第5話


『ただいま』


 十五歳から五年間、その繰り返し。出稼ぎから戻り、家の扉をくぐる。

 シキを迎えてくれるのは、いつだって家族だった。

 昔から体の弱かった母が「おかえりなさい」とベッドから起き上がり、奥から出てきて迎えてくれるのだ。

 次に待ってました、と言わんばかりに弟と妹が「おかえりー!」と元気良く抱き付いてくる。見た目は十歳だが、少し発育が遅れていたから実際は十三。まだまだやんちゃな盛りである。


『今日はお母さん、はりきったのよ』


 帰ってくる日に合わせて、母は無理を押して少しだけ豪華な食事を作ってくれていた。いいのに、と心配したら「だって嬉しいから」とにこにこ笑って聞いてはくれなかった。

 手紙に帰る日を書かなければ良いだけの話なのだが、書かなかったら書かなかったで、毎日作っていると隣に住んでいる親切な老人が前に教えてくれた。食材を揃えるのは大変だっただろうに、といつも申し訳なくなる。


 育ち盛りなのだからと、帰った日は肉料理のオンパレードだ。


 揚げたての香ばしい湯気が立つ鶏の唐揚げに――シキの好物の一つである――、細く切られた鹿肉のたたき、近くの森から狩人に獲ってきてもらったらしいイノシシの肉が豪快に入った鍋、近くの牧場から分けてもらったのだろう牛の肉厚ステーキ。

 育ち盛りでも、テーブルの隅々にまで敷き詰められたこの肉料理を平らげるのは無謀だと、そろそろ気付いて欲しい。

 とどめと言わんばかりに、中央には母の大得意のクロワッサンも並べられていた。しかも天井に届かんばかりに山盛りだ。量を少し考えて欲しい。

 だが、気持ちはありがたい。喜びと諦めが複雑に胸の内で絡み付きながら席に着こうとすると。


『ねえねえ、おにいちゃん! これ、わたしたちがつくったのー!』

『作ったぞ!』


 えっへんと胸を張って妹と弟がテーブルの隅を指す。

 指し示された場所に並んでいたものは、真っ白な塊。

 その正体に目をみはり、そして。


『――ありがとう』


 知らず内に微笑んで、二人の頭を撫でる。えへへーと、とろける様な彼らの笑みが、遠くに置き去りにしたはずの心の黒い塊を溶かしていってくれた。

 それが、日常だったのだ。



 罰当たりなほどに幸せな、瞬間だった。のだろう。






 三ヶ月前。

 その光景が残酷に笑って終わりを告げるなど、その時は予想もしてはいなかった。











『天歴5875年

 今日も一日が終わりを告げる。

 一日に何回日記を――』



「いやあ、シキって本当に日記が好きだね!」


 ベッドに腰を掛けて日記をつづっていると、にこにこと窓際に座りながらルシフェルが話しかけてきた。暇なのだろうかと、シキはぼんやり結論付ける。

 顔を上げれば、月明かりが窓から差し込み、彼の端正な顔を映し出していた。降り注ぐ光はカーテンの様に柔らかく舞い、羽の様に広がりながら室内を優しく満たしていく。

 まるで月光が魔王を包み込む様な情景は幻想的で、彼が今、背中から羽を生やしていたら綺麗だっただろうなと、どうでも良い感想を抱いた。


「日記は集中力が増す。ルシフェルも書いてみれば?」

「えー、我はいいよ。だって面倒くさいもん」

「そう」


 少しだけ口元が緩む。

 仮にも魔王が相手なのだから、慣れ合い過ぎてはいけないのかもしれない。

 だが、自分の命を守らなければという切迫した思いもかなかった。

 恐らく、今のシキには特に執着する対象が無いからだろう。今この場で首をっ切られても、恨むことなく静かに逝く自信がある。


「ところでさ、ラファエルから追加でおにぎりもらってきたんだよ! 食べる?」

「え」


 じゃじゃーん、と口で効果音を演出しながら、どこからともなくルシフェルが包みを取り出してきた。

 天使、いや魔王が使う魔法は本当に便利だと思う。異空間に私物を仕舞しまったり、炎や水といった自然界の事象を召喚したり、他国では当たり前の文明の利器がかすみそうだ。


「保温もばっちり! ほっかほかの出来立て! ほら、シキ」


 ほらほらと、迫りながらおにぎりを差し出してくる姿は異様だ。

 魔王とはもっと威張りくさって、高みから有象無象を見下す様な存在だと勝手に思い込んでいた。そういう側面を隠しているだけかもしれないが、少なくとも今目の前に映っているルシフェルが、世間の魔王像とかけ離れているのは間違いない。


