第三話「裸」

 その夜、アルは宿屋に泊まった。この宿屋は、ナーシアが孤児としてこの村を訪れてから世話になっている家でもあるらしく、二人は一つ屋根の下で眠ることとなった。のみならず、隣同士のベッドで、手を繋いで眠った。ナーシアが無言の内にせがんだのだ。


 とはいえ、アルには恥ずかしがったり、浮かれたりする余裕はなかった。ナーシアは怯えきっていたし、同じ屋根の下で、情け容赦のない恐るべき三人の騎士も眠っていたからだ。


 そんなわけで、アルの眠りは浅かった。そしてまた、あの白い深海に漂っているかのような、始まりも果てもない夢を見た。


 翌朝、アルは鐘の音で目を覚ました。隣のベッドは空だったが、アルの手には、かすかに温もりが残っていた。アルはその手を握り締めると、のそのそとベッドから這い出た。


「ゆめゆめ、備えをおこたるでないぞ」


 食堂へ行くと、三人の騎士が出立するところだった。羽飾りの騎士は、ベイマンに念を押しているところだったが、アルに気が付くと、にやにやしながら――目は笑っていなかったし、口の端はやや引きつっていたが――言った。


「よい身分だな? 昨夜は楽しんだか?」


 しかし、アルが寝ぼけまなこをこすって尚、きょとんとしているので、興を削がれたらしく、舌打ちをすると、


「せいぜい、今を楽しんでおれ。こやつらの申し開きと、女に助けられたきさまの情けなさに免じて、魔法使いの容疑は晴れたということにしてくれよう。だが、昨晩申したとおり、きさまの不審に変わりはない。きさまの処遇については追って沙汰さたするゆえ、それまではタンムースのために、陛下のために働き、少しでも心証をよくしておくがいい」


 と、憎まれ口と忠告がないまぜになった捨て台詞を吐き、宿屋から出ていった。ほどなくして、馬のいななきと蹄が地を穿つ音が聞こえ、やがて遠ざかっていった。


「……あの人たちは?」

「陛下直轄の流星騎士団だよ。ああして村を駆け回って、沙汰を下しておるんだ」


 アルの問いに、ベイマンは溜め息をつきながら答え、続けた。


「すまんな、アル。嫌な奴らだが、あれでも頼りにはなるんだ。ああ見えて、不正や横領の噂も聞かないし……」

「今回は頼りにゃなんねーけどな。その癖、偉そうにしやがって……」


 悪態をつきながら扉を開けたのは、リンドである。矢筒を背負い、クロスボウを肩に担いでいる。足元では、犬が律動的に白い息を吐いている。


「ほら、さっさと仕度しなよ。あとはおっさんと兄ちゃんだけだぜ」



 東の空に昇りはじめたばかりの太陽は、冬の朝の寒さを嫌って、布団から出たがらない子供みたいに、厚い雲をかぶっている。だから、寝ぼけた太陽が見上げ、色づかせるのは、天井がわりの天上ばかりで、村はまだ薄暗く、寒かった。


 アルは村の男たちとともに、タンムースの村の広場――といっても、ただ単に、十数軒の家並みの中心というだけだが――にいた。少しぶかぶかの服を着て、少しぶかぶかの靴を履き、傷だらけの古ぼけたクロスボウを肩にかけた状態で。あのあと、村の男たちに言われるがまま、着替えたのだ。


「狩り?」

「おう」


 アルの問いに、リンドは屈伸運動をしながら答えた。彼のみならず、周りの村の男たちはみんな、アルと同様のよそおいである。


「森での狩りは、村の男の役目だ。今や、お前さんも村の男だからな! 一緒に来てもらうぞ。それに、記憶が戻るきっかけになるかもしれん」


 ベイマンが言った。


「はい。ありがとうございます。でも……その、大丈夫なんですか?」

「なにがだね?」


 アルは、広場から村内を見渡した。外に出ている村の女たちは、衣類の入ったかごや、桶などを持っている。川に洗濯、あるいは水汲みに行くのだろう。ナーシアの姿は見えない。


「アルは、魔法使いのことを心配しているんだろう? こんな時に男が出払ってしまっても、大丈夫なのだろうか……違うかい?」

「はい」


 フォッツの指摘に、アルは素直に頷いた。すると、フォッツは笑いながら続けた。


「なに、大丈夫さ。グランディエは、奴が凶行に及ぶのは、日が傾きはじめてからだと言っていたし……それに、魔法使いを怖がって、日々の営みをなまけていたら、魔法使いに殺される前に飢え死にしてしまうからね。昨夜は結構、飲み食いしてしまったし」

