二 テダ

 ――そこは海岸だった。波の音だけがよく聞こえる物静かな海岸。潮風も吹いている。

 海を埋め尽くさんばかりに居た敵艦が、ここからは水平線を見渡しても影も形も見えない。(自分はそれを期待していた筈なのだが、いざそのあり得ない状況を見ると著しい違和感を覚えた)

 それよりも更に奇妙だったのが、もう夜になっている事であった。星も満月も不気味なほど煌いている。自分はせいぜい一、二時間程度しか洞窟内に居なかったように感じていたのだが。 満月の光が洞窟にも差し込んでいる。この淡い光を自分は日の光と思ってしまったのだろうか。

 暗闇の中であらゆる感覚がすっかり狂っていたのだろうか? そう考えればとりあえずの辻褄は合う。敵にしたって日が落ちたので遠海に去ったのかも知れない。

 宮田はおずおずと洞窟の入口を離れ海岸に出て行く。砂を踏みしめるギュッギュッという音は耳に心地よかった。

 波打ち際まで近寄って見渡しても目に付くのは水平線と砂浜ばかり。内陸側は切り立った高い崖になっていて様子が窺えなかった。静かで、穏やかで、それ故に数刻前の砲弾地獄との落差があり奇妙に恐ろしかった。

「此処はいったい何処だ?」

 やっきになって辺りを見渡していると――月明かりとは違う煌々とした光が目に入った。あれは明らかに火だ。誰かが火を灯しているらしい。

 宮田はそろそろとその灯りのほうに近づいていく。近づくと、それは木造の小屋の入口から漏れている灯りだという事が分かった。

海岸からほんの少し離れた高台に建てられた、茅葺屋根に高床式の如何にも南洋然とした小屋。

 宮田は立てかけられた梯子を登り、小屋の戸口の前に立って中を覗き込んだ。中は広くは無いが芭蕉か何かで織られた敷物が敷かれている。茶箪笥のような物もある。部屋の隅には油を差した東洋風の燭台が置かれており、これが明々と室内を照らしていた。

 しかし部屋の中はもぬけの殻で誰も居ない。先ほどまで誰かがいたような生活感があるのだが……。


「あの……どちら様でしょうか?」

 不意に声をかけられはっと振り向く。見ると梯子の下に一人の女が立っている。縦縞柄の着物を着、黒髪を後ろで束ねた若い女で、手に竹籠を持っている。

 どういうわけか息の詰まるような思いがしたまま固まっていると、女は再び「どちら様でしょうか?」と聞いてくる。

自分が〝兵隊さん〟である事は格好ですぐに分かりそうなものだが聞かれたものは仕方が無い。

「――失礼。自分は第○○歩兵連隊所属の宮田一等兵です。こちらの御宅の方ですかな」

 民間人と話す時は軍人としての威厳を強く保て……平たく言うなら常に尊大な命令口調で話せといわれているが職業軍人でもない自分はそれがどうにも苦手である。

 それはそれとして、女は分かったのか分かってないのか「ヤマトの方ですか」とだけ答えた。

 ――ヤマト。琉球国から沖縄県になった今も日本本土をこう呼ぶ人は少なくない。ヤマトンチュ(大和人)という他者化したかのような言い方は〝同じ日本人〟としての連帯意識が足りないと叱られる事も多いそうだが、自分などはむしろ親しみを感じるのだが。

 それはそれとして、この女の言葉にはいわゆる琉球訛りが全くなく、東京出身の自分にも難なく聞き取れるのが不思議だった。女の方は訝しむ宮田を知ってか知らずか、竹籠を段の上に置き自分も梯子を登ってきた。

「……自分は艦砲射撃を避け洞窟を伝って此処まで来たのですが、この海岸からはアメリカの艦船が只の一隻も見えない。連中は何処へ消えたのでしょうか。何か見ておりませんか」

「舟ですか。さあ今日はたったの一艘も見ておりませんよ」

「見ていない……それじゃあ砲声などは? 聞いていませんか」

「静かな所ですから。波の音以外は一日何も聞いておりませぬ」

 あれだけ居た艦隊やこの世の終わりのような艦砲射撃を見ていない……そんな事がありえるだろうか。しかしこの女性がわざわざ自分を担ぐ理由もない。まさかあの短時間で島の反対側に抜けたなどとは思えないし、仮に反対の海だとて敵艦がいくらでも往来している筈だ。――しかし脅威が完全に目に見えない場所に去ってしまったらしい事に自分が安堵しているのもまた事実であった。

 腑に落ちない事だらけで立ち尽くす宮田を尻目に、女は竹籠を持って小屋の中に入っていく。籠の中身がちらりと見えたが、どうも椎の実がどっさりと入っているようだった。

 入口の敷居を越えた辺りで娘はヒタと立ち止まり「あの、宮田様」と呼びかける。

「……なんでしょうか」

「今夜はもう遅うございます。お食事を差し上げますのでどうかおあがりなさって下さい」


 妙な雰囲気の女に誘われ、宮田は先ほどまで覗き込んでいた部屋にあげられる。不審な点だらけであったがこの海岸には人家も他に無く日本軍の痕跡も見つからない。戻るアテもなかった。宮田は案内されるまま担いでいた小銃を茶箪笥に立てかけ、暑苦しい鉄帽も脱いで柔らかな敷物の上に胡坐を組んだ。

