チャプター6 誰が為の空かと

 おやぁ?

 珍しいこともあるものです。何が珍しいと言って、バルトがラノアさんの肩に乗って、何やら熱心に議論しています。

 空賊の島から脱出して一夜明け、早暁の太陽の中、海岸沿いにある大きな入り江の内側へ、着水したのが数時間前。泥のように眠って気がついた先の光景がそれでした。

 バルトは嫌いな人の肩には「絶対に」乗りません。嫌っていなくとも、気に入らない人、信用していない人の肩にだって乗りません。バルトの肩乗りは、いわば、彼にとって信頼の証とも呼べる行動なのです。

 で、そのバルト達。

「いや、違うって。目玉焼きはなぁ、固めに焼いて、野菜、スパイス、ビネガーで作ったソースをかけて食うのが一番うまいんだよ。」

「いや、そこは黄身を半熟に、岩塩と胡椒がベストだろう。」

 何の話をしているのかと思えば、目玉焼きはどうやって食べるのが一番美味しいか、で意見が割れているようです。寝起きから、ご大層な議論を交わしておりますこと。

 まだ、眠り足りない気持ちですが、太陽はもうかなり高く上がり、もうじきお昼になるという時間帯です。私はくるまっていた毛布から、もそもそと抜け出しました。

 バルトが起き出してきた私へ向かって言います。

「イーミャ。起きたのか。あのな、目玉焼きで一番うまい食べ方って、なんだと思う?」

「そりゃ、半熟にお塩だけかけて、パンにのせて食べる、でしょう。」

 ラノアさんが、にや、と笑います。半熟派として、加勢を得たというところでしょう。バルトが大げさに驚きます。

「なにぃ? イーミャも半熟野郎か。ちっ、分かってねぇなぁ、人間は。」

「何ですか、半熟野郎って。私は野郎じゃありませんよ。だいたい、そこで人間と鴉の間に線引きをしないでください。人か鴉かは関係ありませんよ。」

「そうかも知れねぇが、しかし、半熟って。なんであんなドロドロしたものを・・。」

 とか、なんとか、ぶつぶつ言うバルトでした。

 まぁ、何はともあれ、ラノアさんとバルトの距離が縮まったのは、嬉しい限りです。

 清涼な、という表現がぴったりくる晴れた日でしたが、心なし風が冷たいです。ラノアさんが立ち上がりながら言いました。

「焚き木を拾ってくる。」

「私も手伝いましょうか?」

「いや、一人で十分だろう。」

「そうですか。ありがとうございます。」

 岸沿いの砂浜をゆっくりと歩く、ラノアさんの後ろ姿が見えなくなると、バルトが私の肩に乗ってきます。

「イーミャ。」

「バルトもようやく、ラノアさんと仲良くする気になったんですね。私も嬉しいですよ。バルトにとっては命の恩人ですから、邪険にもできないでしょうし・・。」

「イーミャ!」

 私の言葉をバルトが遮ります。

「どうしたんです、そんな怖い顔をして。」

 鴉の顔に怖いも何もない、と思われましょうが、しかし、バルトの今の表情は、そう表現する以外にないほど真剣なものです。

「話がある。」

「話?」

「あいつのことだよ。」

「あいつって? ラノアさん。」

「そう。俺、見たんだ。」

「見たって、何を?」

 私は首をかしげました。

「あいつのポケットにあった手帳。昨日、あいつが寝ていたとき、ちらっと見えたんだが、さっき肩の上から覗き込んだら、やっぱりだ。間違いない。」

「間違いないって、何がですか。手帳くらい、誰だって持っているでしょうに。」

「それが、ベネヴァント空軍のものでもか?」

 敵国の空軍手帳を、ラノアさんが・・・?