「す、すみません」

「冗談さ。まあ、きみの心配もわかる。だから、今日は彼女たちから、あまり離れずに狩りをするつもりさ。獣も種によっては危険だけれど、魔法使いほどではないだろうから」

「彼女たち?」


 アルは、フォッツが顎をしゃくって示した方向を見た。ちょうど、若い女たちが空っぽの籠を手に歩いてくるところだった。その中にはナーシアもいて、アルと目が合うと、どこか気恥ずかしそうに微笑むのだった。



 暗緑であるはずの森の天井は、陽射しが弱いせいで、黒ぐろとして見えた。枝葉の隙間を潜り抜けて弱りきった光がさしているところもあるにはあるが、そうした光は、柱というよりはむしろ、廃屋の天井から零れ落ちてくる塵芥じんかいのように見えた。


 そんな、滅入めいるような森の中に、風をかすめ取るような音が響く。転瞬のに、軽い音がした――矢が木の幹に突き立つ音が。


「……下手糞だなあ」


 リンドが、草のあわいに姿を消す脱兎を見送りながら、呆れ声を出した。射手――アルはといえば、クロスボウを持つ両腕を見おろしている。反動に驚いているのだ。


「兄ちゃん、狩り、やったことねーの?」

「憶えてないよ」

「じゃあ、やったことなかったんだな」

「そうかも……でも、当たらなくてよかったよ。当たったら痛そうだし……」

「アホか! なにもよくねーよ! ただでさえ、今日は獲物が少ねーってのに……」


 少し離れたところから、鈴のような笑い声が連なって聞こえた。見れば、少女たちが果実や野草を採集する手を休め、こちらを見て笑っている。

 いや、一人だけ、笑っていない少女がいた。ナーシアだ。


 ナーシアは腕に籠を引っかけ、腰に手を当てると、柳眉りゅうびをひそめて、


「リンド、アルさんに失礼よ」


 と言った。しかし、リンドは両手を頭の後ろで組むと、


「せっかく、神様が願いを聞いてくれて、獲物をよこしてくれたっつーのに、仕留めないほうが失礼ってもんだぜ!」


 とうそぶいた。ナーシアは溜息をつくと、アルのほうを向き、口元を手を隠しながらも、聞こえよがしに言った。横目でリンドを見ながら。


「もう……ごめんなさいね、アルさん。この子、甘えてるだけなんです。ずっと、お兄ちゃんが欲しい、って言ってたから……」

「お、お兄ちゃんとは言ってねーだろ!? アニキとは言ったけどさ!」

「同じじゃない」


 リンドは「お兄ちゃん」という単語がはらむ幼さに過敏に反応し、抗議したが、ナーシアはこれを一笑に付した。だが、リンドはめげない。今度はこちらの番だとばかりに、


「くっ……そんなこと言って、ナーシアの姉ちゃんこそ、昨日の夜はアルの兄ちゃんに、しっぽり甘えたんじゃねーの? 一緒に寝たんだろ?」


 と言った。すると、ナーシアは顔を桃のようにしたが、


「もう……そんな言葉、どこで覚えたのよ。でも、お生憎様。あなたの期待してるようなことなんて、なかったんだから」


 と余裕ぶりながら、顔をプイッと背けた。しかし、リンドは尚もめげず、


「本当に~? 本当になにもなかったのかよ、アルの兄ちゃん」


 と、アルに水を向けた。アルは答えた。


「なにもなかったよ? 手を握って寝たくらいで……」


 ナーシアの周囲の少女たちがざわめいた。ナーシアは顔を林檎のようにしていた。


「ちょっと、ナーシア! あたしたちの期待してるようなことなんてなかった、って言ってた癖に!」

「どっちから握ったの!?」

「朝まで握ったの!?」

「握ったのは手だけ!?」

「キスはしたの!?」

「抜け駆けよ!」


 たちまち、早朝の小鳥の群れめいてさえずりはじめた少女たちに、ナーシアは手を振りながら、


「ち、違うの! そうじゃないの! 昨日は怖くって、それで……お願い、聞いて!」


 と懇願しはじめて、もはやリンドを叱るどころではなくなったようだった。

 当のリンドは、そんな少女たちをぼーっと眺めたあと、アルを見上げて、


「……すげーな、アルの兄ちゃん」


 と感心したような、呆れたような声を出した。


「なにが?」

「いや、だって……我慢できたんだろ? すげーよ……」

「……なにが?」

「すげー……」


 リンドはぼんやりと呟くと、ナーシアを見つめた。


 アルたちは、村の東の森――アルとナーシアが出会った森――に分け入っていた。男たちは狩りをし、女たちは採集をしている。村の男たちによれば、タンムースはこうした狩猟と採集で得た食料を、近隣の村で他の物品と物々交換することで成り立っている、とのことであった。


