら、ルシフェルは高みの見物を宣言し始めた。

 途端、ミカエルの眼光が鋭く彼の笑顔を貫く。立ち上る殺気は燃え盛る様に苛烈で、シキの肌が一瞬、ちりっと熱を帯びた。


「……てめえ、何言ってやがる」

「そうだよ! 魔王君、ひどいよー!」


 ミカエルとアリシスの言葉は一見すると単純な非難に聞こえるが、シキには一発で分かる。――忠告だ。

 なのに、ルシフェルはどこ吹く風。「えー」と肩をすくめて、忠告を石ころの様に放り投げる。


「だって我、魔王だし」

「……、だから何だ」


 ミカエルの答える声は、凍えるを通り越して感覚がなくなるほどの極寒を思わせる。

 けれど、ルシフェルには何ら通用しない。さも当然と豪語するかの如く嘲った。


「だーかーら! 三千年前までは我、彼らを統治していたんだよ? なのに倒すなんて、繊細な我の心が砕けちゃうよ!」

「っるせえ! そういう問題じゃねえ! お前、今は大人しくこっちに手を貸すって約束で野放しにされてるんだぞ! それを」

「我、魔王だから! 気まぐれなんだよね」


 うさぎの様に地面を蹴り、近くの木の枝にルシフェルは悠々と腰掛ける。そのまま頬杖を突き、本気で見学の態勢に入ってしまった。

 有言実行とは、まさに彼の生き方を指し示していていっそ清々しいが、ここでの判断は正しくない。



 ゆらりと、ミカエルが不穏に佇まいを変える。



 瞳は標的を食い破らんとするほどに鋭く引き絞られ、手の平からは鮮血が飛び出しそうなほど拳を握り締めている。震えているのは、爆発寸前の激怒が身体全体に充満しているからだろう。だんだんと周囲の熱が上がっていく様に、シキの体が悲鳴を訴え始める。

