チャプター4 雲の澪
焚き火のそばで、バルトが冬空の下佇む石の彫像みたいにじっとうずくまり、目を閉じています。
夜。
アマデオ班長の地図に記された無人の補給所は、ちゃんと存在していました。燃料がドラムに数缶あるだけの、緊急補給しかできない程度ではありますけれど、これで砂漠のど真ん中、立ち往生することだけは避けられました。
古代の遺構、柱や壁が申し訳程度に残る砂色の建築物脇、ほとんど砂に埋もれてしまった半地下に、補給物資が収められています。わずかな壁を風除けとして、私とラノアさん、バルトの三者で焚き火を囲んでいる、というわけです。
空には雲ひとつなく、満天の星が輝いています。全天最輝の星を中心として、目には見えませんが、ゆっくり、ゆっくり、星々が巡っていることでしょう。
「・・冷えますから、お飲みになってください。」
私は焚き火に掛けてあったポットからコーヒーを注ぐと、錫製のカップをラノアさんへ手渡します。
「すまない、貴重な嗜好品まで。」
「いいんですよ。私だけで独り占めなんて、できませんからね。さすがにミルクは持ってこれませんでしたが、お砂糖もありますよ。お使いになりますか。」
「いや、このままでいい。」
「分かりました。」
私は瓶の蓋を開けると、角砂糖を一つ、黒々とたたえられたその芳醇へ落とします。
・・・奮発して、もう一つ入れちゃいましょう。
バルトあたりから、入れすぎだと言われそうな気もしましたが、この鴉さん、寒すぎてそれどころではないようです。
一口すするコーヒーの甘さと温かさが、身体に染み入るようです。
「ラノアさんは、郵便機に乗って長いのですか?」
「そうだな。もう6年近くになるか。学校を卒業と同時に今の会社へ入ったんだ。」
「あら? てっきり、10年くらいお乗りになっているかと思いましたけれど。」
「10年は長すぎだ。その頃はまだ子供さ。」
「子供? ・・・あの、失礼なことを伺うようですが、ラノアさんは今、おいくつ・・?」
「24だが。」
はぅ。てっきり、20代後半、ともすれば30に差し掛かったくらいのお年かと思っていました。
「何歳だと思っていたんだ。」
「さ・・・、あ、いえ、てっきり、20代後半くらいかと・・・。」
「老けて見えるとは、よく言われる。」
「老けているだなんて、そんなこと・・・。ちょっと、お年の割に大人びて見えるだけです。」
「そうか・・・。」
ラノアさんは、なんだか寂しそうに笑います。
若さというものを、どこかへ置き忘れたままここまで来てしまった、とでも言いましょうか。失われたものに、未練すら感じることのできない自分を憂いている、とまでは、私の考えすぎでしょうか。
エウラスの、とラノアさんは、何かを思い出したように深い沈黙から帰ってきます。
「操縦席が少し見えたんだが、見慣れない計器や装置が多いみたいだな。あれは、何かの観測機器か?」
「ええ、その通りです。この機体、気象観測仕様になっているんですよ。父から譲り受けたものを、改造したんです。」
「譲り受けた? これはイーミャの私物、ということになるのか。企業や空軍に所属するんじゃなく。」
「そういうことになりますね。メンテナンスなんかは、基地の皆さんのお世話になっちゃってますけれどね。」
「そうか。これはイーミャの機体か。・・・いいな。俺もいつかは、自前の機体を持ちたいと思っていた。」
「素敵じゃないですか。ラノアさんも、お持ちになればいいんですよ。なぜ、過去形でおっしゃるのです?」
「社の機体を墜落させたんだ。賠償金の請求とまではいかなくとも、仕事を干される可能性はある。」
「あ・・・。」
私は、機体を所有すればいいなどと、お気楽に口走ってしまったことを、後悔しました。稼働する飛行機を購入、維持、整備する。燃料代や消耗パーツの交換費、飛行場の整備、機体の格納庫の確保。個人で負うにはあまりにも高額な費用がかかるのです。今の自分が、運良く「半」軍属的な立場にいるだけだということを忘れて、無神経もいいところです。
「すいません。お持ちになればいい、なんて、適当なことを言ってしまって・・。」
「イーミャが謝ることじゃない。それに。」
「それに?」
「機体を一度落としたくらいでめげていたら、飛行機乗りなどやっていられないかもな。」
