二十 火神
光の差す場所もまた地獄であった。
マヤは死にかけていた。
体中が熱っぽく銃創からは微かにだが腐臭がする。水は飲んだが食物は果物すら受け付けずに呑み込めなかった。意識ははっきりしており、言葉は途切れがちだがよく話そうとする。明らかに苦痛をこらえている様子が見ていてつらかった。
自分はずっとマヤの傍らに座り、求められるままに答えたり髪に櫛をかけたりしていた。
「――……身体が熱くて。もう少し水を下さい」
そうねだる声に応え、寝たままのマヤの口元に再び水を与える。こぼれた水を布で拭いてやろうとしたが、自分もすっかり慣れてしまったのかもうほとんどこぼれていなかった。少しも喜びの無い習熟であった。
一つまた変化に気づいた。傷を負った最初の頃はさながら滝のような脂汗をかいていたのに、今のマヤはもうほとんど汗をかいていなかった。汗も出ずそれでいて体温は異様に高い。決して良い兆候でない事は自分でもわかる。
おそらく自分は今にも死にそうな顔色をしているのだろう。マヤの方が心配そうにする有様だった。
「私はもう平気です。痛みや苦しさは最初より和らいだ気がします。それに何より今は貴方が居られますから……」
「このような事になったのは、俺の責任だ。何としても貴女を助けなければならないのに――何もできない。どうしたらいいんだ」
自分はうめくように惨めな弁解をたれたが何も言わない方がマシだったと感じる弱気である。するとマヤは一瞬だけ目を閉じ、すぐにこう続けた。
「いいえ。これはきっと
――マヤがまた、あれだけ悪し様に罵った神の話をしている。その態度は涼しげで、幻を打ち払うかのように喚き散らしていたあの姿とどちらが彼女の本当の姿なのか分からない。
いいや本当は分かっている。彼女は俺が背負っている負い目を神に転嫁させようとしている。心の優しい娘だ。そして俺はそれに、心の何処かで安心している。醜悪だ。
「あの火神の香炉を持ってきていただけませんか? ――お詫びをしませんと」
マヤがこちらを見てそう訴える。そういわれては断る事もできず、自分は囲炉裏のそばに転がったままのはずの香炉を拾いに行った。
簾を開くとそこは見るも無残な光景だった。床の上には乾いた血痕がべったりと残っていたしあの時取り合った小銃も転がったまま。囲炉裏の火もいつの間にか立ち消えていた。
そして部屋の隅にあの時蹴とばされた香炉が転がっていた。
「よく割れなかったものだな……」
その香炉は土を焼き固めて作られた土器で、大の男の掌程度の大きさがあった。おそらく中に詰まっていた灰がクッションのようになったのだろう。
ともかく香炉を手に取って簾の裏にとって返す。自分が戻って来た事に気づいたマヤは寝転んだままの姿勢で両腕を天井の方にかざし、天を仰いでいるような姿を取った。
そして彼女は「両手に持たせてください。仰ぎ見たいのです」と言う。中身が無くなりだいぶ軽くなっているので、言われたとおりに香炉を手渡した。さながら台座に載せるような感じであった。
マヤは両腕を震わせながら、自らが掲げる火の神の香炉をじっと見ている。どこかうっとりとした表情だった。
「もうずいぶん昔の話になりますが――私がまだ子供だった頃、〝神ダーリー〟にかかりました。高熱が出て倒れ、何日も幻を見ました。父も母ももう助かるまいと泣いて暮らしたそうです。私は身体中を引きちぎられ灰になるまで焼かれる夢幻を何度も見ました。――ずっと後になってお坊様から仏法の〝地獄〟の話を色々聞きましたが、きっとあんな場所なのだと思います」
マヤがしずしずと、また語り始めた。いいや、語っているのは本当に彼女か。
「高熱にうなされながら幻の中で何度も身体を焼かれ、頭を切り裂かれ――それから私はおかしくなりました。そこに無い筈の物が見え、聞こえる筈の無い音が聞こえ、居る筈の無い人が居るのを感じるようになりました。夢とうつつの境を見失い、おかしなことばかり口にするようになりました。父母ですら私を気味悪がり、皆は私が
マヤは語りながら、掲げていた香炉を徐々に降ろしていく。そうしてやがてそっと自分の胸の上に置いた。
「それから私は随分と蔑まれた扱いを受けてきましたが、ある時年老いた祝女が私の所にやって来て、祝女の目が開いていると言いました。その祝女もまた神様に導かれて私の所に来たと。――その日から私の幻は光に満たされました。夢幻を通じてニルヤカナヤを覗き見る祝女になり人々の崇敬を一心に集めたのですから、おそらくアレは光だったのでしょう」
恭しく語ってはいるがどこか皮肉めいた口ぶりだった。
神、人に
