六 国学者の見た海
ひとしきり火がついたように泣いた後、マヤはがっくりと力が抜けたようになって宮田の身体にもたれかかった。一瞬何事かと思ったが、どうやらただ眠ってしまったようである。
感極まってしまったのが良くなかったのだろう。背負って小屋まで連れ戻り、朝方自分が起き出したままの布団にそのまま横たわらせた。マヤの身体は少し火照っているように感じ、そう感じた自分が少々厭らしいなと思った。そういえば自分も子供の時、泣き喚いた後によく熱を出していた。彼女の神経はまだ子供らしかった。
宮田は先程マヤが告げた「イザナミの国」という言葉がずっと脳裏に引っかかっていた。
イザナミの国――それは言うまでもなく黄泉の事を指している。神話の中でイザナギと離縁したイザナミは
ではそもそも黄泉とは何か。
江戸時代の国学者・
暗く穢らわしく恐ろしく、だが全ての者がいずれ行かねばならない暗黒世界――これこそが日本神話が描く死者の国である。
全ての生者が忌まわしむ世界であるイザナミの国と明るい理想郷であるニライカナイ――常世。やはり結び付く要素など無いのではないか。イメージが遠すぎるのではないか。
そっと床に就くマヤを見た。血色良く眠っている。昨夜は自分が酔い潰れて介抱されたが、今は逆になっている。そういえばマヤは先程「夢の中で砂浜を遊び歩く」と言っていた。今もそういう夢を見ているのか。
――夢か。そういえば自分も明け方に夢を見ていた。場所こそは終始自分が知っている場所であったが、思えばあれはまるで……。
そうだ。神話の中にまさに居たではないか。万人が恐れる筈の黄泉国――イザナミの国へ行く事を望んだ神が!
――スサノオ。記紀神話に描かれる、この国で最初の英傑。
神話によれば、スサノオは母であるイザナミに直接会う事がなかった。そもそも彼は母の死と共に生まれたのである。
父神イザナギが母神イザナミと離反し千引の岩で永遠に別れた後、イザナギは行った事を後悔して「穢い国に行った」と言い、川に入って我が身を洗い清めた。イザナギが左目を洗うと
イザナギは尊い三子が生まれたと喜び、天照大神には
スサノオが泣き叫ぶと大地は揺れ木々は枯れ海は干からびる酷い有様になったので、これを見かねたイザナギはスサノオを問いつめ「なぜお前は与えた国を治めず泣いているのか」と尋ねた。
するとスサノオが「自分は
スサノオは生まれる前に死んだ妣を偲んで泣いていたのである。それが父神の怒りを買い、終いには姉である天照大神にも見放され、
スサノオは皇祖に繋がる神の中でも一番情感が強い神として描かれる。それは二面性であるとさえ言える。
妣を恋しんで泣きじゃくり災厄をもたらした神であり、葦原国に渡ってはヤマタノオロチを退治する英傑となり、大国主を国主と認める役を担った。
そしてそのスサノオが最後に居を構えたのが〝根の国〟なのであった。『古事記』に描かれる大国主神話では、大国主に最初の王権を授ける根の国の支配者としてのスサノオが描かれている。
一体なぜスサノオは妣の国に行く事を求めたのか。男の子が母を求める心と言ってしまえばそれまでだが、それならば妣の国を求めて高天原を去った筈のスサノオがなぜ根の国に居るのか。
イザナミが治める黄泉国とスサノオの根の国の関係については古くから様々な議論があった。神仏習合の時代においては仏説に絡め百花繚乱の有様であったが、宣長は古事記の記述に基づきこう述べている。
根の國といふは即ち
……根の堅洲国と須佐之男命の詔へるなどを見れば
――『古事記伝』――
つまり黄泉国と根の国は同じ場所の事であり、それはやはり地下にある暗い世界であり、スサノオは「根の国の片隅」に住み着いたのだという。文字通りに読み解くならば、確かにそれ以上の解釈はつけようがない。
