三 ニルヤカナヤ

 自分は海辺に立って泣いていた。何が悲しいのか自分でも分からない。大きな声で泣きじゃくっている。やがて自分は大声をあげながら走り出した。

 自分が走れば何よりも早く駆け抜ける事ができた。山の中。草原。東京市内。海の上。どんな場所でも暴風のように駆け抜けた。涙がぼろぼろと溢れて止まらず、雄叫びをあげながら走り続ける。

 自分は大きな力強い腕に押さえつけられた。自分を抑える腕のその力強さが恐ろしかった。

 荘厳なるその声は、自分に対してこう宣った。

「そんなに行きたければ行くが良い。だが二度と戻って来てはならぬ」



 ――窓から差し込む明るい光が自分の視界を照らす。朝だ。どうにも寝覚めの悪い夢を見ていたらしい。

 宮田はよろよろと立ち上がる。昨日は泡盛をしこたま飲まされ、そのまま酔い潰れて寝てしまったらしい。自分は畳の上に敷いた布団に寝かされていた。あのマヤという女が都合してくれたのだろう。部屋の中を見渡してもマヤの姿はない。小屋の中にもいなさそうだった。出かけているのかも知れない。

 様子を見ようと扉の所まで出て外を覗くと、ぎょっとした。

 空はよく晴れ、昇った陽が暖かく差し込んでくる。しかし海は――水平線いっぱいにまで霧がかかっていたのである。なんとも奇妙な光景で、まるで海上を覆い隠しているかのように思えた。

 物珍しげに外に出て海岸に降り立っていく。打ち寄せる波の音がよく聞こえる。波打ち際にはあの女……マヤが海の方を向いて立っていた。彼女の素足の足に海水がかかっていた。

 宮田が近づいている事に気付いたマヤはすっと振り返り、笑いながら声をかけてきた。

「あら、宮田様。おはようございます」

「おはよう――珍しい景色ですな、海の上だけに濃い霧とは。始めて見ました」

「今朝は舟が来るのでしょう。あの霧はその徴なのです」

「船……?」

 マヤが当然の事のように述べた言葉が、宮田には意味がよく飲み込めなかった。

「あ、ご覧下さい。ずいぶんと大きな舟が見えてきましたよ」


 マヤが海の方を指し示す。そちらに目をやると――霧の中にたしかに船影が見えた。かなり大きな船が右手から左手に向かって進んでいる。朝陽の方へ向かっているように見える様子からしてどうにも東へ向かっているらしい。

 そしてそれは砲門を備えている軍艦であった。霧の中を軍艦が音も無く進んでいる。日本の軍艦かアメリカの軍艦なのかは、船影だけでは分からない。

 しかもそれは一隻ではなかった。後から後から船影が続いているのが見えた。妙な事に編隊を組んでいる様子ではない。大きさもバラバラで大型の戦艦や駆逐艦、更にはボートまで見えた。序列も無く無秩序に並び、皆同じ速さで進んでいる。戦艦とボートが同じ速度で移動し続けているなど土台ありえない事だ。


 呆然としながら海を眺め続けていると、いつの間にか霧がずいぶんと海岸のそばまで立ち込めていた。――そしてその霧の中から、本当に不意にボートが現れたのである。距離はせいぜい十メートルあるかないかだろう。

 じっとそのボートの様子を伺っていた宮田は息を呑んだ。ボートに乗っているのは、白人であった。アメリカ海軍の制服を着た白人が六人も乗っていた。救命胴衣を身に着けている者もいたし、小銃を握っている者もいた。

 ――敵兵!

 しかし彼らはいずれも、海岸でカチンコチンに固まった宮田には目もくれなかった。アメリカ兵達はボートを漕いだりしているわけでもない、ただ立ったり座ったりしているだけだ。それでもボートは音も無く進んでいく。全員がボートの進んでいく方法を見つめ、じっとしていた。妙な様子のアメリカ兵達を乗せたボートはしばらく進んでいくと再び霧の中に潜り込んでいき、すぐに見えなくなった。


「お、おい! 早くここから離れるんだ! 敵がこんなすぐ近くまで来ているとは知らなかった!」

 ようやく我に還った宮田は慌てて振り向き、やや後ろにいるマヤに対して怒鳴った。しかしマヤの方は全く動じている様子も無く「あの人達は此方へは来れませぬ」と笑いかけるだけであった。

「しかし……貴女も見た筈だ、現に米兵が目の前にいただろう!」

 たしかに、此方から見えたようにあのアメリカ兵達からも確実に自分の姿が見えていた筈なのに連中は関心すら払わなかった。先程のボートも、やや遠くに未だ見える他の船影も、この海岸を無視するかのように東の方へと向かっている。

