二十三 幽冥の火
――思考は近代へ向かう。かつてはまだ見えなかった世界へと。
十九世紀後半に生まれたイギリスの人類学者フレイザーは「未開時代には穀物の霊魂不滅と信ずる考えがあった」と、四十年を費やした大著『金枝篇』で述べている。
一度死に、消え去り、そして復活して以前より豊かな世界をもたらす。人類が原始的な農耕を始め、その命運を穀物に託すようになるとそれは生命力に対する信仰になった。一度死んだ稲や小麦や芋が植えられる事で再び成長するという事実はそのイメージを大いに裏付けた。そうして一度死に、再生する事で生命力を増すという考え方も生まれたのだという。
古代ローマでは〝森の王〟と称される聖職者がいて、篤い崇敬を受ける存在でありながら常に命を狙われていた。
聖樹の枝を一本折れた者はこの王を殺しに行く権利を得る事ができた。そうして首尾よく森の王を殺害できればその者がただちに新たな森の王になり、より強く狡猾な者が彼を殺害するその日まで堂々と君臨する事ができた。それは「森の王が一度死に、より強く若々しい体と共に再生した」のであり、古代人は魂の不滅をそう捉えていた。
森の王が君臨し崇敬されたのは彼が最後に受け入れる死は世界と同じレヴェルに属するものだと見なされていたからだ。森の王は死ぬ事で世界をより豊かに再生したのである。
農耕儀礼において動物を生贄に捧げたり、人形を「殺害」する素振りを見せる事が多いのは、世界の再生のために殺害されていた〝森の王〟の同類達がかつて世界中に居た名残であろうと、フレイザーは説いている。
そして彼が熱心に蒐集した〝死神〟を焼き殺す儀式もまた、火と犠牲によって彩られる太古の信仰世界を垣間見せる残像であった。
――再び南洋に飛翔する。
ポリネシア諸島の神話群では、火は女の体の中から生まれてきたのだとされている。
英雄神マウイが地底にある死者の国に赴き、そこで遠い先祖である女神マフイカに出会う。マウイはこの女神を殺害し、その体をバラバラに切り刻んだ。
するとその切り刻まれた肉体のあちこちから火が噴き出した。マフイカは身体の中に火を持っていたのである。
マウイは火を灯して燃え続けるマフイカの指を持って地上に帰還する。そうしてこの世に火がもたらされたと語られる。
女の身体の中に熱い火があるという話は、一説には性交時のイメージが根底にあるのだともいわれる。妖艶に踊る美しい女に誘われるまま性交に及び〝突っ込んだ〟途端に一物が焼かれ死亡した……などという卑近な笑い話は南洋に移住した日本人も現地人からよく聞かされたという。
同様の着想は日本にもあったとみえ、女性に月経が訪れる事を「火が起きる」と言い表す事は多い。本居宣長や平田篤胤は女性器を表すホトという古語の語源は
イザナミが火神カグツチを生んで死んだ事はよく知られているが、古事記はその場面の直前に興味深い記述を挿入している。
次に生める神の名は
次に
――『古事記』神代――
イザナミはまずトリノイワクスブネ(鳥のように早く岩のように頑丈な楠の船)を生み、食物の神であるオオゲツヒメを生み、そして最後に火神カグツチを生んだとされているのである。
一方、日本書紀の一書ではイザナミはトリノイワクスブネを生み、それに生まれ損ないの子であるヒルコを乗せて海に流し、その後にカグツチを生んだと記述されている。
今までつらつらと思いを巡らせてきたものと微かに重なり合う感があるが――今は火だ。
母親の死と引き換えのように生まれてきたカグツチは、まるで死ぬ為に生まれて来たかのような神である。記紀のほぼ全ての記述において、カグツチは生まれたその場で殺害される。父神イザナギは古事記においてカグツチをこう呪う。
「
(愛しい私の妻が、この子一人と代わってしまった)
凄まじいまでの悲しみと怨みの込められた呪いの言葉。イザナミとカグツチの運命を明示した言葉。