――スサノオは母を恋しく思うあまり、自ら死と穢れの国へ赴いていった。それは何故か? 死の穢れはこの国の神が忌み嫌うものの最たるものだ。現に夫のイザナギですらおぞましく思って逃げ帰った。
その理由について宣長は「須佐之男命は
宣長の学説は定説無しと言われてきた神道の世界を開明し大系づける事に成功した。しかし「死ぬればみな此の夜見の國に往くことぞ」に真っ向から反論した同時代の人物がいる。それは宣長の一番弟子を名乗った奇才の国学者・
篤胤は師の説に反対し、「地底に黄泉国と呼ばれる不浄な国があるとしても、死者の魂がそのような場所に行く事はない」と主張する。
さらに篤胤は〝根の国〟についても独自の理論を展開する。彼は古事記と日本書紀に幾つもある食い違った記述に注目し、月夜見とスサノオには重なり合う部分が多いという事に気が付いた。故に本来、月夜見とスサノオは同じ神であったのではないか? それならばスサノオの根の国とは、月夜見の領域である夜空の月にあるのではないか? 目に見えない世界――
根拠も薄弱で曖昧な部分も多い説であるが、宣長でさえ捉われた黄泉という漢語から抱くイメージを拭い去ってみようと試みた事は特筆に価するのではないか。
――そういえば平田篤胤は終生の師として尊敬した本居宣長に実際に会った事がないという。宣長は篤胤が彼の存在を知る二年ほど前に世を去り、存命中の宣長は篤胤の名前すら知らなかった。しかし彼は宣長への弟子入りを果たしたのである。
篤胤はある晩の夢の中で敬愛する宣長に出会い、そこで師弟の契りを交わしたのだという――篤胤は自分が死者の国の入口まで赴き、憧れの宣長に出会って弟子入りを認められたのだと心の底から信じていた。
…あはれ然る人々よ。大船のゆたに
師の翁もふと誤りてこそ、
しづけく
――『
日本の人々よ。死後は恐ろしい黄泉国に行かねばならないなどと恐ろしがる必要はない。我が師・宣長も少しは誤った仮説を立てていた。
宣長の魂も死後、地下の黄泉国などという恐ろしい所には行かなかった。この篤胤はその情景をたしかに見てきたのである。
宣長は同じく死去した学兄達に囲まれ、歌を詠み作文し、生前に考えた論考の誤りを訂正したりしながら、ただ穏やかに暮らしていた……篤胤は著書の中でそう述懐している。
篤胤はその時の幻想的な情景を絵にも描かせている。そこに描かれているのは波が打ち寄せる海岸であり、海岸にたたずむ宣長に対して篤胤が手をついて初対面の挨拶を述べている光景であった。篤胤にとって、死者と邂逅する場所としてふさわしいイメージは海岸だったのである。
海岸の方を向いた入口からふと外を覗く。水平線と大きな入道雲が見える。時計がないのではっきりとは分からないが、日の位置からしてもう正午はすぎているようだ。海は相変わらず静かに凪いでいる。
――篤胤が見たという海岸も、このような場所だったのだろうか?
地下にある暗黒世界というイメージから解放された彼が見た死者の国が海であったというのは、考えて見ると不思議な話に違いない。妄想と切って捨てるのは容易いが、では稀代の幻想家にそのようなイメージをもたらしたのは一体何であったのだろうか?
「……篤胤は心の底から宣長に会いたかったのだろう。だから霊夢の中で海岸に辿り着いた。補陀落を目指した僧侶達も……皆、海を越えて尋ねれば出会えると信じたんだ。俺はこの幻想の源流が何か知りたい」
誰に聞かせるでもなく、宮田はぼそりとそう呟いた。彼の脳裏では今、また別の探求者の事がぼんやりと浮かんでは消えていた。
スサノオ――自分が生まれる前に焼かれて死んだ
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