 そして、彼のサポート役のアリシスはというと、「あちゃー」と頬を押さえていたが、どこか楽しげに――冷たく、二人を見守る態勢に入った様だ。

 押さえる手の平の隙間から覗く視線は冷え切っていて、真偽を見定める首切りの監視人の様だ。

 先程までの平和な会話が嘘の様に曇っていく。シキの背筋が否応なしに凍っていくが、変化は待ってくれない。


「ルシフェル」


 シキが呼びかけても無視である。

 彼ら二人はルシフェルの様子を見定めてから、ほぼ執行者の空気へと変じていった。あの雑魚軍人の言ではないが、この任務は自分達の見極めも入っているはずだ。

 それなのに。


「……、ああ、そうかよ」


 ミカエルの声が地を這うほどに低い。どこまでも真っ平らな抑揚は、彼の中でルシフェルが処分対象に確定した証拠に聞こえた。

 いつの間にか腰から引き抜かれたミカエルの剣が、陽光を照り返して鋭く煌めいている。反射した光がシキの瞳を焼きつく様に貫き、思わず痛みに顔をしかめた。


 ――これは、まずい。


 直観ではなく、本能で動いていた。


「はっ。俺が危惧した通りか。やっぱてめえは、どこまでも腐った裏切り者ってことだよな」

「酷いね! 魔王だけどね! 腐ってはいないよ!」

「堕天使に味方するってことで、良いな?」

「そう思いたければ、それでいいよ」

「……、なら貴様はここで終わりだ! あの堕天使ともども」

「待って! ……下さい、将軍」


 肩を掴んでシキは割って入る。突然の自分の行動にミカエルが目をいていたが、構ってなどいられない。

 駄目だ。これ以上。


〝君さえ死ねば〟


 彼に――弟である彼に、皆まで言わせてはいけない。


「っんだよ。邪魔するならてめえも」

「オレがやります」

「――は?」


 端的に告げれば、ミカエルが訝しげに眉をしかめた。アリシスも「おおー」と、目と口を丸くしている。

 対するルシフェルはというと、口元の笑みを微かに下げていた。観察する様に視線が細まる。


 この言い方だと、自分がルシフェルを断罪する様な流れだと勘違いされただろうか。


 だが、そんなすれ違いはどうでも良い。シキはただ、ルシフェルへの思い違いを緩和させたかった。


「オレが、あの堕天使を全部片付けます」

「――――――――」


 見開かれた二人の瞳に、シキはしかし真正面からぶつかる。ここで押し負けたら、本当に終わるからだ。

 ルシフェルは単純に、彼らの前で力を行使したくないだけなのだろう。

 何故ならば、彼は自分と二人きりだけの任務の時は、むしろ奔放に力を振るってくれていたからだ。

 だから、彼の宣言の理由は別口に在る。

 シキが加護を受け、背中から初めて己の羽を出した時、空に向かって広がる羽の美しさに図らずも魅了されたものだ。これが、と驚かずにはいられなかった。

 そして、同時に疑問も生まれた。



 どうして――、と。



 彼は、この二人には知られたくない事実がある。

 いや、二人にだけではない。全ての天使の前で彼は自分の力を、シキを通して不用意に示したくはないのだ。


 ――何て面倒な。


 思いはしたが、シキは彼のパートナーとなった。そして、力を貸してもらっている。

 ならば、恩には恩で返すべきだろう。


「ルシフェルは、オレ一人で片付けられる。そう言いたいん、です」

「……はあ?」

「だから、将軍もアリシスも、黙って見てて、下さい」


 改めて、手に在る双剣を構え直して軽く振るい、一歩、二歩と前に進み出る。

 背後から「おい」とか、「えええ、シキ君さすがに君だけだと」と止める声が聞こえてきたが、無視をした。

 シキにとって、ルシフェルは魔王である、世界や神の敵である、そんな事実は実のところどうでも良い話だった。


 大切なのは、彼が今現在何をし、何を見、何を感じているか。それだけだ。


 きっと、自分は酷い人間なのだろう。

 周囲の心の痛みよりも、どちらかと言えば現在の在り方を重視する。己の過去は割り切れないくせに、他人相手だとそちらの方に思考が流れるのだ。

 ともすれば、甘いと罵られるかもしれない。弱さだと蔑まれるかもしれない。

 だが、それでも。



〝ほら、帰ろう。シキ〟



 家族の言葉はとても重く、時に底なしの沼よりも深い。



 ミカエルに、あの続きを言わせてはいけない。彼に、そんな悲しい決意をさせてはいけない。共に今、生きているのなら尚更。

 だから。


「ねえ、シキ」


 いつも通り、弾んだルシフェルの呼びかけが聞こえてくる。

 だが、少しだけ――ほんの少しだけ、常とは異なる不思議な響きだと感じ入った。


「少しだけ、力、貸そうか?」

「……じゃあ。跳躍力だけ、貸して」


 求めれば、「シキは物欲低いね!」とけらけら笑われた。ならば羽を出させろと言ったら問答無用で却下するだろうに、つくづく面倒な魔王だと呆れ果てる。

 しかし、充分だ。改めて、シキは空を見上げる。

 確かに空を埋め尽くさんばかりに堕天使が群れて飛んではいるが、この程度なら自分一人でも蹴散らせる。伊達だてにこの三ヶ月、堕天使相手の任務をこなしてはいない。

 それに。



〝だって、父親だからね〟



 自分は、あの父の息子。



 優しげな顔に反し、恐ろしいほどに強き武人を師に持つ者。あの程度に遅れを取ったりはしない。

 ぐっと双剣を握り締める。

 まぶたを閉じて、空を思い描いた。自由に風を蹴り、舞い、どこまでも高く飛び上がる自分を脳裏につづる。

 大丈夫。自分は独りではないのだ。どれほどの数が攻めてこようと、自分の敵ではない。


「――参る」


 すっと、瞳を開けると同時に堕天使が数人、風柱を巻き上げながら突っ込んできた。

 それを一歩横に避け、右足を軸に回転して一気に剣で薙ぎ払う。

 鈍い感触と共に黒い影が倒れ込むのを背に聞きながら、力強く地面を蹴った。その勢いのまま、雷を振り下ろそうとしていた堕天使を切り裂き、悲鳴と共にその背中を剣のみねで引き寄せ、更にそれを踏み台に跳躍する。