象徴的にこう述べた後、イザナギはカグツチの首を刎ねて殺害する。日本書紀は三段に切り裂いて殺した、五段に切り裂いて殺したなどと記述する。記紀はいずれも火神カグツチがイザナミと引き換えに生まれ、バラバラに切られて死んだ事を強調している。
そして古事記においてカグツチの直前に生まれた、いわば姉にあたるオオゲツヒメもまた、引換のように死ぬ女の神である。彼女は高天原を追われたスサノオによって殺害され、亡骸のあちこちから穀物を生じさせて人間世界に五穀をもたらすのである。
母と引き換えに生まれ、再び死ぬ神。これは日本人の心に強烈に焼き付いたイメージであったらしい。
記紀が編纂された八世紀の時点で原初からの神話にかなりの異伝が生まれていた事はすぐに窺える。――にも拘わらず、このイメージだけは一切変わる事無く伝承され続けていたのだ。
日本書紀には天照大神が出現するタイミングさえ差し変わった異伝が記述されている。そこではカグツチの末路としてこういう話が挿入されている。
一書に曰はく、日月既に生まれたまひぬ。……次に
次に火神軻遇突智を生む。時に伊奘冉尊、軻遇突智が為に
即ち軻遇突智、埴山姫を
――『日本書紀』神代巻――
カグツチを生んだイザナミは死ぬ直前にさらに水の神と土の神を生んだ。そしてカグツチは土の神と契りを交わし、ワクムスビ――農耕の神として信仰される――を生み、この神が五穀をもたらしたという話に展開している。似た運命を辿るオオゲツヒメさえ退場し、カグツチが食物起源説話に食い込んでいるのである。
イザナミが自らの死と引換にカグツチを生み、カグツチが自らの死と引換に火や食物を世にもたらした。繰り返して世界は続いていく。死と誕生、犠牲と豊穣に対する古代人の世界観であった。
火の神と農耕に強い結びつきが見られるのは南洋文化圏の特徴で、これは焼畑農法が古代より盛んであったからだといわれる。
ハイヌウェレ型神話はヤムイモの起源譚であるが、これは種芋を切り刻んで地面に植える焼畑農法からの連想であろう。ハワイ島の神話では兄妹婚により生まれた不具の子がタロイモの始まりだったなどとも語られている。
タロイモは日本の里芋の近縁種でありヤムイモは山芋の近縁種だ。共に稲作以前の時代に日本列島に持ち込まれた形跡があり、縄文時代には既に原始的な栽培が行われていたともいわれている。日本にも遠い昔に、火と土による農法とイモが運ばれてきていたのである。そしてそれらと切り離せない南洋の神話も共に持ち込まれてきた。
記紀の時代にはすでにイモは姿を消し、農耕の神は稲や五穀を与える神々に変貌しているが、それは現実世界の農耕や食生活の変貌が最も大きな理由であろう。イモは当時の文化人達にとっては既に下賤な食物になっていた。しかしそれでもなお、古い時代の農法に由来する古き神々への信仰は強烈に残り続けたのであろう。
イザナミとカグツチ――日本の最も原初的な神である彼らはおそらく、ポリネシアの火の神やハイヌウェレ達とどこかで繋がっているように思う。
沖縄の創世神話もまた火と五穀の始まりを告げている。天から下った最初の女アマミキヨはこの世に五穀をもたらした。この話もまたポリネシアから日本まで連なる系譜の一つだと捉えるならば――あるいは島建国建の民話と重ねるなら――アマミキヨもまた、創世と再生を担う火の神の一柱だったのかも知れない。
そして沖縄の家々が火の継承性の儀礼をことのほか重んじるのは、それが自分達の始祖から脈々と引き継がれた原初の火だったからではないか。どんなに血脈が別れようとも末の末まで分けられなければならない火。その香炉の中の火はその瞬間において間違いなく原初の女神にまで連なっているのだ。
