十六 幻想を追いかけて
「我島にはアマミキヨの伝説とはまた別に、
昔、土から生まれた島建国建が島を作った。
次に土をこね息を吹き込んで最初の兄妹を作った。しかしその兄妹達は子供を作る事ができなかったので島建国建は天に行き、
すると太陽が「兄を風上に、妹を風下に住ませよ」と教えたのでその通りにさせると、子供ができるようになった。こうして人間が増えだすと今度は食べ物が足りなくなり、親も子も飢えるようになった。
これを可哀想に思った島建国建は海の向こうの光り輝くニラの国に渡り、食べ物を与えてもらえないかと懇願する。
するとニラの大王は「まず人間達に稲穂祭をさせよ。それが済めば願いを叶えてやろう」と答えたのだが、可愛い人間達が飢えている事を思うとすぐに食べ物を与えてやりたい気持ちであった。そこで島建国建はニラの国の金色の田んぼに忍び込み、稲穂を一本だけ盗んで逃げ出した――
「こうして島建国建が島に稲穂をもたらしたという話です。島建国建は島の人間の始まりであり、最初のユタであり、
女がニライカナイに渡り、稲穂を持って帰ってくる。
宮田はその話を聞いてふと、柳田國男が日本の稲の起源伝説を論考していた事を思い出した。
弘法大師の穂落とし伝説――。
昔、大師が天竺へと渡り、そこで稲穂という物を初めて見た。これは是非日本の国へと持ち帰らねばならないと思い、懐に稲をそっとしまい込んだ。ところが天竺の人に見つかりそうになったので大師は稲穂を狐に預けた。狐が稲穂を葦原の中に隠したので見つからず無事に日本まで持ち帰る事ができ、狐は稲を守る稲荷として祀られる事になった云々。
実在の弘法大師の軌跡と何一つ重ならないこの奇妙な伝説はそれでいて日本全土の農村に広く伝わっており、柳田國男はこの伝説は「ダイシ」という古い神の伝承が同音の弘法大師と混同されていく事で成立したのではないかと推定している。ダイシとは古語でいう大子、つまり「最初の子供」という意味の名前であり、元は母子連れ立った神だったのではないかと柳田はいう。
東北地方においてはダイシは女であるとも、三十幾人の子供を抱えた母親であるとも云われ、一伝ではダイシは自分の太ももに切り開いて稲穂を隠し日本に持ち帰り、取りだす時に一度死んでしまったとも云う。ダイシは生き返る事ができたがそれ以来足が悪くなっていつも杖をついて歩いていたとも伝わる。
「――そしてこれが重要なところだと思うのですが、島建国建も一度死んでいるのです。稲穂を盗んだ事を知ったニラの神が逃げる島建国建を殴り殺し、その死体は腐るまで放っておかれました。これを哀れに思った太陽が薬を飲ませて生き返らせてやったので、御婆である島建国建は稲を持って島に帰ってくる事ができた……と」
マヤの口から今自分が思い返していたのと鏡写しのような話が出て来た事に、宮田は皮膚がぞわりと粟立つのを感じた。無関係だと思ていたところに微かな接点が現れた。ひやりとする戦慄であった。
「アマミキヨも島建国建も
「つまり……稲を〝海の向こう〟からもたらした女が一度死んで蘇って帰ってきた……という事か。だが待ってくれ。アマミキヨが死んだという話を自分は読んだ事がないのだが、マヤは知っているのか?」
宮田が妙な背筋の寒気を気にしながら、そう尋ねる。
「いいえ。アマミキヨは神歌でも物語でも子を産み、祈るだけです。ですけど、我々祝女もユタも知っています――祈る瞬間。幻視する瞬間。私達は
そう、シャーマニズムにおけるエクスタシーはしばしば死の体験として表象される事が多い。シャーマンが死の淵にいる人間を甦らせたりする事ができるのは、死の世界に自由に赴き、魂を連れ帰る事ができるからだという。
「一度死に、命を繋ぐ糧を持って帰ってきた女……」
焼かれる死神の藁人形、復活する春の乙女、草木と共に冥府から還るペルセポネ。此処に来てから漠然と思いを巡らせていた物が頭をよぎる。何かが頭の中でふつふつと浮かび上がりつつある。
