チャプター7 その身を孤高たらしめるもの、嵐の果てに
洋上の波濤もこの高度から見下ろしますと、まるで折り重なるしじまと呼べる、一枚の青い絨毯が如き静けさです。
不思議なもので、人間の耳は慣れてしまうと、騒音を騒音と感じなくなります。目の前で激しく圧縮と爆発を繰り返す九本のシリンダー燃焼も、まどろみの中で聞く、三軒隣の表通りからの喧騒よろしく、うるさいものとは思いません。常にその姿形を変化させる、海面の様子を見つめながら、私達は海の上を飛び続けます。
これまでずっと海岸線に沿って飛んできたわけですが、数時間ほど前から、陸地の見えない洋上に乗り出しています。海岸線が大きく南へ湾曲しているものですから、直線で飛ばないと時間的に大きなロスとなるのです。
後席からラノアさんが言います。
「イーミャ。途中の補給はどうするんだ。この分だと、まだかなりかかるぞ。」
かなりかかる。
そうなのです。洋上に出てすぐ、強い東の風が吹き始め、つまり、エウラスは向かい風にさらされています。予想以上に飛行距離が伸びないのです。
「洋上に一箇所、補給地点があります。そこを目指しましょう。」
何も、無計画に駄々広い海の上へ出たわけではありません。アマデオ班長のくれた地図によると、海上にぽつりと、思い出したように補給地点のマークがあります。そこを経由すれば、ぎりぎり今の残り燃料でももちそうです。
座席下から顔を出したバルトが言いました。
「ほんとに、そんなとこに補給地点があるのか? 海のど真ん中じゃないか。」
「あるはずですよ。班長がいい加減な情報で印を付けるとも思えません。」
「けど、砂漠の時みたいに、無人の補給地点だったら? 海賊や空賊の連中に、略奪されてる可能性だってあるだろう。」
「可能性は常にありますけれど、それを気にしていたら、何もできませんよ。現地へ行けば、どうにかなりますよ。」
「つくづく楽観的だよなぁ、イーミャは。」
「物事を悲観しすぎるよりはマシでしょう。ほら、バルト。そろそろ補給地点のあるエリアに近づきます。何か海上にないか、探すのを手伝ってください。」
「分かったよ。まさか、筏でも浮いてるんじゃないだろうな。」
ぶつぶつ言いながら、バルトは操縦席の縁から顔を出して、周囲を見渡します。空にはどんよりと、重い雲が垂れ込めてきました。降らなければいいのですが。
地図に書いてある緯度、経度の示す海域へ来ますと、ありました。私は思わず、バルトに言います。
「ほら。やっぱり、アマデオ班長の情報は正確だったんです。あったじゃないですか。」
「あったっつうか、あれが?」
いぶかしげな表情のバルト。海上にあるのは、豆粒ほどの小さな島です。周囲の長さは1キロもありません。本当に豆粒と申しましょうか、島と呼ぶにはあまりに心細い。わずかな砂浜と、申し訳程度に、中央部分で木々が生えているだけの小島でした。バルトの言っていた、筏という表現でも足りてしまいそうです。
「着水します。」
そう言って、私はエウラスの高度を下げます。海面近くへ来ますと思った以上に波高があり、着水限界ぎりぎりの波の高さです。
大きな波を避けるようにしながら、うねりへ合わせるようにして機体の姿勢を制御します。波に弾かれるようにして機体が大きくバウンドしますが、どうにか押さえ込んで海面へエウラスを押し付け、ようやく着水。滑走中も、うねりの大きさに機体が翻弄されます。
後席から、ラノアさんが前方に向かって指を差します。
「このまま砂浜に乗り上げた方がいい。波が高すぎる。」
「そうですね。飛行機に乗って船酔いなんて、冗談もいいところです。」
いくらフロートがついているからとて、エウラスは船じゃありません。開放状態のコックピットへ、しきりと波しぶきが入り込んでくるのです。海水なんて浴びたら、観測機器類も傷みそうですし、さっさと上陸したいところです。
エンジンのスロットルを絞りつつ、海際の浜辺へと機体を突っ込みました。
がくん、という衝撃と共に、フロートの先が砂の中へと埋もれます。
「到着、と。」
「おい、イーミャ。ちょっと、島の様子を見てくるぜ。」
そう言ったときには、バルト、すでに飛び立ち、海風に乗って上昇を始めていました。
「あんまり遠くへは行かないでくださいよ。」
返事代わりに上空を一周し、バルトの姿は見えなくなりました。
ラノアさんも機外へ出るのですが、バランスを崩します。
「ラノアさん、まだ無理をしないでください。怪我人なんですから。」
「怪我をしたとはいえ、イスタリアまで同乗させてもらっている身だ。何もしないわけにもいかないだろう。」
「それはそうかも知れないですけれど。」
私も操縦席から柔らかい砂の上へ飛び降りると、ラノアさんの顔を見上げます。
「傷口が開いたり、悪化でもしたら、今度こそ私の手には負えませんよ。」
「・・・イーミャ。」
「はい?」
「本当に良かったのか? 俺を連れてきて。見捨てるか、いっそ、捕虜、という形を取った方が、都合がいいんだぞ、君にとっては。」
「捕虜?」
「俺が、だ。」
「どちらが捕虜とか、優位に立つとか、そんなこと今さら言ってどうなります。砂漠のど真ん中で、迷える飛行士を拾った。私にとってはそれだけのことなんですよ。ラノアさん。あなたがどこのどなたか、というのはさして重要ではないと思ってるんです。ラノアさんはラノアさん。ぶっきらぼうで、ちょっと暗い感じはありますけれど、その・・。」
なんだか気恥ずかしくなって、私は視線を逸らしながら口ごもります。
「優しくて、頼りになる、と言いましょうか・・・。」
「・・・ありがとう、イーミャ。」
まっすぐな目で見つめられながらそんなお礼を言われてしまうと、さすがに照れるものです。
「お礼なんて・・・。私やバルトだって助けてもらってるわけですし、その・・、いやぁ。」
頭をかきながら、
「ほら、ラノアさん。エウラスをもうちょっと手前まで引き上げましょう。満潮時、波にさらわれても困りますからね。」
と、照れを隠すにはもう、身体を動かすしかないのでした。
ラノアさんと二人、呼吸を合わせてエウラスを浜辺の奥へと引き上げているときです。
動くな、という、洞窟の奥から響きでもしたかのような、しわがれた声が突然背後から聞こえます。
私達が振り向いた先には、ぼろぼろの軍服を身にまとった、一人の老人が立っていました。手にしているのは、単発式の旧式ライフル。銃口が私達へ向いています。まるで、戦争という名の残滓が形となって目の前に立っているような。もちろん、まだ戦争は終わっていないのですが、何か過去からやって来た、という空気が、その老人の全身からにじみ出ています。
「あの、どなたでしょうか。私達は別に怪しい者では・・。」
「怪しいかどうかは俺が判断する。九気筒の複葉機なんざ、骨董品みたいなもんで乗り込んで来やがって。」
私の弁明、と言いましょうか、敵意も害意もないと説明しかけた矢先、老人はそんなことを言います。
骨董品て。
あなたに言われたくはありませんよ、と口に出かけた言葉を飲み込みます。
私は老人の威圧感に負けぬよう、気を張って応えました。
「怪しいかどうか判断されるのは、あなたのご自由でしょうけれど、身分くらい明かさせてください。ロドリア城塞つき気象観測班の、イーミャ・バスティアネリと申します。こちらは・・・。」
