第4話


 神々のコントの果てに。

 晴れて、シキは魔王使いとして帝国に誕生した。

 しかも初日から任務を下され、一人――と魔王で解決してこいという無茶も言い渡された。


 記念すべき初の任務内容は、多くの堕天使が荒らしていた小規模な街の制圧。第一師団に入れるかどうかという一応の試験という形だったそうだ。

 監視として、一応第一師団の少数の軍人が配置された。当然、力は貸してもらえない。死んでくれたらこれ幸い、という者しか選ばれなかったからだ。

 いくら魔王の加護を受けたとはいえ、多勢に無勢。

 そんな無謀な任務は誰もが失敗すると考えていた。むしろ上も潰すつもりだったのだろうと暗黙の了解まで流れ始めたものだ。

 しかし。


「任務、完了。……で、いいの?」

「あはは! シキってば、一人で殲滅しちゃったよ! 我、退屈! つまんない!」


 見事、シキは一人で討伐を果たしてしまった。

 帝国の中で最上級の恐怖の対象に成り果てた瞬間である。






 そうして三ヶ月が経過し、今日も今日とて遠巻きにされる空間が自然になってきた頃。


「やっほー、シキ君!」


 物思いにふけっていると、渡り廊下の向こうから勢い良く手を振って歩いてくる女性の姿が見えた。

 今現在、この帝国で親しげに声をかけてくる人物など限られている。物好きだな、と思いながらもシキは軽く手を振った。

 たたた、と軽快に走りながら近付いてきたのは、自分と同じく黒の軍服をまとう緋色の髪を流した女性だった。すらりと綺麗な曲線を描いたスタイルに、雪の様なきめ細やかな肌は、ともすれば黒という無骨な服の色を華やかにしている。海の様に深い蒼の瞳に快活な笑顔を咲かせる表情は、強く惹き付ける美はなくとも、静かに香りを残す一輪の花を思わせた。


「アリシス副」

「呼び捨て!」

「……、アリシス」

「うん! よろしい」


 呼び捨てにすると、アリシスは満足そうに腰に手を当て頷く。

 一応副将軍という上司なので何度か敬称を付けようとしたのだが、頑として聞き入れてはくれなかった。周りの目が面倒ではあるが、そろそろ白旗を振る時なのかもしれない。


「君たち、あいかわらず仲良いねー。行く人行く人から噂聞いたよー。廊下を歩くだけで瘴気ふりまいてるんだって?」

「そんなことできるのは、この魔王くらいだと思う」

「照れるね! もっと崇め奉ってくれていいよ! 何なら踏んであげる!」

「いや、褒めてないから」

「あはは、やっぱり仲いいねー。お姉さん安心しちゃった」

「そう。良かったね」


 ふーっと息を吐いて額を拭うアリシスに、シキは取り敢えず相槌を打つ。適当ではあったが、彼女は満足したらしく、「それより」と話は勝手にさておかれた。


「魔王君、シキ君の体調はどう?」

「オレに聞かないんだ」

「シキじゃ駄目だよ、ほんとのこと言わないからね!」

「いや、そんなことないんだけど」


 一応反論してみたが、この魔王には当然通じない。「のんのん」と人差し指を振って、何故か得意気に分析してくる。


「アリシスも知ってると思うけど、シキは根暗で無表情だからね!」

「健康、関係ないよね」

「しかも、無表情で『こいつ……何で太らないんだよ』と世のお姉さま方が殺意を覚えそうなくらい毎食フルコースで食べるからね! 健康管理は抜群だよ! 何で糖尿病にならないんだろうね!」

「ルシフェル、人のこと言えないよね。前、ラーメン大盛十杯食べてたよね」

「北の食べ物は美味しいよね! もっといけるよ!」

「なるほどー、すこぶる健康で、予想外の危機にも対応できちゃうわけだ」

「そうだよ! 我、さみしい!」

「あはは! 魔王君ってば、淋しがり屋さんだねー」


 本人が一生懸命ツッコミをしているのに、彼らは完全にスルーしてどんどん話を進めていく。もうこの三ヶ月で慣れた光景ではあるのだが、一応ツッコミは忘れない。そもそも、内容としては褒められているのかどうかも複雑だ。