彼女の胸元にちょこと置かれている香炉が目についた。ずいぶんと簡素ながら波状の装飾が施されている。自分の目にはそれがなんとなく火焔土器の意匠に似ているようにも思えた。だとすればまさに〝火〟か。
――火神は沖縄の信仰において最もポピュラーな神だと言える。日本本土では火の神は釜戸や囲炉裏に坐す火そのものだと見做される事が多いが、沖縄の
火神の香炉に入れる灰は先祖代々引き継がれ、家を分ける際にも必ず分けられる。通常は家の女だけが拝む神とされるのが特徴的である。
祝女の場合は家の中に火神を祀る為の座敷を設けたという点からもその信仰上の重要性は窺われる。火神との対話は祝女の最も重要な務めであり、それは即ち村落の興亡にかかわるのだと信じられていた。先祖代々の継承ではなく新たに祝女になった者は家の火神ではなく師にあたる先達の火神から灰を分け与えられたという。
「
日本本土の寺院にも「消えずの火」と呼ばれ、千年以上継ぎ足されている霊火がある事はよく知られている。
民間にも同様の消えずの火に対する信仰は多くあり、千年以上種火を絶やさず受け継がれている旧家の伝承もある。
沖縄にも日本にもなんとしても火種を受け継ぎ絶やすまいという不思議なメンタリティがあったらしい。聖職者を意味する
「――私は
マヤが胸元の香炉にそっと右手を添え、それを撫でた。そうして宙を見たままさらに続ける。
「なのに心の奥底でそれを求めています。狂おしい程の愛しさを感じています。神を、ニルヤカナヤを、常世を仰ぎ見て渇望する人々の気持ちが分かりたくもないのに分かります。それが何よりも厭でした。自分の中からこみ上げ、たしかに〝見える〟何かが分からない。これはおぞましい事だと私は思います。――ニルヤカナヤに囚われたとは、そういう事です」
それだけ言い切るとマヤは身を震わせた。目に涙をにじませている。
自分などにはもう何も言う事ができなかった。ノスタルジックな幻想に溺れ沈んだ人間でありながら沈み切る事もできずにまだもがいている――それこそがマヤの苦しみであったのだろうか。
遥かに遠い岸から幻と知りながら慈しむか。
あるいは彼岸と湖岸の境を見失いどこまでも溺れていくか。
そのどちらにも泳ぎ着く事ができない苦しみはいかほどだろうか。もう想像もつかなかった。俺が知っている〝幻想の探究者〟達の言葉をもういくら並べたとて慰めになるとはどうにも思えなかった。
たとえば近代の民俗学にしろ江戸期の国学の言説にしろ、彼らは悠々と――あるいはぎりぎりの処で――此方側に踏みとどまれた者達の言葉だ。踏み外して何方側にも行けなくなった哀れな祝女を救い上げる事はできまい。
そして自分自身もそれは同じである。――湧き上がる情動までは「分かる」。ただ、それだけだ。それ以上の事は何一つ言えないのだ。
重苦しい沈黙がどれだけ続いただろうか。再びマヤが口を開いた。
「嗚呼……! 嗚呼……!」
持てる限りの、だがとても弱弱しい力で彼女は俺の手を握る。そうして呻き声とうわごとを繰り返していた。
「身が焼ける……熱い……痛い……嗚呼」
幻覚を見ているようで話しぶりに抑揚がない。それに傷口は明らかに膿んできている。よほど疼痛があるのだろう。おそらく痛みや熱がその幻覚を倍加させている。
無理に身をよじらせようとして傷口が開いたらしい。乾いて茶色がかったシミを作っていた止血帯に真っ赤な鮮血の色が滲んできた。それが余計に苦痛を感じさせるらしく、マヤはさらに身をよじらせる。
「……動いては駄目だ。余計に悪くなるぞ」
じっとしていればよくなるなどとは嘘でも言えないが――見ていられない。
曖昧な意識の中で身悶えするマヤの腕をつかみ、なんとかおとなしくさせようとする。
「嗚呼――嗚呼――ウッ……」
荒々しい息遣いと共にマヤは身体を痙攣させながら嘔吐した。仰向けにしたままでは窒息の恐れがある。やむを得ず身体を抱き起し横向きにさせた。抱き起した時にはやはり熱を感じたし。吐いた物の中に血が混じっていた。マヤはしばらく身体を震わせながら吐き続けていたが、やがて出る物も無くなったのだろう。咳込むだけになり、それが治まるとぐったりした様子のまま横たわっていた。
吐き出した物や零れた血だけでも拭いてやっていると、マヤがまた泣いているのに気が付いた。意識があるのかは分からない。ただとにかく声もなく泣いている。
あの清らかだった少女が血と吐瀉物にまみれ、疼痛と身を焼く幻に苦しみながら泣いている――その姿を見ていると自分も涙がこぼれていた。
幻の中で悶え続けてきた祝女は今、火に焼かれ引き裂かれる幻の中で死のうとしていた。
一書に曰はく、
――『日本書紀』神代巻――
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