五 補陀落渡海
海からは数え切れないほどの缶や瓶、それに木箱が流れてきていた。それらが続々と海岸に流れ着くのを二人して片っ端から拾っていたがとても拾いきれず、しまいには流れ着くままに放って置く事になった。
缶詰には軍で見覚えがある物がかなりあった。それらは日本軍の備蓄用缶詰で、肉、魚、野菜までなんでもあった。ラベルに英語が書かれた物もあり、それらはどうやらアメリカ軍の缶詰のようだった。大きな木箱にも缶詰が入っており、中には油紙で包まれた米まであった。
流れて来続けるのは日米の糧食ばかり。ありえない話だが、沈んだ両軍艦に積み込んであった糧食が根こそぎ此処に流れてきているとしか考えられなかった。
死人が乗っている船を見たと思ったら、今度は彼らが食うはずだった食べ物がわんさと流れてきた。――非現実的な考えが沸々と頭に浮かんでは消える。しかし自分は実際非現実的な事を見続けているのだ。――いや、これが実存なのかさえもはや分からないのだが。
訝しみながら英語のラベルが書かれた缶詰をじっと睨んでいると、そこにマヤが声をかけてきた。
「あのォ……宮田様。これは一体、どう開けるのが正しいのでしょうかー……」
拾い集めた缶詰を持って小屋の中に戻っていたマヤが、困り果てたとばかりにこちらに戻ってきていた。その手にはベコベコに曲がって汁が漏れている、潰れた缶詰があった。
「……どうしたんだ?」
「いえ、この入れ物の中に食べ物がしまってあるのは知っているのですが、開け方が分からないのでコレで……」
もう片方の手で握っていた大きな石を見せながら、マヤはみるみる顔を赤くしていく。察した宮田は引きつった笑みを浮かべた。
「か、缶詰を初めて見たのかね? 缶切を使えば良いだろう、どれ」
流れ着いた木箱の山を漁っていると案の定中に缶切があった。それを使って缶の蓋を開けて見せるとマヤはとても驚いた様子で別に缶詰を見よう見真似で切り開けはじめた。
「あらあら、すごい! 少し力を込めるだけで鉄が紙のように切れていきます」
そうしてとても嬉しそうに綺麗に開いた切り口を見せてくる。
今までこの女は作り笑いのような、愛想は良いがどこか底冷えしているような表情ばかりを見せていたが、ここに来て初めて年相応の和らいだ表情を見せたような感じがした。
――振る舞いが往々にして年齢不詳に感じさせるのだが、改めて見るとマヤは自分よりはだいぶ若々しく見えた。肌も髪も艶やかで瑞々しい。まだ十代のようにも見えたし、開けた缶詰の中から取り出した輪切りのパイナップルを美味しそうに頬張る姿はずいぶん子供っぽく思えた。
「霊験高い祝女殿よ、そいつがニライカナイからの賜り物というわけでございますか」
宮田がからかい半分で恭しく声をかけると、マヤはパイナップルをごくんと飲み込んでからニコっと笑んでこう答えた。
「はい。この海岸にはニルヤからの賜物が余るほど流れてきます。おかげで食べる物にも暮らしにも事欠く事はございません。このような詰め物が流れてくる事もありますし、米や丸々太った豚が流れてくる事もあります」
「ぶ、豚? ――生きたやつかね?」