「じゃあ、一個だけ」

「えー、せっかくラファエルにリクエストして二十個も作ってきてもらったのに! シキは空気を読まないね!」

「あんたに言われたくない。って、ラファエル先生にそんなに作らせたのか」

「そうそう。無口に黙々と作ってくれたよ! やっぱり持つべきは心の友だよね!」


 それは、さっさと彼を追い出したかったからでは。


 言ってみたかったが、寸でで止めた。彼と違ってシキは空気を読める。無用な争いごとは避けるべきだろう。

 無言を貫いていると痺れを切らしたのか、ほら、とおにぎり入りの袋を一つ強引に渡された。この勝手気ままさ故に、あちこち連れ出されることも多い。おかげで無用な敵も増えた。

 やれやれと疲労をにじませて、ベッドに深く座り直して壁に背を預ける。

 包みを開けてみれば、ふわりと柔らかな良い香りが鼻先をかすめた。ほかほかと湯気が誘う様に立ち上り、輝く三角の白米は白雪の様に真っ白だ。綺麗に三個並んだ姿も可愛らしい。

 見た目も香りも美味しそうな姿に、知らず心がほぐれる。

 誘われるまま口にしようとした、その時。



〝これ、おにぎりって言うんだって! 美味しかったから、シキにもお土産〟



「――――――」


 懐かしい声と共に、かつての笑顔が凍る。同時に鈍い痛みも走って、シキは小さく頭を振って視線を落とした。響いた声も笑顔も遠くに追いやる。

 改めておにぎりを見つめ、心を紛らわせようとしても。



〝どう? どう? 美味しい?〟



 ――離すまいと迫ってくるのは、己の罪か。



「……、いただきます」

 もう一度過去の残影を振り払い、手を合わせて一つに手を伸ばすと。



「えー! 信じられないよ!」

「は?」



 ぷーっと頬を膨らませて、ルシフェルが高らかに抗議する。出鼻をくじかれ、ぐわしっと、おにぎりを半分握り潰してしまった。もったいない。


「何が? おにぎり、オレのもあるんでしょ?」

「そうだよ! でも二十個も作ってきてもらったって言ったじゃない!」


 何が言いたいのだろうか。

 疑問符が顔に張り付いていたらしく、ルシフェルは呆れたといった風に憤慨した。


「二十個だよ! 君の袋の中は?」

「……、三個かな」


 素直に確認すれば、「ほら!」と偉そうに腰に手を当てて胸を張る。

 何なのだ、と表情だけで返せば、「あーっ! これだから田舎者は!」と、訳の分からない非難までされた。理不尽である。


「明らかに不公平だよね!」

「ルシフェルだし、普通だよね」

「ノー! ありえない! この場合、『オレの取り分は十個だろ。よこせや!』って、声を低く這わせ、剣を手に血塗られた戦に突入するべきだよ! 喧嘩できないじゃない!」

「喧嘩したいの」

「もちろん! さあ、カモン!」


 たかがそれだけのために怒るとか、どんなエネルギーの消費の仕方だろう。無駄遣いにも程がある。

 取り敢えず、カムカム、と両手でこまねきしながら挑発するルシフェルを放置して、潰してしまったおにぎりを一口頬張った。


「ん……美味い」


 丁度良い塩の加減に舌鼓を打ちながら目を閉じた。ふわふわした食感と、ほろりと米が一粒一粒ほぐれていく様、舌の上で甘辛さが広がるのりの佃煮つくだにとの調和が絶妙だ。感動する。

 無言で味を堪能していると、ルシフェルは完全にむくれてしまった様だ。つまんない、と溜息を吐きながらシキの隣に寝転がる。そのままおにぎりにかじり付き、「やっぱりラファエル最高」と悔しそうに漏らしていた。


