四 祝女

 ――日が昇り明るんでくる。気分直しに海岸をブラブラ歩き回ってみていると、昨日は暗くてよく見えなかったこの海岸の全容が見えてきた。

 まずこの海岸は高い岸壁に囲まれている。十メートルはゆうに越える高い岩壁で上の様子は全く伺えない。草がチラホラと生えている程度でとても登ったりなどできそうにない。

 昨日寝泊りした小屋は岸壁沿いのほんの少し小高い丘の上に建ててある。その丘の上だけには青々とした草が繁っている。

 こうして改めて見るとなんとも座りの悪い……言うならば生活を営んでいる気配が全く見えない空間であった。この場所でマヤがどうやって生活しているのかがまるで分からない。

 例を挙げれば、このような切り立った崖と砂、そして海水しかない場所でどうやって昨日のような食糧を手に入れているというのか。

厳しい岩壁は両端とも海の方にまで迫り出しており、砂浜は外に繋がっていない。海岸線沿いに歩いてこの海岸の外に出る事はとてもできない。例えるならば陸側はU字型に切り抜かれた岩で阻まれ、外界と繋がる可能性があるのは目の前の海岸だけだ。

 あるいは海を渡って街にでも行っているのか。しかしこの海岸にはボート一艘すら見当たらないのである。

 ――そういえば、自分が最初にこの海岸に辿り着いたあの洞窟がある。あの暗く長い洞窟こそがこの海岸と外界を繋ぐルートなのか。このような辺鄙な場所に一人で住んでいるこの女、一体何者なのだろうか。

 あの陰気な洞窟を灯火一つでとぼとぼ歩いているマヤの姿がふと脳裏に浮かぶ。〝幽霊船〟の群れの事もあり、急に薄気味悪い気持ちを覚えた。先程の情景も含め夢か幻とでもとるべきなのだろうが、それにしてははっきりと目に焼きついた情景であった。

 マヤの方はというと、あいもかわらず海の方を向いて水平線の彼方を眺めている。親切には違いないが、どうにも理解しがたい雰囲気のある女だと感じる。

 じっとその後ろ姿を見つめていると

「あの舟達が向かっていった方に――」

 海の方を向いたまま、マヤが話し始める。独言かとも思ったが、どうも此方に語りかけているらしい。

「――何があると思いますか?」

「……?」

 質問の意図がよく掴めず、何も応ずる事ができない。地理の話にしても観念の話にしても自分よりマヤの方が詳しそうなものだが。

黄泉よみでしょうか? それとも根の国? 常世の国? それとも違う名前を知っていますか?」

「ほう、日本神話について知っているのかね」

 沖縄県でも本土と同様の皇民教育があり、修身の時間に日本神話はある程度習うはずだ。といっても学校で習わされる神話など世界ニ国ハタクサンアリマスガ神サマノ御チスジヲオ受ケニナッタ天皇陛下ガ……の全文暗記に終始させられるばかりで、慣れ親しんだと言える者など本土でもそういないだろうが。

「一般的には、本土では海の向こうにある伝説の国の事を常世と呼んでいる。常世というのは――とこしえに続く国と解すれば分かりやすいかね。とこしえにが続く国、つまり不老長寿をもたらす国として理想化された場所だとも言っている。折口信夫先生は〝ヨ〟という言葉が古くは米や作物を表していて、つまりは尽きる事の無い作物をもたらす国であったと解している」

我島ウチナーでも、米や麦はニルヤカナヤからもたらされた物だと言っております。大昔に海の彼方から五穀の入った瓢箪が流れてきましたが、その中には稲がありませんでした。これを憂いたアマミキヨがニルヤに祈ると、三百日後に鷲が稲穂を三本くわえて飛んできました。この稲のおかげで人々はお腹いっぱい米を食べられるようになり、長生きして子孫を増やせるようになったとも。なんだか似ておりますね」

「折口先生は沖縄や奄美大島の伝説を収集して常世とニライカナイが同義であると判じられたのだから、似ているのも当然といえば当然だな。ふむ……食い物に困らないという事と長寿は古代人にとっては同義だったのだろう。そういえば日本書紀には〝常世の虫〟を祭る人々が現れたという話がある――」


 駿河の富士川の辺りに住んでいた大生部多おおうべのおおという者が青虫を持ってきて「此は常世の神なり。此の神を祭らば富と寿とに到らむ」と説き、この虫を拝むように人々に勧めた。

 巫女達も同調して「この神を祭れば貧乏人は豊かになり老人は若返る事ができる」と言ったので人々はいよいよこの〝常世の虫〟に夢中になり、この虫を持ってきてその前に酒や財産を供え、「新しい富が来るぞ」と歌い踊って祭るようになった。