 一瞬、私とバルトを取り巻く周囲の空気が、凍りついたかのように静まりました。冷静をつとめて装う私の声は、すでに震えています。

「ベネヴァントの・・? まさか・・。軍の放出品をたまたま使われているだけとか・・・。」

「軍の手帳は身分を証明する公式な書類だ。他人のものを所持しているのがばれたら即逮捕だぜ。そんなもんを、手帳用途で使うもんか。」

「で、でも、ラノアさんは郵便会社のパイロットだと・・・。」

「だから、ついたんだよ、嘘を。郵便会社のパイロットなんて、でっち上げだ。真っ赤な嘘だ。ゴザの砂漠に墜落したのは軍用機だよ。イーミャは敵の軍人を拾っちまったんだ。」

「しかし、なぜ嘘を・・?」

「俺達を油断させるために決まってるだろ。敵同士だと分かったら、途中で放り出されるのは目に見えてる。郵便機のパイロットだとか言ってた方が、相手も警戒を緩めるからな。現に、イーミャはその言葉を頭から信じた。」

「・・・・。」

「イーミャ、俺も奴に助けてもらった恩はあるが、それとこれとは話が別だ。あいつを置いて、今すぐここを離れるんだ。」

「彼も、イスタリアに向かうと・・・。」

 私の声は、自分でも聞き取れないほど、小さな囁きとなっていました。

「ベネヴァント領に向かってくれ、なんて頼むわけないだろーが。イストリア王国の首都に行きたいとでも言っとけば、イーミャも油断すると思ったんだろ。さぁ、早く!」

 促すバルトですが、私には、どうしてもラノアさんが悪い人だとは思えません。このまま置いて行ってしまうのは、なんだか、信義に反すると申しましょうか・・。いいえ、もっと単純に言ってしまえば、こんな形でのお別れをしたくはない、というのが本心です。

 黙ってエウラスを飛ばし、呆然とそれを見上げるラノアさんの姿を、私はどうしても想像したくありませんでした。

「イーミャ! あいつが何を考えているのか分からないが、戦争中の敵殺しは、正当な行為だ。罪に問われることはない、馬鹿馬鹿しい話だがな。お前は今、危険な状況にあるってことなんだよ。」

「危険だなんて、そんな・・・。ラノアさんが突然、そのようなことをするとは、思えません。」

「人間ってのは、嘘をつく生き物なんだよ。あいつだって、自分の立場をごまかしていただろ。いいから、早く・・!」

 言いかけたバルトが、ぱた、と口を閉じます。

 数本の枯れ枝を抱えたラノアさんが、エウラスの陰から顔を出したのです。彼は私とバルトをじっと見つめた後、言います。

「どうしたんだ、慌てて。新手の空賊でもやって来たのか?」

 聞かれた、のでしょうか。

「い、いいえ。ちょっと、目玉焼きの焼き加減について議論を・・。あ、焚き木、拾ってきてくれたんですね。ありがとうございます。」

 口早に言う私のそばを通りながら、ラノアさんは、ああ、といつもの調子でうなずいて、勢いのなくなった火へ枝をくべます。

 ラノアさんの態度からは、私達の会話の内容が聞こえていたのかどうか、分かりません。

 この方が、ベネヴァント空軍のパイロット・・?

 そう考えると、腕っぷしの強さといい、きびきびとした立ち居振舞いといい、思い当たる節がないわけではありません。しかし、エウラスを無理やり奪うですとか、私とバルトの命を狙っているとは、どうしても思えないのです。

 バルトの話を聞いてしまった以上、疑念は私の頭を離れません。ただ、こちらがまだラノアさんの素性を疑っていると、感づかせない程度の態度は、取らなければなりません。同乗の方を、バルトの命の恩人を疑うなど、できればしたくありませんが・・・。

 バルトも、ラノアさんが戻って来た以上、彼に疑いを持たれるような行動は取らない、と判断したのでしょう。バルトはそれきり、エウラスの座席の下へ収まってしまいました。

 ・・・・・。

「なんだ?」

 知れず、黙ったまま見つめていた私の視線に、ラノアさんが問い返します。

「い、いいえ・・。失礼。ちょっと、考え事を・・。あの。」

「?」

「ラノアさん、操縦はかなりお上手だとお見受けするのですが、前席に乗ってみますか?」

「前席に? つまり、俺に操縦させてくれるということか? この機体を?」

「はい。」

 それを聞いて、エウラスの座席下から飛び出してきたバルト。あたふたとジェスチャーで送ってくるメッセージ、「何を考えてる、やめろ。」ということなのでしょうけれど、求愛のダンスを踊るコウロコフウチョウに見えなくもありません。

