一 黄泉比良坂

  四面海もて囲まれし 我が敷島しきしま秋津洲あきつしま

  ほかなる敵を防ぐには 陸に砲台 海にふね

  かばねなみに沈めても 引かぬ忠義の丈夫ますらお

  守る心の甲鉄艦 いかでか容易く破られん

   ――唱歌『日本海軍』――



 昭和二十年四月・沖縄県。

 太平洋を埋め尽くさんばかりの大艦隊は暴風雨のような艦砲射撃を連日続けている。連中は日本軍の力を砲撃で奪えるだけ奪い取ってから上陸する腹のようだ。

 間近で何度も砲弾が炸裂し耳栓をしていようと爆音が響いた。その振動が身体も脳もグラグラと揺さぶった。海岸線の防衛という名目で我々の部隊はここに来たが、敵がのこのこ上陸してくるならまだしも歩兵があの物量に大して何か出来るのかは甚だ疑問であった。

 連中は〝爆弾には眼もなく心もない〟などと言っている。

 たしかにその言葉通り爆弾は軍人も沖縄県民も一切無差別に殺戮している。俺の上官が吹き飛び、負傷者の救護に借り出されていた女学生達がバラバラになった。そこで粉微塵になったのが彼らでまだ生き延びているのが自分なのは、もう運の差だとしか言いようがない。

 俺の居た部隊は地形の変わるほどの艦砲射撃の中で指揮官を失い、退路も分からないまま散り散り逃げ惑った。烏合の衆と言われればそれまでだが実際そうだ。徴兵されて本土から送られて来た自分も精強な兵隊だとはとても言えないが、現地召集された防衛隊員に至っては手にしている武器は数個の手榴弾や木の棒。軍靴が足りず草鞋を履いている者までいる有様だった。

 濛々と舞い上がった土煙が空まで覆い薄暗い。気が付けば一緒に逃げ回っていた者達ともすでにはぐれてしまった。あいかわらず大地も空気も揺さぶる砲撃が続いている。自分を一瞬で粉砕させられる砲弾がそこかしこに降り注いでいる中で、さながら食い残しのように自分だけが生き延びているのは、きわめて妙な気分であった。

 艦砲射撃の破壊力は陸軍の野砲の比ではない。家屋に逃げ込もうが退避壕に隠れようが一切無駄だ。しかしかと言って「確率で言えば走っていようと寝ていようと当たる時は当たる」などと居直る肝玉は自分にはなかった。どこに逃げればよいのかも分からないままとにかくガムシャラに逃げ回る。


 ――今まではドドという感じに聞こえていた砲撃の音が急に違うように聞こえ、その違和感に気づいた時にはもう全身が宙に浮いていた。身体は紙切れか何かのように飛び上がり、そのまま背中からドスンと落ちる。落ちた場所が柔らかい砂の上でだったので助かった。コンクリートや石の上だったら死んでいただろう。これは〝幸運〟と言えるだろうか。

「こんな場所に放り込まれた時点で運も何もあるものか」

 皮肉を通り越した忌々しい気持ちが湧き上がり唇を舐める。一度死んだと思ったからだろうか、頭の方は多少落ち着いたが、全身に痛みがある。立ち上がる気力も起きない。

 横たわったまま周りを見渡すとこの辺り一体にはこんもりと盛り上がった妙なモノがあちこちにある事に気が付いた。

「――亀甲墓かめこうばかだ」

 亀甲墓は横穴を掘って周りを石灰岩等で装飾した沖縄独特の墓だ。彫り抜いた屋根の部分が亀の甲羅のようにも見える事からこう呼ばれる。その独特の形が女の子宮を現しており、葬られた死者が再生する事を意味しているという説もある。本土の古墳と精神的に通じる部分があるかも知れない。

 石灰岩ではなくコンクリートで形作られているところからしてそこまで古い物ではなさそうだ。おそらくは王侯以外にも亀甲墓を作るのが許された明治以降の物だろう――ここは海岸沿いの集団墓地といったところか。

「そういえば実物を見るのはこれが初めてだな。せっかく沖縄まで来たというのに」

 彼――宮田邦武みやたくにたけは大学では考古学研究室に勤めていた。墳墓研究の資料などで沖縄と本土の比較論を読むにつけ、ぜひ一度実物を見てみたいと考えていた事をふと思いだした。鉄の暴風から逃げ回る中でその夢を果たしている事がふと可笑しくなった。

