第一話「白」
「きみたちは、なにか悪いことをしようとしている」
盗賊たちは、またまた顔を見合わせ――今度は、爆笑した。青年の、良心の発露、いや、
「ほう? なにがいいことで、なにが悪いことかは憶えてるってわけか? 都合のいい話じゃねえか」
山刀を持った盗賊が、山刀の背で自らの肩を叩きながら言う。
「いやいや、それも忘れちまってるにちげえねえぜ。俺たちゃ、この女と『いいこと』をしようとしてるってえのによ」
クロスボウを持った盗賊が、これ見よがしに矢を装填しながら言う。
「ちげえねえ。なんなら、てめえも混ざるか? 『いいこと』によ」
剣を持った盗賊が、剣の腹を逆の手のひらに打ちつけながら青年の横を通りすぎる。
「ただし、やられるほうだがな!」
直後、剣を持った盗賊は、剣の柄尻で青年の後頭部を殴りつけた。
「ありゃっ?」
だが、柄尻は宙に大きな弧を描くだけに終わった。
「な……なにをするんだ。あ、危ないじゃないか」
青年が、盗賊の殴打をかわしたのだ。とはいえ、すんでのところであったと見えて、青年は後ろにたたらを踏みながら、驚きに満ちた声で盗賊に抗議した。
「まったくだぜ。なにをしてやがる」
「ああ。危なくって、見ちゃいられねえ。手伝ってやろうか?」
残る二人の盗賊は、剣を持った盗賊をからかった。
剣を持った盗賊は、剣と青年とを、なにかを確認するように交互に見ていたが、仲間たちから
「やめて! 殺さないで!」
という少女の叫びも虚しく、青年は斬り殺される――かに思われた。
しかし盗賊の剣は、またも空を斬ることとなった。返す刃もまた外れ、突けど薙げども、また外れる。
青年が、かわし続けているのだ。それが、舞のように鮮やかではなく、木の根にでもつまずいたかのように不格好で、たたらを踏んだりするのが、盗賊たちにはかえって不気味に映った。当たりそうで、当たらないのだ。
剣を持った盗賊は剣を振り続け、青年はこれをかわし続ける。残る盗賊たちは、いつ当たるともしれぬ剣の行方に、釘付けになっていた。では、少女は?
「……あっ、しまった!」
いつのまにか、少女の姿は消えていた。クロスボウを持った盗賊が、その事実に気が付いて驚きの声をあげた時、山刀を持った盗賊は、青年の口の端が吊りあがるのを見た。
「てめえ!」
青年が囮となって少女を逃がしたと知って、山刀を持った盗賊は
次の瞬間、鈍い音が生じた。
青年の後頭部からだ。山刀の一撃が当たったのだ。あっさりと。
青年は膝から崩れ落ちると、そのままうつ伏せに倒れた。剣を持った盗賊と山刀を持った盗賊は、倒れた青年を挟んで、不思議そうな顔を見合わせた。
「……な、なんでえ。やっぱり、ただの素人じゃねえか」
ややあって、山刀を持った盗賊は、青年のあまりにも無防備な背後から、そう結論づけた。そして、その素人相手に手こずっていた、剣を持った盗賊を責めた。
「手間取りやがって、バカが。女が逃げちまったぞ」
「し、素人には――ち、ちげえねえが……」
剣を持った盗賊は、油断なく構えたまま倒れた青年を見おろしていた。その顔は青ざめていて、流れ落ちるに任せたままの汗の中に、冷や汗や脂汗が混じっていたとしても、おかしくはないほどだった。
「……まあ、いいじゃねえか。溜まった鬱憤は、こいつで晴らそうぜ」
クロスボウを持った盗賊が、仲裁するように言った。そして、
「下のほうも素人か、確かめてみよう」
と、場を和ませるべく下劣な冗談を飛ばしたが、剣を持った盗賊は何度も頷くばかりだったので、残る二人は肩を竦めるのだった。
☆
青年にとって、今や、盗賊たちは遠かった。
実際には、青年は冷たい土の上に倒れているにすぎないのに、彼自身にとってはまるで、水中にいるか、もしくは、上下の感覚が失せるほどに柔らかい寝具でまどろんでいるかのようだった。盗賊たちの姿はぼやけて見えたし、声は途切れ途切れで、しかも、口を塞がれた者が発するそれのように、押し潰されているかのように聞こえた。
おそらくは、後頭部に受けた打撃のためだろう。青年はぼんやりと推測した。そして、自分はこのまま盗賊たちに嬲られ、殺されるのだろうか、と思った。
突然に、スープの沸騰して吹き溢れるかのごとく、青年の心中を願いが
人は死に瀕すると、それまでの人生を思い出す――その話は知っている。記憶ではなく、知識として知っている。
それなのに、今ぼくが思い出している唯一の記憶が、盗賊たちから見知らぬ少女を助けたことだけだとは! いかさま英雄的ではあるけれど、ついさっきのことじゃあないか! 他にはないのか!?
ぼくは誰だ!?
ぼくはいつ、どこで生まれ、どこで、どのようにして生きてきたのか!?
なぜ、記憶がないのか!?
死を目前にしても、思い出されはしないのか!
……死にたくない!
自分が何者かも知らぬまま、死にたくは!
死ぬのは嫌だ!