 ラノアさんの表情が、日頃のクールな雰囲気に合わない、少年みたいな輝きを一瞬放ちました。

「いいのか?」

「ええ。なかなか、人様の操縦する機体に乗ることはないものですから。いろいろと勉強も兼ねまして。」

「・・・分かった。」

 ラノアさんの顔はすぐにいつもの無表情に変わりましたけれど、に、と笑うのは、操縦できるのが心底嬉しいという気持ちの表れ。だと、私は信じたいのです。

 ラノアさんの手による操縦で、エウラスは信じられないほどスムーズに離水します。やはりこの方、相当な操縦技量をお持ちです。

 フロートから、きらきらと水を滴らせながら飛ぶエウラスの後部座席へ、バルトがやって来て囁きます。目を血走らせながら、半分、泣き出しそうにも見えます。

「どういうことだよ、イーミャ! なんであいつに操縦なんて任せた!」

「落ち着いてください、バルト。これではっきりするんです。」

「はっきりって、何がだよ!」

「ラノアさんに、私達を裏切るつもりがあるかどうかが、ですよ。これでもしベネヴァント領に向かおうとしたり、おかしな動きを取りそうであればクロ。そうでなけらばシロです。」

「そんなこと言ったって、イーミャ。俺達もエウラスに乗っちまってるだろ。みすみす捕虜になったようなもんじゃないか。」

「大丈夫です。飛行中の現在地は把握していますし、もしも・・・、もしも火急の時がきたら、これに物を言わせることだって。」

 私は言って、ぎゅ、と整備用のスパナを握りしめました。できれば、そんな乱暴なこと、したくはありませんが。

 バルトはまだ納得していないようです。

「それにしたって、賭けが過ぎるだろ。操縦してんのはあいつなんだぞ。気絶でもさせたら、落ちちゃうじゃないですか。」

「そうでしょうね。」

「そうでしょうねって、あのなぁ。」

「そこはラノアさんも、お互い様なのが分かっておりましょう。ご自分の正体を明かすということは、後ろに座っている私を敵対させることに他なりません。ある意味、アドバンテージはこちらにあると言ってもいいんですよ。」

「・・・本気でできるのか? 敵対なんて。」

「いざとなれば、するしかないでしょう。」

 私はそう口に出してみますものの、本当にラノアさんと敵味方に分かれて争うことができるのか、正直自信はありません。むしろ、口に出して宣言しておかなければ、その時がきて行動に移せないような。バルトの不安がまるで、鏡に映し出された自分の不安であるかのような、錯覚を覚えるのです。

 飛行は順調でした。天候は安定し、エウラスはまっすぐ東へ、イスタリアへ向けて飛び続けます。バルトの心配は結局、杞憂(きゆう)だったのでしょう。ラノアさんがベネヴァント空軍の証を持っているからといって、それが敵である証拠になるとは限りません。率直に尋ねれば、ラノアさんは笑いながら、ああ、これは、とたまたま入手するに至った経緯を話してくれるに違いありません。いいえ、きっとそうなのでしょう。