 槍を構えて弾丸の如く降下してきていた堕天使を悠に飛び越え、頭上に展開していた敵を切り裂き、そのまま一回転。別の堕天使を蹴り飛ばしながら、勢いをつけて先程の槍の持ち主を斬り伏せた。


「……貴様……っ!」


 本日、敵の悲鳴以外の第一声だ。言葉を操れるということは、それなりの実力の持ち主である。

 だが、シキの敵ではない。

 焼き切れる眩い光を察知し、シキは掴みかかろうと襲い掛かる者達を一刀に伏しながら、右手の剣を横にぶん投げた。

 くぐもったうめきを横に流し、シキは落ちていく敵を踏み砕いて更に跳ぶ。遠くで何回か刺さった悲鳴を確認してから右手を伸ばし、舞い戻ってきた剣を掴み取った。


 斬り伏せ、跳び、更に跳ぶ。


 大地に戻る必要も無い。

 空へ空へと高く舞い上がり、シキは次々と襲い来る敵をさばき、斬り伏せ、地に還す。剣を振るうごとに、ざわめく黒は消えていき、雲が流れる様に空が晴れ渡っていく。


 それはまるで、一種の舞の如く。


 跳び、振るい、空を滑り、そして最後の黒い雲を斬り裂いて、そのまま近くの林の枝に着地した。双剣をさやに仕舞ってから、くるんと枝を掴んで回転し、そのまま地に降り立つ。

 確認のために見上げてみれば、先程の黒い影は霧散し、澄み切った蒼が悠然と笑いながら泳いでいた。全て斬り伏せたか、残っていても文字通り雲隠れしたのだろう。ならば一安心だ。

 ぱん、とコートのすそに付着した砂埃すなぼこりを払い、ルシフェルに歩み寄る。


「ルシフェル、ありがとう」

「当然! ま、君なら我の力が無くてもいけただろうけど」

「そんなことない。助かった」

「……君って素直だよね! 我、感動!」


 ぱああっと自力で後光を差して、両手を広げながらルシフェルが向かってくる。

 そのまま感動の再会よろしく抱き付こうとするのを一歩横に避けてかわし、大木に猛烈なる勢いで熱い抱擁を交わす彼を見届けた。

 相変わらず彼の行動原理は読めない。そんな熱烈な歓迎は弟相手にだけすれば良いのにと、シキは冷め切った感想を抱く。


「将軍、アリシス、勝手を言ってすみませんでした」

「……、いや」


 若干呆けているのか、ミカエルの歯切れが悪い。シキの後ろを一瞥いちべつしてから視線をこちらに戻し、口を開きかけてからまた閉じた。

 何か、不審な点でもあったのだろうか。眉根を寄せている彼に、疑問を口にしようとした時。


「シキ君、すっごーい! すごかったよ、剣捌けんさばき!」

「ぐ、ふうっ」


 どーん、と横から岩にタックルされた様な衝撃がぶつかってきた。

 そのまま倒れ込みそうになるところを、ぐいーんと引っ張られてから抱き締められ、ぶんぶんと頭を揺さぶられる。


「あたし、シキ君の戦いって初めて見たよー! すごいね! 監視組から聞いてはいたけど、綺麗な剣さばき! 空も飛んでたよー!」

「飛んで、いたわ、けじゃ。敵、踏み台にし、ち!」

「でもでもすごかったよ! 双剣っていうのもすごいね! もうあたし、すごいしか出てこない!」


 ぶんぶんと、次第にがくんがくんと百八十度に揺さぶられたせいで、途中で舌を噛み切ったのだが、アリシスにとっては些末な事件らしい。夢中でぎゅうぎゅうに抱き締めながら、仕舞には風の力を使ってシキを持ち上げ、ぐるんぐるんと空中で振り回す。