ラノアさんの方を向いて、私は一瞬、言い淀みました。ベネヴァントのパイロット、と正直に言ってしまってよいものでしょうか。見たところこの老人、かなり頑固そうです。ベネヴァントという属性を知った途端、逆さ吊りにでもしかねない、そんな雰囲気です。
私が続きを言う前に、老人は口を開きます。
「そっちの野郎は、イストリアの人間じゃねぇな。見たところパイロットのようだが。」
う。なんだか、このご老人、妙に鋭いです。ラノアさんがイストリアの出ではないということを、すでに見抜いているようです。
ど、どうしましょう。
どう言いつくろうべきか、必死に頭を絞っているところで、ラノアさんが言いました。
「その通りだ。俺はベネヴァントの兵だ。砂漠で遭難したところを、イストリアの気象観測機に捕縛された。」
「捕虜か。」
こくりとラノアさんはうなずきます。老人、まだいぶかしげな表情で、ラノアさんと私を交互に見比べています。
「疑うのなら、ボディチェックをしてもいい。俺は丸腰だ。その女の持つ、拳銃の制御(コントロール)下にある。」
その女・・・。なんだか、言われると妙な気分です。ちょっと、嬉しいような。大人の女と認められたと言いますか。
いえ、そんなこと考えてる場合じゃありません。私の持つ拳銃? あれは、ラノアさんに返してしまったし。と、ポケットに手をやれば、なんと、拳銃が入ってるじゃあありませんか。ラノアさんが、こっそり私のポケットへ忍ばせたのでしょう。いつの間に。
とにかく、ここは口裏を合わせた方が良さそうです。
「そ、その通りです。このラノアさ・・、ラノア・クロイツは捕縛したベネヴァント軍の捕虜です。今も、私が命令して労働を課しているのですよ。」
と、拳銃を、もちろんトリガーに指を掛けない状態でラノアさんに向け、ああ、振りというだけでもいい気持ちはしませんね、人に銃を向けるなんて。
そして、
「さぁ、機体を引き上げてくだ・・、引き上げるのですよ。さっさとやるのです。」
と、銃をちらつかせながらラノアさんに命じます。
ぅう、申し訳ありません、ラノアさん。
私は老人に向き直って言いました。
「ところで、あなたは? よろしければ、まず、その銃を下ろしていただけないでしょうか。」
鋭い光を宿す目で、依然、老人は私とラノアさんを睨んでいるのです。
「・・・ふん。馬鹿馬鹿しい。捕虜の振りなんてしても意味ねぇぞ。」
「振りって・・・。」
ばれてます。
「イーミャとか言ったな。銃口がさっぱり定まってねぇ。お前、絶対にその男を撃つ気ないだろう。」
「それは・・。」
「ラノアって、そっちの野郎とデキてるのか知らねぇが、捕虜ごっこなんて演じられても見苦しいだけだ。」
「で、デキてるって、何がどうできているとおっしゃるのです。何もできてませんよ。い、いやらしい。」
「ふん。男と女、二人で旅の道連れたぁ、途中でどうにかなってもおかしくねぇだろうが。」
「どうにもしてませんから。何をおっしゃりますか、失礼な。」
顔が火照ってくるのをどうすることもできず、失礼なことをのたまい続ける老人を、私は非難します。いつの間にか、老人は旧式のライフルを落ろしてにやにやと笑っています。
「へっ。口ではどうとでも言える。ここの補給物資目当てで来たんだろう。この洋上ルートを選んだってことは、大方、イスタリア辺りが目的地か。ついて来い。」
なんだか、一方的に老人のペースへ巻き込まれています。
私はラノアさんの顔をまともに見ることもできず、老人の言われるまま、島の樹木が密集する繁みへとついて行きます。
少し歩くと、葉っぱと木々でカモフラージュした小屋がある、小さな広場に出ました。そこだけが円形状に木々が切り倒され、さながら、樹間の小ホールといったところです。
「あの、おじいさんは、こちらに住んでいらっしゃるのですか?」
私の問いに、老人は振り向かないまま答えました。
「ブランだよ。」
「え?」
「ブランと呼べ。ジジイと呼ばれるほどもうろくしちゃいねぇ。」
だそうです。
「それは失礼いたしました、ブランさん。それで、こちらが・・。」
例の補給基地? と尋ねかけていますと、ムシロで作った小屋の扉をブランさんがくぐるその先に、ドラム缶が並び、木箱の積み上げられているのが見えます。
答えを待つまでもありませんでした。アマデオ班長の記した洋上の補給基地は、確かにここだったのです。
小屋の奥へと入りますと、そこは以外としっかりした作りで、木製の高床の上に、ベッドや棚、レンガ製の暖炉まで備わって、隠居したお金持ち老人の、隠れ家的な雰囲気すら漂っています。
「わぁ。素敵なお部屋ですね。」
ブランさんは壁の台座にライフルを掛けますと、身を投げ出すようにして椅子に座り、再び私達を睨みます。と言うより、当人に睨むつもりはないのかも知れません。ただ、普段の視線がきついだけのような。
「で、お前達はいったいなんだ。補給の要請は入っていない。いきなりやって来て上陸されても、空賊としか思えないぞ。」
と言いながら、すでにお家(うち)の中へまで招き入れているわけですから、度量が広いのか、細かいことをあまり気にしないのか、よく分からない御仁です。
ブランさんの目が、そこらへ適当に座れ、と言っているようです。座れ、と促されても椅子はブランさんの座っている一つしかありません。仕方なく、私はベッドの縁に座り、ラノアさんは壁へ背をもたせかけ、部屋の真ん中で立ちっぱなし、という状況を逃れます。
私はどこまで話そうか、少し迷いました。しかし、このブランさん、かなり鋭い洞察力をお持ちのようです。なまじ中途半端な嘘をつくと、いらぬ疑惑を招きかねません。
私は順を追って、すべて打ち明けることにしました。
竜嵐の到来に前兆があること。その観測データをイスタリアの気象台まで持って行き、統合する必要があること。旅路半ばで、遭難したラノアさんを助けたこと。機体に空いた穴は、空賊の襲撃にあった際のものであること。
すべてを聞いたところで、ようやく、ブランさんの表情を覆っていた険しさが、わずかに和らいだようです。
「なるほどな。竜嵐の前兆、か・・。あの嵐は、ひどい。」
ブランさんの目が遠くを見つめます。彼もまた、竜嵐に慄き、苦しめられた経験をお持ちなのでしょうか。
「いいだろう。燃料と食料は好きなだけ補充しろ。海を渡りきれば、イスタリアはもう目の前だ。」
「ありがとうございます、ブランさん!」
面と向かって言われたお礼が恥ずかしかったのでしょうか。ブランさんは、ふい、と横を向いてしまいます。そのあたりの仕草が、ちょっとかわいらしいご老人でもあるのです。
「ところで、この補給地には、ブランさんお一人、でしょうか。」
「ああ。」
「ずっと?」
「そうだ。悪いか。」
「いいえ、悪いとは申しませんが・・、寂しくはありませんか。このような絶海の孤島に、お一人なんて。」
「寂しかぁない。好きでこの島にいるんだ。潮騒を聞き、雲を見つめているだけで、一日はすぐに過ぎる。」
「そうなんですか。」
「イーミャといったな。お前はどうなんだ?」
「一人でいることについて、ですか?」
「ああ。」
「うーん。私はちょっと、寂しく感じるかも、ですね。空も、乗ってきたあの機体も好きですけれど、一人きりで飛ぶことを考えると、寂しくて。なぜブランさんは、この島の常駐を選ばれたのです?」