 私がそう結論づけようとしたときでした。

 機体がいきなり右へバンクし、急速に高度を落とします。

 バルトが叫びました。

「や、やっぱり、こいつ、やりやがった!」

 私は動揺する気持ちを抑えながら、前席のラノアさんに言います。

「ラノアさん! どうされました。」

「ベネヴァントの哨戒機だ。高度を下げてやり過ごす。」

「哨戒機・・?」

 9時の方向をじっと見据えますと、確かに、います。単葉の全金属製機が一直線にこちらへ向かっているようです。近、中距離の哨戒兼迎撃を目的とした、攻撃機です。

 エウラスは高度を下げ、地形の隆起をすれすれのところでかわしつつ、哨戒機の視野から逃れます。

 囁き声になったとて何の意味もありませんが、バルトが私の耳元で囁きます。

「おい、イーミャ、逃げ切れるのか?」

「分かりません。敵のパイロットが目の良い方だったら、こちらの機影も視認されているでしょうし。」

「だったら、やばくねぇか。」

「やばくあろうとなかろうと、ここは隠れるしかないんですよ。敵さんの目が悪いか、さもなくば注意力散漫であることを願いましょう。」

「敵頼みかよ。・・おい、来るぜ。」

 哨戒機は進路を変えることなく、そのまま私達の後方を直進して過ぎ去りつつあります。

「よかった。どうやらしのげました・・・。」

 と、言いかけたときです。

 哨戒機は、くる、とこちらへ機首を向けたかと思うと、一気に高度を上げ始めました。

「ラノアさん! 見つかりました。来ます!」

 まるで獲物を狙う鷹のごとく、敵機は攻撃用の高度を取ります。位置エネルギーを利用して、高所から襲いかかるつもりでしょう。

 こうなればもう、エンジン出力が上である敵機が、圧倒的に優位です。以前襲われた時のように、機体を隠せるような海岸線の崖もありません。どこまでも平坦で、ときおり、ふせたスープ皿みたいな丘が続く地形、逃げ場がありません。

「ちっ!」

 ラノアさんの舌打ちが聞こえた気がします。

「イーミャ! 敵の射撃タイミングを計れるか。」

 ラノアさんの質問の意図がつかめず、私は思わず聞き返しました。

「タイミング?」

「そうだ。」

「できると思いますけれど・・。」

 有効な打撃を敵機に与えられる距離というものは、確かにあります。しかし、いつ敵が撃ってくるかを正確に予測するのは、なかなかに難しいのです。

「やってくれ。」

 それが、私達の助かる唯一の方法だとでも言うように、ラノアさんは私へ頼みます。

「分かりました。」

 身体をねじって後ろ上方を見上げると、上昇を終えた敵機がその身を翻して、まさに降下へ移ろうとしているときでした。

 小さな粒のような機影が、見る間に大きくなります。

「来るぞ、イーミャ! 来る!」

 バルトが騒ぎ立てますが、私の耳には届いていません。敵機が射撃を開始するタイミングを、全神経を使って感じ取ろうという最中なのですから。

 鋼鉄の猛禽のように高度を下げる敵哨戒機からこちらは、まるで、遊覧飛行をしている観光機のように見えるでしょう。ほくそ笑む敵パイロット。

 一撃で墜とす。

 そう意気込みながら、操縦桿のトリガーに指をかけ、照準器の中央にエウラスを捉えます。呑気な複葉機(エウラス)はまるで、空中で静止しているかのようにやすやすと照準の中へ収まりました。あとはトリガーを引くだけです。まるで、敵機の風防越しにエウラスを見ているような感覚を得るのです。

「ラノアさん! 今です!」

 叫ぶと同時に、エウラスはほんのわずかに機体の軸線をずらしました。一瞬遅れて、連なる凶暴な弾丸が上下の主翼を貫通して行きます。

 燃料タンクを直撃されたわけではありませんし、エンジンもまだ生きています。

 しかし、エウラスは力尽きた鳥のようにふらふらと、翼を揺らしながら高度を下げます。

「うわ、うわ! 落ちる!」

 バルトが自分の翼で目を覆うところへ、私は言いました。

「バルト、大丈夫です。」

「大丈夫って、何が! 撃たれたんだよ! 現に、落ちてるだろ!」

「いえ、そうじゃなく・・。」

「うわぁ、もうダメだ! このまま墜落して、俺の人生も終わりなんだ! ちくしょう、かわいい子と、もっといっぱい付き合っとくんだった!」

 動転しているのか、バルトは自分が飛べることすら忘れて、そんなことを言います。エウラスはほとんど錐揉みに近い状態で下降し、地面すれすれのところで機首を上げつつ、乱暴に着地しました。