 しかし、体調のことを聞いてくるということは。

 次に飛び出すだろう話に、シキは今度は何処どこだろうとぼんやり思考を巡らせた。



「シキ君、魔王君、任務だよ」



 やはり。

 予想通りの発言に、シキは躊躇ためらいなく頷く。


「うん」

「任せなよ! また、我らだけで行く任務かい?」

「ううん、違うよー」

「えー。雑魚はいらないよ! むしろ邪魔だからね!」

「違う違う。今度はあたしとミカエル将軍も行くんだよー」

「え」

「おお!」


 意外な名前が飛び出したことにシキはわずかに目を丸くし、ルシフェルはあからさまに目をきらきらと満天の星空の様に輝かせ始めた。少し先に起こりそうな事件に、あー、と軽く同情しておく。――主に、ミカエル将軍に。

 ミカエルとは、帝国でも頂点を極める『四大天使』として崇め奉られる天使の一人だ。帝国精鋭第一師団の将軍でもあり、その上アリシスの加護天使でもある。

 そして天使の力を抜きにしても実力の伴っているアリシスは、第一師団の副将軍を務めていた。この二人は軍の中でもエリート中のエリート、崇拝すらされている存在である。

 顔も良し、性格も良しときているので、アリシスは高嶺の花と言われているし、ミカエルの方は炎を司っているせいか、その存在が眩しすぎると眩暈を起こしながら倒れる者が続出していた。シキからしてみれば、何故そんなに周りは拝み倒すのだろうと不思議でならない。

 実態など、これから起こる出来事が全てだというのに。


「あ、噂をすれば」


 アリシスが遠くの廊下を見やり、シキもそれにならう。

 隣にいるルシフェルは、きらっきらの瞳を更に輝かせて文字通り天に昇りそうだ。これほど光が似合う魔王はいないだろう。流石は元天使といったところだろうか。堕天する前は光の天使であったらしいし、納得だ。

 同時に、周りにいる者達にとっても一大事だ。「はああああ……っ!」と、世紀の大発見をした様に表情を崩壊させ、涙を流す者まで現れながら周囲の群れが光の速さでかしずいていった。もはやしもべである。

 瞬間。



 ざっと、風が強く巻き上がった。



 煙の様に噴き上がる風の中から、一人の人物が厳然と姿を現す。

 自由気ままな風さえも従え、コートを翻しながら颯爽と歩いてくるのは、炎の様に鮮烈な紅い髪を携えた青年だった。一歩歩くごとに周囲の空気が引き締まり、全てを従える覇気をまとう姿はまさしく苛烈な炎を思わせる。

 髪と同じ紅い瞳は剣の如く鋭く、撫でる様に見回すだけで草木さえも腰を折る。実際、傍を横切られた天使は、元より平伏していたのに更に深く頭を垂れ――むしろ土下座していた。傍に在るだけでそれほどまでに圧迫感があるのだろうと、遠目であっても理解出来る。

 燃え上がる様な靴音が、シキ達の五歩手前で止まった。

 一触即発の緊張感。確かに、彼が現れるだけで周りの風も張り詰める傾向があった。

 が。



「ミ―――――――ィ―――――――!!!!!」



 その奇妙な緊張は、一瞬で終わりを告げた。



 ぴょーんと兎の様に飛び跳ねながら、ルシフェルがミカエルに特攻する。その飛び跳ね方や、まさに誰もが描けないほどに美しく綺麗な弧であった。

 しかし。


「っるせえ、クズ魔王」


 ひょいっと最低限の動きだけでミカエルが横にずれる。

 哀れ、魔王は純真な笑顔のまま近くの柱に激突した。ミカエルはただ歩いているだけと思わせておいて、立ち位置を精密に調整していた様だ。変な部分で細かいな、とシキは感心する。

 だが、そこはルシフェル。ゆらりと煙の様な立ち上がりをした後、ぐるんとコマの様に回転し。


「ふふ、……見たかい、シキ。ミィが、何と! 我と! しゃべってくれたよ!」

「ああ、うん。良かったね」


 だらだらと額から血を流し、物凄く良い笑顔でサムズアップをしてきた。何が嬉しいのかさっぱり分からないが、取り敢えずミカエルが口をいてくれるのが嬉しいらしい。これは三ヶ月と言わず、初日で理解した。