 事の不可解さに不審の表情を浮かべながら宮田が再び海の方に目をやると――丁度再び、霧の中から大きな影が出てきたところであった。

 真っ先に目に入ったのは、日の丸! しかもそれが描かれているのは船ですらなかった。

 ――零戦ゼロせん

 開いた口がふさがらない。海の上を漂流するかのように、無傷の日本の戦闘機が流れてきたのである。そしてこの戦闘機もまた、他の船と同じように東に向いて流れている。

 零戦の操縦席には日本の航空兵の制服を纏った若者が乗っている。頭に「神風」と書いた鉢巻を巻いている事が判別できるくらいよく見えた。彼は――特攻隊員だ。

 その彼もまた、先程のアメリカ兵達と同じように無表情で座席に座り、同じ方向をぼんやりと見つめていた。

「――おおい! アンタ! 一体何をしているんだ?!」

 声の届きそうなほど近くを漂う零戦に対し思わず声をかける。しかしパイロットらしき男は何の反応も示さない。何度も声をかけたが振り向きさえしなかった。そして零戦もまた海岸に立つ二人の前を音も無く過ぎ去っていき、再び霧の中へと消えていった。

 ……それからまた何度もボートや小船が霧の合間を縫うように海岸のそばに現れ、遠くには大きな船影も何度か見えた。乗っているのは日本の軍人もいたしアメリカの兵士もいた。中には沖縄の民間人らしい身なりの者も居た。そして彼らのうちの誰一人として、宮田のかけた声に応える者はいなかった。


 幾ばくかの時間が過ぎた。霧の中から船が現れるたびに大声を張り上げて声をかけたが、たったの一人も返事をしなかった。

 やがてその霧も何事もなかったように晴れ、海はまた穏やかな様子へと戻っていた。

 宮田は砂の上に座り込み、うなだれている。

「……俺は今、何を見たのだ? 日本人もアメリカ人もいたが――あれは航海なんてものではないぞ。……どこへ行ったんだ?」

「私は知っておりますよ」

 いつの間にかマヤは宮田の隣に腰を下ろしていた。宮田はうなだれたまま尋ねる。

「知っているのか? あの兵隊達は敵も味方も入り混じって――どこへ行った?」

 マヤは水平線の彼方の方へと目をやり、こう告げる。

「ニルヤに渡ったのです」

「……ニルヤ?」

「海の彼方にある、マブイが至る国です。雅な言い方ではニルヤカナヤとも呼びます」

「もしかして、ニライカナイの事を言っているのか? 悪いが、今は伝説の話を聞きたいわけではないぞ」

 宮田はニライカナイという言葉を口にした途端、背筋に何かゾワっとするような感覚を覚えた。

 ――ニライカナイ。琉球で古くから想念されていた海上の理想郷。

 口伝などにその痕跡が多く見える一方、文献資料の中でそのルーツを探す事は困難を極めている。

 琉球王朝が編纂した神霊歌集『おもろ草子さうし』などに〝ニライカナイ〟と表記する例があるがその中ですらニルヤカナヤ、ナルコテルコなどの揺らぎが見え、十六世紀の段階ですでに名前も概念もおぼろげな伝説と化していたらしい。

 近世日本の文人達は之に儀來河内ギライカナイという漢字をあてたりもしている。

 ニライという言葉とカナイという場所が別々の場所だと解され伝わっている例さえある(例えば奄美大島ではナルコ国トルコ国などと呼んだ)が、本来は対句であり、言語学者・伊波普猷いはふゆうはニライを根、カナイを沖縄独特の修飾語だと説いている――


「たしかニライカナイは祖霊、つまり死者が住む島だそうだな。さっきのは、つまり……死人の群れだったとでもいうのか?」

 見たものについて極力客観的に理解しようと努めてはいるが、どうにも妖しくなってくる。訝しむ宮田に対しマヤが告げる。

「その通りです。昨日、あれだけの人が死んだのだと思います。死者を相手にいくら声をかけても、返事をしてくれる筈がありませぬ。死者は物音も立てませぬし、身体を動かす事もありませぬ」

 宮田はふと、昨日の昼に見た特攻機を思い出していた。そしてつい先程見た、海を流れていく零戦の事も。

「つまり俺は、幽霊の日米合同大隊を見たという事か? ……馬鹿げている」

 苦々しい表情を浮かべながら、宮田は何も見えなくなった大海原を見渡す。あれだけ音も無く漂っていた船や飛行機は、最初からいなかったかのようにまさに霧のように消えてしまった。

 そして宮田が水平線の方に視界を移したちょうどその瞬間、太陽が東の水平線をぷつりと離れ、完全に空に昇った。

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