 ラノアさんが操縦席から身を乗り出して言います。

「イーミャ、何か燃えるものはないか。」

「も、燃えるもの、ですか? えーと、・・これなら。」

 エンジンのオイルを拭ったりする布切れを手渡しますと、ラノアさん、その布へ火をつけ、敵哨戒機の弾丸が貫通された翼面上に放り投げます。

 敵機は旋回しながら、墜落したこちらの様子を確認しようというのでしょうか。頭上を大きく巡って、こちらに戻ってくるようです。

「よし、イーミャ。身体を伏せて、動くな。」

「分かりました。」

 ラノアさんの指示に頷きます。

 バルトは状況を飲み込めていないようで、

「な、なんだよ、二人して。敵の奴、止めを刺しに戻ってきてんだろ。逃げなきゃ!」

 と、喚くのですが、私はその口を無理やりふさぎました。

「そうじゃないんですよ、バルト。動くなっていうのは、死んだふりをしろってことです。」

「し、死んだふり?」

「私達は、撃墜されたんです。機銃弾はエウラスの翼だけでなく、パイロットにも当たった。そう思わせるんです。バルトは、その辺を飛んでいてください。死体に群がる不吉な鴉、みたいな感じで、ちょうどいいでしょうから。」

「お、俺は、死体に群がったりはしねぇ。そうか、撃墜されたふりか。」

「ほら、敵が戻って来ました。」

 私は言いながら、前席の背もたれへ突っ伏すように寝ると、両腕をだらりと下げ、死んだフリモードに入ります。

 周囲を威嚇するような1000馬力級のエンジン音を轟かせながら、ベネヴァントの哨戒機はエウラスを中心にゆっくりと旋回しているようです。死んだふり、というのもなかなか緊張します。顔を向けて目で追うわけにも行きませんから、耳だけをそば立て、状況を把握します。

 背もたれの硬い感触を、頬に感じます。冷たい汗が、顎先から落ちました。

 やがて、そのエンジン音も遠のいて行きます。バルトの下手な鴉の鳴き真似がこだまする中、私はそっと身を起こして、空を仰ぎ見ます。敵の機影はもはやありませんでした。

 翼から煙を噴き、パイロットと航法士は身を投げ出したままぴくりとも動かない。

 敵パイロットから見たエウラスは、どう見たって撃墜された状態です。本日の撃墜スコアを1プラスして、揚々と引きあげて行ったのでしょう。

「ふぅ。ラノアさん、敵は去ったみたいです。さすがですね、撃墜されたふりをするとは。あんな錐揉みに近い状態から着陸なんて、そうそうできるものでは・・・。ラノアさん?」

 敵機が去ったというのに、ラノアさんは操縦席から動こうとしません。

 まるで、死んだふりが、振りじゃないような・・・。

「あの、どうされました・・?」

 そっと肩に触れると、ラノアさんがかすかにうめきます。よく見ると、脇腹のあたりがなんだか湿っているようです。嫌な予感がしました。

「・・・! バルト、バルト!」

 ラノアさんの脇に触れた自分の手を見つめながら、私はバルトを呼びます。

「どうにかやりすごせたみたいだな。どうしたんだよ、イーミャ。」

「救急箱を用意してください。」

「あん?」

「早く!」

 自分でも驚くくらい、鋭い声が出ます。私の手についたのは、血でした。

 敵機の機銃弾を避けた際、ラノアさんをかすめたのでしょうか。エウラスから彼を引き出し、若草の上に寝かせたその右脇腹を、痛々しい傷が濡らしています。

「イーミャ、救急箱。そいつ、弾をくらってたのか。」

「ええ。直撃ではありませんが、出血がかなりひどい・・。」

 20ミリ機銃でしょう。

 無論、直撃されていれば人間の身体など一瞬でばらばらです。脇をかすめて行ったのでしょうけれど、それでも、高熱で回転する超音速の弾丸が間近を通過したせいで、火傷と裂傷が合わさったような、ひどい傷を負っています。

 いくら血を拭きとっても、後からにじみ出てきます。

「縫わないとだめですね。バルト、手伝ってくれますか。」

「あ、ああ。」

 医療の心得が私にあるわけでもありませんが、傷の縫合くらいはどうにかできる、はずです。できなければ、ラノアさんが重篤な状態に陥るのです。いえ、すでに陥っていると言えましょう。