 ち、と強く舌打ちしながら、ミカエルはルシフェルを視界の端から追いやりつつ手を挙げてくる。無視したいのにしきれないあたりに、彼の几帳面さが表れていた。微笑ましい。


「お疲れ様です、ミカエル将軍」

「ああ。……シキ、アリシス、調子はどうだ」

「見ての通りです」

「あのね、シキ君も魔王君もあいかわらず仲がいいんだよー! 糖尿病にならないから、今度の作戦もばっちりなんだって!」

「アリシス、意味が分からないんだけど」

「大丈夫だ。最初から会話など期待していない」


 きっぱりとミカエルが言い切るあたり、付き合いの深さが窺える。確か二人は四百年の付き合いだと聞いた。それは潔さが必要になるだろう。



 そう。アリシスは、可憐な花の様な姿をしているが、実際は四百年も生きている。



 天使の加護を与えられると、人は天使につられて成長が止まり、寿命が長くなるという。長さは個人差があるらしいが、短くとも千年は生きられる様になるそうだ。

 もちろん不死身ではないため、病気や戦いで命を落とす者も多い。身体の構造も劇的に変わるわけではないため、調子に乗って身の丈を超えた力を使い過ぎると枯れ果てる。

 そのため、二百年も生きられない人間ばかりだという。そういう意味でもアリシスの実力は窺い知れた。


「ところで、今度の任務は何ですか? 今まではオレたち二人で堕天使を殲滅せんめつする作戦ばかりだった気がするんですが」


 ルシフェル達の漫才は置いておき、シキは最初の疑問をぶつける。

 今までは、神も帝王も警戒していたからなのか、さほど重要な任務は与えられてはこなかった。ほぼ二人で突進する、小競り合いを収める様な内容ばかり。正直、雲の上の様な上司と共に行う任務など想像が出来ない。


「ああ……今までのお前らは良く言えば単純、悪く言えば単細胞の塊の任務ばかりだったからな。だが、今度は違う」

「あはは、ミィってば。全く単語の意味が変わってないよ。このお・ば・か・さ・ん♪」

「貴様のために用意した言葉だ。ありがたく思えクズ魔王」

「……聞いたかい、シキ!? ミィが、何と! 我のために! 言葉を考えてくれていたよ……!」

「ああ、うん。良かったね」

「いやあ、シキ君、魔王君の扱い方手馴れてるね! さすが変人」

「変人の群れにいたら普通そうなるよ」


 淡泊に流せば、「それもそうだねー」とアリシスは全面肯定してきた。つくづく思うが、彼女は言動に容赦がない。


「話を進めるぞ。今度の任務は、帝国の東にある小さな村の調査だ」

「調査? 村をですか」

「ああ。そこは、死者の集まりなんだそうだ」


 死者。


 ミカエルの口から飛び出した単語に、流石にシキだけではなく、ルシフェルも弾んだ空気を鎮めた。ふむ、と指を口元に当てて小首を傾げる。


「面白い解説だね。ゾンビなのかい?」

「違う。死んだはずの人間が、村で普通に暮らしているそうだ」

「それは、生前の姿のままで、ということですか?」

「そうだ。一週間前、偶然村に立ち寄った旅人が、死んだはずの妻を見かけたことで発覚した」


 腕を組んで、ミカエルが淡々と説明をしていく。

 仕事内容を口にする時、彼は一切の感情を見せない。

 だから上に立てたのだなと、周りで未だ遠巻きにしながらこちらを恍惚こうこつとした表情で見守っている人だかりを見やった。――あのルシフェルとのやり取りを見た後で、まだ恍惚と出来る神経がシキには理解出来ない。