「・・・・・。」
唐突に、ブランさんは口を閉ざしてしまいました。何か、彼の心の触れてはいけない部分に触れてしまったのでしょうか。
降りた沈黙へ静かに分け入るようにして、ラノアさんが言います。彼はいつの間にか、壁際の棚の前へ立っています。
「あんた、海軍にいたのか。階級は、元大佐・・。予備役になったとしても、こんな島でくすぶる必要もなさそうだが・・・。」
ラノアさんが見ているのは、小さな金属プレートに文字の刻印された軍の認識票、いわゆるドッグタグというやつです。名前や血液型以外に、階級まで記されているというのも珍しい。海軍ではそういうものなのでしょうか。
ブランさん、明らかに不機嫌な様子で応えます。
「ふん。予備役としてどこへ引っ込もうが、俺の勝手だ。そもそも、俺の素性を探る以前に、お前達の関係だってまだ明かしていないだろう。」
「私達の関係?」
私はラノアさんの方を見て、再び顔の赤くなるのを感じます。だ、男女の関係とかなんとか、そんな勘ぐりをブランさんがしていると、思い出したからです。
「関係って、お話しした通りですよ。ラノアさんの機体が墜落して、砂漠で遭難し、そこを通りがかった私が助けた。イスタリアまでお連れするという約束で、お乗せしたんです。」
「それだけか。」
「それだけです。」
「もっとあるだろう。」
「も、もっとって、何があるというんです。」
「野郎と年頃の娘が荒野で、あるいは凪いだ海の上で、二人きりの夜を過ごすんだ。一夜の過ちから始まる仲もあるってことよ。」
このおぢさまは、どうもその手の話が大好物のようです。貫禄のある相好を崩し、楽しげに私とラノアさんの仲を邪推してくるのです。
「過ちなんてありません。きれいな関係のままですったら。」
「男女の仲が汚いとでも言うのか、お前は。はっ。うぶな小娘には分からんものかなぁ。世界の半分は、愛で作られてしかるべきなんだぜ。」
「別に、愛情そのものを汚いと言うつもりはありませんけれど・・。二言目には、その、肉体的な・・・。」
もにょもにょ言う私へ、ブランさんが言います。
「ぁあ? 何だって? 聞こえないぞ。」
「だから! に、肉体的な関係という話へ、もって行こうとすることに反発しているんです。だいたい、私達は二人きりじゃありませんよ。」
「なに? 三人目がいるってのか? どこに? 三人も乗ってるようには見えなかったぞ。」
「三人目と申しますか、二人と一羽といいましょうか・・・。」
「一羽?」
噂をすれば。小屋の上空からかすかな声が落ちてきます。
「・・ーい。イーミャー。どこだー。いきなり隠れんなよ。」
私は窓から身を乗り出すと、大きく手を振って応えます。
「バルトー! ここです、ここ。降りてきてください。」
空中を旋回していた黒い影が、ハヤブサのように降下してきて窓から飛び込み、テーブルの上へときれいに着地します。
「イーミャ。いきなり姿が見えなくなるから、心配したんだぜ。」
「心配したというより、一人ぼっちになって、不安だったんじゃないですか。」
「そ、そんなんじゃねぇ! ったく。で、何なんだよ、この部屋は。見たとこ、誰か住んでるみたいだが。」
バルトから見て、ブランさんは死角に入っているようで、部屋の様子を見渡しながらそんなことを言います。
「ほぉ。こいつは珍しい。シャベリガラスか。」
ブランさんの声に、バルトが驚いて振り向きました。
「な、なんだ、お前は。」
私はバルトへ、ブランさんを紹介します。
「お前、とは失礼ですよ。この方はブランさん。補給基地を管理されているんですよ。それで、ブランさん、この鴉がバルトローベです。バルト、とでもお呼びください。」
ブランさんは、まじまじとバルトを見つめながら、
「ふぅん。なるほどなぁ。こいつがその、三人目ってやつか。確かに、シャベリガラスが一緒じゃあ、おちおちヤってられんな。」
ヤるって、いったいナニをですか。・・と、失礼。
バルトは、私とブランさんを交互に見比べて、不思議そうな顔をします。
「あん? なんのこった?」
「なんでもありません。バルトがいてくれてよかったという話をしていたんです。」
「俺がいて? そ、そうか? なんだか照れるが、まぁ、よかったっつーなら、いいんだけどよ。」
ブランさんを前にしていると、素直に照れてくれるバルトが、このときばかりはかわいらしく映るのです。
ラノアさんが部屋の戸口へ向かいながら言います。
「日の暮れる前に燃料を補給しておきたい。いいか?」
ブランさんはうなずきます。
「構わねぇよ。ポンプはそこらに転がってるのを使え。」
私も立ちあがり、
「私も手伝いますよ。」
とついて行きかければ、
「いや、イーミャは休んでいろ。一人で十分だ。」
断られてしまいました。
「でも、ラノアさん、傷がまだ・・。」
「リハビリ代わりだ。少し動いた方がいい。」
「そうですか。では、あまり無理はなさらないように。」
タフな人です。かなりの傷だったんですけれど・・。
ラノアさんが燃料の入ったドラム缶を傾けて運び出したその気配を見計らったかのように、沈黙していたブランさんは私へ言いました。なぜか、声の調子を落としています。
「お前、本気か?」
「なにがでしょう。」
「あの男、ラノアといったか。あいつを連れて飛ぶ気かってことだ。」
「それはもう、お話ししましたように、遭難されていたところを、救助しただけで・・。」
「そうじゃねぇ。あいつ、ベネヴァントの空軍だろうが、現役の。かなりの戦闘訓練も受けている。お前、よく殺されなかったという話をしているんだ。」
「それは・・・。実は、一度殺されかけたと申しましょうか・・。」
「だろうな。あいつを乗せて飛ぶのはやめろ。」
バルトもブランさんに同調します。
「おっさんもやっぱ、そう思うよな。あいつ、危険なんだって。イーミャ、今からでも考え直した方がいいぜ。」
ブランさん相手におっさん呼ばわりをするバルトですが、当のブランさんはあまり気にしていないようです。
私は二人に向かい、慌てて首を振りました。
「いえ、あの、殺されかけたというより、そういう振りをされただけでして、実際にラノアさんにその意図はなかったんです。」
ブランさんが問い詰めるような視線を向けてきます。
「意図はなかった? どういうことだ。」
「弾を抜いた拳銃を私に向けたんですよ。危害を加えるつもりなんて、彼にはなかったんです。」
「だから、信用したってのか?」
「・・・はい。」
「甘いな。空の銃で言うことを聞けば、それでよし。例えそうでなくとも、実は弾丸が入っていなかったと見せることで、安心させることはできる。その場合、油断させる、といった方が妥当かも知れないぞ。」
「油断て、此の期に及んで、そんなことをする・・・。」
「意味がない、か? 空軍という身分すら詐称した、スパイという可能性だってあるだろう。」
「え・・・?」
「あんたが、竜嵐に関する重要機密を運んでいると、どこかで察知したのかも知れん。」
「そんな、まさか・・・。」
「まさか、と思うようなところへ入り込んでくるのがスパイってもんだ。」
「・・・・。」
淡々と語るブランさんの口調は、信じたくないと思う私の心の隙間へ、ぬるま湯のように入り込んできます。
ラノアさんがスパイ・・?