「あーあ。シキってさ、我とコミュニケーション取ろうとしないよね。つまんない」

「え? 取ってるよ」


 話しかければ答えているし、傍にいていちいち大きい行動を取る彼にツッコミも入れている。一体何が不満だというのか。

 疑問が思いっきり顔に出ていたらしい。半眼になりながら、彼はごろんと寝返りを打って頬杖を突いた。


「うそうそ! 大嘘吐き! 嘘吐きはくそ真面目で融通が利かない上に頭固くて人生楽しい? と思っちゃうけど世界で一番可愛い正義の天使ミィに斬られて死んじゃうんだからね!」

「そうなんだ」

「そう! 大体さー、シキってばこの三ヶ月、ちーっとも我と喋ってくれないよね!」

「え」


 心外だ。

 そう思うも、ルシフェルは更に畳み掛けてくる。


「まったく! パートナーとしての絆? が感じられないよ! ルシフェル、つまんない!」

「え、……喋ってるよね」

「喋ってない!」


 がばあっと津波の様に起き上がりながら、ルシフェルは彼氏に怒る可愛らしい女性の如く頬を膨らませる。

 正直男である彼がそんな仕草を見せても全然ちっとも可愛らしくないのだが、助言をしたとしても聞き入れてはくれないだろうから黙っていた。


「思い返してごらんよ! 今までの我らの会話の数々!」


 数々と表現する時点で、一応会話はしていると思う。

 ツッコミたかったが、もう既にルシフェルは三ヶ月という短いのか長いのか判断しにくい過去にトリップしているらしい。手を天空に掲げ、神託を授かる神のしもべの様に滔々とうとうと語り始めた。


「例えば、初めての任務が終わった後! 思い出してごらん!」

「はあ」


 思い出す。どんな会話をしただろうかと、ぼんやり遠い記憶を掘り起こしてみた。



『シキ、今日はお疲れ様! 初めての任務にしては、ちっぽけだったけど大成功だね! さあ、乾杯しよう!』

『あ、オレ、このまま仇の情報探しに行くから。先に帰ってて良いよ』


 終了。



「この! 会話の短さ! ありえないね!」

「はあ」

「後、会話って言ったら……そうだね。周囲の同僚からいじめに遭っている時とかだね!」

「はあ」


 いじめという表現が既にどうなのだろうと思いつつ、どんな会話があっただろうかと、シキも一緒に考え始めてみた。

 確か――。



『あっはっは! 陰口悪口罵詈雑言! シキってば、超嫌われてるよ! 大変だね!』

『そう』

『だっていうのに、喧嘩売ってきた輩ってば、シキの無表情パンチの返り討ちに遭って、負け犬の遠吠えの如く逃げ去って行ったよ! 傑作だね!』

『そうだっけ』


 終了。



「この! 素っ気なさ! 我、悲しい!」


 そんなことを言われても、他にどう返せば良かったというのか。的確な回答があるのならば教えて欲しいと真剣に願う。


「極めつけはこれだね! ラファエルを紹介した時だよ!」



『シキ! 彼はラファエル! 我の心の友だよ!』

『そう。……ええと、シキ・イースレイターです。よろしくお願いします』

『…………、……ああ。よろしく』

『ちっがああああああう! シキ、そこは「心の友なんていたの!? 魔王なのに!」とか突っ込むところだよ!』

『ああ、そうか。……心の友がいて良かったね』


 終了。



「ことごとく! リアクションが! 淡泊! 我、魔王なのに!」


 魔王は理由になるのだろうか。


 既に初対面から、神と子供の喧嘩をし始めた魔王に対して、一体どんな感情を抱けというのか。今更恐怖や驚愕や畏怖を感じろと言われても無理難題でしかない。

 確かに彼はその気になれば自分を殺せるだろうし、実際何が起こってもおかしくないのだろう。何しろ大戦の元凶なのだから。

 しかし、その時はその時だ。ルシフェルを受け入れると決めたその瞬間から、覚悟は決まっていた。



 自分はただ、仇を追って全てを終えられれば何もいらない。



 だからこそ魔王である彼に対しても普通に接しているのだが、お気に召さないらしい。

 昔から人との会話の調子を変えられないシキにとって、彼の要求に応えるのは至難の業だ。そもそも、誰かと一日の大半を共にすることがこの五年間では無かったのだから、その点だけでもシキにとっては大幅な進歩である。