願いはしかし、声にはならなかった。青年の五感は徐々に薄れていき、
「――こいつ――なんで――」
薄闇色の、夢と
「――裸なのに――」
隣室から切れ切れに漏れ聞こえる家族の声のような、遠い音だけが感じられるようになり、
「なんで、死な――やめ――」
やがて、視界か、それともまぶたの裏の色かわからねど、彼の見る世界は赤に満たされた――かと思いきや、穴に落ちていくように、急激に暗くなっていった。
意識の完全な消失、あるいは死を予感した青年が最後にとらえたのは、音だった。のちに盗賊たちの声とわかったのだが、この時はあまりに乱れていて、ただの音としか認識できなかった。その音の羅列からなる声は、
「まほうつかい」
と
☆
目が覚めた時、青年が最初に覚えたのは、生きていることに対する喜びや驚きではなかった。
「なんという夢だ……」
夢見に対する絶望だった。
彼が見た夢は「見た」と表現することすら、ためらわれるようなものだった。ただひたすらに、どこまでも白が広がるばかりであったからだ。実際のところ、広がっていたのかも定かではない。点も線もなく、彼自身の体もなかったので、奥行きの有無すらわからなかった。
青年は、記憶の手がかりを夢に求めても無駄だと直感的に悟ると、
暗闇は一層濃くなっていたが、青年には、すぐにはそうとわからなかった。意識を失う前と違って、陰鬱なモノトーン調であった森に、紅葉が訪れたり、果実が実ったりしていたからだ。
「うっ……!」
それは慈悲深い、刹那の錯覚であった。
紅葉と見えたのは血飛沫で、果実と見えたのは、木々にひっかかった、おそらくは三人の盗賊の死体だった。すぐに「三人」と断定することは躊躇された。死体の損傷が、人智を超えた激しさであるからには。
内側から膨らみ、破れ、飛び散ったかのような死体。蜂の巣めいて穴だらけで、隣同士の穴が繋がってしまったため、ちぎれかけている部位もある死体。
かろうじて正視に耐えるかと思われたのは、酒瓶の首みたいに細くなるまで首を絞めつけられた――否、圧縮された死体であったが、よく見ると、これには
「……い……一体、なにがあったんだ? ぼくが気を失っているあいだに、誰かが……? いや……」
もしかして、ぼくがやったのか?
青年は、かかる惨状と、冬であるにもかかわらず強く立ち昇る、血や臓物の臭いと――恐るべき想像に
ひとしきり嘔吐して――
が、すぐに戻ってきて、陰茎のない死体のそばで身をかがめると、
「盗賊とはいえ、ここまでされるいわれはないだろうに……」
と、同情的に呟いた。
「……でも、盗賊だから、こうされるいわれはあるだろう」
そして、手を震わせながら、盗賊の死体が着ている、申し訳程度に上着としての体裁を取り繕ったイノシシの毛皮や、その他の衣類を剥ぎ取ると、それらを着込んだ。
青年は、たしかな足取りで歩きだした。するとすぐに、森と森のあいだに切り拓かれた、大人が三人は並んで歩けそうな街道――といっても、地肌は剥き出しだったが――に出ることができた。
上を見る。ずっと天然の屋根の下にいたので、空を見たいと思ったのだ。しかし、見えたものは、連続するアーチのごとく、街道の左右から伸び組み合わさった、老人の腕のような木々の枝葉だけだった。隙間の向こうは、闇……
仕方がないので、今度は下を見ながら歩いた。地肌からは、様々なものが見て取れた。轍――馬蹄――人の足跡――その中に、新しい、小さな人の足跡を見つけて、青年は笑った。
ちょうどその時、青年は、歩くたびに眼下の地肌から闇が少しずつ剥がれていくことに気が付いた。顔をあげると、闇に潜む
夜空が見えた。
青年は、ただでさえ覚束ない気分がさらに滅入りそうになったので、前を向いた。すると、病的な月影であえかに照らされた、なだらかにうねる丘陵の先に、寄り添うように眠れる小さな村が見おろされた。
「やっぱり、あった」
青年は会心の呟きを漏らした。彼は、少女が逃げた方向へと歩んでいたのだ。果たして、彼女の足跡は街道に見いだされ、彼は村を見つけるに至った。
青年は思う。
ともあれ、まずはここがどこなのか――願わくば、自分が誰かまで――知りたい。お腹が空いているから、食べるものも必要だし、寝る場所も必要だ。
なにより、未だに……自分が本当に生きているのか、夢を見ているだけなのか、それとも、誰かの見ている夢なのか――そんな、バカげた不安に襲われる。きっと、なにもかもがふわふわしているから……それに、独りだからだろう。
誰でもいい。誰かと、落ち着いて話をしたい……もう、盗賊はたくさんだけど……
人里に行けば、どれか一つくらいは解決するかもしれない。
青年がそんなことを思いながら丘を下りていると、村の方向から丘のほうへ、光る蟻の行列のようなものが登ってくるのが見えた。
青年は立ち止まり、しばらくその列を見おろしていたが、やがて驚き――ややあってから、ぎこちない笑顔を浮かべると、手を振った。すると、行列は一瞬止まり――すぐに、先頭の光だけが、ホタルみたいに舞い踊る調子で、丘を駆け登ってきた。
「生きていたんですね……!」
片手に持ったランタンを四方八方に揺さぶりながら駆け寄ってきて、溢れる喜びを隠さず、涙まじりの笑顔でそう言ったのは、青年が助けた少女――服はところどころ破れたままだったが、毛布をマントのようにまとって、それを隠していた――だった。
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