「さっきの〝はいぬうぇれ〟の話を聞いていても感じたのです。その娘は五穀をこの世にもたらしたアマミキヨやヤマトのオオゲツヒメとも、何か目に見えない水脈で微かに繋がっているのではないのかなと。……どうでしょうか。違うと思いますか?」
マヤの素朴な見立てと宮田の考えは大筋において同じであった。
――いや、南洋の島々を日本民族の原郷だと考えるは説既に 多くの民族学者が論じている事だ。現に日本の農村で見られるような農耕儀礼とそっくり同じような儀式が彼の島々から報告されたりしている。
「……日本民族は、少なくとも何割かは南洋の島々の血脈を引いていると思う。黒潮に乗って船を進め、何世代もかけて少しずつ北上していった人々が居たはずだ。そうした人々の血脈はこの沖縄にも当然根付いていった事だろう」
「舟に乗って長い旅を……〝海上の道〟を渡って来たかのように……?」
「そう、〝海上の道〟のようなものが確かにあったのではないかと思う。血だけじゃない。文化や作物、それに神話をも運んできた道だ。――ああ。その道を通ってハイヌウェレもはるばる沖縄や日本までやってきたのかも知れん」
「だとすれば。その〝道〟を超えて、夢の中で逆に辿って、自分達の原郷を望み見たのが島建国建やアマミキヨだったのではないかという気がいたします。――心のどこかに燻り続けている遠い昔の原郷世界の幻視を見たのです。隔たれてしまった遠い原郷世界はどこまでも甘美な幻想だと思うのです。いつか行ける……いや帰れる、愉快で明るい理想郷。海の果てにあるニルヤカナヤ」
――長い時間と世代をかけ、海を越え島々を渡り此方に辿り着いた人々が、海の向こうの遠い遠い
定住生活に移り、自分達がかつて〝海上の道〟から来た民族だという事が忘れられたとしても、その幻想はいわば民族の記憶となり、時と共に研磨されながらも日本人の深層意識に居座り続けた。もしかしたらその情念を永劫回帰とか集合的無意識という言葉で飾りたてる事ができるかも知れない。
近現代の民俗学の巨人達はこう述べる。彼らの筆致もまた、望み見た幻想に突き動かされている。
十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾かつては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。……「
――折口信夫『妣が国へ・常世へ』(大正九年)――
かくのごとき信仰帰依、かくのごとき情緒を、島に家する者の祖先の心裡に、みなぎりあふれしむにいたつた最初の力は、ひとり血を共にする大八洲の国々のみならず、同じ大海の潮に育まれて北と南に吹き分けられた、遠い沖の小島の荒えびすの胸にも、なお一様に感じられてゐたのではないか。これを推究してもらいたいのが引き続いての我々の願いである……
――柳田國男『海南小記』(大正十四年)――
なるほど。根の国。妣の国。まるで自分達の原郷だと知っているような出来過ぎな名前だ。
実態を忘れられて猶その郷愁が強まっていったとするならば、それは先祖の国、神々の国、豊穣の国――様々な側面を持つ海の果ての清浄の島のビジョンへと変貌していった事だろう。
それこそがヤマトンチュの思い描いてきた常世国、琉球人が恋焦がれてきたニライカナイ。南洋の
日本人の思い描く幻想世界に美しい海岸――日本書紀には
「幻想のニルヤカナヤ……」
マヤはぽつりと呟き、そのまますっと目を扉の向こうの砂浜に向けた。部屋の中を風がふわりと吹き抜け、香炉の煙がかすかに揺れた。ぼんやりとした目つきのまま、彼女は漏れ出るように小さな声でブツブツと呟いている。
「ニルヤカナヤは……夢幻でございますか。遠い昔に対して、おぼろげな幻想を塗り重ねた、偽りの島――」
「……? おい、どうした?」