そんなことが、あるのでしょうか。砂漠であの場所を通りかかったのは、まったくの偶然です。偶然のはずです。
私の表情が氷のように硬くなるのを見て、ブランさんは背もたれに身体を預けます。
「ま、一つの推論だがな。あんたがそれでも奴を連れて行くというなら、俺もこれ以上、口を挟む気はない。」
言うだけ言っておいて、ずいぶんと無責任な話ではありますが、ブランさんの言ったことが真実かどうか。それは確かに、推測の域を出ません。
そういうことも、あるかも知れない。
それだけのことです。
「・・・連れて行きますよ。私の信念に、変わりはありません。ラノアさんは、いい人です。」
「いい人、か。あんたにそうまで言われれば、あの野郎も幸せだな。」
「・・ブランさん。なぜ、そのような話を私に?」
「人を惑わせるような話を、ってことか。」
「はい。」
「惑わせるつもりはない。可能性の話だ。世界はすべて、潜在的な可能性に満ちている。数分前まで話を交わしていた友人が、目の前で冷たくなっていることだってある。逆巻く海へ、なすすべもなく投げ出されることだってある。最悪の結末を、忘れるなってことだよ。」
「それは、杞憂じゃありませんか。悲しいことはどうしたって起こるんです。それを畏れていては、損をする気がしてなりません。」
「損? 何のだ。」
「人生の、です。」
「畏れているんじゃない。頭の中にこびりついて、離れないのさ。毎晩、寝るたびに思い出してみろ。嫌でも、その最悪の可能性ってやつを考えずにはいられなくなる。」
「あるんですか、そんなことが。ブランさんには。」
「・・・。」
ブランさんは、私をまっすぐに見つめながら、沈黙しました。
ある、と、その目は答えているかのようです。
「もしかして、こんな絶海の孤島にお一人でいるのも、そのことが原因、でしょうか。」
今度は、私がブランさんを見つめる番です。
張り詰めた空気の中、ブランさんがふと、身を引いた気がしました。
「・・・ああ、そうだよ。原因がある。あんたも不思議な娘だな。会ったばかりというのに、こんなことを話す気にさせるんだからな。」
ブランさんは、窓の外に目をやりながら語ります。
「日暮れどきだ。夕陽がいやにまぶしい日だった。俺の指揮する艦が、敵の艦隊と出くわした。輸送物資を満載し、島嶼部に入る矢先だ。完全に不期遭遇だった。積荷を捨てて、全力で逃げるのがセオリーだが、警報を打つ間もなかった。魚雷と砲弾の洗礼を受けながら、気がつけば機関損傷、舵もやられ、轟沈は目前だ。俺は艦と命運を共にするつもりで、総員退避を命じようとした。そのとき、至近距離で炸裂した砲弾の爆風で、俺はブリッジから海の上へ投げ出された。薄れる意識の中、自分の艦が沈みゆくのを見るのは、なんとも嫌な気分だったぜ。多くの将兵を腹の中に抱えたまま、海底へと奴らを引きずり込む巨大な海獣のようにも見えた。」
ブランさんは、私に向き直って続けます。
「夢に見るのはそのときの光景だ。夕陽を背に、艦首をまっすぐ空に突き立て沈むそのシルエットが頭から離れない。部下達を飲み込んだ海を憎めばいいのか、こちらにしこたま砲弾を撃ち込んできた敵を憎めばいいのか、俺はいまだに分からない。ただ、俺が助かり、奴らが死んだという結果だけが、俺を苦しめる。いや、当然の報いかも知れねぇ。思い悩み、苦しんで死ねと、そんな奴らの無言の圧力を、俺は背負うべきなのかも知れない。」
「無言の圧力・・・。あの、ブランさん、差し出がましいようですけれど、部下の方々は何も、そのようなことを思っていらっしゃらないのでは・・・。戦争というものの残酷さに、晒されてしまっただけなのですから。誰の責任という話では、もはやないような気がします。あなたばかりの責任というわけじゃ・・。」
「いいや、イーミャ。違う。そんなあやふやな結論じゃ、誰もうかばれねぇんだよ。艦長は俺だった。俺が、船に乗っていた奴らの命、そのすべての責任を負っていたんだ。奴らを死なせてしまった俺は、許されちゃいけない存在なんだよ。」
ブランさんを見つめていると、なんだか、底の知れない穴をのぞいているような、そんな気になってきます。慰めや同情の言葉など遥かに及ばない、孤高の自罰とでも申しましょうか。そこに救いはないように見えますけれど、弔い、という言葉をブランさんに見出しさえすれば、それは神聖にして不可侵な日々を一人送られていると、考えることもできるのです。
潮騒を聞き、雲を見つめているだけで一日は過ぎるというブランさんの言葉は、おそらく本当のことでしょう。船と共に沈んだ多くの盟友を悼むためだけにある、静かな日の巡り。
ブランさんが一人でこの島にいる理由の片鱗を、私は感じました。
「・・・ブランさん。それでも、あなたがここを、この場所を選ばれたことには、意味があるような気もします。許すとか、許されるとか、お互いにいがみあったり、敵意を抱いたり。そんな人間の諸々をそっくりそのまま包み込んでしまう広さが、あると思うのです、この空と海には。許し、という言葉が当てはまらないのなら、ただ、あるがままを認められるという、ここはうってつけの場所なのだと。」
「認められる、か・・。何かに認められたいという感情は、とっくの昔にどこかへ置き忘れてきたはずなんだがな。」
少し寂しそうな顔で、ブランさんは笑います。
ポート・ラウラ近郊の整備員、オーウェンさん。空賊のキャプテン・グラシアノ。そして、孤高の島守、ブランさん。立場の違う皆さんですが、なぜか、笑う横顔がそっくりです。寂しさすら、忘却のどこかへ置き忘れているような、そして、何より気高い方々なのです。
それまでじっとしていたバルトが、その場で大きく伸びをするように、羽を広げます。
「へっ。人間てのは、つくづく面倒くさい生き物だぜ。責任とかなんとか。手前の身ひとつ、空を飛ぶためだけの責任を果たせれば、それでいい俺らと違ってな。」
「俺らって、もしかして、私も入ってます、そこに?」
「おうよ。イーミャだって、鴉と似たようなもんだろ。空を飛んで日がな一日、雲やら地上やらを眺めて暮らしてるんだ。」
「人を鴉扱いしないでくださいよ。私はれっきとした人間なんですから。」
「飛びすぎて、頭のネジが何本か抜け落ちちゃってるだろ。敵国のパイロットなんかを乗せて、平気で飛び回るくらいなんだから。」
「失礼な。ネジはちゃんとしまってますったら。」
「どうだか。」
ブランさんは、私とバルトのやり取りを、なんだか楽しそうに見つめています。
「くくっ。そのシャベリガラスも、言うねぇ。気に入ったぜ。お前、この島に残らないか。」
ブランさんにそんなことを言われ、冗談じゃないという風にバルトは羽を振ります。
「まさか。こんな島に爺さんといたって、退屈するだけだろーが。俺はイーミャと飛んでる方がいい。」
「はははっ。違いない。イーミャ、バルト。今日はここに泊まれ。あのラノアって野郎もだ。そろそろ日も暮れる。明日の朝、発てばいいだろう。」
一人、この島に居るブランさんですが、人嫌いというわけでもないのでしょう、そんなことを言います。
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えまして。」
夜は過ぎます。
暖炉の小さな火を、私、バルト、ブランさん、そしてラノアさんと囲む、不思議な夜でした。しかし、嫌な気はちっともしないのです。どこか厭世的で、静かに、ひっそりとこの世の片隅で出会った旅人達という、緩やかな連帯感に似たものを私は勝手に感じるのでした。
夜が明けると、昨日の曇天が嘘のように晴れ上がった、雲ひとつない快晴です。早暁の太陽が東の水平線から顔を出し始めていました。
「ブランさん。」
私は、離水の準備をしながら、操縦席に片足を突っ込んだ姿勢でブランさんを見ます。
「もし、よろしかったら、私達と一緒に来ませんか。」
そのとき、なぜ私はそんなことを言ったのか、自分でも分かりませんでした。ただ、この島に一人、自分を罰するかのように暮らすブランさんを見ていると、もう贖罪は済んだのではないか、ふと、そんなことを思ったからです。
「・・・。イーミャ、答えは分かっているだろう。俺はここを離れられない。なに、自分で選択したことだ。納得してここに居る以上、同情なんていらねぇよ。」
「同情などでは・・・。ただ、少し寂しそうにされているような気がしたものですから。」