「と、とにかく……ナーシアの姉ちゃんも見てんだからさ、男をあげようぜ。な?」

「そうしたいのは山々なんだけれど……あのさ、これ、どうやって装填するんだっけ?」

「逆、逆!」

「おい、二人とも、ちょっとこっちに来てくれ!」


 アルとリンドが話していると、ベイマンの、どこか焦ったような声が聞こえた。



 ベイマンに連れられて向かった先は、森であるにもかかわらず、不自然に開けていて、雲越しのおぼめく光が僅かに差していた。

 遠目には、街道から新たな道路を通すべく、木々を切り拓いている途中であるかのように見えたが、近付くと、すぐにそうではないことがわかった。木という木は、まるで奥から来るなにかに押しのけられたかのように、左右に折れたり、根元からひっくり返ったりしていたのだ。


「困ったことになったよ……」


 謎めいた広場にはフォッツがいて、彼らしくもない、ゆっくりとした、我知らず語尾が伸びてしまう感じの、不吉に低い声で三人を出迎えた。その傍らでは、犬が耳を垂らしてうずくまっている。


 フォッツは、足元を指差した。アルは促されるままにフォッツの足元を見たが、反射的に口を押さえてしまった。見たことを後悔しながら、


「な、なんですか? これ……フォッツさんが仕留めたんですか?」


 と聞いた。

 彼の足元には、薄いパンみたいにのっぺりと潰された、イノシシ――大きさと牙からして雌――の死体があった。死体の背には数えきれないほどの小さな傷があったが、それらは毛羽立ちのように、肉が前後にめくりあがったり、反り返ったりしているのだった。


「違うよ」


 フォッツは端的に答え、力なく笑った。余計な口を利く余裕もないというように。


「じゃ、じゃあ、もしかして、魔法使……」

「そうではない……魔獣だ」


 いよいよ不安になって、「魔法使い」と口にしかけたアルであったが、最後まで言い終える前にベイマンに否定された。


「魔獣……って?」

「この森のヌシっていうか……暴君っていうか……まあ、そんな奴だよ。バカでけーイノシシでさ、このとおり、交尾が強姦殺人になっちまうくらい……」


 リンドはしゃがむと、イノシシの死体の臀部でんぶの上あたりで、手を前後に振りながら言い……首を振ってから、立ち上がった。


「ついてねーな! いつもは、もっと奥にいやがるのに……獲物が少なかったのも、こいつのせいかな?」


 アルは手で口を押さえたまま、肉パンと化した雌イノシシの死体を見下ろしていた。いくら巨大なイノシシにのしかかられたからといって、このような死体になるものか? 一体魔獣とやらは、いかなるイノシシなのか?


「今日の狩りは、これまでにしたほうがよさそうだね。奴を狩るなんて無理な相談だし……」

「無理なんですか? その、魔獣を狩るのは……」

「追い返せればいいほうさ。巨大で可愛げのないハリネズミに見えるほどに矢を射ち込んだこともあったけれど、死ななかった……こっちは、何人も死んだっていうのにね」


 アルの素朴な問いに、フォッツは苦笑しながら、無知なる子供に優しく教えるかのように答えた。そして、続けた。


「それに、今日は女たちもいるからね。よかれと思って連れてきたけれど、こんなことになるとは……」


 その時である。たまぎる悲鳴があがり、不吉な未来を暗示する残響を、森に染み渡らせたのは。


「今の悲鳴は……お、おい、アル! 待たんか!」


 ベイマンがあたりを見渡しはじめた時、アルはすでに駆け出していた。その耳は、悲鳴の音源が、彼が先程までいた場所にあることを彼に教えていた――ナーシアたちが採集をしていた場所だ!