「地図にも載っていない。だが三ヶ月前から存在していた村の様だ。帝国と隣国の国境ぎりぎりで、森が茂る場所だったからか上手く隠れていたらしい」

「あはは、それは怠慢だね。上層部の醜い言い訳だよ」

「その通りだ。だから今回、俺が出ることにした」

「……へえ」


 軽口に乗らず、ミカエルが平坦に告げた。

 少しだけ目を細めて、ルシフェルも黙る。人を茶化す表情ばかり見せる彼にしては珍しい色で、シキは一瞬だけその光景を脳裏に引っかけた。


「君が責任を取るの? 下手したら、頂点に立つ天使の首がほぼ飛ぶのに、よく大臣達が賛成したね」

「ふん。俺を誰だと思っている? 大臣達を黙らせることなど造作もない」

「そうそ! ミカエル将軍、凄かったんだよー。責任押し付け合う大臣達に向かって一言、『……腰抜けが』って」

「おお、カッコ良い……っ! ミィ、最高!」

「いやあ、あの時の将軍の声の低さ、地獄の魔王をよみがえらせるほどの黒さでっててさー。泡ふいて気絶する人たち続出だったんだよー」

「アリシス。お前は、『これで無事に将軍帰ってきたら、みんなの首、飛ぶね!』って追い打ちかけてたよな」

「うん。だって本当のことでしょ?」


 あっけらかんと明るく述べるアリシスの口調に陰りはない。平気で重苦しい未来を口に出来るあたりは、流石副将軍と言うべきか。この表面上の明るさと軍人としての思考のギャップは、長年の経験からなのか素なのかは判断が難しい。

 しかし、責任を取りたくないというのは、どの場所でも同じかとシキは嘆息する。自分の家族が死んだ時も、村の長は怯えるだけで原因を追究しようとはしなかった。

 元々、厄介な揉め事には首を突っ込もうとしない風潮の村だ。むしろ厄介払いが出来て清々したことだろう。

 だからこそ、自分で犯人を探すと誓った。確かめなければならないことがあるから。



〝いつもごめんなさいね、シキ〟



 自分を迎える時、大抵母はベッドの上からだった。その後体調不良を押して作っていただろう料理の元に案内して、労ってくれる。それが常だった。

 時折荒波も立ったが、平凡で穏やかだった日常。壊された時、疑問に思ったことがある。


〝――、……オレ〟


 自分は――。


「まあ、腐った上層部を一掃するいい機会だ。今代の大臣達は腑抜ふぬけばかりだったからな」

「―――――」


 思考を引き戻されて、シキは目の前の会話に集中する。ミカエルの呆れた言い草に、ルシフェルが笑って同意した。


「そうみたいだね! エデンがよく許してたね」

「人の治世に関しては、神様は基本関わらないからねー。あくまで堕天使に関することだけに力を振るってたし」

「あはは、律儀だね! 最初の取り決め守ってるんだ」

「そうそう。これでも大分排除したんだよ? 前帝王が政治に全く興味ない人でさー。ローランド様が即位されてから、もう大変。おとり使ったり囮使ったり囮使ったりして尻尾つかんだりしたんだよー」

「ねえ。囮しか見えてこないんだけど」

「大半はそれだったし。信頼できる人種が少なかったんだよねー。加護付きの人間だって派閥あるし、逆に信頼できる天使とか人間は警戒されちゃうから、あたし達あんまり役に立たなかったよねー」

「……そうだな」


 低く答えるミカエルの声は機嫌が底辺だ。

 事実としては、彼らが関わった案件もあっただろうが、本気で動きにくかったのだろう。彼も彼女も何しろ目立つ。当時の治世が欲塗れだったのならば、警戒対象として監視が何人も付いていただろう。下手に動けば現帝王の足枷になったはずだ。当時の歯がゆさを想像すると、忸怩じくじたる思いがあるに違いない。

