七 スサノオの行方・ぬくもり

 切り立った山と海岸が同居する熊野が「死者の国」と見なされていたのは有名な話である。

 日本各地に見られる民俗に〝枕団子〟〝枕飯〟などと呼ばれる風習がある。人が死ぬと何はともあれ、まずはその枕元に握り飯や団子をこしらえその枕元に供えるのである。その際にわざと塩を入れないなど間違った作り方をして「慌てて作った」体裁にして供えるなどもするという。

 これは死者は空腹感に参っているから、長野の善光寺に参りに行く弁当にするから等と説明されるが、同じように多いのが「熊野詣の弁当にするから」という説明である。死者の魂はまず熊野へ行くのだと考えられていたのである。

 仏教の時代になると熊野は阿弥陀仏の霊地であると見なされ、熊野の神はその垂迹である熊野権現であるとされた。熊野の山海は修験者らの修行場にもなった。熊野に参れば生者も死者もその罪業が消滅し、極楽行きが約束されると信じられた。

 熊野詣は当然生きた者の間でも盛んに行われた。熊野詣に行くとその道中で必ず死者とすれ違う。その時に軽く会釈するもすぐに、あれ? 今のは去年死んだ何某ではないか? と思って振り返ると消えている――という伝説は中世・近世問わず多く書き残され、昭和の今日までもまだ残っている。


  世俗に亡者の熊野詣といふ事を伝へて、人死する時、幽魂必ず当山に参詣すといふ。いとあやしき事なれど、眼前に見し人もあり。……世の人古くいひ伝えたり。

   ――『紀伊続風土記』――


 熊野は死者の国。死後の救済を渇望する生者も、死者そのものさえも集う場所。神も仏も出家者も民衆もそう示し続けているように思える。

 英傑神スサノオにしてもそうである。『日本書紀』の一書あるふみには、スサノオと死、そして舟にまつわる興味深い異伝が収められている。


 一書にはこうある。地上におりたスサノオは「韓郷からのくにの嶋には是、金銀こがねしろがね有り。若使たとひ吾が子の所御す国に浮宝うくたから有らずは未だ佳からじ」と言う。〝韓郷の嶋〟には金銀財宝があるのに、我が子らが乗っていくための浮宝――舟が無いのは良くない、と。

 そこでスサノオが髭を抜くと杉になった。胸毛を抜くと檜になった。尻の毛を抜くとまきになった。眉毛を抜くと楠になった。そしてスサノオは宣言する。

「杉と楠は浮宝の材料にせよ。檜は宮を作る材料にせよ。そして槇は人民達が奥津棄戸おきつすたへに運び喪に服す時に使え。その為の木々の種は幾らでも施そう」

 これを受けたスサノオの子供達はその種を限りなく蒔いていった。その後スサノオは紀伊国へと渡って行き、そこから熊成峯くまなりのたけに移り、そしてついに根の国へと渡っていった。


 スサノオが述べた〝韓郷の嶋〟とは単に朝鮮半島の事だと解される事が多いが、カラノクニという言葉は「外つ国」という意味合いで近代に至るまで使われてきた言葉でもある。あるいはスサノオの見ていた物もまた、海の向こうにある金銀に満ちた豊穣の島だったのではないだろうか。

 自らの体から木を生やすという神秘を起こしたスサノオは、その木を舟・宮・奥津棄戸おきつすたへにせよと述べる。奥津棄戸とは「奥深くに人を棄てる」という意味であり、つまりは古代の風葬の事なのだと学者はいう。恐らくは死骸を山谷や野原に棄てる際にでも用いた簡易な棺の事であろう。神道式の墓を奥都城おくつきと呼ぶのはこれに由来している。

 そうして全ての用意を整えたスサノオは紀伊国の熊成峯くまなりのたけに行き、そこから根の国に渡った。宣長はクマナリはクマノの同語だと述べている。つまりは熊野の御山の意である。

 舟・宮・棺・熊野・根の国――。

 今まで気にも留めていなかった部分部分に目が行く。

 神話はスサノオまでが後世の補陀落渡海者のように舟を用意し棺を作り、熊野から根の国へと渡っていったと語る。おそらくこの一書は、仏教の伝来とそれ以降の神道教義合理化以前の信仰をまだ色濃く残している異伝なのではないだろうか。

 思うに、この異伝におけるスサノオは皇祖というよりも神話形分類における〝最初の死者〟型を強く残しているのではないかとも感じる。

 ――最も有名な〝最初の死者〟は古代インドの伝説に登場するヤマであろう。

 この世で最初の人間であるヤマがこの世で最初に死に、そのまま死の世界、祖霊の国へ行き、そのまま祖霊の国の王になった。そこは死者が永遠に暮らす楽園であったという。

 しかしヤマが治める祖霊の楽園は後世大きな変貌を遂げ、我々日本人にも馴染みの深い世界となる――それは仏教に取り込まれ、恐ろしい閻魔大王の統治する嘆きと苦しみに満ちた〝地獄〟世界である。