 沸かしたお湯で針を消毒し、洋服に空いた穴を閉じる要領で、それが正しい処置なのかはさて置き、とにかく、傷口を縫合します。ガーゼをあてがい、包帯をラノアさんの胴に巻き、抗生物質を注射します。

 夢中でした。

「お、おい、こいつ、助かるのか?」

 一連の処置を終えた後、バルトが不安げに言います。

「分かりません。できることはやりましたけれど・・・。」

「なぁ、イーミャ。こんなこと、あまり言いたくはないが・・。」

 言いたくはないけれど、の続きを、私はなんとなく察しましたが、バルトの次の言葉を待ちます。

「・・・ラノアの奴、このまま死んじまった方がいいんじゃないか。助けてもらった義理はあるが、こいつがベネヴァントのパイロットだっつー疑惑が晴れたわけじゃねぇ。イーミャにとっても、こいつにとっても、そうした結果が最善だと俺は思うんだ。」

「同乗のパイロットが亡くなって、それを最善の結果だと私は思いません。」

「でもよぉ。イーミャが危険な状態にあるってことに、変わりはないんだぜ。こいつが生きている限りはな。いっそ、手当てをしないまま、放置しときゃよかったんじゃ・・。」

「そこまでです、バルト。」

 私はバルトの言葉を遮りました。

「あなたの心配も分かります。けれど、それ以上は言わないでください。私にだって、迷いはあります。でも、少なくとも自分が間違ったことをしているとは考えていませんよ、バルト。敵か味方かなんて、些細なことなんです。この空は、本来、誰のものでもないんですから。」

「そうか・・・。」

 それきり、バルトも沈黙しました。

 いつの間にか日も傾き、暖を取るための焚き火が、周囲を明るく照らし始めます。濃紺のグラデーションが、夕闇の到来を告げているかのようでした。

 このまま、バルトの言うようにラノアさんを置いて行くという選択を、私は考えています。実際にそうするかどうかの決断は棚上げしたまま、そうした選択肢が存在するという事実を、私は考えています。

 右か、左か、行くべきか、引くべきか。

 とある決断を下さなければならないとき、私の脳裏には、いつも父の姿が浮かびます。父なら、お父様ならこんなとき、どうしただろうか、と。自分自身で答えの出せない私の弱さをもどかしく感じることもありますが、それでも、父の取ったであろう判断というものに、いつだって私は全幅の信頼を寄せることができるのでした。そうすることで、私が父の娘であるということを、忘れえない証左になるとでも申しましょうか。

 空賊のキャプテンの言葉、ユーリの娘、という呼ばれ方に恥じない自分になりたい。いいえ、もっと単純に、私は父に褒められたかったのかも知れません。そして、今でも褒めてもらいたいと願っている。

 お父様ならきっと、ラノアさんを見捨てたりはしないでしょう。かつての親友、空賊となってしまったキャプテン・グラシアノを恨まなかったのと同じように。

 揺らぐ焚き火の炎を見つめているときでした。

 ふと、気配を感じラノアさんに目を転じると、私は息の詰まるような感覚を覚えました。半身を起こしたラノアさんが、私をまっすぐ見据えています。手にした拳銃を、私に向けながら。

 ラノアさんが、ゆっくりと口を開きました。

「イーミャ。君にこんなものを向けたくはないが・・。気づいてしまったんだな。」

「あなたが、ベネヴァントのパイロットだということを?」

 ラノアさんがうなずきます。

「はい。きっかけは、ベネヴァント空軍の手帳に、バルトが気づいたことでした。」

「やはり、これか。砂漠で墜落したとき、捨てておくべきだったか。これは俺のものじゃない。墜落で死んだ同僚の手帳だ。いい奴だった。せめてこれだけでも、故郷に送り届けてやりたかった。」

「ラノアさん。・・やめませんか、このようなこと。」

 私が立ち上がりかけると、

「動くな。」

 冷たい威圧が、ラノアさんの目から発せられます。

「君も分かっているはずだ、イーミャ。俺と君は敵同士だ。どちらかが勝ち、どちらかが負ける。両者が共存することはない。それは国家のレベルでも、個人のレベルでも同じだ。」