 それでも、今、帝国は恐らく改善しつつある。彼らは、彼らに出来ることをこなしているのだ。

 ならば、シキもシキなりに動くだけである。


「とりあえず。今回オレ達は死んだ村の原因を突き止めて、その成果を手に上層部を一掃する。それで合ってる?」

「うん、合ってるよー」

「我の力で殲滅すればいいんだよね!」

「違う。黙ってろクズ魔王」


 ばこっと、ルシフェルの口に大きな白い物体を突っ込むミカエル。ふごふご、という彼の抵抗はもちろん綺麗に黙殺された。

 ふごふご、から次第にもしゃもしゃに音が変わっていったところで、ミカエルは疲れた様に溜息を吐く。


「お前の元、心の友、ラファエルからの差し入れだ。必ず、このおにぎりを、残さず、食べろ、だと」

「ほおおおおおお! もひろん! はへるとも!」

「ルシフェル、本当に元同僚大好きだね」


 名前を聞いた途端、またも目を子供の様にきらきらと輝かせて咀嚼そしゃくするルシフェルに、シキはおにぎりを見つめながら嘆息する。この光景も見慣れた。

 ラファエルとは、この帝国で屈指の医者として名を馳せる天使であり、『四大天使』として崇められる一人だ。天使時代だった頃の、ルシフェルの心の友らしい。

 シキも数回だけ会ったことがあるが、よく喋るルシフェルとは対照的にかなりの無口である。

 しかし、シキには分からない無言も、友人であるミカエル達は違えることなく聞き分けてしまうのを何度も目にした。付き合いの長さは素晴らしいなと思う。


 そのラファエルは、魔王として戻ってきたルシフェルに何故かよく、口よりもどでかい真っ白なおにぎりを差し入れしていた。東方に出張した時から、ラファエルはおにぎりに魅力を感じているらしい。


 そして決まって、問答無用でルシフェルの口に一息に突っ込めと誰かに指令を出す。


 その手渡しの矛先によくミカエルが指名されるので、彼は物凄く嫌そうに、生ゴミを見た様な表情で遂行しているのも日常の一幕になっていた。

 けれど、それはもしかしたらラファエルなりの気遣いなのかもしれない。二人が、少しでも話せる機会を作れる様に。

 何故なら。


「……ったく。ラファエルの奴、どうして毎回毎回俺に頼むんだ。もっと他に適任が」

「えー? あったりまえだよー。だって将軍、魔王君の弟なんだし! ラッブラブ!」

「そうだよミィ! 愛しの弟よー!」

「やめろ。うざい。死ね」



 ――そう。ミカエルは、ルシフェルの双子の弟なのだそうだ。



 髪や瞳の色も違う上、テンション一つ取っても正反対で性格も真逆に映る。むしろアリシスの方がルシフェルの妹なんじゃないかというくらい、彼女の方がそっくりだ。

 しかし、正真正銘ミカエルがルシフェルの弟なのだ。

 堕天し、人生真っ逆さまの道を辿った魔王の弟。当時は相当に苦労したのではないだろうか。それこそいわれのない非難も中傷も嫌がらせも、たらふく受けただろう。

 しかし、それを乗り越えて、彼は今精鋭の頂点にいる。想像しか出来ないが、きっととても努力家で尊敬すべき人なのだと思った。


「ミィ、昔から照れ屋さんだったからね! そんな言葉も愛情の裏返しだと――」

「消えろ」

「ぐふおっ! ……シキ! 見て! ミィが、我の顔面に自分の靴跡を残してくれたよ!」

「てめえ、本当にいっぺん消えろ」


 ――そう。

 例え、兄を容赦なく本気で蹴り倒そうとも。かなり本気で嫌がって、存在ごと抹消しようと企んでいようとも。無視出来ないあたりが可愛い弟で、苦難を乗り越えてきた尊敬すべき人なのだろう。シキは、そう思うことにした。


「……ふう」


 とにかく、趣旨はもう理解した。任務内容は村の異常事態の原因を突き止め、排除する。これ以上話し合うことはない。

 ならば、恒例の監視日記でもつけておくかと懐から一冊の本を取り出した。魔王使いとなったその瞬間に現実逃避で始めたのだが、なかなかに面白い。元々日記は昔から習慣で書いていたので、三ヶ月欠かさず記すくらいにはのめり込んでいた。むしろ現在、既にほぼただの日記と化していたが気にはしない。