 だが、どう説明しても納得はしないだろう。ならばどうすれば良いのか。

 答えは簡単。


 流すに限る。


 容易く結論を導き、満足し、シキは再びおにぎりを頬張った。やはり美味い。

 そんな自分を尻目に、またもルシフェルはごろんとベッドに寝転がる。ばたばたと泳ぐ様に足を動かしながら、それにも飽きたのか仰向けになり、あちらを向きながらこちらに流し目をするという器用さで意識を向けてきた。


「シキって、我に興味ある?」

「え?」

「というか、他人に。興味ある?」

「……」


 咄嗟とっさに切り返せなかった。

 というより、意味をつかみかねたのだ。言葉を咀嚼そしゃくするのに時間がかかって、上手く回答を繰り出せない。

 そんな戸惑いに少し胸がすいたのか、笑いながらルシフェルは見上げてきた。

 何の気なしに見つめ返せば、闇の様に深い漆黒の双眸そうぼうとぶつかった。

 途端。



「――――――――」



 その深さに、思わず意識ごと吸い込まれそうになる。



 何処までも深く、磨き抜かれた黒は魅惑的で目が離せない。

 そのまま惹かれる様に奥まで落ちそうになって――。


「……、っ」


 頭を振った。意識を強引に引き戻す。

 痺れる様な感覚が残っているのは、思考の裏まで見透かされてしまいそうだからか。何だか居心地が悪い。

 だが、そんなシキの葛藤などお構いなしに、ルシフェルは笑みを深くした。


「我、本当はもっと嫌がられると思っていたんだよね」

「何が?」

「我のことだよ! 鈍いね、君」


 ぷんぷんと口に出して怒るあたり、子供だ。もしかして堕天した天使は、みんなお子様思考だったから堕ちたのだろうかと失礼なことを想像してしまう。


「だって魔王だよ? 神や天使の敵だよ? 彼らだけじゃなくて、人間のことも利用してもてあそんで楽しんでるって認識されてる堕天使の長だよ? 普通抵抗するよね」


 紛うことなく正論を突き付けられる。

 ずいっと、いつの間にか起き上がって罪人よろしく問い詰められ、思わず一歩分、体をずらした。


「事実、周りの人達って我のこと恐れてるし。合わせて魔王の加護なんか持っちゃった君も疎まれてるし」

「……まあ、そうだね」

「嫌だし恐いし理不尽だし逃げたいのが普通じゃないのかい? どうしてエデンに直訴しなかったのさ。『やり直しを要求する!』って」

「本当にやったらオレ、偉そうだね」

「ふふ、エデンは偉そうにしたって気にしないさ」


 にこにこと楽しそうに笑うルシフェルは、本当に心から面白がっているらしい。一瞬だけ遠くを見る目つきになったのは、当時を回顧したのだろうか。

 何故抵抗しなかったのか。改めて問われれば、答えは簡単だ。


「例えば、オレが嫌だと言って。それ、認められるの?」

「いいや、無理だね! 我を殺すまでは我が加護天使、いや、加護魔王だから」

「じゃあ、言うだけ無駄じゃない」


 あの場で既に神や魔王の中で、シキが魔王の加護を受けるのは決定事項になっていた。彼らは自分よりも遥か高みに存在する者達で、権威も発言力も強い。加えて帝王も認めたとなれば、こちらに拒否権はないだろう。

