十五 比較神話学・2

 ――結論から言えば、俺はこの海岸から脱出する方法を何日経っても見いだせなかった。

 この狭い海岸を幾ら歩き回っても何も使えそうな物はない。時には崖をよじ登ろうとも試みたがとてもではないが昇っていける岩壁ではなかった。

 毎朝のように現れる死者の船に目をつけ、なんとかあれを乗っ取れないかとさえ考えてみたが、あの霧が起きている最中に海に入ると視界がまるで効かなかった。意を決して闇雲に泳いで見た事があるがいつまで経っても一面乳白色、まさに五里霧中の有様だった。

 それでいてあまり恐ろしくなって引き返そうとするとすぐに元の海岸に戻れたのが、実は一番ぞっとした瞬間であった。

 そうして俺の脱出計画がことごとく失敗するたび、マヤは嬉気に微笑みながら俺を出迎えてくれた。

 結局俺は一日に一度程度、あの洞窟が開いていた筈の辺りを覗きに行くくらいしかできる事はなかった。無論何度見たとて洞窟がいつの間にかまた現れているなんて事はないのだが。

 そしてそれを特になんとも思わなくなってしまうのも、またすぐだった。



 俺とマヤは結局のところ一緒に暮らし、寝食を共にしている。なにせ食い物や酒はいくらでも流れ着いてくる。

 マヤは琉球の郷土料理が得意であったし、俺が見よう見まねで西洋の調味料の使い方を教えるとすぐに俺より上手な味付けができるようになった。

 ビールは相変わらず苦手なようだが甘い洋酒が好きらしく、よく一緒に飲んでいる。

 そうして好きなだけ飲み食いして、休んで、時々抱いている。例の妙に積極的な時の彼女は色香があり、聖人君子でもない自分は特に抗う事もなくずるずると関係を続けていた。

 ――そして相変わらず国文学や民俗学、人類学の話を彼女にしていた。

 彼女が楽し気にいろいろ聞いてくるのが一番の理由だが、専門分野というわけでもない隣接学問のあやふやな記憶が、話していると妙に鮮明に出てくるのが我ながら不思議であった。

 そうして一体何日が経った頃であろうか。



「我島では最初の〝人〟はニルヤからやって来たと伝わっています。それはアマミキヨという女で、彼女が浜に降りると五穀の種が入った瓢箪が流れ着いてきました。しかしまだ足りないと感じたアマミキヨはニルヤに祈りを捧げました。すると三百日後に鳥が稲穂と火のついた枝を持ってきました。……これが我島に食物と火がもたらされた始まりなのだと言います」

「食物と火――か。それらが創生の神から人間世界にもたらされたと語る神話は多い、やや枝葉の話として隅に置かれている日本神話の方が特殊なのかも知れん。日本神話では食物の神といえばオオゲツヒメという女神だ。彼女が口や尻から出した食物を料理して食べさせている事を知ったスサノオは怒ってオオゲツヒメを斬り殺した。すると彼女の亡骸から五穀が生えてきて、それが人間世界の食物の始まりになったという」

 流れ着いた芋を囲炉裏の火で炙りながら、今日もまた我々はぼんやり話し込んでいる。

 薪にした木がまだ少し湿っていたからだろうが、やたらパチパチと音を立て火の粉を飛ばしている。

「女神の亡骸から生まれた……」

 マヤは串に刺した芋をくるくる回しながらそれだけぽつりと呟いた。

「『金枝篇』には女の姿をした藁人形を引き裂いて豊作を願う風習が紹介されているし、ギリシア神話のペルセポネの復活も恐らく同じモチーフの筈だ。女の亡骸と食物は、どういうわけか世界的に結び付けて考えられた物らしい」

「なにやら恐ろしげな話しではありますね……あ、そちらは火が通ったようですよ」

 マヤから言われて気が付き、焼けた芋を串から抜き取って籠に入れ、次の芋を串刺しにして火に差し込む。今日は芋餅を作るというのでこうして手伝っているわけだ。

「俺の母親の郷土料理にも自然薯を餅粉に混ぜた餅があったが、沖縄にもあるのかね」

「これは餅粉を使わず芋だけを蒸すのですよ。あ、だから厳密にいえば餅〝ぽい〟だけですね。餅粉は上等なので鬼餅ウニムーチーに使う事が多いです。祭の日に紫芋と餅粉を混ぜて作る鬼餅は色も綺麗だし美味しいんですよ」

 南洋的気候である沖縄では、米よりも芋や諸々の穀類の方が主食として親しまれていた。

 薩摩による支配の後は米の生産量も増えたというが、それでも米飯などは明治以前にはハレの日のご馳走として口にする機会があった程度である。

「南洋の国も大抵は芋が主食だというし、やはり環境がそういう島々に近いのだろうな」

 まあそうは言っても、日本本土でも米が国民食だなどと言って遍く普及したのはそう古い話ではない。

 大正時代ですら米を食う習慣が無く芋や雑穀だけを食べる日本人は多く、政府は栄養促進と消費増大の観点から芋から米への主食切り替えを啓蒙していた程だった。此度の戦争で米から芋への代用食化が進められているのは考えると皮肉な話である。