「そう・・。そうですよ。諦めずにいることが大事だと思うのです。二歩下がったとしても、三歩進めばいいのですから。」
私は、思わず力を込めてそんなことを言ってしまいます。これは、なかば私自身の人生訓でもあるのです。諦めて下を向いてしまったら最後、どこまでだって落ちて行くものです。
「三歩進めばいい、か。」
ラノアさんはそう言って、じっと私の顔を見つめます。
顔が火照りそうになるのを慌ててごまかすようにしながら、私は言いました。
「あ、あの、何か?」
「いや、イーミャはこれまで、ずっとそうしてきたのかと感心していた。」
「感心だなんて、いやぁ、そんな大したことではないんですよ。負けず嫌いといいますか・・・。不運に囚われても、不幸になるかどうかは当人次第だって、父もよく言っていたんです。ですから、逆境にあっても負けたとは思わないようにしてるんです。機会は必ずあると。」
ラノアさんの沈黙と、揺らぎない視線に私は勝手に動揺してしまいます。
「あ、はは。なんだか、自分でこんなこと言ってしまうなんて、恥ずかしいですね。」
「恥ずかしくはない。大切なことだと、俺も思う。」
ラノアさんは、毛布をかぶって横になりながら言います。
「コーヒー、ありがとう。おやすみ、イーミャ。」
「あ、はい。おやすみなさい、ラノアさん。良い夢を。」
なぜだかよく分かりませんが、どきどきと胸が鳴っています。その高鳴りを抑えられないまま、私もまた、満天の星空の下、砂漠の廃墟で横になります。
翌日。
相変わらずの晴天下、順調に飛行を続けるエウラスの操縦席にあって、私の膝の上に座るバルトが不機嫌そうに言います。
「よぉ、イーミャ。なんだよ、その顔。」
バルトの声は、ほとんどエンジン音にかき消されて、後席のラノアさんにまでは届きません。
「顔? 私の顔がどうかしましたか?」
「朝からにやにや、にやにや、緩みっぱなしだぜ。」
「そうですか? 気のせいでしょう。」
バルトに言われるまで、私にもその自覚はありませんでした。そんなに緩んでるんですかね、私の顔。
「気のせいじゃねぇって。鏡、見てみろよ。だらしがないったらねぇ。」
「乙女の顔を指して、だらしがないとは失礼な。私の顔は、いつでも凛々しく引き締まっているのですよ。」
「だめだ、こいつ。」
「何が駄目なのです。そもそも、私の顔が緩む理由がないじゃないですか。」
「あるだろうが。あの野郎だよ。イーミャの後ろに座ってる野郎のせいだっての。」
「なぜラノアさんのせいなのです?」
「あいつがちょっといい男なもんだから、にやけっぱなしだっつー話。」
「何をお馬鹿なことをおっしゃる。かっこいい殿方がそばにいるだけでにやけるほど、私は軟弱者ではありません。」
「けっ。自分の顔を見てからものを言えってんだ。」
「バルト。さっきからやたらとつっかかってきますね。もしかして。」
「もしかして、なんだよ。」
「妬いているんじゃありませんか。」
「なっ? ばっか、何言ってんだよ。鴉の俺が妬いてどーすんだよ。」
「違うんですか?」
「違うに決まってんだろ。何で俺がそんなことでやきもち焼かなきゃなんねーんだ。意味が分からん。」
「へぇ。」
「へぇ、って、その顔。全然信じてないな。俺はなぁ、ただ、素性の知れない男を相乗りさせちまう、イーミャの警戒心の薄さを心配してだな。」
「はいはい、分かりましたから。私とて別に、油断しているわけではないのですよ。現に、操縦桿を彼に触らせることもしてませんし。」
「それだけじゃねぇだろ、警戒すべき点は。あいつの存在自体に、気をつけろと言ってるんだ。」
「そんなことを言い始めたら、きりがありませんよ。人間関係はお互いの信頼の上に成り立つものなんです。」
「裏切りと疑念を前提とすることだってあるんだ。すべてに信頼が先立つわけじゃねぇ。」
「ひねくれ者。」
「用心深いと言ってくんな。」
「では、どうしろと? 今さら、ラノアさんをどこかへ置いてけぼりになんてできませんよ。」
「何か適当に理由をつけて、どこぞの中継基地辺りで下ろしちまえばいいんだよ。イスタリアまで連れてく必要はねぇって。どうせ、定期便が飛んでさえいればたどり着けるんだからな。」