「何処にも無い。誰も行かない。誰も居ない。全ては狂人の見た泡沫の夢――」
明らかに様子がおかしい。マヤはそのままふらりと立ち上がったが身体をぶるぶる震わせていて、まるで急に
「分かっていた! 何が祝女だ! 神など居ない! 嗚呼!」
先ほどまでとは打って変わった吐き捨てるような言葉遣いで喚き、
宮田は流石にぎょっとして「一体どうした」
と尋ねるが、マヤはそれには答えず〝独言〟を続ける。
「神など居ない! 後生など無い! では、この場所は一体何だ! 私は幾百年の間、一体何をしているのだ! これも夢幻か!」
彼女は錯乱したように部屋の中を歩き回っている。踏み鳴らすような足音が苛立ちだけを感じさせる。宮田はその豹変ぶりに呆気にとられてもう何も言えなかったが、彼女が咄嗟に掴んだ物を見ると流石に怒鳴り声をあげた。
「それに触るな! 返せ!」
マヤが掴んでいたのは、彼が此処に来てからずっと立てかけたままにしていた小銃であった。此処に来る前は戦闘中であったし此方に着いてからはおかしな出来事ばかり続いて触りもしなかったので未だに挿弾子を挿したままだ。異様な事態とはいえ粗忽が過ぎた――つまり簡単に発砲できる。
「幻の海岸……」
マヤは此方の声が聞こえているのかいないのか分からない表情をして銃を持ったままだ。とにかく取り上げなければならない。宮田はゆっくりと近づき、彼女が両手で握った銃を掴んだ。すると彼女は力いっぱい、渡すまいとでもするように引き戻したのである。
「危ないぞ! 離せ!」
今のマヤは冷静ではなさそうだったが、これだけは危なすぎて持たせているわけにはいかない。腕力に任せて無理矢理にでも奪い取るしかない。こうしてしばらく揉み合いになったが、やがてマヤが受け身のように転んで二人まとめて床に倒れこんだ。
そしてその拍子にパンという音が聞こえ、強い反動を感じた。
途端に宮田は背筋が凍り付いた。――二人のうちどちらが引き金を引いたのかは分からなかったが――銃が暴発したのである。
「嗚呼!」
一瞬してから悲鳴のような声をあげたのは、マヤであった。着物に血が滲んで――いや血で真っ赤に染まっている。よりにもよって小銃の弾で腹を撃ったらしい。
「すす……す……すまん」
宮田は言葉が出なかった。自分が焦って取り上げようとしたからこんな事になったのだと思うと失神しそうな気持ちであったが、今はそれどころではない。自分に処置ができるのかすら怪しいが何もしないわけにはいかない。脂汗をだらだらと垂らし、震える手でマヤの着物の帯を解いた。
マヤの白い肌が血にまみれていた。よりにもよって弾丸は臍下辺りを撃ち抜いている。素人目にも明らかに致命傷だ。そして出血が酷い。着物の前を開いただけなのに手にべっとりだ。その血の温かさが今は恐ろしかった。
――出血を抑えればともかく延命になるかもしれない、などと考えたのは正直に言えば後知恵である。俺はどくどくと流れ出る血を見るのが恐ろしくてたまらず、彼女の腹部に幾重にも布を巻き付けた。
マヤは汗を滲ませていたしだいぶ荒いが呼吸もしている。ただ目を開けないし声をかけても反応しなかった。失神したのか、あるいは――。
「すまん……すまん……」
俺はぼろぼろと泣きながら、下半身から血を流し続けるマヤの傍らに座っていた。他に何もできなかった。
蹴とばされた香炉の種火はいつのまにか立ち消え、囲炉裏は薪が真っ赤になって燃え盛っていた。
……
――『古事記』神代――
みほと〈女陰〉は
――『古事記伝』――
「火を生む」とはきこえたる如く、火はこの時に伊邪那美命の始て生み坐せる物にて、是より前に火は有ることなし。
……さて、火の出でたる処なるに因りて、火処とは云ふなり。また此によりて考ふるに、女の
――『霊能真柱』――
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