 件の女はというと此の部屋のさらに奥にある部屋に入っていった。どうもそこが台所らしかった。

 悲惨を極めた南方戦線に比べれば沖縄の食糧事情は幾分良い、とは言え決して豊かだとは言えず、いきなり現れた日本兵に進んで食事を供するというのは些か怪しい話ではある。

「……模範的皇国臣民か。あるいは太らせてから食う鬼婆の宿か」

 くだらない事を嘯いていると、ちょうど戸板がキッと音を立てて開き、女が膳を持ってきた。

 女は膳を宮田の前に置く――目を見張った。ご馳走である。山盛りの白米、豚の味噌漬け(これは沖縄の伝統的な保存食である)、鯛の焼き物、刻んだ根菜が実の味噌汁、名前が分からぬが三角形の揚げ菓子までが膳に載っている。

 味噌漬けの濃厚な香りが鼻をくすぐる。喉が鳴った。

 ちらりと女の方に目をやると、女はにっこりと笑いながら「おあがり下さい。ありあわせで申し訳ないのですが」と言い、ちょこんと頭を下げた。

これを聞いた宮田はもう無我夢中でがっついて食事に手をつけ始めた。洞窟の中から感じていた異様な空腹感はもう限界に達していた。

 ものも言わずがつがつと料理をかきこみ、茶をぐっと飲み干す。暫くすると女が今度は別の椀を差し出してきた。それは酒で、それをまた一気に飲み干し、ようやく一息ついた。

 その様子を見た女はまたコクリと頷き、宮田の椀にまた酒を注いでくれた。――二杯目の酒をちびちび飲み、腹も落ち着いてくると、今更ながら合点の行かない事ばかりである状況が気にかかりだした。ほんの数時間前まで必ず命を無くす地獄を見ていたというのに、今はドカッと胡坐を組んで女に酌などさせながら酒を飲んでいる。これが不思議でなくて一体何が不思議だというのだ。

 いつの間にやら女は宮田の隣にやや寄り添うように座っている。洗いざらしの髪の匂いまで嗅ぎ取れるほど近かった。徴兵されてからトンと縁のなかった女の匂い――くらくらするものがあった。宮田は残った酒を飲み干し、気を取り直すように言う。

「……お嬢さん、もう少し離れて座ってもらえないかな」

「此処に居た方がお酌もしやすいですし」

「酒くらい自分で注ぎますよ。気にしないで下さい」

 酒が入っているせいか顔が熱い。赤くなっているのが女にも分かったらしい。女はここで初めてやや感情のこもった笑みを見せ、「あらあら、ずいぶんと初心うぶですのね」と笑った。酔いが回っているせいか、それがとても艶っぽい振る舞いに見えた。

 

 それからまた随分と酒と肴を供された。十数杯目の杯を飲み干したあたりで宮田は流石に断りを入れた。意識がやや朦朧としている。

「もう結構――そう結構。すっかり酔いが回ってしまった。大変なご馳走にあってしまった。申し訳ないが今は一切持ち合わせがない。帰ったら必ず支払いをするから、貴女の名前だけ教えていただけないか」

わたくしはマヤと申します。しかしお支払いなどは結構でございます」

「しかしこの食糧難の時にこれだけの……」

「物には困っておりませんので――それよりも、いつまでもいつまでもご逗留していただきたく思います」

「いや――いや――そういうわけにはいかんのだよ。自分は帰らねば……」

 部隊に戻らねばならないと言おうとして、それが少しも本心ではない事に自分で気付き、言葉が途切れた。その様子を見ていたマヤが言う。

「帰りたいのですか? 逃れて此処まで来たと仰っておりましたのに」

 思い淀んでいた事をピタリと当てられ、宮田は苦笑いを浮かべた。

「俺は……そうだ、ネズミを追いかけて此処に来たんだ。それから……大昔の骨を見つけた。本土と沖縄……繋がる何かを見つけた気がして穴の中を這い回って此処まで来たんだ……」

 酩酊しているのか、宮田の言葉はだんだんと纏まりが無くなっていき、やがてコクリコクリとうなだれてまどろみ始めた。マヤはその身を抱き寄せ、しばらくの間じっとしていた。そしてやがてこう述べる。

「――昔、そういうお話をよくされている方がおりました」

 宮田は目を閉じ、まどろんだままマヤの話に相槌を打つ。

「へえ、そうかい……神話学か……民俗学か……いや沖縄学か? とにかく意見を聞いてみたいものだ……」

「その方はもうおりませんが……話してくれた事は忘れておりません。貴方にも聞かせてさしあげましょう」

「そりゃあ楽しみだ……時間が許す限り……聞きたいな……」

 それから宮田はいびきをかいて眠り始めた。マヤはそれからしばらくの間、宮田の体を抱き続けていた。彼女は窓から見える月を眺め、そっと呟いた。

「時間なら幾らでもあります。ここは太陽テダの岬ですから」

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