「その定期便が、まともに運行していないからこそ、エウラスに同乗されたんでしょう。陸路で行ったら、いったいいつたどり着けますことやら。」
「それはイーミャの知ったこっちゃねぇだろ。砂漠から抜け出せるだけでも、ありがたく思うべきなんだ、あいつは。」
「ふぅ。やれやれですね。もう少し、仲良くしてくださいよ。旅は道連れ、世は情けと言うではありませんか。」
「へっ。あいつと仲良くするぐらいなら、逆立ちしながら夜間飛行してやるぜ。」
「できもしないことを。」
「ふん。」
そっぽを向いたバルトは、座席の下に潜り込んでしまいます。
なぜ、バルトはこんなにもラノアさんのことを警戒するのでしょう。郵便機のパイロットが然程に危険だとも思えませんがね。
ちょっとやそっとでは解決しそうにない、バルトのラノアさん嫌いです。無理やり仲良くさせようとしても、かえって逆効果になりそうですし、ここはもう放っておくしかありませんかね。
私が操縦しながら、そんなことを考えていますと、
とん、
と、私の肩が強めに叩かれます。
振り返ると、ラノアさんが左前方、10時の方向を指差しています。指された方角へ視線を向ければ、茶色い砂塵の塊が。
「砂嵐だ。退避したほうがいい。」
ラノアさんが後部座席から言います。
砂嵐は、まるで膨らみ続ける風船みたいに大地を覆い尽くしながら、見る間に近づいてきます。
「了解。退避します。」
私は砂嵐のやってくる方向とは正反対に機首を向け、速度を上げます。
すると、前方にも砂塵。
「前にも!」
なんということでしょう。前方と後方、壁のように分厚い砂塵が立ちふさがっているのです。
「こんな気象現象、初めてですね・・。」
気圧の谷間がどこかに・・。
いいえ、どこか、どころではありません。ここが、気圧の谷なのです。慌てて気圧計を確認すると、やはり、異常に低い値を示しています。この場所を目指して、猛烈な風が砂塵を伴って殺到している、ということでしょう。急峻な谷間で道の左右から雪崩に襲われるようなものです。
これはもう、谷間に沿って全力で抜け切るしかありません。
「くっ・・!」
機首を急転させて高度を上げますが、左右の砂の壁は見る間に迫ります。
バルトも座席の下から出てきて、騒ぎ立て始めます。
「おい、すごい砂煙だぞ、イーミャ。視界を失う!」
「分かっています。なんとか高度を取れれば・・・!」
しかし、砂塵の接近速度と比して、機体の上昇は遅々として進みません。
このままでは・・・。
ラノアさんが後ろから言います。
「イーミャ。左側の砂嵐に突っ込め。」
「ぇえ? 今なんと?」
「左だ。右の砂嵐の方が激しい。左に突っ込んで着陸し、やり過ごした方がいい。」
「右の方が激しい・・?」
3時の方向を睨みますと、確かに、砂塵の流れが速い気がします。おまけに、雷光まで見えます。散発的に発雷しているのでしょう。右か左か、で考えれば、左が正解のようです。
「し、しかし、この視界の悪さで着陸するのは無茶ですよ。」
「砂嵐の横幅がかなりありそうだ。脱出は間に合わない。本体に呑まれる前なら、どうにかなる。」
前方に青く続く空の回廊が、ゆっくりと閉じられて行きます。ラノアさんの言う通り、砂嵐の到達前に飛んで抜ける、という作戦は叶わなそうです。
「分かりました。着陸します。」
「俺も手伝う。」
「・・え?」
ラノアさん、手伝う、とおっしゃいましたか。どうするつもりかと思えば、ラノアさん、後部座席から身を乗り出すと、私のいる操縦席の方へ移ってきます。
「あ、あの、ラノアさん?」
「ベルト、外してくれるか。」
「は、はい。」
言われるまま座席ベルトを外した私の背中側に、ラノアさんが座ります。私はちょうど、ラノアさんの身体に包み込まれるような体勢になってしまいます。手足が私のよりも長いラノアさん、私の後ろ側から操縦桿とラダーペダルを操作する形です。
「イーミャは計器に集中してくれ。夜間飛行と同じ要領だ。」
ラノアさんは、計器だけを頼りに着陸するつもりのようです。夜間飛行と同じ、と言われましても、夜間の飛行はほとんど経験がありません。砂塵が視界を奪い、細かな砂粒(さりゅう)が口の中にまで入ってきます。
激しい乱流に機体が揺すられるのですが、しかし、この方・・・。
操縦が上手いのです。