「それはもう活きの良い豚ですよ。昨日差し上げた豚の味噌漬けも私が締めて肉にした物でございます」
「……君が締めたのかね?」
「そりゃあ本来は男の仕事ですけども、他に誰も居りませぬし。あっ、宮田様ならもっと手際よくさばけますか? 次に豚が手に入りましたらお願いしましょうかしら」
「俺は豚肉はトンテキ屋で食う専門だ、ワハハ……ところで、此処には生き物まで流れてくるというのかね。いよいよありえない話だ」
強引に話を切り替えた宮田に対し、不思議そうな顔をしながらマヤが返した。
「あらあら、ですが宮田様も海を流されて此処まで来たではありませんか」
「――? いいや、俺は洞窟を抜けて此処に来たのだぞ」
「おかしな事を申されますこと。この海岸に洞窟なんて何処にも在りませんよ」
マヤの表情は可笑しそうに笑っているが、やや寂しげな口調に感じた。
「此処は、何処にも行く事ができない海岸でございます」
「いや、俺はたしかに洞窟を抜けて此処に来たのだ。貴女は知らないのか、あの大昔の人骨がある洞窟だぞ。陰気で気持ちの悪い場所だったが、そこを通れば幾らでも外へ行けるだろう」
宮田は昨日の自分が見たものについて述べていたがマヤは至って関心が無さそうなそぶり――いや不興を感じているようにさえ見えた。
「……そこまで仰りますならどうかその洞窟をお見せ下さい。狭い海岸ですのですぐに見つけられるでしょう」
「分かった、ついてきてくれ」
なにやら急にしらけたような雰囲気になったマヤを連れ、宮田は記憶を頼りに昨日通り抜けた洞窟へ向かう。昨日の今日の事だ。殺風景な場所とは言え見覚えが充分ある場所に辿り着いたのだが――無い。
風景にはたしかに此処だという見覚えがあるのに、昨日這い出してきた筈の洞窟は岩壁の何処にも見当たらなかった。
来た道を見失った。さすがに焦りを覚え、記憶違いかも知れぬと辺りをひとしきり探し回ったがそれは却って曖昧な記憶を混乱させるばかりだった。結局洞窟は海岸沿いの岩壁にも見つけられなかったのである。
「どういう事だ? 昨日はたしかにあった……俺はそこを通って此処へ来たのだ」
不安げにマヤの方を振り返り、尋ねる。
「あの暗さも忌まわしさもまだ覚えているぞ、俺は。どうして俺が来た道がないんだ?」
うろたえる宮田に対し、マヤは事も無げにこう告げる。
「此処には海と浜しかありませぬ。浜を経ち、海を越え、この浜に辿り着いたのでは。その暗い洞窟も、まどろんでいるうちに舟上で見た夢かも知れませぬ」
「――夢?! バカを言うな、あれは確かに……」
艦砲射撃――爆風――神風――そしてそこから逃げ出そうとした事まで、何もかもよく覚えている。あれが夢だとはとても思えなかった。
宮田の心中を知ってか知らずか、マヤの方は滔々としゃべり続けている。その眼差しからは陶酔感を感じた。自分を見ているのか違う物を見ているのかよく分からない不思議な雰囲気を感じた。
「私はよく夢の中で砂浜を渡り歩きますよ。それに昔、実際に海を越えて来た人がありました。その人も板張りの日の光も見えぬ小さな舟の中で横になり、ずっと夢を見ていたそうです。熊野の浜を出てから、ずっと……」
――熊野?
