十二 ときじくのかぐのこのみ
再び夜が明けた。東の海から日の光がうっすらと差し込み始めた。
俺とマヤはあれからたったの一言も言葉も交わさぬまま手を握り合ってただ海岸に座っていた。
マヤの表情は陰鬱であった。何かを思い出しているようだったが少なくとも楽しい記憶ではなさそうだ。とても聞ける雰囲気ではなかった。
朝靄は次第に薄れつつあったが昨朝と同じように海上にはまた濃い霧がかかり始めていた。今朝もまた船が通るのだろうか。
――この場所に迷い込んでからは何にしても説明のつかない事ばかりだが、あの霧と船の群れはその中でもまた象徴的な物であろう。
マヤはあれを死者の舟だと言った。たしかにあの船やボートに乗っているのは殆どが軍人だった。今のご時勢一番死ぬのはたしかに軍人だろう。
では、あの船に乗った彼らはどこに行くのだろうか。当世の神道が説く事はこの際忘れるとしたら、あれはやはりニライカナイ――我らの国語で呼ぶならば常世へ向かう船なのではないかと考える。
日本書紀の神武帝記には、東征の軍船で熊野の海に差し掛かった際に嵐に遭ったとする記事がある。
このとき神武帝の兄である
いささか謎の多い記事であるが、或いは古代には海死は歩いて渡れるほど常世に近づく死に様なのだと見なされていたのかも知れない。それが熊野の海であれば猶近い。そう見なされていたものか。
熊野が日本でもっとも常世に近い場所だという事は、それこそ神話の時代から誇示されている。
一書に曰はく、
土俗、此の神の
――『日本書紀』神代巻――
熊野は日本人の母神の葬られた場所。少彦名が常世に渡って行った場所――すなわちあちら側に一番近い場所。
後世の仏教的色彩の中ではそれらは補陀落浄土に坐す観音菩薩信仰へと変貌していった。
観音菩薩は本来男性であるが、日本ではしばしば女性であると捉えられてきたという。実際に観音菩薩は慈母観音とも称されたし、その像も女性的な容貌で表現されてきた。美しい女に化身して衆生を救済して回るイメージが仏教説話の中にも数多い。後世のキリシタンが禁教下で〝マリア観音〟を作り上げたのも観音菩薩のイメージが既に慈母として深く結びついていたからである。
観音菩薩と補陀落浄土への信仰もまた、母神と妣の国への渇望が仏教的に描かれてきた形なのかも知れない。
「
古事記におけるスサノオの言葉がふと頭をよぎった。
根の国妣の国。かのスサノオが舟と宮と墓を作り渡った場所。泣きながら行きたいと願った場所。
そういえばニライカナイという言葉も語源は「根」であると伊波普猷先生などが推定している。根元・根源・根城……根がそういう意味合いを持つ言葉なのだとすれば妣の国の異称としてはふさわしいもののように思える。
「――今朝も舟が来そうです。近頃は来ない時の方が少ないのですが」
マヤはそう言うとそれまで握っていた手を離しすっと立ち上がった。尻についた砂をパンパンと払いながら「近頃は鉄の大きな舟ばかり」などと言っている。どうも小屋に戻るらしい。
「どのくらいの頻度で船が来るんだ?」
何気なくそう尋ねながら振り向いた瞬間、ひょっとした。今度は別に骸骨に見えたりしたわけではない。ただマヤが着物の帯を解きながら歩いていた。簡素な着物なのでそれだけでだらりと緩んでうなじが出ていた。
「そうですね、ほとんど三日は開かないと思います。一体どうしてこんなに多く通るようになったのか私にはわからないのですが……」
マヤの方はなんの気なしにこちらを振り向いた。袖を通しただけの着物がふわりと揺れ、具体的に言えば前が開いた。
「お……おーい?」
宮田は苦笑いを浮かべながら曖昧に声をかけた。マヤは何のことやら分らないという顔をしていた。そこで胸の辺りをひょいと指さし視界を移させると、ようやく自分の状況が分かったらしい。
