Append

Append.ひみつのはまべ

 オフィス・フロアの窓から、潮風が入ってくるわけではないし、そもそも全館空調で窓を開けることはできない。北側のブラインドのむこうに、電車が行き交う京都駅が、かけらほどに見える。

 ワンフロアに3つの課が入っていて、課員の予定は入り口脇に並んでいるホワイトボードに記される。僕の名前と、泉水さんの名前は、それぞれの課の列に並んでいた。


 昼間にコピー機の前や、通路ですれ違うことはあったとしても、夕方ほど何かを話すわけではなかった。ただ、いろいろとあの場所で会話をはじめてから、「あれは泉水さんだ」と、はっきりわかるようになった。−−そこから、泉水さんと同じ課の誰それとか、上司の名前とかが、覚えやすくなった。


 課ごとは背丈より少し高い、パーティションで区切られているため、何かがない限り、隣やむこうの課が細かく何をしているかまでは知らない。−−

「−−さん、向井

 だから、泉水さんが僕の名字を「」呼んでいることに気づくまで、しばらくかかった。

「えっ」

「あの、ちょっと……」


「これ、ですか?」

「はい……、すみません、今みんな出払っちゃってて……」

「いやいや、一応僕、社内SEとしてここに採用されてるんですから」

 庶務の人が使っているパソコンの調子が悪いのだという。課の詳しそうな人は、会議や外出と、ホワイトボードに書いて、いなくなっていた。


 この会社独自の設定は、手順書を見ればどうにかなるし、ハードエラーであればどこが悪いかという「切り分け」ならできそうだったので、早速自分の上司にひとこと言って、フラットファイルやメモを片手に対応をはじめた。


 泉水さんも、ほかの庶務の人たちも、パソコンを使わなくてもやることはいろいろあるようで、僕に椅子は貸してくれたものの、ずっと見ているという状態ではなかった。僕はデスクトップ・マシンの電源を入れてみたり、モニターのケーブルが緩んでいないか見なおしたりした。


 泉水さんは、てきぱきと書類を整理しているようだった。--やっぱりどうしても、知っている人に目が行ってしまう−−あやうく、画面がちらつく瞬間を見逃しそうになった。「係長、管理台帳って3課からも閲覧できますか?」ごまかすように一度自席に戻った。



 調子が悪かった原因としては、あのパソコンはそもそも捨てる予定だったデスクトップで—ほかの不要品からパーツを付けかえたものの、それが誤動作を起こしていたのだった。というのを、あまり専門用語を使わずに泉水さんに説明して、「管理台帳の備考欄に書いていた名前」が、たぶん組み立てた人ではないかと言ったら、「やっぱり!」と納得された。

「あの人、ちょっとマニアックなんですよ」

「あ、そうですか」

「でも……ありがとうございました。たすかりました」

 とても事務的な口調で、お礼を言われた。



 今日はもともと寄り道はしないで帰るつもりだった。泉水さんも、毎日そこにいるわけでもないだろうと思っていた、が、次の電車まで時間があったので、いつもの自販機に向かってみると……、ロイヤルミルクティをわきに置いて、雑誌を広げる、私服の泉水さんがいた。

「--よくわかるパソコン?」

「……はっ!」

 いやあの、と泉水さんは慌てているようで、

「パソコンを使う時間が増えているのに、わからないことだらけだなあって」と続けた。

「無理してないですか?」

 何気なく言ったつもりだったが、深刻に受け取られかけもした。

「これから庶務とはいえ、使いこなせないと……えっ、何笑ってるの」

「いやあ、泉水さん、まじめですよね、はは」

 発車した特急が、やがてスピードをあげ、風を鳴らす。

「でも、」

 もうひとつ向こう側のホームに、下りの新快速が流れこんできていた。

「今日の向井君、おもしろかった」

「……はい?」


 大阪や神戸方面に帰るたくさんの人たちが、電車に乗り込む。

「おもしろいって、普通にパソコンのトラブル対応をしただけですよ?」

 車掌がドアを閉める。電車は軽く揺れて、動きはじめる。

「そんなつもりは全然ないんだけど、ここで会ってることとか、みたいで」



「笑いをこらえるのに必死だったの、ふふ」という感想は、新快速の長くつながった車両がぜんぶ、加速してホームを離れてゆくまで、なかなか耳に入ってこなかった。


「えっ……」

「なんだか驚かせた? さすがに、昼間もこんな口調で話すわけにはいかないでしょう?」


「ああ……くっそ!」

 反対に一本取られたという感じで、笑って返した。

「その本、わからないところがあったら聞いてくださいね」


「えー、昼休みにおじゃましちゃおうかな?」

「それはやめてください!!」

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