「ナーシア!」


 果たして、アルが足を止めた時、その眼前にあったのは、座り込んだまま生まれたての仔鹿みたいに震えている女たち――ナーシアはいない――と、その前方の木立を、麦穂ばくすいでもかきわけるかのように、ゆっくりと折りながら現れる巨大な獣だった。

 それは、馬車より一回りも二回りも大きい体に、触れるものみなをすりおろしそうな剛毛を生やし、破城槌じみた巨大な鼻を備え、その下方からラム(衝角)めいた二本の大牙を反り返らせていた。


「こ……これが、これが、イノシシだって!?」


 アルはリンドの語彙を呪った。同時に、雌イノシシの死体の背の傷の由来を理解した。このけだものに強姦された時に、腹の毛ですりおろされたに違いなかった。


 アルの叫びを聞きつけたか、悪夢に現れる途方もなく巨大な化け物じみたイノシシ――魔獣は、その上向きの半円の目玉をアルに向け、嘲笑あざわらうようにうごめかすと……哀れな女たちへと、突進する構えを見せた。

 アルは咄嗟にクロスボウを構えたが、矢は逆向きに装填されたままだった。


 女たちが、馬車に轢殺れきさつされるよりも惨たらしく挽き肉にされる未来が見えた――その時!


 アルの、魔獣を挟んで反対側から、飛来するものがあった。それは籠で、魔獣の横っ面にぶつかると、跳ね返って、中の茸や野草や、冬に奥ゆかしく咲く小さな花を宙に散らした。


 魔獣はこれに気分を害したか、鼻から地獄めいた蒸気を噴き出しながら、ゆっくりと、籠が飛んできたほうへ転身した。すると、アルにも魔獣の向こう側が見えた。


「ナーシア!?」


 魔獣の向こうに立っていたのは、ナーシアだった。なにかを投げ終えたような体勢だった。


「こっちよ、化け物! あなたなんかに、誰も殺させやしないんだから……!」


 なんたることか、ナーシアは自ら囮になり、女たちを逃がそうとしているに違いなかった。実際、魔獣の興味は今や完全にナーシアに向けられていたから、腰を抜かしていた女たちは、他の女たちに引っ張られ、この恐るべき狩猟場から逃げ出すことに成功しつつあった。


「やめるんだ、ナーシア! ぼくが今……」


 アルがナーシアに呼びかけながら、クロスボウの矢を装填し直そうと悪戦苦闘していると、


「みんな、無事かね!?」

「に、兄ちゃん、足、速えな!? って、ナーシアの姉ちゃん、何やってんだ!?」


 村の男たちが追いついてきた。フォッツの判断は速かった。


「射て! 射ちまくれ!」

「どこを射ちゃいいんだよ!?」

「ケツの穴にでもぶち込んでやれ!」


 その怒号を合図に、村の男たちは戦争さながらに横陣をとって、次々にクロスボウを発射した。風を切る音が口笛のように聞こえるほど、見事な射撃だった。矢は次々に魔獣の背や、臀部や、後ろ足に突き立った。


 しかし、魔獣は大蛇じみた太さの尻尾を、左右に振るだけだった。まるで、蝿を鬱陶うっとうしがるかのように。


「……ダメか!」


 ベイマンが、予期された事実に唸りながら次の矢を装填する。


「何やってんだよ、姉ちゃん! 逃げろ! 奥に行け、奥に!」


 リンドが、棒立ちのままのナーシアに怒鳴りながら次の矢を装填する。


「散れ! 左右から目を……アル!?」


 フォッツが、村の男たちに指図をしながら次の矢を装填する。

 その時アルは、いつまでも矢の装填できないクロスボウを捨て、駆けだしていた。魔獣を目指して。

 

 アルは魔獣越しに、ナーシアの黒瞳こくどうが驚きに見開かれるのを見た。ナーシアがなにか叫んでいる。だが、アルには聞こえなかった。ただ、風の唸る音と、魔獣の呪わしい咆哮が聞こえた。


 自分はナーシアを守る、と誓ったのだ。今こそ、その決意を示すべき時だ!