「あーー!!」
途端に何やら大騒ぎしながらマヤは小屋の中へ駈け込んでいいった。
――しばらくすると、やがて最初に出会った時と同じ青色の着物を着て彼女は戻ってきた。よほど恥ずかしかったのかまだ目が泳いでそわそわしていた。
「あ、あ……あのですね。着替えをしようかと思ったのですよ。それでですね、その、いつものクセで――こう歩きながら脱いでいくわけですよ。普段はいませんからね、此処。――あ! あ! いえ別にいつもしているわけではないのですが。たまたまですよ。えー……」
しどろもどろになりながら何やら説明しようと試みたようだが、結局諦めて顔を覆ってしまった。
(昨夜散々見たのだし今更……)などと余計な事を言いそうになったがさすがにそのまま飲み込んだ。
「俺も
ワハハと笑ってごまかしていたが……よくよく考えると自分も昨晩から軍袴一枚のままでいるままなのに気づき、そう大差ない身なりだなと苦笑しながら自分も小屋に服を取りに行く事にした。
昨夜脱ぎ散らかしていた筈の軍服は丁寧に畳んで籠に収められていた。マヤがしまっておいてくれたらしい。おそらくは昨夜海岸に出る前だろうか。
ずいぶんと細やかな娘だなと感心しながら畳まれた肌着を手に取ると、その下に置かれた防暑襦袢との間に鮮やかな橙色の物が置かれている事に気が付いた。
「――蜜柑か?」
柑橘類の実が三つほど服の間に挟むように並べられていたのである。興味を惹かれてその実を一つ手に取ってみたのだが、どうも蜜柑ではなさそうだ。随分と香りが強いのだ。
こんな物を置いているのか理由がわからなかったが、肌着に袖を通すと何故そうしていたのかがすぐに分かった。柑橘の甘酸っぱい香りが、ほんのりと服へと移っていたのだ。
この暑い土地で数日間洗えていなかった、汗や泥にまみれた軍服だ。お世辞にも心地よいとは言えない臭いを放っていたのだが、おかげでだいぶ和らいでいたのである。
「本当によく気が付く女性だ」
宮田は感心しながら身支度を整えた。心地よい香りが身を包むような感じがして、悪い気がしなかった。
重たい小銃と鉄帽だけを小屋に残し再び海岸に戻ると、マヤもこちらに気が付いたようで駆け寄ってきた。
「忘れていました。勝手に畳んでしまっていたので見つけられるかなと思っていたのですが、お分かりになったのですね。良かった」
「いやいやありがとう――ずいぶん香りの良い実が挟んであったがあれは何という実かな。蜜柑やダイダイとは違うようだが」
「ああ! あの実はシークワーサという実です。味も酸っぱくておいしいのですが、香りが良いので我島では御香の代わりに使ったりするのですよ。あまり臭かったので臭い消しに使おうかと……あっ! すみません」
あわてて訂正したマヤの態度が可笑しくて宮田は声を出して笑ってしまった。
「ワハハ……いや一番臭いなと思っていたのは俺だからな。助かったよ。貴女は機転が利きますな」
宮田がほめるとマヤは照れくさそうにはにかんだ。
「我島では昔からシークワーサを使って洗濯をしたり、タンスの中に入れておいて虫よけや黴を防ぐのに使っていますので……」
「ほう、洗濯にも使うのか。汚れが落ちるのかね?」
「こすっていると泡も立ちますし綺麗になりますよ。この着物もいつもシークワーサで洗ってますし。着た時に良い香りがするので私は好きなのですよ」
そう言うとマヤは右手を突き出し、着物の袖をくいと差し出す。戯れに頭を下げて鼻を近づけてみると、たしかに柑橘系の甘酸っぱい香りが微かに漂っていた。心地の良くなるような不思議な香りである。
「良い匂いでしょう?」
「……本当だ。柚子風呂にでも入っているような気分になる」
その時、宮田はふと『古今和歌集』にあった詠み人知らずの歌を思い出していた。
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