 ならば、無駄骨を折るだけだ。受け入れる方が楽である。

 こちらも特別異論があったわけではない。確かに驚きはあったが、嫌悪は感じなかった。

 しかし、ルシフェルにはお気に召さない回答だったらしい。「ふーん」とつまらなさそうに人差し指を唇に当てて唸る。


「君、自分の主張みたいなもの無いんだ?」

「言ってどうにかなるなら言うけど」

「言うだけ言ってみたらいいのに。変えられるかもよ? いつかやり直しだって出来るかもしれない」


 変えられる。


 その単語は、他の人にとってはひどく魅力的なものなのだろうか。

 やり直しが出来ることに、意味があるのだろうか。変えられる未来や過去があるのなら、みんな死に物狂いで掴もうとするのかもしれない。

 だが、シキは現実を突き付けられている。一番変えたかった結末は一生変わらない。


〝……どう、して〟


 五年前の自分が呆然と呟く姿が、おぼろげに目の前に現れる。己の無力に苛まれ、己の罪に絶望し、己の願いを捨てた日だった。

 どうしてだなんて、決まっている。あの時も、言葉にしてからすぐに思い至った。

 あの、真っ赤な結末は。自分が招いた罪だったのだから。



〝君さえ死ねば〟



 あの日――。



 ――どんっ。



「――――――――」



 扉の向こうから聞こえる騒音で我に返る。

 もうそんな時間だったのかと、シキは素早く思考を切り替えた。


「ルシフェル、明日は早朝に出発するんでしょ。もうそろそろ帰ったら?」

「えー? 我、眠くない」

「子供なの? ほら」


 窓を開け放って催促する。

 彼には上手く、「邪魔だから」という風に誘導出来ているだろうか。先程の質問に答えたくないという意味での邪険に聞こえていたのなら、成功だ。

 ルシフェルは少しだけ考える素振りを見せたが、素直に従うことにしたようだ。ばさっと、夜空よりも深き黒の十二枚の羽を広げて窓枠に足をかける。

 その際に、ここぞとばかりに月が彼に祝福を与えて光を散らし、一瞬羽が黄金に輝いて映った。思わず目を細めてしまう。

 だが、そんなことは口にしない。

 ルシフェルは、ふくれて外向そっぽを向いた。


「君ってほんと! 我に興味ないよね」

「そんなことない」

「じゃあ、今度質問でもしてみてよ。我の記憶じゃ、出会った頃にしか質問されたことないから」


 言い捨てて、ばさりと漆黒の光を羽ばたかせる。

 月に照らされて広がる羽は、夜空を乗せて深く澄み渡っていた。月明かりの差し込み具合がまた、夜空の羽に星を散りばめている様に煌めいて、一層幻想的な絵画を思わせる。

 綺麗だと思う。シキは、彼の黒い羽が嫌いではなかった。


「……。さて、と」


 数秒見とれた後。

 彼から意識を切り離し、シキは扉へ歩み寄る。一度ドアノブに手をかけて、重々しい心の塊を吐き出すために溜息を漏らした。

 魔王の加護を得ているのだ。魔法も扱える様になった。限度をわきまえれば、力は振るえる。

 いつもの様に燃やせば良いだけだ。意味が無いのだと、そろそろ周りも理解して欲しい。

 愚痴を心の中だけで連ねながら、意を決して扉を開ける。

 途端。



 むわっと、鼻を突く嫌な異臭が辺り一面にせ返った。思わず鼻を手で押さえる。



 異臭と共に視界に広がるのは、廊下いっぱいにぶちまけられた生魚の身に野菜のくずだった。

 どろっとした赤い液体は、トマトの成れの果てだろうか。数え上げればキリがないほどの生ゴミが、シキの部屋の前の廊下に散乱していた。

 シキが住んでいる場所は、天使の加護を得た者が住まう宮殿の一角だが、この一帯の部屋に住んでいるのは、魔王を敬遠してか自分だけだ。部屋はいくつもあるが無人であるし、生ゴミ攻撃がシキを狙っていることは明白だった。


「……毎回ご苦労様」


 一番近くに住んでいる人間でさえ、ここまで歩いて五分ほどかかる。

 つまり、わざわざ大量の生ごみを持ち歩いて、ここに盛大にばら撒き、また帰って行くのだ。手間がかかるだろうに、よく飽きないと思う。

 初日は部屋の中にぶちまけられたのだが、翌日に絡んできた集団を完膚無きまでにぼっこぼこにしばき倒したためか、その夜から廊下に変更された。

 しかし。


「……今日は一段と派手だね」


 いっそ感心したとシキは周囲を見回す。

 いつもは簡単に床にばら撒かれているだけなのだが、今夜は廊下の壁にまでゴミを叩き付けていたり、赤文字で「死ね」と書かれている。よくぞまあここまで手の込んだ芸当が出来たものだ。自分なら臭くて早々に立ち去る。