 人民が無益な祭に耽るのを憂いた秦河勝はたのかわかつという豪族が大生部多を成敗したので巫女達は常世の虫の祭を人々に勧める事を辞め、この奇妙な祭は急速に廃れた。当時の人々はこういう流行り歌を唄って事件を語り継いだという。

 太秦うずまさは神とも神と聞こえくる 常世の神を打ち懲ますも

 (太秦こそは神の中の神だと聞く。常世の神まで懲らしめたのだから)


「――日本書紀の中では無益有害な祭であったので懲らしめられたと言っているが、事態を鎮圧した秦氏は大陸から来た渡来氏族だ。事によっては無智な民衆が素直に信じて熱狂した〝常世の虫〟の方が古代の日本人の精神に近かったのかも知れん。秦氏以外にこれを討つ事が出来なかったのも、日本の豪族には虫に身を窶した神を討つ事に対する恐れがまだあったのかも知れん。少なくとも、常世から来た物は小さな青虫ですら莫大な幸をもたらすと信じられた事は確かだろう」

 常世国のイメージは仏教等の外来宗教によって徐々に変質衰退していったが、幸をもたらす海上の国というイメージの残滓は日本の民俗の中に今も確かに残っている。

 海の彼方から現れ福徳をもたらす神といえば今でも恵比寿えびすであるし、恵比寿を筆頭に七福神を乗せた宝船のイメージは今も根強い。現れ出る場所こそ山中に置き換えられているが、豊作をもたらすなまはげ等の来訪神にも同様の性格は認められるだろうし、海岸に流れ着いた材木や鯨を海の神からの賜物だと見なす信仰も同様の物だと言えるだろう。

 海の果てから流れ着くのは神、あるいは神から贈られた賜り物。しかし――

 マヤは日の光を受けキラキラと輝く海の深い所へ、服を着たまま事も無げにさばさばと入っていく。腰辺りまで海水に浸かり手を合わせている。その後ろ姿からはなんだか水垢離みずごりを連想させられた。

「マヤさん――あんたもしかして、ユタとか祝女ノロとかいうモノなのではないのかね」

 宮田の問いかけに、マヤがちらりと返り見ながら答える。

「あら、口幅ったくございますがユタのような藪者とは格が違いますよ――私はたしかに神に仕える祝女でございます。私達はいつも、小高い丘の上から海をながめて祈りを奉げておりました」

 ――祝女ノロ。自分もさして詳しいわけでは無いが、沖縄を中心とした南島郡に広く居る巫女ふじょだと説明される事が多い。豊穣をもたらすニライカナイの神を祭って島に豊かさをもたらし、神と交信しその声を人々に伝える者達であった。

 沖縄の同様のシャーマンとしてはユタがあるが、ユタが民間の拝み屋という体裁であるのに対し、祝女は琉球王国により統治された公的な神女である点が大きく異なる。聞得大君きこえのおおきみを頂点とする神女達による補佐体制は琉球国王を神の代理人とならしめ、その権威を絶大な高みに導いた。

 祝女達は神の声を聞く者であり、同時に神そのものでもあったので、尊敬の念を込めて〝神人カミンチュ〟とも呼ばれた。

 1429年の三山統一(琉球王国の成立と見なされる)と神女体制の確立以前の姿は記録も乏しく判然としないが、日本本土の民間巫女と同じように人々の間を巡り歩き、祈りと託宣を与えていたのではないかとも考えられている。時代は下るが幕末期に奄美大島を見聞した薩摩藩士・名越左源太はその著書『南島雑話』において、神女体制以前の姿とも思える奄美大島の〝隠れノロ〟達の行う祈祷や生活を詳細に記録している――


「海の向こうのニルヤを見つめて祈りと想いを絶やさなければ、ニルヤは波に乗せて恵みをもたらしてくれます――ほら!」

 マヤは海面に手を差し伸べると何かを拾い上げ、いそいそと砂浜の方へあがってきた。海水を衣服から滴らせながらそれを宮田の前に差し出す。それは桃の缶詰であった。

 宮田は波打ち際に寄り、海面の方に目をこらす。はるか沖の方から缶や木箱がいくつも連なって此岸の方に流れてきているのが見えた。

「つくづく、おかしな事ばかりが起きる場所だ……」

 呆然と海を眺めている彼の足元にも、缶詰が続々と流れ着いてきている。マヤがそれらをいそいそと拾い集め始めていた。



 ……二月二度廻りに来るみづのえに神事あり。是をヲンケといふ。此時の神事夜にあり、鶏鳴におよぶ。…村の女ども銘々焼酎取肴など木屋へ持参して神人数へ送る。男子はその木屋に入る事を禁ず。

 訳は往古毎年トルコ国(ナルコテルコの転訛?)より神来たりて、男を遠ざけ女子を集めて楽しみたり。依て今に男子を遠ざけてする事なり。ヲンケは神の御迎ひなりと云へり。ヲンケの祭、稲その他諸作の祭とも云へり。

 ――『南島雑話』――

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