 それは社会形態の変貌、宗教的観念の変貌、それを受容する人間精神の変貌、様々な物に洗われ続けた死者の楽園が正反対に変わり果てた情景に他ならなかった――


 そういえば奄美大島の風俗を記した『南島雑話』には、名越左源太が当時の島民から聞いたであろう奇妙な伝説が記されている。いわく「スサノオ尊、天下にましまして此の大海原沖津小島に汐の中宿りなしたまひて竜宮に宮居なしたまふと、島人の云ひ伝へ奉りし」……。

 天から下ってきたスサノオが荒れる海の離れ小島で休息をとった。その後は根の国ならぬ竜宮へと去っていった……。上級武士である名越は当然仏教神道の教養もあったであろうが、それを「正しく」訂正するような真似はせず彼らの語るまま書き残している。

 本土に比べれば神道も仏教も影響皆無に等しかった当時の奄美の人々にとって、スサノオも竜宮も大和から借りた仮初の神の名前・聖域の名前に過ぎなかった。

 神とはイメージが重ねあわされた多重像だ。奄美の人々が大和人と交流するうちに聞いた記紀神話を、それまでの信仰を捨てていきなり奉じるとは考えられない事だ。重なり合う――似ている――そういう要素があったからこそ神の名やイメージは融合していくのではないか。

 これは記紀にとて言える事で、究極的には「日本神話」なるものは8世紀の朝廷が自らの統治と君臨を権威づけるために編纂したものに過ぎない。日本書紀に於ける一書の多さは当時既にそれだけ数多の神話が流布していた事を図らずも証明しているし、話によってその数がバラバラなのは都合の悪い部分はカットする作為があった事を雄弁に語っている。

 ――だが一方で、神話が無から生まれる事もまたあり得ないのである。記紀は日本のあらゆる神氏族が皇室の権威に服属する事を語るが、当時実際に根ざしていた伝承と重なる部分が無ければそれは誰の眼にも絵空事としか映らず、現実の統治には何の役にも立たなかったであろう。

 少なくとも似ている所がなければ、出会ったとしてもイメージが重なり合う事も無い。――では何に似ているだろうか? 何故似ているのだろうか?

 日本本土とこの沖縄。ニライカナイへ向かう死者の舟。補陀落渡海。スサノオの浮宝。




 ――気が付けば、うすぼんやりとした黄色い明かりが室内へと差し込んでいる。夕陽だ。耽っているうちにだいぶ時間が経っていたらしい。

「大学にいる時もこんなに考え込んだ事はなかったぞ。おかしなものだな」

 そうだ、マヤはどうしているだろう。昼前から眠っているのだからもう随分になる。疲れているのなら寝かせてやった方がいいのかも知れないとも思ったが、ふとパイナップルを美味しそうに食べていた姿が思い浮かんだ。

 果物の缶詰でも開けて持っていくか。起きないならそれはそれでいい。

 マヤが今朝方拾い集めてきた中にちょうど蜜柑の缶詰があったので、そいつを持って寝床へ向かい、簾をどけて向う側を覗き込んだ。

 ――そこにはマヤは居なかった。布団もない。黄昏の西陽に照らされる、戸板に載せられた骸骨だけがそこに横たわっていた。

「……!!」

 あまりの事に声も出ない。目を剥く。さらに続けざまにゴトリという大きな音がしたので心臓が潰れるような想いをしたが、見やるとそれは自分が思わず手元から滑らせ落とした缶詰が立てた音であった。


「わ……どうなさいました?」

 一瞬足元を見ているうちに骸骨は消え失せ

そこにはマヤがいた。そして如何にもたった今、その音で目を覚ましたという風な顔をしてこちらを見ていた。

「……いや、なに、少々驚いて手元が滑っただけだ。起こしてすまなかったな」

 宮田は腰を落として床に落とした缶詰を拾おうとする。しかしそれを寝転んだままのマヤは先に拾い、それをすっと布団の中に隠すように引き込んで問いかける。

「一体何にそんなに驚かれたのです?」

「くだらん事だよ。気にしないでくれ」

「教えて下さい」

「……いや。アンタの姿が一瞬だけ骸骨に見えたんだ。西陽のせいだろうな……」

「あらあら。それで驚いてしまったのですね」

 マヤは可笑しそうに笑いながら上半身を起こし、缶詰を手渡す。宮田は苦笑いを浮かべながらそれを受け取る。

 その時、マヤがふと思いついたようにもう片方の手で宮田の手を包むように握った。

「どうです? 死者の手は冷たいものですよ」

 ――一瞬どきりとしたが、その手はほのかに温もりがあり、生気に満ちていた。感じられる体温が心地よかった。手を握りながら、彼女は力強くこう続ける。

「温かくありませんか? 感じられませんか?」

 マヤが潤んだ瞳で宮田の目をじっと見つめる。

「私が死んでいない事を、感じて下さい――」

 彼女の心臓の鼓動さえ掌ごしに感じられるような気がした。

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