 ぱらぱらと空白のページの箇所を開き、同じく懐に差していた藍色の万年筆で目の前の出来事をつづる。


 ざわめく空気が研ぎ澄まされ、洗練されていくこの空間が心地良かった。一種の自分なりの精神統一方法なのかもしれない。

 しばらく黙々と書き込んでいると、眼前で騒々しい漫才を繰り広げていたはずの兄弟がいつの間にか静かになっていた。茶化すアリシスの喧騒も聞こえてこない。

 終わったのかと緩慢に顔を上げれば。


「ふーん」

「―――――っ」


 いきなりどアップでルシフェルの顔が映った。

 流石に端正な顔立ちが視界いっぱいに広がっていると心臓に悪い。肩が跳ねたのは、致し方ないことだっただろう。


「な、何?」

「いやあ、いつも思うけど熱心だよね! 見てもいい? いいよね! 友よ!」

「えっと、うん。良いけど」

「さっすがシキ! ミィも読もう! 面白いんだよ、彼の日記!」

「……てめえ、趣味悪すぎだろ」


 半ば強引に監視日記を奪いながら、ルシフェルがうきうきと書き込んでいた場所を開く。ミカエルも何だかんだ言いながら近寄っていくのは、好奇心が抑えきれないからだろうか。仲良く日記を覗き込む姿は、やはり兄弟なのかもしれないと微笑ましくなる。

 そして、ひょこっと後ろから「なになにー、見たい!」と覗き込むアリシスに、彼らとかなり似た空気を感じる。だからこそ、ミカエルは彼女の加護天使になったのかもしれない。

 そうして、三人で数秒覗き込んだ後。



「――ふんっ!」



 ばりいっ! と、ミカエルが日記を破り捨てた。「ああ!」とルシフェルが泣きそうな悲鳴を上げる。


「ミィ、酷いよ! 何故破るんだい!」

「うるさい! 何だこの日記は! 『ミカエル将軍とルシフェルが今日も仲良くじゃれ合っている』とか! ありえねえ!」

「えええ! 本当のことじゃないか! せっかくの兄弟メモリーが! 酷いよミィ!」

「っるせえ! まずこの俺の心的損害を賠償しろ! 謝れ!」

「いや。とりあえず、日記を破ったことを謝って、……下さい。オレに」


 ミカエルの無茶苦茶な主張を、シキは冷静に吹き飛ばす。ついでに、ルシフェルの嘆きが百パーセント兄弟メモリーを破られたことに集約している事実に関しては、もう諦めた。彼はそういう人間、いや魔王だ。

 牙を剥いて唸るミカエルの手から日記を取り戻し、破れたページも拾う。「はい、これ」とアリシスが手伝ってくれるのが唯一の救いだった。


「うーん、何でかな。結構うまく書けたと思うんだけど」

「うん、いいと思う。あたしは面白かったし。それに、シキ君がおにぎり大好きだって書いてあったことも確認できたしね!」


 そういえば、いっつもパン食べないよねー。


 にこにこと光の花の様に笑うアリシスに、シキは曖昧に頷いておく。えず一人の読者に好評だったのなら良いかと思い直すことにした。

 しかし。



 ――そんなに、おにぎりが大好きだと主張しているだろうか。



 確かに、以前旅に出ていた父が持ち帰ってきて以来、食べる回数は多くなったが。

 自覚が無かったことを指摘されて、シキは紙面に視線を落とす。破れた箇所をアリシスが差し出してくれたテープで貼り付けながら、帰る前にともう一度読み返してみることにしたのだった。