 アルは地を蹴って飛んだ。魔獣の背に飛び乗るべく。

 だが、無情にも魔獣の背は遠ざかった。魔獣もまた、大地を踏み砕き、震撼しんかんさせながら、猛進をはじめたのだ。


 もがくように宙をかいたアルの手に、当たったものがある。アルは夢中でそれを掴んだ。直後、アルの視界は上下にシェイクされた。アルが掴んだのは、魔獣の臀部に突き立った矢だった。


 アルは無我夢中で、逆の手で魔獣の毛を掴んだ。そして、その背を登攀とうはんしはじめた。手が、腕が、足が毛に触れるたび、刺すような痛みを感じたが、構うことなく。

 魔獣の真上に達すると、ナーシアが見おろされた。凍りついたように立ち尽くし、魔獣を見つめている。彼女との距離が、恐るべき速さで縮まっていく。もはや、一刻の猶予もない。魔獣がナーシアを蹂躙する時は近い。


 アルは、手近に突き立っていた矢を抜くと、魔獣の背に何度も突き刺した。突き刺しながら叫んだ。


「止まれ! 止まれったら! 止まってくれ――!」


 その時だった。


 アルの体に、突然に凄まじい力が加わった。それも、今までのような、魔獣の爆走による上下方向の力ではなく、前方への力が。アルの手は魔獣の背から離れ、背に突き刺した矢も、くさびの役目を果たすこともなく抜けて、彼はあえなく宙に投げ出された。


 空中できりもみ回転しながらも、アルは視力によって、なにが起きたのかを理解した。魔獣が、急に止まったのだ。それで、彼の体は前に投げ出されたのだ。魔獣の両側面には、十数本の矢が突き立っていた。

 アルの視界に、彼を見上げるナーシアが入る。今にも悲鳴をあげそうだ。恐らく、このままではアルが木か地面に衝突し、怪我をするか、死ぬかしてしまうからだろう。


 それではダメだ。そう思うと、アルの無防備な四肢に力がみなぎった。


 アルは片手を伸ばし、掴んだ。冒涜ぼうとく的な斜塔のようにそそり立つ、魔獣の大牙の一本を。さすれば彼の体は、大牙を支点に回転しながら下がっていった。大牙の根元へ。即ち、魔獣の頭部へ。


 体が最も魔獣の頭部に近付いた時、アルは逆の手に持ったままだった矢を、魔獣の、嘲笑うような上向きの半円の目に突き刺した。矢は、アルの手に気味の悪いぶよぶよとした感触を伝えながら、目玉の中に埋まった。


 魔獣は吠え、馬のように後ろ足で立つと、頭を振り回した。二本の大牙が、巨人が薙ぎ払う双刀のように風を抉り、木々を輪切りにしたが、アルは大牙に抱きつくようにしてしがみつき、振り落とされまいとした。

 のみならず、下半身を自由に動かせる瞬間が訪れるたびに、魔獣の目玉――今や、真っ赤に染まっている――から生えた矢羽を蹴って、矢をさらに奥へと押し込んだ。


 みたび、矢の飛翔を告げる鋭い音が、我先にと連続的に飛び交った。村の男たちによる、クロスボウの一斉掃射だ。

 その矢がすべて腹の左右に突き刺さった時、ついに、魔獣は動きを止めた。そして、呪わしく、森中に染み入るような断末魔の鳴き声を上げながら、その体の大きさからすれば滑稽にさえ思えるほど、微細に震え――横倒しになった。大地が揺れ、村人たちは足をもつれさせて転倒した。


「……や、やったのか?」

「嘘だろ……」

「……ア、アルとナーシアは!? 無事かね!?」


 村人たちが、倒れて小山のようになった魔獣の周りで、思い思いに心中を口にするのをよそに、アルは這ってナーシアへと近付き、ナーシアはいざってアルへと近付いていた。アルは努めて笑顔を作って。ナーシアは信じられないものを見るような顔で。


「ナーシア……大丈夫かい。怪我はしていないかい……」


 言いたいことは色々とあったが、アルはそれだけを口にした。


「……アルさんこそ! どうして、あんな無茶を……」


 ナーシアはアルの手を取り、そのまま腕も取り、意外にも鮮やかな手つきで彼の体をひっくり返すと、怪我の有無を調べはじめた。


「それは……それはこちらの台詞」


 アルは笑いながら言った。二人がはじめて出会った時に言った台詞が、口をついて出たからだ。


「もう……私の台詞ですよ……」


 ナーシアもそれに気が付いたと見えて、ちょっとくしゃっとした笑顔を見せた。そのまなじりから、一筋の涙が零れ落ちた。



 魔獣は本当に死んでいた。


 村人たちは色めきたった。もう、魔獣によって狩猟生活を脅かされる恐れがなくなったことも、これまでに魔獣の犠牲になった村人たちの仇討ちが成し遂げられたことも大きかったが、文字どおり、狩猟の成果も大きかったからだ。しかし大きすぎたので、その場で解体し、手分けして持ち帰ることになった。