「沖縄は日本本土の文化の先達だという学者もいる。我々日本人は長い時間をかけ、南の島々から海を渡って来たのだと……」

 次の瞬間に砲弾が炸裂して死ぬかも知れないのに、頭の中では大学で徒然考えていた事がのんきにかすめていく。宮田はもう自分は気が触れているのではないかと思った。

「そういえば亀甲墓の入口は女の膣口を表していると聞いたな。死者が再生する出口という事か」

 あるいはこうも言う。普段は閉じている亀甲墓の入口が夜だけ開き、先祖の霊が遊び出ると。


 ――ちょうどその時、艦砲射撃とは明らかに違う轟音が大きく響いた。遠くのはずだが信じられないほどの大きな音。驚いて立ち上がり海岸線を見渡すと、アメリカの軍艦がゴウゴウと煙をあげているのが見えた。

野砲ではあれだけ離れた海上にいる軍艦を攻撃する事など出来ないし、海軍の艦もここまで辿り付けてはいない。だとすれば

神風カミカゼか……!」

 よくよく目をこらすと敵艦に向かい友軍機が何機も向かっているのが見えた。

 ――特攻隊! そのほとんどが撃墜されているが時々〝成功〟した者がいるのだろう、ポツリポツリと船が火を噴いている。艦砲射撃が急に止まったのは、彼らの襲撃があったからに違いなかった。

敵も味方もまるで、風に吹かれた火花のようにはじけて散っていく。肉眼で見ているのにどこか現実感のない光景のように思えた。いま死の淵にいるアメリカの水兵や特攻機のパイロット達から見れば、先ほどまで地べたを這いずり逃げ回っていた自分もそういう風に見えていたのかも知れない。

 特攻機が突っ込み撃墜されていく光景を呆然と眺めていたが、ほんの数分でそれも終わった。数隻の敵艦が行動不能に陥ったようだが大多数の艦はそのまま陸地を狙い続けている。間もなくまたこちら側を粉微塵にするべく艦砲射撃を再開するだろう。

 今度こそ助からない。気味の悪い静けさの中で却ってそんな予感をひしひしと感じていた。

先ほどまで胸中にあったある種の諦観は、意義があったのかわからぬ火花になって死んでいく者たちを見ているうちに掻き消えていった。あまりに軽く無意味に死んでいく光景が生への執着を蘇らせた。

 こんな拓けた場所では危険すぎる。辺りに隠れる場所はないかと考えすぐに目が行ったのが先ほどの亀甲墓。……ダメだ。あの程度の作りでは砲弾を受ければ結局即死する。

 またとにかく闇雲に走り回るしかないのかと苦い顔をしたその瞬間、亀甲墓の入口から何かが飛び出したのが見えた。

 それは一匹の大きなネズミだった。供え物でも漁っていたのだろうか。

 ネズミは一直線に走り自分の方へ向かってくる。人間を見たら逃げ出しそうなものだが、よりにもよって自分の両足の間をさっと抜けていった。何かを目指して走っているかのように思える動きだった。訝しみながらネズミの行方を目で追いかけていくと、ネズミはそのまま岩谷の中に飛び込んでいった。

 谷底に何かがある……? たった一匹のネズミが飛び込んだ先が妙に気にかかり(勿論退避場所を見出す為でもあるが真っ先に念頭に浮かんだのはあのネズミの行方である)自分は谷の中を覗き込んだ。

 谷底は思ったよりもだいぶ浅く、そして底に横穴があった。それはどうにも自然洞窟のようであった。下草も生い茂っているので断言はできないが、ネズミはどうやらその洞窟に入り込んだのかも知れない。

 洞窟――あの中に逃げ込めば、もしかしたら艦砲射撃の嵐が過ぎ去るまで隠れている事ができるかも知れない。

 しかし一方で洞窟に入り込むにはそれなりのリスクもある。深さが足りなければ無意味な退避壕に逃げ込むのと結局変わらないし、衝撃に脆ければ即死せずとも生き埋めになるかも知れない。灯りになるものも自分は耐水マッチしか持っていないし、先ほどのネズミの同輩が何千とあの中にいたら骨までしゃぶられるかも知れない。

 冷静に考えれば考えるほど不用意に飛び込むべき場所ではないような気がしてきたが、あの雷鳴のような艦砲射撃の音が再び鳴り出すと同時にそんな理性は吹き飛んだ。反射的に物陰に隠れようとする生物としての本能が背中を押し、自分はもう無我夢中で谷底に滑り下りて洞窟の中へ駆け込んでいった。