「そんなこと・・、ないと思います。こうしてお話をする私達の間のどこに、国境線がありますか? 国という枠組みを一歩出てしまえば、そこではもう、ただの人同士じゃないですか。」

「違う。国家の枠を越えて存在できる人間じゃあないだろう、俺達は。少なくとも俺は・・・、そうだ。」

「・・・どうするというのです、その銃で。撃ちますか。」

「撃ちたくはない。機体を明け渡せば、それでいい。」

 ラノアさんは力なく立ち上がりますが、あれほどの出血の後、顔は青ざめています。

 私はゆっくりと立ち上がると、一歩、ラノアさんへ近づきます。

「ラノアさん。あなたは嘘をついています。」

「動くなと言っている。嘘、だと・・?」

「はい。」

 足が震えるのを感じます。

 この人は、やるときには、やる人、です。銃のトリガーを引くに躊躇するとも思えません。悪意がトリガーを引かせるのではありません。彼を規定する軍人としての肩書き、国という枠組み、それらに対する強烈な帰属意識が、つまり、敵殺しを厭わぬべく練り上げた意志が、トリガーを引くのです。

 キャプテン・グラシアノと対峙した時の方が、まだマシでしょう。どこまでも冷たい鋼の意志を前にして、私は生唾を飲み込むと、続けました。

「国家の枠を越えて存在できる人間ではないと、あなたはおっしゃいます。でしたら、私を撃ちたくないという気持ちは、いったいどこから出てきたのです。その気持ちはすでに、国という枠組みを越えてしまったものではありませんか。私を敵ではなく、人として見ているのですから。」

「・・・・。」

「だから、嘘だと言っています。あなたは国という枠組みの中だけで、ご自分を規定できるほど、冷えた人間ではないということです。ラノアさん。あなたに私は撃てません。」

 さらに一歩、ラノアさんへ近づきます。

「だめだ、イーミャ。そこから先へ来ては・・。踏み越えてはならないラインというものが、俺達の間には存在するんだ。」

 意識が朦朧としてきたのでしょうか。ラノアさんの手にする銃の先が、定まりません。しかし、目だけは、まっすぐに私を見据えているのです。

 これは私の賭けでした。

 ラノアさんが、私を撃つと判断するか、しないのか。撃つと決めれば撃つ人。可能性は五分と五分。

「イーミャ!」

 そのときでした。

 エウラスの陰からバルトが飛び出したかと思うと、ラノアさんの持つ拳銃へ掴みかかります。バルトの大きな黒い翼が、ラノアさんと私を遮るように広がります。

「てめっ! このやろ! イーミャに銃なんか向けやがって!」

「バルト! 無茶はしないで!」

「今、無茶をせずに、いつするってんだよ!」

 バルトは足で銃を掴みながら、ラノアさんの手首に向けて鋭い嘴の一撃を加えました。

「ぐっ!」

 という呻きと共に、ラノアさんの手から銃が離れます。

「よしっ!」

 バルトはそのままラノアさんから離れると、私の手元へ拳銃を落とします。

「撃てっ! イーミャ! そいつであの野郎を撃て!」

 暗い金属光沢を放つその鉄の塊が、私にはひどく重く感ぜられます。銃口を向け、トリガーを引くというイメージが、行動に先んじて私の脳裏をよぎります。私にできるのでしょうか、そんなことが。

