十三 やまと

 この船は昭和十五年七月二十五日にその荘厳な名を与えられた。

 全長二六三メートル。最大排水量七万三〇〇〇トン。乗員数三三三二人。

 口径四六センチの九つの主砲を抱えた戦艦である。

 この国――そして世界でも有数の巨大建造物。

 この国の秘中の秘の秘密兵器。

 この国の文字通りの旗艦。

 この国の象徴となる事を宿命づけられた艦。

 この国の名を冠した超巨大戦艦は勝算のない無謀な航海に駆り出された。

 決戦地へと向かう海路の最中、米軍機部隊からの大攻勢を受けて撃沈。

 目的の港に辿り着く事はついに無かった。


 昭和二十年四月七日 十四時二三分

 北緯三〇度二二分 東経一二八度四分――



 ――とてつもなく巨大な船。そう言い表すしかなかった。厳めしい砲塔の数々でこの船が〝戦艦〟である事はすぐに分かる。中でも甲板に据えられた主砲は何よりもシンボリックであった。

 陸軍の招集軍人に過ぎない自分には艦艇の事など大して分からないが、それでもこの戦艦が前代未聞の大きさと威容を誇っている事くらいは理解できた。

 そうして先頭には菊花紋章が掲げられているのだ。この巨大な戦艦が日本の物であるのは紛れもない事であった。


 超巨大な日本の戦艦が死者達の航路を音もなく進んでいく。この船もまた沈んだのだろうか。戦死者を懐中にゴマンと詰め込み、死出の旅路を向かっている。

 ――戦艦のあまりの大きさに、実におかしな事だが自分は何故か日本列島この国を連想した。日本を象徴しているように思えた。

 まるでこの国そのものが死んで彼岸に向かっているのを此処から見送っているような気持ちになった。目頭が熱くなり、ツーと涙がこぼれる。


「あんなに大きなヤマトの舟は初めて見ました……一体どうしたのです?」

 一緒に寝転んで呆然としていたマヤが自分の泣き面を見て心配げに声をかけてきたが

「……あぁ、あれはそう、日本やまとだ。日本が死んだのをこの目で見たような心持で……」

 曖昧に答える事しかできなかった。自分自身にもはっきりとわからない心境であった。

「ヤマトが沈んだのですね……」

 時の止まったような海岸にいる二人が見送る中、その巨大な船はずいぶん時間をかけてゆったりと通り過ぎ、また霧の中へと静かに消えていった。

 あの巨大な船が通り過ぎた後も続々と船が現れ、消えていった。

 大きな艦艇もあればボートやカッターもあり、そういう船は乗り込んでいる者の姿も見えたが、やはり昨日と同じように一同ぼんやりと一点を見つめぴくりとも動かない。

 マヤはこれを「死者はしゃべらないし身動きもしない」と言っていた。

 自分にはこの光景が、先ほどの巨大な戦艦が大勢の従者を引き連れて死の島に導いているように思えた。

 常世の果実の香りに酔っていたような気持ちはその光景を眺めているうちにすっかり掻き消えてしまった。

 皮肉な事に永遠に此岸から去ろうとしている日本の化身のような戦艦と、その従者たちの後姿を見ているうちに、ここ何日かですっかり忘れていた郷愁のような思いが一気にこみあげてきたのである。


「――戻りたい」

 宮田は押し殺すような声でそう呟いた。

「え?」

 マヤが聞き返すと宮田は呻くようにこう続ける。

「俺は戻りたい。なんとかして……沖縄、東京……とにかく日本に帰りたいと思う」

「……帰りたいのですか? 前に聞いた時は言い淀んでおりましたのに」

 この場所に来て最初の夜、マヤはそう尋ねてきた。そして自分は確かに、あの爆音と無差別な死に満ちた艦砲射撃の地獄が脳裏にあって言葉を濁した。

 だが――己が生まれ育った国土への郷愁はやはり在る。

 この良い心地のする夢のような場所からいつまでも抜け出せないのではないか。そう感じると急に何やら冷え冷えとした心持になってきたのである。

「戦争は忌々しいがな。俺にも家族や仕事があったし帰らないわけにはいかんのだ」

 東京に暮らしている父母や出征前まで居た大学の事がふと頭に浮かんだ。自分に召集令状が届いた日に鯛を料理してくれた事や、理数系でない我々は近いうちに召集されるだろうなどと同僚達と話していた事が思い出された。

 郷愁を覚える記憶である。そうではあるのだがまるで今の今まで忘れていたような感覚であるのに気づくと懐かしさと気味悪さが半々のような気持になってしまった。

「どうしても帰りたいのですか?」

 マヤが此方を窺うような口ぶりで再度尋ねる。自分が「あぁ」とだけ答えると彼女はほんの少しだけ押し黙った。

 しかしすぐに微笑んで――そこにはほんの少し嘲りが見え――こう告げた。

「だけど、帰れませんよね? 宮田様が通ったという洞窟は在りませんし、まさかこの海を渡れるとはお考えにならないでしょう」

 それは実際その通りであった。

 俺が歩いてきたはずの洞窟はどれだけ探しても発見できなかったし、見渡す限り水平線しか見えない海に身一つで泳ぎ出すほど短絡的ではない。

 実際図星である事も、かすかに嘲りが見える笑みも気分が良くなかった。

「――どうにかしてみせるさ。とにかく俺は帰らねばならんのだ」

 言い捨てるようにそう言うと、自分はマヤの方からぷいと目をそらした。

「気に障ったのなら謝ります。ですが私は……どこにも行かないでくれたらうれしいのです」

 何か苛々とした気持ちになり自分はもう返事もしなかった。言葉が出なかった。


 我々がやや険悪なムードになって沈黙している間も、死者を乗せた船は音もなく顕れ、消えていった。

 自分は一体いつまで此処にいるのだろうか。

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