 あのまま砲撃で死ぬよりは幾らもマシだろうと入り込んだ洞窟は、思いのほか広い。日光の差し込まない奥側は真っ黒の闇で何も見えなかった。砲撃の音がズズン……ズズン……と随分低く聞こえた。多少の揺れを感じたが深い穴だからだろう、思った以上に安心感があった。ここにいればもしかしたら生き延びられるかも知れない。

ひとまずかりそめにでも安心すると周りを見る余裕も出てきた。

「……む、何だアレは」

 洞窟の入口側を見返すと、何かが石の上に数個ほど積んで置いてある事に気付いた。ちょうど中心あたりの場所に紙を敷き恭しく置かれていたそれは――どうも餅のようだ。紫色をしている事からしてどうも沖縄の鬼餅ウニムーチーらしい。紫芋を混ぜ込んであるから鮮やかな紫色になるのだという。

 とりあえず人の出入がある洞窟である事は確かなようだ。そしてこれは明らかに供物だ。恐らくはこの辺りの現地住民が昨今の乏しい食糧の中から捻出して餅を作りこうして供えているのだろう。何らかの信仰のある場所、一体如何なる聖域なのか。

 民俗学や考古学の権威はこぞって沖縄と日本本土の習俗の関連性を説いている。曰く、本土では仏教による教化や社会の変革で変質消失してしまったような世界も、この島では未だ古代の名残を残している。沖縄の民俗儀礼に注目が集まり始め「沖縄学」などと持て囃された丁度その頃、大東亜戦争が勃発した。呑気な民俗調査など夢のまた夢となった。

 古代の日本の祭祀とも通じるかも知れない何か……それがこの場所にもあるのかも知れない。そう考えるとこのような状況でも好奇心を抑えている事はもはやできなくなっていた。マッチを擦った頼りない灯りを持って、艦砲射撃の雷鳴のような轟音を耳にしながら、自分はこの洞窟を奥へ奥へと探検しに行った。


 しかしながら、真っ暗な中を灯火一つで歩くのはゾッとしない事だ。とぼとぼ歩いているうちに時間や方向感覚が曖昧になってくる気がする。自然洞のわりには足元が平坦なので歩きやすいが、その分奥へ踏み込むのも早い。後ろを振り返ってみたが、入口に差し込んでいた日光はもう見えなくなっていた。道なりに歩くうちに知らず知らず曲がりくねっていたのだろう。

 このまま踏み込んで迷い込んだらと思うとさすがに恐ろしさも感じてくるが、この奥に何があるのか或いは何もないのかを見届けなくてはとても落ち着いてはいられない心境になっていた。妙な気持ちの高ぶりが続く。

 パキッ

 何か甲高い音が響く。軍靴越しに何かを踏み砕いたような感触があった。ふと足元に目をやるとギョっとした。自分が今踏み砕いたのは、どうにも人骨のようであった。

 遭難者の遺体……いや違う。マッチの灯を頼りに凝視してみると、この骨は戸板か何かの上に寝かされるような姿のままそこにある。おそらくこの遺体は骨になる前からこの場所に安置され、そのまま白骨化したのだろう。何よりこの骨は明らかに風化が進んでいる。自分にははっきりと鑑定などできないがかなり昔の人物の骨とみて間違いなさそうだ。だとすればこれは風葬なのかも知れない。

 ――風葬。日本本土でもかつては広く行われており『餓鬼草子がきぞうし』などにその様子が描かれている。平安時代末までは貴族でも火葬は稀で、野晒しで風化に任せた遺骸の上に土をかぶせる塚が一般的であった。現在では墓地を意味する〝野辺〟は本来遺体を風化するまで晒している野原である事を示していた。

 沖縄ではそういった場所は山林や洞窟で、後生グソーと呼ばれる。庶民の遺体はそこで風化を待った。亀甲墓は王侯のみに許された形式であった。

 しかし風葬では白骨になった後は洗骨し、厨子甕ズシガメと呼ばれる家の形を模した骨壷に納められるのが普通である。とするとこの人物は後生グソーに送られた後、何らかの理由でそのまま此処に忘れ去られてしまったのかも知れない。

 改めて骨を見渡す。服の繊維らしき物はかろうじてまだ残っているが元がどういう衣服だったのかまではよく分からない。首の辺りにはかつて紐を通して首飾りにしていたのであろう、鮮やかな色の貝がいくつも転がっていた。