「早く!」

 バルトが急かします。しかし、私は手にした銃をあらため、応えました。

「バルト。撃つことなんて、できませんよ。」

「何で? そいつはお前を殺そうとしたんだぞ。やらなきゃ、やられるんだ。そういう世界だろうが、ここは。」

「違います、バルト。ラノアさんは、私を殺そうとすらしていません。」

「ぁあ?」

「だって、この銃、弾が入ってません。弾倉が空なんですよ。」

「な、なに? 初弾は?」

「ローディングインジケーターも、未装填を示してます。」

 バルトが、信じられないという風に目を丸くしました。

 ラノアさんは、私を撃ちたくない、と言いましたが、それは言葉通りだったのです。撃ちたくはない、つまり、弾丸すら込められていない空の銃を、私に向けただけなのです。

 ラノアさんはすでに体力の限界のようで、エウラスに背をもたせかけたまま、地面に座り込みました。

 まるで自分をあざ笑うかのように、ラノアさんは言います。

「・・俺は兵士失格だな。空の銃を敵に向けた挙げ句、それを鴉に奪われた。イーミャ、俺はもう動けない。ここへ置いて行くなり、これで撃つなり、好きにしろ。」

 ラノアさんが放って投げたのは、抜き取られていた銃の弾倉です。

 私は両手に持った銃と弾倉を、交互に見比べました。これで撃て、とラノアさんは言いますが、私にとってはひどく現実感のない、それで命を奪うことに対して、まるで幻想としか思えない重みが手に乗っているだけでした。

「・・・お返しします、これ。」

 ラノアさんに銃を差し出そうとすると、バルトが慌てます。

「お、おい、イーミャ・・!」

「いいんです。」

 バルトの動揺以上に、銃を受け取るラノアさんが、一番驚いたような顔をしています。

「・・どうしてだ。」

「どうして、と言われましても・・・。弾の入っていない銃を向けるような方に、言われる台詞(セリフ)じゃありませんよ。ラノアさんと同じです。私もあなたを撃ちたくはありません。だったら、私が持っている意味、ありませんよね。」

「俺と君は敵同士だぞ。」

「敵などと、今更些細なことを仰らないでください。」

「些細・・・。」

 ラノアさんが、ぽかんと口を開けて見つめる姿は普段の印象にない、どこか、愛くるしささえ感じるものでした。

「ベネヴァントとイストリアの戦争が、些細なこと、とはな・・。」

 ラノアさんは呆れたように首を振ります。

「君には負けたよ。少し、眠らせて、くれるか・・・。」

 ラノアさんは体力の限界なのでしょう。エウラスにもたれたまま、眠ってしまったようです。  

 もう我慢ができない、といった感じで、バルトが私の頭の上に乗ってきます。

「イーミャ! どういうことだよ、あいつに銃を返しちまうなんて。どういうことなんだよぉ、もー! 訳が分からんぞ。」

「だから、言っているじゃありませんか。ラノアさんにも、私にも、結局お互いを撃つ気なんて、初めからなかったんですよ。であれば、どちらが銃を所持しようと、別にどうだって構わないじゃないですか。」

「構わないって、あのなぁ・・・。はぁ〜。まったく、呑気というか、度胸が据わっているというか。どうすんだよ、ラノア(こいつ)。」

「どうするも何も、変わりませんよ。当初の予定どおり、イスタリアまで連れて行きます。」

「いいんだな、それで?」

「いいんです。」

 きっぱりとそう言う私を前に、バルトももはや、次の文句が出てこないようでした。

「ああ、そうかよ。じゃあ、もう好きにしろ。まったく、軍人二人が揃いも揃って、銃も撃たないなんてな。ほんとに戦争してんのかって話だ。」

「あら、バルト。私は軍人じゃありませんよ。軍属の気象観測士、それが正式な肩書きなんですから。」

「空軍だろうが軍属だろうが、どっちだって変わんねーっての。俺達、鳥からすればな。」

「変わりますよ。大きな違いなんですから、お間違いのないように。」

「へいへい。ラノアの野郎も眠っちまったし、俺も寝るぜ。」

「おやすみなさい、バルト。」

「ああ。」

「あ、それと。」

「何だよ。」

「ありがとうございます。その身を挺して、ラノアさんの銃を奪ってくれましたね。」

「それは、その・・・。餌をくれる奴がいなくなったら困るだろ。自分の為にやったことなんだぜ。礼を言われる筋合いはねぇ。」

 バルトはそう言って、エウラスの操縦席下、いつもの寝床に潜り込んでしまいました。

 ふふ。照れ臭かったのでしょう。

 でも、ほんとに、ありがとう、なのです。もしも、銃に実弾がこめられていたとしたら、バルトの助けなくして、私は冷たい地面へ横たわっていたかも知れないのですから。

 私は焚き火を見つめながら、草を撫でる風の音しか聞こえない夜の響きの中へ、静かに埋もれてゆくのです。

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