「ふん。場違いな客の突然の来訪で、そう見えただけだ。寂しがってなんかいねぇよ。」
「余計なお世話、というところですかね。」
「そういうことだ。」
クランクを差し込みながら、ラノアさんが言います。
「イーミャ、準備できたぞ。回すか?」
「ええ。」
私とラノアさん、二人でクランクを回し、エンジンをスタートさせます。
砂に埋もれたフロートが、少しずつ水の中へと滑り落ちて行きます。
「本当に、良いのですね。」
私の言葉に、ブランさんが微笑みます。
「たまには、寄って行け。騒がしいのも悪くない。」
操縦席からひょこっと頭を出し、バルトが大きな声で言います。
「じゃあな、爺さん! 勝手に死ぬなよ。」
「まだ十年は死なねぇよ!」
スロットルを前に押し倒し、エンジンの回転数が一気に上がります。うねりのある海上の、丘のような波を乗り越えながら速度を増したエウラスは、盛り上がった波で放り出されるように離水しました。
眼下に見える島は見る間に小さくなり、まるで海上に浮かぶ小さな筏のようです。ブランさんをあの島に一人残すと、なんだか後ろ髪を引かれる思いです。しかし、あの人の信念に横槍を入れるわけにもいきません。ブランさんの望んだ居場所を、私に奪う権利なんてないのですから。
私は機体を東へ向けると、一路、イスタリアを目指します。
「ねぇ、バルト。」
「なんだよ。」
私の膝の上で丸まっているバルトに話しかけます。
「バルトは、シャベリガラスのお友達がいなくて、寂しくはありませんか。」
「は? なんの話だ、いきなり。」
「いえ、小さな島に一人きりで居るなんて、どんな気持ちなのだろうと。」
「あの爺さんのことか。さぁな。さすがに話し相手がいないと、つまらないこともあるんだろうな。だから、俺に残れとか言うんだろ。でも、いいんじゃねぇの?」
「いいって、何が?」
「一人でいるのがってことだよ。あの爺さんも、いろんなもん抱え込んじまったんだろうからな。人間一人で背負うには、重すぎる荷ってやつをな。だから、疲れちまうんだよ、人と人との間にいることが。一人でいたいっていうなら、一人でいさせてやれってことさ。」
「やっぱり、そうですよね・・・。」
「やっぱりって、お前も最初(はな)からそう思ってたんだろ。」
「それは思っていましたけれど、でも、表面上、孤独を欲しているように見えても、その内心、寂しいってこともあるじゃないですか。」
「知らねぇよ。そこまで察してやったところで、誰も幸せにはならねーって。」
「そんなものですかね。」
「そんなもんさ。・・同類のダチがいなくて寂しくはないかって、それな。そら、周りじゅう人間だらけだし、人ってやつはつくづく馬鹿だと思うこともあるが、まぁ、あれだ。一応、相棒もいるわけだし。寂しくはねーよ。」
「相棒って、もしかして、私のこと、ですか? ですよね。」
にや、と笑って、私は膝の上のバルトへ覆いかぶさるように顔を近づけます。
「そ、そうだよ。おい、イーミャ、近いって。前を見て操縦しろ、前を。」
「ふふふ。ひねくれ者のバルトも、私は相棒と認めずにはいられないってことですねぇ。飼い主、とは見ていないんですね。」
「か、飼い主だぁ? 誰が飼われてるってんだ、誰が。俺は誰にも飼われてる覚えなんてねぇぞ。」
よく言います。
お腹が空くと、餌をよこせと騒ぎ立てるのはどこの誰だというのでしょう。
「そうですね。飼われているとは語弊もありましょう。相棒に、餌を貢がせている、くらいにしておきましょうか。」
「お、おうよ。」
「その関係をして、相棒と呼べるのか微妙なところでもありますが。バルトがいてくれるから、私も寂しくないのは確かです。」
「・・・へっ。」
照れているのかふてくされたのか、バルトは顔を羽の間へ埋めるようにして、丸まってしまいました。
ふと、私は後席に座るラノアさんの方を振り返ってみます。
目が合うと、
「なんだ。」
ラノアさんが言います。
「い、いえ、別に。失礼しました。」
「?」
この人は、いったい、寂しいという感情を持つのでしょうか。
ベネヴァント空軍のパイロット、というところまでは知りましたけれど、故郷はどこで、家族、ご友人のこと、あるいは、・・恋人、ですとか。彼や彼を取り巻く諸々のことを、私は何も知らないのです。寂しげな表情のようにも見えますけれど、寂しがっているのか、それともまったく別のことを考えているのか、その顔からはうまく読み取ることができません。
唯一分かっているのは、空が好きで、飛ぶことが大好きだというところでしょうか。エウラスを初めて間近で見たときの、少年のような彼の目つきが、それを物語っているのです。
「ラノアさん。」
私はもう一度、振り返って言います。
「イスタリアに着いたら、どうされるおつもりですか。」
彼にとって、イスタリアは敵国の首都。敵の包囲網のど真ん中へ潜入するようなものです。
「しばらく潜伏する。」
「潜伏といっても、危険じゃありませんか。ベネヴァントの人間だということが知れれば、ただじゃすみませんよ。」
「いや、かえって、中途半端な郊外や、国境線付近をうろうろする方が危ない。」
「じゃあ、ベネヴァント領まで送ります。」
「迎撃機と対空砲火の餌食だ。人間の多い、首都のど真ん中である方が、むしろ隠れるには都合がいいんだ。」」
「むむ・・。木を隠すには森、ですか。」
イストリア王国とベネヴェント公国、幸いにしてと申しますか、あるいは不幸にしてと申しましょうか、人々の身体的外観に、ほとんど違いは見られません。私が、当初、イストリア王国の郵便機パイロットだと、ラノアさんの言を信じたのも、それゆえなのです。
同じルーツを持つ人々が、長く争い続けるというのは、それこそ、歴史の皮肉というものでしょうか。国を境に砲火が飛び交う様子を見て、馬鹿だ何だとおっしゃるバルトの言葉もあながち間違ってはいないのかも知れません。
しかし、それにしたって。
「って、簡単に潜伏なんてできるものなんですか? 何か、つてはあるんですか。」
「ない。行けばどうにかなるだろう。」
「どうにかって・・。」
この人、時々、考えているようで、考えていないのです。バルトをキャプテン・グラシアノから救ったときもそうですが、結構、行き当たりばったり的なところがあります。もちろん、勝算あってのことなのでしょうが・・・。
「私も力になりますから。必要なことがあれば、言ってくださいね。」
「ありがとう、イーミャ。だが、それは無用だ。むしろ、何もしてくれない方がいい。」
「でも。」
「手助けしてくれた場合、イーミャにも嫌疑がかかる。スパイの入国を手引きした、といった類のな。それは避けたい。」
「そうですか・・・。」
「ここまで乗せてくれただけでも感謝してるんだ。もう十分だ。」
「・・・。」
沈黙に塞ぐ私を見上げて、バルトが言います。
「何もしないでいいっつってんだから、何もしないでいいんだよ。何もしない方がいい。ラノアの野郎、一人でどうにかするって言ってるんだから。一人で飛ぼうってときに、何かされるとむしろ、邪魔なんだ。」
「飛ぶって、バルトはそうかも知れないですけれど。」
「同じだよ、そこは。鳥も、人間も。」
「そういうものですか。」
「そういうもんだ。」
そうとまで言われてしまうと、あとはもう、できることがありません。私が何もなかった素振りをすることが、ラノアさんにとっては一番ありがたいのかも知れません。
「イーミャ。」
後席から、ラノアさんが呼びかけます。
「イスタリアまで、あと二時間ほどだ。そろそろ、哨戒中のイストリア機と出くわすんじゃないか。」
「ええ。さすがに、首都ですからね。警戒網は十重二十重と・・。」
言っている間に、海上に艦艇が見えます。私は機体進行の軸線をずらし、つまり、魚雷や爆弾による攻撃の意思がないことを示すために、ゆっくりと進路を変えてエウラス胴体と翼にペイントされた、盾に獅子、イストリア国籍マークが海上からも見えるように旋回します。
艦艇上の水兵さんも気づいてくれたようで、幾人かが帽子を振ってくれます。
「問題なさそうですね。このまま行きましょう。」
イストリア王国の首都、イスタリアは、海に面した巨大な港湾都市です。天然の良港として古くから交易船が行き交い、人の集まるにつれて自然と成長した港町、というわけです。