古今集の時代のこの歌人は
それは御香であったかも知れないし、あるいは日本本土でも沖縄と同様、柑橘類の実を用いて洗濯をしていた時代があったのかも知れない。
とにかく柑橘類の甘酸っぱい香りは昔懐かしい、日本人の心をくすぐる不思議な香りであったらしいのだ。
――宮田がかつての無名の歌人のような感慨に耽っていると、不意に目の前が暗くなった。マヤがもう片方の手を宮田の背中あたりに伸ばし、そっと抱き寄せたのである。
マヤの胸元に顔がうずまる。香りに気を取られていたからだろうか。シークワーサの香りに加えてマヤの――若い女性独特の――あの仄かに甘い感じのする体臭までも感じた。
「お……おいおい」
さすがに驚いて振りほどこうともしたが、かがんだ体勢では思うように力が入らなかった。
マヤにそのまま引き倒されるような形でそのまま二人はやわらかい砂浜の上に倒れこんだ。顔にも身体にも砂がついたが清潔で乾いているので特に不快感はなかった。
「いきなり何をするんだ、びっくりしたぞ」
ようやくマヤが腕の力を緩めたので宮田は胸元から顔を引き離すことができた。
マヤは宮田の背中に手を回した、抱きしめるような恰好のまま、悪戯っぽく笑ってこう告げた。
「良い匂いしましたか?」
ドキリとした。
昨夜同衾してしまった時もそうだが、彼女は時折妙に艶っぽい表情を見せる。どう見ても自分より年下なのだが妙な色気がある。
彼女は本当に先ほど顔を赤らめ恥ずかしがっていたのと同じ女なのだろうか?
宮田が言葉を返せずにいると、マヤは身体を密着させ――
――
田道間守は十年の歳月をかけて遂に常世国にたどり着き、そこに生えていた木の実を日本に持ち帰った。しかし都に帰り着くと天皇は既に崩御した後であった。田道間守は天皇の陵墓の前で「常世国の非時の香の木の実を献上に参りました」と言って泣き叫び、そのまま死んだという。
古事記は「その非時の香の木の実は、これ今の橘なり」と伝えている。
橘の木は元々は常世国の木であった……古代の日本人はそう信じていた。また
どうも橘は日本人にとって実に特別な木であったらしいし、常世国を強く連想させるものであったらしい。
神話の時代からは遥かに遠く下るが、幕末の国学者である林櫻園はこういう歌を詠んでいる。
常世べにかよふと見しは橘のかをる枕の夢にぞありける
記紀から古今集の時代、そして幕末に至るまで、強い柑橘の香りは日本人の心に常世国への郷愁――妣の国への恋慕を強く感じさせるものであったのだ。
一応言っておくならば、我々は朝っぱらから交わったりなどはしなかった。
いや何度も唇を重ねたりはたしかにしたわけだからフシダラさという点では大差もないのだが。
場所を変えてまた抱きたいという情念は正直強く湧き上がっていたが、それをかろうじて自制したというよりは彼女の肢体や髪から一時もはなれることができなかったという方が適切なように思う。柑橘のかぐわしい香りに包まれ、果実をむさぼるような心持であった気がする。
砂の上で抱擁しあったまま、いつまでもいつまでもこの懐かしい香りに沈んでいたい。そういう気にさせられていた。
我々がどれだけ甘美な時間に耽っていたのかはよく分からない。あるいはほんの数分か。
昨朝見たような霧が海を覆ったのが見え、醒めたくない夢が唐突に醒めた。
霧と共に現れた船。今まで誰も見た事がないような巨大な船。その切先が霧の中から現れたのである。
そうしてその切先には、恐れ多い菊花紋章。嗚呼、あれは間違いなく日本の船だ。
巨大な船が死者達の海路に現れたのを、俺とマヤは砂の上に寝転んだまま、ただ呆然と眺めていた。
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