十七 神は妄想である

 腹部を撃たれた人間が即死する確率は案外低いと聞いた事がある。主要な臓器さえ破壊されなければ致死までに猶予があるので、素早い治療にさえ移る事ができれば生存可能性は高いのだという。

 ――逆に言えば、まともな治療を施す事ができないこの海岸では、遅かれ早かれ死に至るという事だ。

 軍医や衛生兵がやっているところを見た止血を見様見真似で施し、これ以上の大量出血だけは抑えたが、自分にはもう何もできない。

 〝まだ〟彼女の息がある事を確認すると俺はマヤの身体を抱き上げ、簾の向こうの寝床へと運んだ。硬い床板の上に横たわらせているのも厭だったし、何より床の上には血痕がべっとり残っている。それが目に入る事が恐ろしかった。

 彼女の息遣いは弱弱しかったがたしかに続いていた。体温も暖かかった。しかし抱きかかえた時にも一切の反応がなかった。気を失っている。鎮痛剤すら無いこの状況では、この方が幸せなのかも知れないが……。


 嗚呼。俺がこの状況を招いたのだ。俺が銃の管理を怠ったから。もう少し上手に取り戻す事だってできた筈だ。

 いや、そもそも彼女は何に怯え、錯乱していたのか。

 彼女は葛藤していた。何かに苦しんでいた。

 自身、神に仕える巫女ふじょでありながら彼女は自分の神を信じていなかった。それはどれだけ心細い事であったろうか。

 俺は彼女を神秘体験とそれを懐疑する心の微妙な均衡の中にある人間だと考えていた。

 折口信夫博士はこう述べている。


  一人称式に発想する叙事詩は、神の独り言である。神、人にかかつて、自身の来歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡ふげきの恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。

   ――折口信夫『国文学の発生(第一稿)』大正十三年――


 そう、我々は所詮は近代人。ソレが儚い空想のビジョンに過ぎない事を知っている筈だ。

 それは遠い過去に託して思い描かれた美しい世界。先祖の地への狂おしい郷愁。二十世紀の幻想。

 だが彼女にとっては違う。神との向き合い方、幻想との距離は、文字通り人生のすべてを決定づけるものだったのではないか。

 自分を取り巻いて突き動かしてきたナニカが神で無かったと心底から認めてしまったとしたら、もうそれは狂気と空想に突き動かされた人生でしか無くなる。

 俺は求められるまま語るうち、彼女の幻想の触れてはいけない領域にまで踏み込んでいたのかも知れない。

 さて。踏み込み過ぎた幻想。先祖の地。ふと居心地の悪さを感じる。

 人類学や民俗学の見解とは別の潮流として――しかし結果的には異口同音に――日本の亜細亜進出、ことに南方方面に対してはしばしば「原郷の地への凱旋」という情緒で彩られ、喧伝されてきた。

 大陸の覇者ジンギスカンが実は日本の英雄・源義経であった――などという妖説にすら、大陸へ向かう日本人の心を熱く燃え立たせるエネルギーがあったのだ。学問の政治利用としてはまあ妥当なのであろう。

 我々は〝原郷の地〟への熱い情熱をほとばしらせ、妣の国へ帰り着いたとばかりに南洋の島々に神社を建てて回り、沖縄の神聖なる御嶽ウタキに日本式の鳥居を立てて回ったのだ。

 近代の民俗学者達が南の妣の国に向けた悦びと情熱は確かに本物であった。だが彼ら(いや我々というべきだろう)が情熱を注いだ研究は、妣の国の有様を二十世紀の神道で塗り潰す情熱の一翼を担ったのではないか。

 あるいは我々は民族の繁栄を約束する常世の幻想に焦がれる余、根の国妣の国を蹂躙してしまったのか。幻想を追いかけ踊らされるうちに取り返しのつかない境地にまで入り込んだのかも知れない。

 幻想を追いかけたスサノオは高天原を放逐され、補陀落僧は海彼に消え去り、我が菊花紋章を掲げた巨大戦艦も沈んでいった。

 皆自らの内から湧き上がる情熱に狂い、幻想の中に溺れていったのではあるまいか。

 帝国も。ロマンスに彩られた民俗学も。俺も。彼女も。


 ハッ……ハッ……という感じに、マヤの呼吸が徐々に苦し気になっていく。額にも首筋にも大粒の汗が滴のようにたまってきている。

 失血死だけはどうにか避けられたようだが炎症か何かでも起こし始めているのだろうか。額を触ってみると高熱が出ている事が分かる。

 せめてもの思いで俺は器に水を汲み、それをマヤの唇に当てて水を与えた。熱に参っているように思えたからだ。

 するとマヤはたしかに水を飲んだ。喉がこくりこくりと動いている。

 その姿を見ていると、また泣き出しそうな思いになってきた。

「死なんでくれ――俺はお前が好きなんだ」

 自分がぼそりとそう呻いた時、妙な事に気持ちの良い風が吹き込んだ。こんな奥まった部屋に風が吹くとはなんとも不思議な事であった。



                ◆



 何かがぼそぼそと呼びかける声が聞こえる。

 身体をがくがくと揺さぶられる。非常に心地が悪い。まるで深酒でもして酔い潰れた後のようだ。

 うつぶせにしていた頭を上げると目が痛いほど眩しかった。電灯が煌々と点いている――此処は、そう、大学の考古学研究室だ。そして自分が伏せて寝ていたのは学生時代から座り付けていた我がデスクであった。

「……マヤ?」

 思わず彼女の名を呼んだ。状況が理解できない。何故自分は大学に居るのか。

「起きたかね、宮田君」

 後ろから声をかけられ、ぼんやりと振り返った。そこに居たのは白髪にロイド眼鏡の痩せた老人であった。

 自分はしばらく呆然とその老人の顔を見ていたが、やがてそれが考古学研究室の室長・青山教授である事に気が付いた。

「あ……! あ……! 青山教授! 失礼いたしました!」

 慌てて椅子から立ち上がり姿勢を正したがその拍子に椅子を盛大に押し倒してしまい、ガシャンと甲高い音を響かせてしまった。

 寝起きの自分が泡を食っているのを見て青山教授は苦笑しながら肩をすくめた。

「いやいや慌てんでも良いよ。研究室の灯りが点いたままなのが気になっただけなのでね」

 わけがわからないが――どうにも自分は灯りを点けたまま研究室で居眠りをしていたらしい。窓の外はもう夜の闇である。これは大失態だ。

「す、すみません。灯火管制の時分に迂闊な事を」

 ぼんやりした頭のまま反射的に謝罪する。戦時下に文系学部はただでさえ肩身が狭いのだ、これ以上難癖をつけられたらたまったものではない。

 しかし青山教授の方は目をまん丸くして「灯火管制?」と呆れた声を出し、しかしすぐに合点がいったというふうに笑い始めた。

「ハッハッハ……宮田君、寝惚けているようだぞ。大東亜戦争が終わってもう何年経っていると思うんだい。夢でも見たのかね?」

 その言葉を聞いて、今度は自分の方が目を丸くして動顛する事になった。

 ――いよいよ、俺は気が狂ったのかも知れない。



  世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

   ――『古今和歌集』よみ人知らず――

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