新たに祝女になった女は家系の火からではなく祝女の香炉から新たな火を受け取ったという習慣も、その火が血脈と強く結びついている事を示しているように思う。いわば直系の火とでもいうものか。祝女は神を祀る者であると同時に神そのものでもあるからだ。
沖縄では墓所が作られる時代になっても先祖代々の骨壺と一緒に遺骨を納める風が強く、古い時代には人の亡骸を洞窟や森の中に置き、風化に任せて後生に送った。亡骸が白骨になると洗骨して骨壺に納め、先祖代々の遺骨とともに丁重に祀られた。
しかし神ダーリーを受けて祝女になった者は普通とは異なる葬られ方をしたという。祝女の亡骸は樹の上や高台など普通の後生送りでは置かない場所に掲げられ、風化した後も家族等と一緒の墓所に納められる事はなかった。更には祝女の亡骸を見た者は早死にする、目が潰れるなどの俗信が見られ、近づく事さえ忌まれた事が窺える。それはやはり、祝女が神であったからだ。
ドン――ドン――ドン――
夕暮れの中で太鼓の音が響き渡っている。
松明を持った男達が先頭を歩き、その後を太鼓を下げて叩きながら歩く男が続く。
男達は頭の上から結った草を笠のようにかぶり、口には青々とした葉っぱを咥えていた。
かつて伊豆の温泉街の祭で神輿を担ぐ男達が口に葉っぱを咥えているのを見た事がある。あれはたしか「神様に息をかけないように」と説明されていた。この南国の男達が運んでいるのも――また神輿だ。最初の男達は
誰一人声を立てずに進む夕暮れの葬列を、自分はぼんやりと突っ立って眺めていた。
太鼓の音が聞こえると草屋に住んでいる人々が恐々とその様子を覗きに出てくる。そうして葬列を遠巻きに見ていた。
「祝女様が後生にいくよ……」
「暫らく様子を見ないと思ったら夫婦揃ってあんな事にねェ」
「あの祝女様は夫も居ないし親兄弟も居ないよ。後々どうするのだか……」
「祝女と結婚すると早死にするというが本当だな」
皆、崇敬と畏れと侮蔑の入り混じった目つきでその葬列を見送っている。そうした人々が囁き合う声を聴き流しながら自分はその葬列の後をとぼとぼとついて歩く。
葬列がある小さな古民家の前を通った時、自分はふと足を止めてその家の中を覗き見た。中には父親らしき男と母親らしき女と娘らしき小さな女の子が居た。母親は女の子の目を両手で覆いながら笑っていた。ちょうどやりとりが聞こえた。
「見てはダメよ。フリムンになっちゃうわよ」
「家のヒヌカンにお願いしようか。ウチの娘だけはお使いに取らないで下さいって」
「ええー。熱心にお祈りなんかしたら逆にヒヌカンに気に入られちゃうかもよ」
「そういうものかなあ? あはははは」
なんだかとても厭な気持ちになり、自分は足早にその家の前を離れて再び葬列の後を追っていった。
葬列はいつしか海沿いの高台を進んでいた。西日が差し込み世界が黄色く見える。
絶え間なく打ち鳴らされていた太鼓の音色が止まる。葬列は岩肌の中にある小さな洞窟の前に居た。
戸板を担いだ男達がその中に入っていき、しばらくすると手空きのまま出て来た。どうやら此処に運び込む亡骸であったらしい。ここまで運んできた男達は洞窟に向かって恭しく拝礼し、包みから何かを取りだしてそっと入口の前にそなえた。それは紫色の鮮やかな鬼餅であった。
しきたり通りに後生送りを終えた男達は来るまでとは打って変わって朗らかに談笑などしながら帰っていく。そうして彼らと入れ違いのように洞窟の前に自分はやって来た。
それは岩壁にぽっかりと空いた岩窟で、ぽっかりと開いた中が全く見通せない穴だった。
――不思議な事に沖縄では海上の果てにある筈のニライカナイが地中にもあるのだとしばしば考えられてきた。ニライ
『出雲国風土記』には
平田篤胤は「冥府といふは此の
どこにでもあるしどこにでも見出せる。しかし見る事はかなわない。しかし地の底や海の果てに確かにある。こういった曖昧で距離の近い場所こそが日本や沖縄、ひいては南の島々にまで通じている文化宗教以前の他界観であった。