イスタリアへ近づくに従って、海上には船が多くなってきました。哨戒機も飛来して無線で私達の所属を問い正したりもするのですが、こちらが自軍の気象観測機ということもあってか、それほどぴりぴりした空気は感じられません。しかも、旧式の複葉機となりますと、さほどの脅威とみなされていないのでしょう。通り一遍の問答で哨戒機は去って行きます。
「順調ですね・・。」
「だな。順調すぎるくらいだ。」バルトが言います。
「なぁ、イーミャ。」
「なんですか。」
「こうやってさぁ、万事が滞りなく進む時に限って、俺達、ひどい目に遭う気がしないか?」
「そうですか? それは考えすぎというものでしょう。うまく行くときはうまく行くんです。」
「そうかぁ? そうやって油断してると、足元をすくわれるんだよなぁ、だいたい。」
「油断なんてしてませんたら、失礼な。このまま、イスタリアの港湾部まで飛んで着水するまで、気は抜けませんよ。」
「だったらいいんだけどな・・。」
「何を不安がっているんです、バルト。」
「いや、どうにも、嫌な予感がするんだが・・。」
「あはは。気にしすぎですよ、バルト。いちいち嫌な予感というやつにとらわれていたら、はげちゃいますよ。」
「はげ・・! 誰がはげるかってーの。」
言いながらも、バルトは羽根で自分の頭をしきりと撫でるのでした。
私とバルトが前席でそんな掛け合いをやっておりますと、後席でぽつり、ラノアさんがつぶやきます。
「鱗雲か・・・。」
私達は、
「え?」
「なに?」
と、同時に振り返ります。
「ラノアさん。今、何とおっしゃいました?」
「鱗雲が出ている。7時方向。」
「7時・・?」
私はさらに体をひねって、機体の左後方、そのはるか先を、にらむようにして見つめます。
確かに、うっすらとではありますが、鱗雲が空の一部へかかっていました。機体の挙動から見て、横風や向かい風は吹いていません。海上に停泊中の駆逐艦に掛かる旗は、西から東へ向かってはためいています。つまり、西風、イスタリアに向ける風・・・。
私は操縦席の横に取り付けられた、気圧計を確認しました。晴天の部類に入る、高気圧を示しています。海上の風も穏やか、いたって平穏な天候なわけですが・・・。
「データが足りないですね。この辺り、数日来の気象データが分かれば、もっと・・。」
後席から、ラノアさんが言います。
「どうした、イーミャ。何かトラブルか?」
「いえ、まだ、トラブルと決まったわけではないのですが・・・。トラブルの前兆と言いましょうか。」
「前兆? なんの前兆なんだ。」
ひょこ、と顔を出したバルトが、ラノアさんへ答えます。
「竜嵐だよ。」
「竜嵐の? しかし・・。」
ラノアさんはあらためて、周囲の空を見渡します。雲も、先ほどの鱗雲を除いてほとんど見えず、風も穏やか。快晴状態です。こんなときに嵐が来るのか、といぶかしむのも当然です。
しかし、鱗雲の出方といい、何か、似ているのです。前回、ロドリア城塞を襲った竜嵐と。
「どうするんだ、イーミャ。」緊張した面持ちでバルトが聞いてきます。
「イスタリアの気象台へ急ぎましょう。そこでなら、この辺りの気象に関する情報を入手できるはずです。」
私はスロットルを前に押し倒し、エンジン回転数を全開の一歩手前まで上げました。
後席から、ラノアさんが言います。
「イーミャ、本当に嵐が来るのか。」
「まだ、分かりませんけれど、あの鱗雲の出方、竜嵐の予兆であるような気がしてならないんです。あの嵐の特徴は、突然、局地的に気圧が下がり始めるんです。竜が不意に空中で目を開けたかのような、低気圧の中心を竜の目とはよく言ったものです。それがいきなり現れるものですから、今まで誰もその到来を予測できなかったんです。」
海岸線の方に目をやりますと、人々の往来が遠目に見えます。トラック、荷馬車、徒歩で歩く人・・・。嵐が来るかも知れない、などという雰囲気は微塵も感じられません。
前方に、巨大な港湾が見えてきました。
多くの船舶、艦艇が行き交うそこは、イスタリア、海の玄関口です。私は高度を徐々に落とすと、船の合間を縫うようにして着水しました。もやい綱を結ぶのももどかしくエウラスを固定しますと、桟橋をラノアさんと共に走ります。
と、大事なものを忘れてました。
私は急いでエウラスのところへ戻ると、観測原簿を引っ張り出して懐に入れます。これを忘れちゃいけません。
肩に乗ったバルトが言います。
「なぁ、イーミャ。その気象台ってのはどこにあるんだ。」
「恐らく、この近くのはずです。アマデオ班長から聞いたところでは、港を望む高台にあると・・・。風見鶏が目印になっているとか。」
「近くのはず、つったってなぁ。」
困惑気味なバルトですが、確かに困惑するのも分かります。港の周りを埋め尽くすような倉庫や港湾関係の建物、荷揚げ、積み込み中の貨物船、行き交う人々・・。どこに何があるやら、という非常な盛況ぶりを見せているイスタリア港なのです。
「俺、ちょっと飛んで様子を見てくる。」
「ありがとう、バルト。頼みますよ。」
バルトが海風に乗って、空高く飛翔します。
「ラノアさん、とりあえず、あちらの方へ行ってみましょう、丘になっているようですから、もしかしたら・・。ラノアさん?」
振り返りますと、すぐ後ろを走っていたラノアさんがいません。どこへ行ってしまったのでしょう。
もしかして、イスタリアに着いたら潜伏するというあれ、すでに実行されてしまったのでしょうか。この人ごみにいったん紛れてしまったら、もう会えることはないでしょう。せめて、お別れだけでも言いたかったのですが・・。
私は一時、喧騒の中、呆然と立ち尽くしてしまいます。
と、
「イーミャ。」
背後から突然、声を掛けられます。
「ラ、ラノアさん! どこへ行ってたんですか。もう、姿をくらましてしまったのかと・・。」
「分かったぞ。」
「な、何がです。」
「気象台の場所だ。こっちだ。」
「あ、え? は、はい。」
私が人の多さに気圧され、なおかつラノアさんがいなくなってしまったと自失している間に、気象台の場所を確認していたようなのです。
私はラノアさんへ走って追いつきながら言いました。
「ラノアさん。あの、どうやって気象台の場所を?」
「知ってそうな奴に聞いた。」
「あ、なるほど。」
しかし、気象台の場所を知ってそうな奴、とは、どうやって見分けたのでしょう。このあたり、ラノアさんの得体の知れなさ、その根源なわけです。
倉庫の間を抜け、坂を登りますとその先に、風見鶏のついた建物が見えてきます。古風なレンガ造りの建物で、なかなか瀟洒な雰囲気をかもしています。
高い塀に囲まれたその施設は、門のところにも守衛の方が三人立っていて、かなり厳重な警戒が敷かれているようです。それも当然といえば当然なのですが、気象情報は軍用機や艦艇の航路、作戦実行の可否、軍隊の動向を左右する重要な要素です。ロドリア城塞のような辺境と違って、さすがに首都ともなれば、気象台の警戒も厳重になるというものでしょう。
果たして、中へ入れてくれるものか・・・。
「イーミャ。」
と、私の肩へ降り立つバルト。
「気象台、こんなところにあったんだな。よく場所が分かったな。俺もたった今見つけたところなのに。」
「ラノアさんが場所を確認してくれたんですよ。」
「ラノアが?」バルトは、ちら、とラノアさんの方を振り返ります。
「それより、ちょっと静かにしていてくださいね、バルト。中へ入れてもらえるよう、交渉しますから。」
守衛さんの方へ近づき、一応軍人さんらしく、敬礼してみます。
「ロドリア城塞所属、気象観測班付きのイーミャ・バスティアネリと申します。機密事項を伝達するよう申し付けられ、参りました。」
中年のいかつい守衛さん達が、私とラノアさん、そして肩のバルトを順に見つめます。一人が、設置された構内電話で一言、二言確認し、応えました。
「そのような人間が来る予定はないそうだ。去れ。」
去れ、ときましたか。しかし、ここで引き下がるわけには行きません。もし、竜嵐が来るとなると、多くの人々の命に関わることなのです。
「来訪の予定がないのは、その通りです。ロドリア城塞、イスタリア間の通信網は寸断されていますから。あの、とにかく、気象予報に関する重大な情報でして、これを気象台の方々へお伝えしたく、参りました。」
気象予報、と聞いて、守衛さん達の顔色が変わります。
よかった。通してくれそう・・・。
「お前、天候に関する事項は軍の機密指定だ。どうしてそんな情報をお前が持っている。」
おや?