『天歴5875年


 本日でちょうど、この監視日記の記録も三ヶ月になった。記念すべき日。今日は塩おにぎりで乾杯しようと思う。

 その記念すべき今日の出来事であるが。


 目の前では、ミカエル将軍とルシフェルが今日も仲良くじゃれ合っている。


 性格はまるっきり正反対ではあるが、やはり兄弟なのだろう。仲が良い。アリシスも妹として加われば、向かうところ敵なしのむつまじさである。仲が良いことは美しきかな。

 これで、天使と魔王という垣根さえなければ、周囲にだって仲良し兄弟と認められただろうに。実に残念なことである。

 だが、そんなことはどうでもいい。重大な、見過ごせない、あるまじき光景に直面してしまった。


 それは、もちろんこの一応の監視日記対象のルシフェルだ。おにぎりをあんなに口いっぱいに頬張れるなんて。何たる幸運。


 ラファエル先生が作ったおにぎりが絶品なことは知っている。前に差し入れを分けてもらう機会があったが、頬がとろける様だった。

 絶妙な塩加減、ほくほくの白米にふんわりした食感。鼻を抜ける香りは芳しく、中に入っていた鮭の身とのハーモニーが何とも言えなかった。


 ――駄目だ。思い出したらお腹がすいた。


 仕方がない。将軍に言い渡された任務のことでも考えよう。

 どうやら将軍によれば、死んだはずの人間が肩を寄せ合って暮らす村があるそうだ。その原因を突き止めて対処する。らしい。

 ……。


 考えが終了してしまった。ここで、今回の日記は終わろうと思う』











 ミカエルはシキとアリシス、そしてあるまじき事実であるが血の繋がった兄と別れ、宮殿の中央に位置する庭園を歩む。

 理由は簡単。一人になりたかったからだ。執務室に戻れば書類と睨めっこの時間が始まるが、休息も欲しい。だからこその散歩だったのだが。



「何で魔王使いに、任務なんて与えるんだろうな」



 宮殿を彩る庭の高き茂みの向こう。陰口を叩く声が風に乗って運ばれてきた。

 思わず足を止めたのは、長年染み付いてしまった習慣の様なものだ。


「大体、天使様から加護受け損ねたくせに生意気なんだよ。誇り高き名誉を穢すとは」

「上層部も、さっさと始末すればいいのにさ」

「だが、三千年前は文字通り死闘だったらしい。罠を巡らせる時間が欲しいのだろうよ」

「にしたって、自由に行動させるとかさ! あー、いやだいやだ空気がまずくなる」

「さっさと死んでくれることを願おうぜ」

「というか、魔王復活させちゃった責任取って、腹でも首でも自分で切ればいいのにな!」


 あははははは。


 下卑た嘲笑が宮殿の庭に響き渡る。生き生きと誇らしげに空に伸びていた大木は心なしかしなだれ、清らかに咲き誇る花は顔を曇らせて沈んだ。



 封印した魔王が、復活した。



 それは、神や三千年前から生きてきた天使に強い衝撃を与えた。当然、今を生きる者達にも。

 情報を規制して宮殿の中だけに拡散を抑えたのは、世界を混乱に陥れないためだ。


 しかし、衝撃の度合いに隔たりはある。


 当時を生きた自分達と、単純に伝え聞いてきただけの無知なそれ以外。構え方が、心境が、警戒の仕方が、何もかもが根本から異なった。

 正直、アリシスの様に平然とシキ達と会話を交わす光景が許されること自体がミカエルには信じられない。そんなことをすれば、当時ではシキはもちろん、アリシスも私刑の対象になった。――もっとも、アリシスは分かっていながら話している部分もあるが。

 あの大戦時は、本気で全員が死と隣り合わせだった。いつ死んだっておかしくない日々に身を投じ、敵だけではなく味方さえも互いに警戒せざるを得なかった。

 特に、兄と血の繋がったミカエルは、他の比では無かったのだ。



〝お前、魔王の弟じゃねえか! 視界に入るんじゃねえよ!〟

〝俺の家族、堕天使に殺されたんだよ。兄の責任取って死んで償え!〟

〝西に千の堕天使を確認した。魔王の弟ならば、一人で討ち果たせるだろう? 行け。全て倒すまで戻ってくるな〟



 ただ影口を叩くだけではなく、文字通り殺しにかかってきた。神や師、友が助けてくれなければ、本当に自分は死んでいただろう。

 自分が魔王と剣を交え、死に物狂いで神と共に封印して、ようやく仕打ちは落ち着いた。

 紙一重の日常だった自分。

 だが、今の周囲は当時のミカエルと同じ立場に在るシキに対し、陰でこそこそ他人任せになじるだけだ。

 決して、己で動こうとはしない。死に物狂いでシキの命を奪おうとすることもない。


「三千年、か」


 空を見上げて、ミカエルは独りごちる。ゆったりと流れゆく雲は、蒼い空に身を委ねて実に気持ち良さそうだ。今の世の中を明白に象徴している。



「平和になったもんだ」



 淡々と吐き捨て、ミカエルは休憩すら堪能たんのうできなかった事実を足蹴にし、仕方なく執務室へと戻ることにした。


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