自分はなんだか導かれるようにその洞窟に入り込んでいく。入り込んでみると中は外から差し込む夕日で仄かに明るい。外から見た時には真っ暗闇の穴にしか見えなかったが、それは違った。見通せないが仄かに見える。それは意外な事で、まさに幽冥の世界だった。
洞窟の奥は浅く、光の途切れないうちに突き当りに行きついた。そうしてそこには先ほどの戸板と菰があった。菰の端から、小さな女の足が出ていた。嗚呼、やはり此処は貴女の――。
自分は覆い隠すように被せてあった菰をそっとどけた。そこには俺が知っている彼女よりほんの少しだけ大人びている彼女が居た。
濃い青色の着物を着せられ、首には穴を開けた貝殻が連なる首飾りがかけられていた。
彼女は眠るようにして死んでいた。
「――これが、貴女の原初の時というわけか」
何百年も前の葬列の幻を見せられ、自分――宮田邦武は息を深く吐いた。どかっと腰を下ろし、宮田は彼女の亡骸の傍に座った。
「火を生み、火から生まれ、内から湧き上がる火に苦しんで――それでもまた火に帰っていく。遠い遠い妣の国から引き継いできた宿命か……。シャーマンは自身を火や火山に喩える事が多いと言うが、貴女は確かに火だ。周りに光を報せ、自らは熱く燃え果てる灯火に違いない。それも、原初から燃え続ける火だ」
宮田はとりとめもなく亡骸に向かって話しかける。これもまた湧き上がる情念の噴出口のようなものかも知れぬ。もう異常な事しか無いのだ。何を今更可笑しむ必要があろうか。
「我々の国では天照らす日輪こそが最高の神だと長い間信じられてきた。これは最も高貴な血の遠祖と云う意味も勿論あるが……日輪こそが太古の昔から人間が仰ぎ見てきた、最も眩い光だからではないかと思う。言い換えれば日輪は最も巨大かつ不断な火だ。何かもっと根源的な信仰が根底にあったのではないか……」
沈んでは再び昇る太陽が永遠に死と再生を繰り返す存在だと見做された、とする説は古くからある。エジプト人が日神ラーの乗る〝太陽の舟〟を崇拝していたというのはあまりにも有名であるし、日本の古墳にも太陽らしき円や櫂を握る人間、それに舟が描かれていた例がある。死者の魂が舟に乗って太陽に向かうというイメージは、海に面した土地に住む多くの民族にとって普遍的なものであった。
古代人の宇宙観では太陽は海から現れ海へと沈んでいく、照り続ける不断の火であった。そしてその火が昇る空と海は水平線の果てで繋がっている同質の世界だった。我が国の言葉でも沖縄の言葉でも
我々の国が
――『おもろ草子』に記された神歌にはニライカナイをテダガアナの御島などと賛美している句がある。すなわち
ニライカナイには太陽が朝晩出入りする穴が開いており、昼間は我々の世界を照らしている太陽は夜になるとニライカナイの穴から地下に渡り、ニライ底を照らす後生の大王になる。そして朝になると再びニライカナイの穴を通って我々の世界を明るく照らす――どうもそういう風な空想がされる事があったようだ。
「沖縄では、天に燃える
光り輝く海上と光から最も離れた洞窟は、我々の深層心理の世界で溶け混じって繋がっているのではないか? ――こういう発想は今この洞窟に立って、此処が思っていたよりずっと明るい場所である事に気づいてから初めて浮かんだものであった。
平田篤胤は「
ふと思う。我々がともすると深夜よりも黄昏を気味悪がって恐れてきたのは、〝彼方〟と〝此方〟の区別が一番曖昧になる時間ゆえだったのかも知れない。仄かな黄色の世界に一人立っていると余計にそう思った。
幻の中での死者への語りはまだ続く。
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