「い、いえ、ですから、ロドリア城塞で得た情報を持って・・。」
「ロドリア城塞・・? ロドリアだと?」
さっきから、そう言ってますったら。なんだか雲行きが・・・。
「あんな辺鄙なところから、どうやってここまで来た。空路も海路も、ベネヴァントとの交戦で分断されている。」
「それは、警戒網の抜け穴を通ってきたと申しましょうか・・・。」
「お前、怪しいな。だいたい、その肩の小汚い鴉はなんだ。どうしてそんな鳥を連れている。」
小汚い鴉、と言われ、私は反射的にバルトの嘴を指でつまみます。彼のことですから、絶対、何か言い返すに決まっています。
「これは、気象観測に使用する鴉です。観測用品の一つです。」
用品呼ばわりされ、さらに、もがが、と何か言おうとするバルト。ここは黙っていてくださいってば。
「観測用品だか何だか知らないが、そんなものを持ち込む許可はできない。一時、拘束させてもらう。」
「え? 拘束って。」
守衛氏、おい、憲兵を呼べ、と部下に伝えています。
それはまずいです。こんなところで、拘束されている場合じゃありません。
ど、どうしましょう。
「イーミャ。」
バルトのとまった肩と逆の耳元で囁くのは、ラノアさんです。
「ここまでみたいだ。助けてもらった恩は忘れない。首尾、うまく行くことを願ってるぞ。」
「え?」
と、私が振り返る間もなく、ラノアさんは駆け出したかと思うと、気象台の塀に取り付いてよじ登ろうとするではありませんか。
守衛さん達が目の色を変えて、ラノアさんへ殺到します。
「貴様っ! 何をやっている!」
呆然と、彼らを見つめる私へバルトが言います。
「おい、イーミャ! ぼけっとすんな。今の内に中へ入るんだよ! あいつが、囮になってくれたんだ。奴の行為を無駄にするな。」
「あ・・。」
囮。
確かに、突然、塀を乗り越えようとする暴挙に出たラノアさんを目にし、守衛さん達は全員、そちらへ駆け出しています。気象台の敷地へと入るなら、今を置いて他にチャンスはありません。
どうか、捕まりませんように。
私はそう念じてから、門の内へと素早く入ります。
イスタリアで潜伏しようとするラノアさんとは、いつか、お別れしなくてはならないものでした。けれど、こんな唐突にその時が来るなんて、思ってもみませんでした。背後の騒ぎが後ろ髪を引きます。
しかし、ここでもたもたしていたら、ラノアさんの行為を、そして好意を無駄にしてしまうのです。私は思いを振り切るようにして、煉瓦造りの建物へ駆け入ります。
気象台の中では、丸めた天気図を幾本も抱えて小走りに走る予報士の方、軍服に身を包む軍人さん、雲の様子を熱っぽく語る若い男性二人とすれ違ったり、天気のことで一杯という感じです。このイスタリア地域一帯の気象予報について、当然、軍からの情報依頼がひっきりなしにくるわけですから、忙しくもなりましょう。
私は階段を上がり、第一予報室、と書かれたそれらしい部屋に飛び込みました。中では、中央に置かれた大きな机の上に天気図が広げられ、頭を寄せ集めるようにして覗き込む技師の方々により、まさに天候の推移が議論され、予報作成の真っ只中という様子。
皆さん議論へ夢中になって、私がその輪の中へ、無理やり頭を突っ込んでも誰も気づきません。
「いや、この西風ですと、向こう三時間は晴天が続くはずですよ。雨の気配もない。」
「しかし、等圧線が若干北側へ歪んでいるじゃないですか。この影響は無視できない。」
「海水温度に変化はないんだ。無視したって構わないだろう、それぐらい。」
「そもそも、気圧計の精度が低いから、予報を外すわけで・・。」
なかなか白熱した議論みたいです。若手からベテランまで、皆、様々な意見をぶつけ合っているわけですが、その中の誰一人として、竜嵐の到来を口にする方はいません。
「竜嵐が来ます。」
私は思わず言いました。
皆さんの顔が、一斉に私へ向かいます。
「竜嵐が来るって?」
「何を根拠に。」
「そんな兆候はない。いや、だいたい、竜嵐に兆候なんてないだろう?」
「そもそも、君は誰だ。」
と、四重奏の質問が頭上から降りかかってきます。
「兆候ならあります。これは、ロドリア城塞で記録された観測原簿です。竜嵐の直前、鱗雲が発生しています。到来数日前の気圧、気温、風向きにも、一定の規則性が見られます。ご確認ください。」
「なんだって?」
技師の方々の眼鏡が光ります。彼ら根っからのエンジニア、私が何者か、なんて疑問、どこかに飛んで行ってしまったようです。
一人が原簿を慌ただしくめくり、もう一人がイスタリアの観測記録でしょうか、分厚い冊子を持ち出してきて、数値を比較し始めました。
無理やりここへ押し入ってきて、正解でした。生粋の予報士とは結局、空と風、天候のことしか頭にないんです。第三者の方々と押し問答するより、直接やる方がずっと話が早いのです。四人の眼鏡が再び、私に向けられます。
「このデータの精度は?」
「気象観測機で毎日観測したものです。上空の風や気温は、地表測定からの推測よりも精度は上です。」
「鱗雲?」
「はい。西北西の空、うっすらとですが。」
彼らは視線を交わすと、一人がうなずきました。
「出ていました。定時観測で視認しています。」
むぅ、とうなるように彼らは再び原簿を見つめます。
私の話を聞いてくれただけでも、彼らのオープンな、というより旺盛な知識欲というものを感じますが、しかし、それで内容を信じろ、というのもかなりの無茶です。なにか、もう一押しあれば・・・。
じりじりと結論を待つ私の肩で、バルトが彼らに言いました。
「ロドリアの観測班つったら、アマデオだろう。こいつはその下でやってたんだ。信用には足るはずだぜ。」
「バルト?」
なぜ、ここでアマデオ班長の名を?
と、予報士の方々、目の色を変えて私を見ます。
「アマデオだって? あいつのところで予報して(やって)たのか。」
「え、ええ、はい。」
「あの男、そうか、ロドリアなんて辺境にいたのか。アマデオの部下なら、あんたの言うことも信用に足る。」
口々に漏れるその言葉から、私の株が一気に上がったことが分かります。勝手に盛り上がる予報士の方々を前に、私はバルトに小声で尋ねます。
「どういうことでしょう。」
「アマデオの奴な、その道じゃあ結構有名らしいんだ。突然姿をくらませた、神予報士、なんてひところは言われてたみたいだしな。」
「そ、そうだったんですか。知らなかった・・・。」
只者ではないと思っておりましたが、アマデオ班長、やっぱり、すごいお人だったんですね。
「バルトはどうしてそんなこと、知ってるんです?」
「旅の猫から話を聞いたんだよ。雨の嫌いな奴でな。アマデオの予報には、よく助けられたってよ。」
「旅の猫殿から、アマデオ班長の噂を、ですか。・・・なんといいましょうか、バルト。あなたも、なかなかいかした情報網をお持ちですね。」
「おうよ。俺だって、結構顔は広いんだぜ。」
「アマデオ班長のお名前を出したこと、正解みたいですね。」
メガネの予報士、四人の結論が出たようです。
「あんた、竜嵐が来ると言ったな。」
「ええ。イスタリア付近の気象データが分かれば、もっとはっきりしたことが言えるはずです。」
「データならこれだ。」
私は、頭を寄せて机の上の冊子を見る四人に加わり、データを凝視します。
気圧、気温、風向き、雲の種類、高度、密度・・・。
やっぱりです。
私の感覚は、間違っていませんでした。ロドリアを襲った竜嵐の到来、そのときと、そっくりのデータ形を示しているのです。
「・・・来ます。」
私は断言します。
「間違いないか。」
「間違いありません。至急、警報を出すべきです。」
「・・・分かった。」
予報士の方々の中で、一番年配と見受けられるその方が、他の三人へ、宣言するように言います。
「竜嵐が来る。民間、軍、問わず警戒警報を発令しろ。河川、海浜から離れさせるんだ。低地の住民は高台へ避難。急げ。」
分かりました、台長、と声をそろえて応じる三人。
「だ、台長?」
私が驚いて尋ねますと、
「そうだよ。」
年配の眼鏡予報士さん、そんなこと、どうだっていいじゃないかとでも言いたげに背中を丸め、再び、私の持ってきた観測原簿に目を落とします。他の予報士さんは、警報を出すためでしょう、部屋から飛び出して行きます。
なんと、イスタリア気象台の台長さんだったんですね。どこからどう見ても、技術屋という雰囲気を醸しているわけですけれど。そんな偉い人には見えないと申しましょうか。
観測原簿をぱらぱらと繰りながら、台長さんは言います。
「これ、あんたが観測したのか。」
「あ、はい。ここ数年は、ですけれど。」
「そうか・・。丁寧に観測してあるな。特に、所感がいい。」