 一方のアルはといえば、彼自身驚いたことに、魔獣との格闘中に痛みを感じたはずであるのに、外傷はほとんどなかった。服はずたずたに裂けていたし、血も滲んではいたが、アルに目立った外傷がないので、魔獣の返り血と判断された。


「お前さんらのおかげで、みんな無事で済んだから、今回は大目に見るが……今後は、あまり無茶な真似はせんでくれよ」


 とはいうものの、アルもナーシアも、説教からはまぬがれられなかった。


「ナーシア、お前さんもだぞ。お前さんはどう思っているか知らんが、お前さんはわしらの仲間だし、娘のようなものなんだから」

「はい……」


 ベイマンの困り果てたような説教を聞くと、ナーシアは目元を拭いながら頷いた。途端に場の雰囲気が暗くなったので、リンドが、


「それにしても、まったくおかしな奴だぜ、アルの兄ちゃんはさ! クロスボウ一つ、満足に使えねーかと思いきや、魔獣を狩っちまうんだからよ! ほんと、すげー身のこなし――つーか、乗りこなしだったぜ! 兄ちゃん、もしかしたら騎士だったのかもな?」


 とほがらかに言うと、フォッツが続けざまに、


「なにを言ってるんだい。アルは今だって、立派な騎士じゃあないか! ……ナーシアの」


 と言ったものだから、村人たちは大いに笑った。

 アルは気恥ずかしさを覚え、隣のナーシアを見たが、彼女は彼女で、


「……それじゃあ、わたくしはお姫様であらせられるのかしら?」


 などと、勿体振って妙な言い回しをしたので、とうとうアルも笑ってしまったのだった。この狩りを通じてさえ、なに一つ、記憶が戻らなかったことも忘れて。



 アルとナーシアを含む、狩猟と採集に出ていた村人たちが、巣に帰る蟻の列みたいに各々魔獣の肉片を抱えてタンムースの村に凱旋した頃には、すでに昼下がりになっていた。


 人々は広場に集うと、昨夜に引き続き豪勢な食卓を前に、そわそわしながら「我らの願いを聞き届けられたる神々に感謝を――」などと簡潔に祈りを捧げた。

 それから、昨夜の宴に勝るとも劣らない盛り上がりの中で、互いの無事を祝ったり、武勇を語ったりしながら、遅めの昼食をとった。メニューは魔獣の肉と野草の煮込みとパンで、飲み物としてビールが振る舞われた。


 食事を終えると、男たちの大半がおのおのの家に戻っていったが、ナーシアと一部の男たちは、朝の狩猟と採集の成果を前に、なにごとか話し合っては、その一部を大きな円筒形の籠に投じていた。

 アルが、なにをしているのか、と聞いてみると、これからナーシアが西隣のカブラッカの村まで行って、物々交換をしてくるということだった。


「ぼくも一緒に行ってもいいですか?」


 アルの申し出は、暖かい冷やかしとともに受け入れられた。

 アルにとって、冷やかしはまんざらでもないものではあったが、それ以上に、ナーシアを直接守れるところにいたい、という思いが強かった。まもなく日が傾いて、魔法使いの時間がやってくるからだ。

 ナーシアは恥ずかしがるどころか、嬉しそうに笑って、


「よろしくお願いします。沢山、お話しましょうね!」


 と言ったものだった。


「気を付けてな。流星騎士の連中が村々を回っておるから、盗賊どもの心配はないとは思うが……」

「しっかりやれよ、兄ちゃんも姉ちゃんも!」

「もう、この子ったら……」

「? 物々交換のことじゃないの?」


 大きな駕籠を背負ったアルと、小さな籠を手にかけたナーシアが、ベイマンとリンドと一時の別れを告げていると、フォッツが、


「あまり、遅くならないようにね。こんな時でもなければ、遅くなってもいいよ、と言えたのだけれど……」


 と笑いながら言った。そして一転、神妙な顔つきをして、


「二人とも、本当に気を付けて……特に、裸の人間には」


 と、顔つきとは矛盾するようなことを真面目腐ってささやいた。


「やだ、フォッツさんたら! 裸の人なんて、いつも気を付けてますよ」


 ナーシアは笑って答えたが、アルは笑えなかった。なにか嫌な予感がしたのだ。タンムースの賢人の一人と思しきフォッツが言うからには。


 果たして、その予感は的中した。


「そうじゃあない……グランディエが言うには、例の魔法使いは、裸らしいんだ」

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