「話しかけたいなら、話しかければ良いのに」


 恐らく、昼間シキがアリシスやミカエルと話していたことが原因だろう。二人は人気が病的なまでに高い。確かに容姿は整っているが、実物を見るとどうしてそこまで人気が出るのか、シキには理解不能だ。

 彼らは気さくだから、誰が相手でも応じてくれるだろう。

 だが、二人に話しかけたくても、遥か高みにいる彼らに、部下達はおいそれと接触は出来ない。らしい。

 だからこそ余計に、平気で会話をする自分が気に入らないのだ。


〝――出て行けばいいのに〟


 ――住む場所は変わっても、環境は変わらないんだな。


 まあいい、と簡潔に諦め。シキが、簡単な炎の魔法で一掃しようと手を掲げると。



「――へえ。そういうことだったんだ」

「――――――――」



 いきなり背後から声が上がった。同時に上げた右手も掴まれて、反射的に肘を入れようと振り返る。

 が。



「……、ルシフェル」



 顔を上げた先には、漆黒の羽をなびかせ、にこにこ笑っているルシフェルがいた。

 先程窓から飛び去ったはずなのに、何故ここにいるのかと軽く頭が混乱する。


「何でここに、って顔してる。面白いね!」

「……」

「上級天使は、大体転移魔法習得しているからね! 魔王である我も例外じゃないよ。特に我なら、世界の果てから果てまでひとっ飛びさ!」


 ぱちん、と空いた方の手で魔王が指を鳴らす。

 途端、ごっと激しい火柱が大量に巻き上がった。一瞬でゴミは灰になり、次に突風が勢い良く吹き荒れる。

 焼けた臭いごと廊下の先へ先へと流していき、あっという間に清らかな空気が肺を満たした。


「ま、これくらいの嫌がらせはいいよね!」

「え?」

「こっちの話! ……変だなーとは思ってたんだよね! 初日の頃から大体毎日、この時間帯に炎の魔法使う気配を感じていたから」

「っ」


 どきりと、シキの心臓が嫌な調子で跳ねる。表情も固まっていただろう。ルシフェルが面白そうに目を細めて、蔑みながら見下ろしてきた。


「仮にも我は、君に加護を与えているんだよ? 対象が何をしているかくらい、ぼんやり把握できるさ。特に、魔法関係の気の流れはね」


 ふふーん、と得意げに魔王は人差し指をくるくると回す。つまり、自分の行動は全て彼に筒抜けで、隠すだけ無駄だと宣言された様なものだ。

 今までの苦労は一体、とシキがげんなり肩を落とす。

 と。



 ――たんっ。



「……っ」


 魔王は掴んだシキの右手を、扉に軽く叩き付けてきた。結構痛い。


「それでさ、君。何で隠してたわけ?」

「……その前に、痛いんだけど」

「はぐらかさずに答えてくれたら離すよ!」


 にっこり満面の笑みで、掴まれた腕に力がこもる。ぎしっと骨が軋む音に戦慄が走った。

 いつもと変わらないはずの笑顔が、凍える様な鋭利さで自分の胸の奥を容赦なく貫く。背後の月明かりは心なしか陰り、背中に広がる黒い翼が生き物の様にうごめいている錯覚さえ覚えた。