「いま、熊野と言ったのか? 和歌山県の熊野の事か? 熊野から船が来たのか?」
「熊野から――長い長い間波にゆられ、やって来た人がいます。暗闇の中でまどろみながら……ずっと
――
常世国への情念は取り巻く世界の変貌と共に変質し、次第に衰退していった。常世は文芸の中に微かに現れる古めかしい慣用句と化し、遂には虫を使者に送る国にまで零落した。
しかし海上の彼方に対する随喜渇仰が日本民族の精神から完全に失われる事は無かったと言える。
仏法隆盛の時代、神仏習合の時代の到来とともに現れた新たな色彩の常世――それが補陀落である。仏典に描かれるインドの南島〝ポータラカ〟はいつしか人々の間で〝補陀落浄土〟となった。それは観音菩薩の
そして中世の人々が抱いた補陀落に対する激しい情念は、ただ心に思い描くだけではもはや満足する事はできなかったのである。――そうして始まったのが補陀落渡海であった。
補陀落を夢見る僧侶達は僅かな食物と水だけを小さな舟に積み込み、観音菩薩の御座す補陀落目指して海へ漕ぎ出していった。彼らは全体に板張りをした独特な舟を作り、その四方に鳥居をかけ、舟全体に荘厳な浄土の絵を描き、帆には経文を書いていたという。そして唯一の出入口には出航時に釘を打ちつけ二度と開かないようにする。
風に任せて沖に流されて行った舟は二度と元の浜には帰らず海の藻屑と消え、十六世紀のキリスト教宣教師達は補陀落渡海に触れ、異教徒の眼を持って「狂信的情熱に裏付けられた自殺」等と記している。宣教師達の目撃した記録によれば、僧侶だけでなく民衆にも補陀落渡海に至る者がいたという。
その宗教的情熱はかくも特異に思われたようで、〝フダラク〟は日本人の宗教観の一端を示す言葉だと理解されていた。
フダラク
フダラクセン 海中にあるという
フダラクニワタル 海上のどこかで入水する事。美しく飾り立てた船に数名の
――『日葡辞書』――
そして彼らが「その先に補陀落あり」と固く信じて古くから舟を出したのが紀伊国(現・和歌山県)熊野の岬であった。
熊野に御座す古き神こそが死出の船出を取り仕切り、風に乗せて補陀落に連れて行ってくれると信じられたのである。
「……そういえば那覇にある
「
「似ている? 熊野と波上がかね? 確かに沖縄には明治以前から熊野権現を祭る神社が複数あったが、それは最初に訪れた僧侶が熊野信仰者であったから以上には考えられていないぞ」
「私にも分かりませぬ。……ただ、ヤマトから来た人は、波上と熊野は似ているし、熊野の先にあるイザナミの国はニルヤに似ていると……」
「イザナミの国?」
イザナミの国といえば、すなわち神話が描く黄泉の国の事である。それは死と腐敗と穢れに満ち、
「すまないが、話が抽象的すぎて俺には判断がつかないよ。分からない。そのヤマトンチュとやらにもっと詳しく聞いてみるといい」
答に詰まり、その回答をマヤが絶大な信頼を寄せているらしい男に投げる。すると途端にマヤの表情が曇り妖しくなった。
「……私も聞きたいのですが、その方はもう居なくなってしまいました。私を置いていってしまったのです。私は……一人になってしまいました」
そうしてマヤはせきを切ったようにわっと声をあげて泣き出したのである。
「お教え下さい宮田様。ニルヤとは何なのですか? 私はニルヤが分からなくなりました。そしてニルヤに囚われたのです」
マヤは宮田の腕にすがりつき、いつまでも泣きじゃくっていた。突然の豹変に宮田はどうしたらいいのかわからず、ただ困惑しながら抱くばかりであった。
…私は
…日本人達の云うところによれば、彼らの天国のうち海水の下に在る物がある。彼らが行こうと欲するのは其処であり、そこに居る聖人を
その偶像の天国に行こうと思い立った者は睡眠を取る事を止め、弟子達と共に休みなく立ち続けて人々に現世の賤しむべき事を説き、我と共に参ろうと説き続ける。聴衆は彼の説法に歓喜し喜捨を施し、中には共に参ろうと思い立って列に加わる者もある。
…最後の日になると彼らは酒を同じ杯で飲み交わす。これは連帯者としての友愛の証である。彼らは船に乗り込み、その際には天国の前に在るという荊を刈り取る為の鎌を持つ。
彼らは最も気に入っている服に着替え、互いの背中に大石を縛りつける。袖や懐にも石を詰める。こうして速やかに天国に行くのだという。
私が見た時は
――『1562年・イエズス会のパードレ及イルマンへ宛るレビラ書簡』――
……
――『古事記』神代――
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