 我々は稲作の民族だと自身思っているが、実際は芋や雑穀で血脈を繋いできた民族だといえるのではなろうか。まあそれはそれとして。

「芋といえば――戦争が始まる直前、ドイツのイエンゼンという人類学者が南洋のインドネシアの人々から採集したという話がある。その地の主食であるヤム芋の誕生譚だという」


  昔、この世で最初に生まれた人間の一人のアメタという男が、海辺でヤシの実を拾って持ち帰った。晩にお告げがあったのでその通りにヤシの実を植えると花が咲いた。アメタがその花を取ろうとすると掌を怪我してしまい、その血が花にかかってしまった。

  それから九日の後に花の中から一人の娘が生まれた。アメタはその娘に〝ハイヌウェレ〟という名をつけて育てる事にした。

  ハイヌウェレには生まれた時から不思議な力があった。彼女が排泄をすると普通のモノの代わりに陶器や珊瑚が出てきたのである。おかげでアメタはたちまちのうちに富裕になった。

  しかし周りの者達はそれを恐ろしい事だとも妬ましい事だとも思ったので、ある日ハイヌウェレを穴に突き落として殺してしまう。

  アメタはいなくなったハイヌウェレを心配して探し回っていたが、やがて彼女の亡骸を見つける。仕方がないのでアメタはハイヌウェレの亡骸をばらばらに切り刻んであちこちの地面に埋めた。その後、埋められた亡骸からツルが伸び芋が生えてきた。

  その芋こそがヤム芋であり、今日まで人々の食べている宝物である。


「イエンゼンはこうした話の類型が南方には数多いと指摘し。これらを『ハイヌウェレ型神話』と名付けた。女が死に――多くの場合殺され――その亡骸から食物を生んだとする話だ。日本ではオオゲツヒメの話がまさにこのままの筋だな」

 マヤは焼けた芋の皮を剥き潰しながら話を聞いていた。タイミング的に少々悪趣味になってしまった気がするが結果的にはイメージを助ける結果になったらしい。

「なるほど……こうやって潰したり、焼いたり、串に刺される芋の化身なので、その〝はいぬうぇれ〟という娘も同じ目に遭うのかも知れませんね。……どうですか?」

「そういう側面もあるかも知れないな。なかなか鋭い」

「でしょう?」

 そうして二人してニヤァと笑う。

「冥府から植物と共に帰ってくるペルセポネもフレイザーの死神人形も同じようなイメージなのではないかと思う。死と……その死からもたらされる生命力とでもいうのかね」

 話を聞きながらマヤは潰した芋を澱粉かなにかと混ぜながら手際よく丸め、蒸篭の中へと並べていく。あとは蒸せば完成というところか。

「芋は焼いて食べても美味しいですが、蒸すともちもちした食感が良いですからね。さて、お手伝いくださってありがとうございました」

「手伝ったも何も、芋を焼いただけだぞ」

 礼を言うマヤに冷やかし気味にそう言うが、マヤの方は本当に嬉しそうにニコニコしていた。



 台所に蒸篭を持って行ったマヤは折り返しにお茶を持って戻ってきた。(急須に入れてあるのが漂着物であろう紅茶の葉というチグハグ具合だったがこの手の創意工夫にはもうだいぶ慣れてしまった)

 茶を急須から淹れながら、マヤがこう話を切り出してきた。

「あの……」

「どうした?」

「今、なんとなく思っていたのです。宮田様から聞いた色々な事が、頭の中でぐるぐるとしているのかも知れません。少し聞いていただけますか?」

 マヤの表情にはなんとなく躊躇いが見えたが、真剣そうであった。宮田は頷いてみせて「祝女殿の考察とあれば聞かないわけにはいかないな」と言い、言葉を促した。

 それを見たマヤは同じようにこくりと頷き、薄く微笑んだ。

 ちょうどその時パチン! と囲炉裏の中の薪が音を立てた。その音を合図にするように、マヤは話し始めた。

「――思ったのです。アマミキヨも他の国の女神達のように、やはり死んでいたのではないでしょうか」




  昔此の國の初、未だ人あらざる時、天より男女二人下りし。男をシネリキユと、女をアマミキユと云。二人舎を並て居す。……二人陰陽和合は無れども、居所並が故に往来の風を縁して女がはらむ。遂に三子を生ず。一人は所々の主の始なり。二人はのろの始なり。三人は土民の始なり。時に國に火なし。龍宮より乞ふ。漸して國成就し、人間成長して、守護の神現じ給ふ。……

   ――『琉球神道記』――

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