 気を抜けば最後。舌なめずりしながら待ちわびていた牙が、躊躇いなく首筋に突き立てられるだろう。想像して、震えた。


 だが、それも一瞬。


 シキは首を傾げて己の心を覗き込み、どうしたら伝わるだろうかと頭をひねりながら言葉にしてみた。


「え、っと」

「うんうん」

「……ルシフェルだから、大丈夫だとは思ったんだけど」

「我だから?」

「万が一、髪の毛先ほどでも、もし心配されることがあったら嫌だと思ったから、……かな」

「…………」


 沈黙が恐ろしい。


 出会って三ヶ月は経つが、尋問の様な構図に巡り合ったことはなかった。周囲の空気が震える様に縮こまっているのも、あまりお目にはかかれない。

 ただ、自分の行動で、彼の心のどこかに気分の悪い引っかかり方をしたことは読み取れた。

 しかし、何に腹を立てているのだろうか。分からないからこそ、彼の言葉を待つしかない。


「……心配されるのが嫌なの? 面倒くさいね!」

「もともといつもルシフェル、言っているじゃない。オレは面倒だしつまんないって」

「うん。何、わずらわしい関係が嫌いなのかい?」

「……違う」


 何を指して煩わしいのか、ほとほと疑問だ。この嫌がらせ事態は煩わしいが、人と関わる過程で、特に誰かを避けたいと思ったことはない。


「ふーん。じゃあ、カッコ悪いとか!」

「どうでもいい」


 人にどう思われようと自分は自分だ。カッコ良い姿を見せたいとか、同情されるのが恥ずかしいとか、そういう気持ちも無い。

 なら、どうしてかと理由を問われると即答出来なかった。

 本当に尋問みたいだと、食傷気味に頭を捻る。こんなに自分の気持ちについて深く考え込むのは久しぶりな気がして、変になりそうだ。


「えーと」

「うん」

「……、……ごめん。よくわからないんだけど、嫌なんだ」


 結局この答えしか出せない。ルシフェルや他の人に知られるのが嫌なのは確かだ。

 しかし、それがどうしてなのかと問われると、理由の先が真っ白になる。昔はそれほど理解不能でもなかったはずなのに、いつからこうなったのか。自分でもあずかり知らぬところである。


「……ふーん」


 満足しているのかいないのか。曖昧な表情で首を傾げながら、「ま、いーや」とルシフェルは手を離した。

 解放された手が、早速ヒリヒリ感を訴えてくる。余程強く握られていたのだと改めて実感した。殺されていてもおかしくなかったのかもしれない。

 だが、それよりも素直に感謝が零れ落ちた。


「ルシフェル、ごめん。ありがとう」

「? 何でお礼?」

「……自分でも、よくわからないんだけど」


 大切なことである気がしたのだ、自分にとって。何となく、避けていた棘の刺さった部分を指摘された予感がする。


「ルシフェルは、いつも意味のないことばかり言うけど」

「うん」

「無意味なことは、言わないから」

「うん?」

「少し、考えてみる」


 だから、ありがとう。


 これが、今の率直な気持ちだ。自分でも分かる範囲の感情。

 彼が気にかけるということは、自分に欠けている部分なのだろう。彼は茶化すことは多くても、話を進めなければならない部分はきちんと段取りを進めていっている。

 だからこその感謝だったのだが、ルシフェルは少しおかしそうに首を傾げて。


「うん。やっぱりシキは変な奴だよね!」


 元気にお礼の返答をしながら、どこか嬉しそうに笑っていた。











『今日も一日が終わりを告げる。

 一日に何回日記を書いているのか。他人が見たら呆れるかもしれないが、精神統一用だから仕方がない。


 ルシフェルはよく己の部屋に帰らず、オレの部屋に居座ることが多い。


 何故なのかと聞いたら、「つまんないから」と悪びれもなく笑われた。ならば、何が楽しくてここにいるのかと不思議に思う。

 本来、天使使いの天使は、パートナーと行動を共にする機会は多いが、必ずしも一緒にいなければならないという決まりはない。

 普段は別々に生活をしても構わないし、離れていても加護の力は扱える。有事の際はすぐに飛んで来られるらしいので、それぞれの時間を楽しんでも良いはずだ。

 なのに、彼は自分と時間を共有しようとする。


 彼は本当によく分からない。


 さっきも生ごみ事件を黙っていたことを怒られた。様な気がする。

 生ごみについては、放っておけば良いからと軽く考えていたのだ。それに、万が一でも心配されるのが嫌だった。

 だけど、それが駄目だったのかもしれない。ルシフェルは自分のパートナーなのだ。曲がりなりにも。

 今度は何か起こったら相談してみよう。かな。

 それから、ルシフェルが再三気にしていた己の主張については、……、――。


 保留にしよう。面倒だから。


 今日はもう寝よう。おやすみなさい』


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る