「えっとね! それでね! シキ君、カッコ良かった、よ! きゃー! 言っちゃった言っちゃった!」

「やめろ、アホが!」


 もうそろそろシキが文字通り昇天してしまいそうなところで、ミカエルがアリシスの脳天にチョップを叩き下ろしてくれた。「いったーい!」という悲鳴と共に、もちろんシキは空中から地面に落とされる。

 ごちん、と頭をぶつけて一瞬意識が飛びそうになったが、もちろん二人は知らず存ぜぬ。もう全員、大道芸人にでもなれば良いと思う。


「シキが虫の息だ。少し考えろ!」

「えー! シキ君、大丈夫? どしたの?」

「……いや、別に。うん、二人はそのままでいいと思う」

「え? やった! 褒められたよー、あたしたち!」

「……ふん。見どころがあるじゃねえか」


 別に褒めたわけではなかったのだが、何やら二人は盛大に喜んでいた。

 アリシスはいつも通りだが、ミカエルも案外素直なのかもしれない。将軍という立場にいなければ、狡猾こうかつな政務とは無縁のまま、もっと率直に振る舞えていたのだろうか。


「ふふふ、ミィはやっぱり可愛いよねー!」

「やめろクズ魔王。気持ち悪い。消えろ」

「またまたー! それもミィの愛情表現だってわか」

「滅せよ」


 どごおっ! と、爆音と共に魔王が炎の柱に巻き込まれる。

 その炎の煌めきは、まさに天の神に捧げるに相応しい神々しさで、蒼い空が一瞬にして熾烈しれつな紅に染まり上がった。流石は炎を司る大天使である。


「でも、ほんとすごかったよー。シキ君、独学?」

「え? ……ああ、剣のこと? ううん、……父に教わった」


 ひょっこりと横に並んで話を戻してきたアリシスに、シキは一秒分空白を置いて返事をした。最後はどもっていなかっただろうかと、別の意味で心配になる。

 しかし、特に不審な点は無かったらしい。アリシスはへえー、と興味津々にシキの腰に視線を落とした。


「じゃあ、双剣使いはお父さん譲りなんだ」

「うん。この双剣も、五年前まで父さんが使ってたもので」

「ほう。譲り受けたのか」

「そうです、五年前に亡くなった時に。成人祝いみたいなものだと思っています」


 淡々と話して、腰のつかに手を触れる。

 瞬間、ぴりっと指に痛みが走ったのは、自分の中の罪悪感からなのか、単なる静電気だったのか。判断が難しかった。

 手を離して顔を上げると、少し微妙な空気が漂っていることに気付く。ミカエルが気難しげに唇を一直線に引き結んでいるのを見て、気を遣わせたかなと首を傾げた。

 別に、彼らには関係のない話だというのに。心が豊かなのだなと、微かに自嘲する。


「……シキ君のところは、十五歳で成人なんだね」

「え? ……ああ、うん。本当の誕生日祝いは、こっちだったみたいなんだけど」


 ぽん、と胸の辺りを叩いて見せる。アリシスが斬り込んでくれたことに感謝した。微妙な雰囲気は、シキにとっても居心地が悪い。


「こっちって……ああ! 藍色の万年筆だ!」

「うん。直接は受け取れなかったんだけど。小さい頃、面倒見てくれていた隣の爺さんが、当日まで預かっていて欲しいってお願いされていたみたいで」

「父親が持っていなかったのか?」

「ええ。あの人、隠し事下手で全部顔に出るし……傭兵だったから。家にいないことも多いし、もしもの時のことも考えていたんだと思います」


 話しながら頬が緩んだり、胸に針を刺し込まれた様な痛みを覚えたりと忙しない。

 父を思い出す時は、いつもふにゃりとした笑顔と死に顔が同時に浮かぶ。いっそどちらか片方だけに絞って浮かんでくれれば良いのにと、自分の記憶に悪態を吐いた。

 そして、決まって最後に耳に響くのだ。

 最後の、彼の言葉が。



〝ごめん、シキ。――ごめんっ〟



 泣かないで欲しかった。



 そんな風に懺悔して欲しくて、あの時自分は頷いたわけではない。