 骨格は小柄で装飾品も相俟ってどうにも女性の骨のように見える。骨と遺物だけが綺麗に残っているが、自分が今しがた踏みつけた右足の脛部分だけが崩れるように折れている。それがなんとも痛々しげに見えて厭な気分になった。

 そういえば記紀に描かれる黄泉国神話は風葬が神話化されたものだという説を聞いた事がある。蛆がたかり腐り爛れたイザナミの姿は明らかに遺体の腐敗途中の姿である。イザナギは約束より早く後生グソーを覗き込んだ為に、白骨よりも遥かに見苦しい状態の死者を見てしまったのだと……。そしてイザナミは死の国の住民になった事をはっきりと「確認」され、黄泉の神になった。

 ズズン

 ――忌まわしい艦砲射撃の音が俺を現実に引き戻す。比較的近くに着弾したようだ。日本や沖縄がどうなるのか、いや自分自身がどうなるかすら分からない状況で古代に思いを馳せて何になるというのか。ああ、これが俺の現実に違いないのだ。

「お前も気の毒だな。然るべき時に然るべき者に発見されれば大昔の姫様だと分かってもらえたかも知れないんだが」

 宮田は話しかけるような独り言を言いながら跪き、マッチの火を骨のそばに近づける。そしてその頭蓋骨をまじまじと眺めた。ぽっかりと開いた眼孔以外がほのかな光に照らされて浮かび上がる。やはり若い女性の骨のように感じた。

 その瞬間、マッチの火がゆらりと一瞬ゆれ、そして掻き消された。

 真っ暗闇の中であわてて手探りで次のマッチを取り出して再度火をつける。タイミングがタイミングだけにさすがに度肝を抜かれた。

「今のは――風が吹いたようだな……」

 奥に入り込んでも少しも息苦しさを感じないしこの洞内にはどこからか空気が通っているらしいが、今の風は明らかに洞窟の奥の方から吹いてきた。もしかすると此処は洞窟ではなく天然のトンネルなのかも知れない。

 そう感じると――艦砲射撃を避けるために自ら潜り込んだのにおかしな話だが、なんともいえずこの暗闇を抜けて向こう側に出たいような気持ちになってきた。今ので怖気づいたとも言えるし、この分では思うよりずっと早くマッチが無くなりそうだという懸念もあった。とにかく、古代の姫の骸骨との邂逅が、宮田に暗闇への恐怖を思い起こさせたのだ。

 宮田は再び立ち上がると自分をじっと見ているような気がしてならない骸骨に対して軽く一礼し、風の吹き込んだ奥の方へと進んでいった。


  ……ひと火燭びともして入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖うじたかりころろきて(蛆がわいて呻き声をあげ)、かしらには大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、ほとには拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、あはせて八柱の雷神いかづちがみ成り居りき。……

   ――『古事記』神代――


 黄泉国神話の一節がふと頭の中に浮かんだ。こんな時に縁起でもない。

 空気の流れを辿り、それがよく分からなくなった時はマッチを高く掲げ火の揺らめきを見て判断する。歩きにくく狭い道だがそうしてゆっくりゆっくりと進んでいく。

 憎たらしい艦砲射撃の音は先ほどからまた止んでいる。ヤツら、昼飯でも食っているのかも知れない。

「飯……か。そういえば腹も減ったし喉も渇いた」

 緊張の糸が切れたのか朝から何も飲み食いしていなかった事を思い出す。腰に下げた水筒を口につけ、水を飲んだ。水は大切に飲めば少しは繋げそうだが食物は乾パン一欠片も持っていない。余計な事を思い出してしまった。無性に腹が減ってきた。

「うーむ。さっきの餅、そこまで古くなさそうだし食えたかも知れんなァ」

 うめくように呟くが流石にあれを拾いに来た道を引き返す気にはなれない。向こう側に出れば何とかなると自分に言い聞かせて足を進めるしかない。

 先程まではマッチの火がチロチロ揺れるのを感じるだけだったが今はもう肌でも空気の流れを感じる事ができる。出口は近い。

 その時だった。大きな岩で遮られた角を曲がった瞬間、淡い光が目指す方向から微かに差し込んでいるのが見えた。

「出口だ! 日の光だ!」

 宮田はもう我も忘れ大声を上げて駆け出す。自分がこんなにも外に出る事を熱望していた事が彼自身にとっても驚きであった。

 光の差し込む場所。光の溢れる場所。洞窟のもう一方の出口から宮田は飛び出した。

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