所感、つまり感想欄ということです。日々の数値データさえ入っていればそれでいいわけで、大抵の場合、所感欄は空白なのですけれど、現に、ロドリアの他の予報士さんはほとんど書き入れないわけですが、私はどうにもその空白状態が嫌で、といいますか、天候の推移や自分なりの予測というやつを書かずにはいられなかったと申しましょう。毎日の所感として、必ず書き入れていたのですが、台長さんは、そこを褒めてくれたのです。
「・・ありがとうございます。」
所感を褒めてくれたのは、アマデオ班長以来、二人目です。
「竜嵐は、我々にとっての敵だと思うか。」
「え?」
突然の質問に、私は聞き返します。台長さんは窓の外を見つめて続けました。
「この所感、悪天へ対峙する気概というものを感じずにはいられない。まるで嵐を敵とみなすかのようだ。」
「・・天候が敵、という表現、初めてです。そのような思いを感じたことはありませんでした。昔、竜嵐で父を亡くしましたが、だからといって・・・。」
「・・・。」
「敵、と呼んでしまえば、そうなのかも知れません。けれど、空は我々に敵意をもっていません。ウサギを狩る猛禽(もうきん)が、ウサギを憎んではいないのと似ているかも知れませんね。それは自然の摂理の一つです。ただ、私達が一方的に敵愾心を抱いてるだけ、と。」
バルトが囁くように言います。
「私達が、じゃなくて、お前が、だろう。竜嵐を憎んでいるのは。」
ぎょっとして、バルトを見つめ返します。
私だけが、竜嵐を敵視している・・・。敵視、という表現を自分へ当てはめることに、これほど違和感を感じたことはありません。いいえ、自覚がなかった、という方が正しいでしょう。
私が空を凝視するその心の裏には、常に空と戦うという、対峙するという気持ちが潜んでいた、ということになります。
台長さんは言います。
「空を憎むのは筋違いだ。あんたの父親は残念なことだが、嵐は何も、意図して命を奪おうとしたわけじゃない。我々の世界における、事象のひとつに巻き込まれただけなんだ。冷たいことを言うようだがな。」
だが、と台長さんは続けます。
「その事象を傍観するだけではないところが、人類の得意な悪あがきってやつだ。」
不敵な笑いを浮かべて、台長さんは私に目を戻します。
「イーミャといったな。手伝ってくれ。気象台の窓をふさぐ。廊下が水浸しになったら、たまらんからな。」
「はい!」
なんだか、おかしな台長さんです。自ら天候予測に加わったり、かと思えば、窓をふさぎにかかったり。でも、私の好きなタイプのお方です。あ、いえいえ。決して、惚れるとか、そういう意味じゃなく。人として、という意味で。
嵐が、来ます。
西方の空に黒く濃い雲が現れたかと思うと、たちまち、猛烈な雨と風が吹き荒れ始めました。煉瓦造りの気象台建屋が家鳴りを起こしてきしむほどの、凄まじい風です。前方の視界が奪われるほど濃密な雨が、イスタリアの港町を塞ぎます。
古い木造の家屋などは、たちどころにつぶされてしまうでしょう。空から密着するような低気圧が潮位を押し上げ、増水した河川と結託し水の脅威を人々へもたらします。倒れた樹木で、電線が切られたのでしょうか。停電で気象台の中は真っ暗闇となり、心細げなロウソクの火が唯一の光源となって、部屋の一隅に置かれた椅子に座る、私とバルトを照らしました。さすがに、台長さんも各所へ指示を出すのに忙しく、お前達、あとは部屋にいろ、との言葉に従って、私とバルトだけが残されました。
「やはり、来ましたね。」私はバルトへ、囁くように言います。
「ああ・・。警報、間に合ったかな。」
「直前でしたから、十分な備え、というわけにはいかなかったでしょうけれど・・。」
「それでも、高台へ逃げるとか、橋を渡らねぇってことぐらいはできたはずだぜ。そんな顔すんなよ、イーミャ。」
「そんな顔って、どんな顔です?」
バルトに言われ、初めて自覚しました。
「この世の終わり、みたいな顔だよ。真っ青だぜ。」
「そんな顔になってます?」
「なってる。思い出すんだろ、・・・親父さんのこととか。」
「ええ・・・。」
「怖いのか?」
「怖くなど・・! いえ、怖いというよりも、恐ろしいです。人に抗う術のない、何やら空からの鉄槌を下されているような気分になります。」
「竜嵐を防ぐ方法はないが、到来を予測する方法は見つかったわけだろ。お前のおかげでな、イーミャ。抗う術がまったくないわけじゃなくなったんだ。少なくとも、予測し、備えることができる。小賢しい人間の、本領発揮ってやつだぜ。」
「褒めているんだか、けなしているんだか、どっちなんです。」
「褒めてるんだよ、一応な。やったじゃないか、イーミャ。お前の理論の正しさが、証明されたんだ。」
「・・・そう、ですね。ありがとう、バルト。」
バルトの頭を撫でてあげると、気持ちよさそうに首をもたげます。このあたりの仕草、なんだか猫みたいな鴉なのです。
風による被害を防ぐため、窓には板が貼り付けられています。板と板の間にできたわずかな隙間から外を覗くと、まるで暴風雪(ブリザード)に閉ざされた山小屋にいるような錯覚を覚えます。それほどまでに、密度の高い雨が視界の先を霞ませています。叩きつけるような雨と、猛り狂う風がこの部屋を、世界から隔離してしまったような。ロウソクの火が一層、孤独感を強めます。竜嵐が来てしまった後はもう、ひたすら、通り過ぎるのを待つことしかできません。冬の寒さを耐えしのぎ、春の訪れを待つ新芽のように、です。
ロウソクの火がつきかける頃、ようやく、雨の音が遠ざかりました。廊下を大股で歩く気配があり、扉が開かれます。
「イーミャ、ここにいたのか。探したぞ。」台長さんが部屋を覗き込むなり言いました。
「探したって、ここにいろっておっしゃったのは、台長さんですよ。」
「そうか? そんなことより、来てみろ。」
「?」
台長さんに誘われ、私は廊下に出ました。さすがに、すべての窓を板で塞ぐ時間的余裕はなく、破れた窓からおびただしい雨水が入り込んでいました。バケツを何杯もひっくり返したかのような、床はびしょ濡れです。
階段を登り、気象台の屋上に出た私は目の前に広がる光景に、息を呑みました。
イスタリアの街が、水へ浸っているのです。
竜嵐のもたらした強烈な風は雲をも吹き飛ばし、嵐の到来など追憶の彼方へ、といわんばかりの青空が、天空を覆っています。陽光にきらめく静かな波面は、さながら水の都を描き出すのでした。
「見事に浸ったな。」
台長さんが、両手を腰にやりながら言います。
「ええ。あの短時間で、ここまで・・。」
「だが、警報を出した甲斐はあったようだ。警察、消防が被害状況を確認しているが、高台や高い建物に逃れて難を免れた人間が大半らしい。」
台長さんは瓶の底みたいな眼鏡を私に向けて、微笑みました。
「あんたのおかげだ、イーミャ。よくここまで、原簿を運んでくれた。嵐の予兆を、知らせに来てくれた。イスタリア気象台を代表して、礼を言うぞ。」
「・・・! あの、私・・・。」
何か言葉を返さなければ、と思うのですが、視界がかすんでしまいます。何かと思えば、自分の涙でした。
台長さんは、私の頭をひと撫ですると、
「さて、まだまだ忙しくなるぞ。被害の状況を分析せんといかんからな。イーミャ、旅の疲れもあるだろう。あんたの部屋を用意させる。しばらくここに滞在しろ。」
そう言い残し、屋上を後にします。
「ありがとうございます・・。」
ようやくそのひとことを絞り出すように言って、私は頭を下げました。
肩のバルトが言います。
「褒められたじゃねぇか。よかったな。」
「はい・・・。」
褒められたことも確かに嬉しいのですが、何より、多くの人々が難を逃れたというその事実が、私にとっては救いでした。彼らは竜の牙に砕かれることなく、逃げ延びることができたわけですから。
ふと、私は父が最期に見せた微笑みを思い出します。
あの時の笑みは、諦観からくる諦めとも、娘を不安にさせない思いやりの表情とも考えていたのですが、何やらそれらの見方が間違っていたような気がするのです。
父は私に、私の存在に、未来を託したのではないでしょうか。自分という人間を継承する私に、未来を生きて欲しいと。嵐などに負けず、逆境をはねのけて欲しいと。父の残した笑みに対する、ひとつの答えを、水にきらめくこのイスタリアが表しているかのようです。
私の思いを見透かしたように、バルトが言います。
「親父さんも、喜んでるんじゃねーの。」
「そうですね。恐らく・・・。いいえ、きっと、お父様も喜んでくださることでしょう。」
ようやく日は傾きかけ、熟したオレンジのように染まった太陽からの西日を受けながら、イスタリアはいつまでも、その輝きを失わないのでした。
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