 自分はただ、あの人に楽になって欲しかったのだ。

 恩を感じていた。昔、家に帰りたくなかった自分に、帰る気持ちを持たせてくれたのはあの人だった。頭を撫でて、抱き締めて、愛情を注いでくれたのは、あの人だった。

 だから、自分はあの人が解放されるなら何でもやるつもりだった。

 しかし、自分がしたことは。



〝君さえ死ねば〟



 結局――。


「ふーん、なるほどね!」

「――――――――」


 能天気な明るい納得が辺りに満ちる。おかげで過去から強制的に舞い戻って来られた。

 誘われる様に見上げれば、すぐ傍でルシフェルが顔を覗き込んできていた。あまりの至近距離に思わず身を引く。


「……、何?」


 ふんふんと何か得心したのか、あごに手をかけて頷いているルシフェルは、こちらなどお構いなしだ。瞳を覗き込みながら身をかがめ、じーっと表情を――正確には自分の周囲を注視している。

 そして、ぽん、と手を打って。呆れた様に肩を叩いた。


「シキって、やっぱり面白いよね!」

「……はあ」

「つまんないけどね!」

「どっちなの」

「うーん、両方?」


 だから面白いよね、と腰に手を当てて力強く頷く。

 いつも思うのだが、何故彼は何かをするにつけて自信満々なのだろう。それこそがトップに立つ所以ゆえんだったのか。


「まあ、シキのことがまた少し分かったよ」

「そう」

「ところで、我に質問はないかい?」

「……、特には」

「えー、つまんなーい! 考えておいてねって言ったのに!」


 ぷんぷんと湯気を出して怒る魔王。そういえば昨夜、そんな話をされた気がする。思い出して、ああ、と手を打った。


「忘れてた」

「えー!」

「ごめん。何か考えておく」

「むー。いいよ、許す!」

「偉そうだな、このクズ魔王……」


 ふんぞり返って許しを与えるルシフェルに、ぼそりと呆れるミカエル。アリシスは「仲いいねー」と微笑ましく見守りながらクロワッサンを食べていた。どこまでもマイペースなパーティである。

 そうして誰ともなしに歩き始めるのも、このパーティの特徴だ。戦闘前の緊迫感は綺麗に散っていてシキは安堵する。

 そうして、安心する自分に疑問も持った。


 こんな旅は、初めてだ。


 今までも、護衛としてよく遠出を繰り返していたが、一緒にいる人達と馬鹿騒ぎをしたり、作ったものを食べて感想を言い合ったりなどはしてこなかった。

 正確には、シキ自身が輪に加わろうとしなかっただけなのかもしれない。そのせいなのか、時折雇い主から敬遠されたり、護衛対象から平手打ちを食らったりしたのも懐かしい。

 人と関わっている様で、積極的に関わって来なかったからだろうか。質問をしろと言われても、咄嗟とっさに浮かばない。

 こんな時アリシスなら、「じゃあ好きな食べ物はー? クロワッサン!」などと一人芝居をして笑っているだろう。シキが同じことをしたら、後ずさりされるだけのはずだ。――少し反応を見てみたい気もしたが、踏み止まっておく。

 つらつらと考えながら、彼らの後ろを歩く。ちょうどアリシスが「ほら、森!」と元気良く指で指し示し、ミカエルが「なるほどな……」と深く嘆息するのが見えた。


 騒々しい、けれど賑やかな空気。自分に遠慮なく話しかけてくる人々。それに続く自分。


 今まで想像すらしていなかった光景は、シキにとってはひどく貴重な体験だ。楽しいとさえ思う。

 こんな穏やかな時間が、もう少し続けば良いのに。そんな風に願ってしまうほど、シキはこの空間に没頭していた。



 本当は、天使使いになろうと思った目的を忘れてはいけなかったのに。

 だから、罰が当たったのだ。


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