風へ無理に抗おうとせず、気流の変化に乗じながら進路は一定に保つ。難なくやっているように見えますが、かなりの高等テクニックです。
私は計器に集中しました。
「高度300。機体がやや左に傾いています。戻していただけますか。」
「了解。」
周囲は茶色い煙幕状の砂に覆われ、空も、地表もまったく見えなくなりました。高度計と速度計、機体の傾きを示す計器のみが、エウラスの状態を知る唯一の寄る辺となるのです。
「高度200。」
猛烈な風が機体を煽ります。地表も平坦なものではありません。大小の砂丘が連続しているわけですから、砂丘中腹へ頭から突っ込んでしまう危険もあります。
「高度50。間もなくです。」
「・・・・。」
ラノアさんからはもはや返答もありません。操縦に集中していることが、その全身から伝わってきます。
突然、エンジン音が断続するようになりました。
「砂が・・! 気筒の中に入ったか、フィルターが目ずまり・・? ラノアさん、エンジン出力低下!」
エンジンは外部からシリンダー内に空気を取り入れ、燃料と混合して燃焼させることによりエネルギーを得ます。その取り入れる空気が細かい砂塵まみれなわけですから、ユニコーンエンジンさんもたまったものではありません。
強風の中、どうにか維持されていた機体の姿勢が、力なく崩れて行きます。
「くっ・・! 伏せろ! あんたもだ。」
ラノアさんは私の頭を低く抑え、さらにバルトを抱え込みます。
一瞬の間をおいて、どずん、と機体を揺るがす激しい衝撃。
翼を支える主桁やフロートが、めきめきと嫌な音を立て、左翼を下に傾けさせた状態でようやく、エウラスは停止しました。
・・・砂嵐はその後、15分程度で去り、嵐の影も感じさせない、晴天に戻っています。
「あらー。やっぱり、ダメですね。」
幸い、主翼などの機体構造自体に致命的なダメージはありませんでしたが、ただ、エンジンが・・・。
ごほごほといかにも体調の悪そうな咳を出し続け、回転数が上がらないのです。一旦エンジンを停止すると、ラノアさんはカウリングの内側をのぞきこみながら言います。
「シリンダーのいくつかがやられているかも知れないな。開けてみる。」
「ですね。バルト。バルトー。」
不時着してから不機嫌なままのバルトを、私は呼びます。
「どうしたんです、さっきからえらい不機嫌そうな顔で。」
「別に。」
「あの砂嵐の中でも、どうにか着陸できたんですから、よかったじゃないですか。ラノアさんのお陰で誰も怪我をしなかったわけですし。」
という私の言葉を、バルトは苦々しく聞いています。
・・・ああ、なるほど。
さてはバルト、着陸の間際、ラノアさんに助けてもらったことが、気に入らないみたいですね。嫌いな相手に、恩ができてしまったわけですから。ほんとにへそ曲がりな鴉さんです。
でも、あのときラノアさんにかばってもらわなかったら、着地の衝撃でコックピットの計器類にでも叩きつけられて、無事では済まなかったはずです。素直に感謝すればいいものを、ですよ。
バルトは羽繕いをしながら、ぶっきらぼうに言います。
「そんで。呼びつけといて、いったい何の用だよ。」
「ちょっと、この周囲を飛んでみてもらいたいんですよ。オアシスとまではいかなくても、せめて岩陰のような場所があればありがたいのです。また、砂嵐に巻かれたらたまりませんからね。」
「嫌だぜ、こんな炎天の下、飛び回るのは。」
「お願いします、バルト。」
私はバルトを見つめます。
「・・・あーもう、分かった。分かったよ。飛べばいいんだろ。」
「まだ暑いですから、無理はせず。」
バルトは不承不承ながら、青く澄んだ空へと飛び立ちます。
エウラスの前では、ラノアさんがエンジンのカバー、カウリングを外しにかかっているところでした。
「手伝います。」
「ああ。」
カウリングを外して、エンジンシリンダーが露わになると、あらら、かなりひどいことになっていますね。
「砂がひどいですね・・・。」
砂塵の中へ突っ込んだせいでしょう。シリンダーの吸気フィルターや廃熱フィンなど、至る所が薄茶色の砂まみれとなっているのです。これでは、エンジンの調子が悪くなって当然です。
「とりあえず、砂を落としましょうか。」
「そうだな。」
メンテ用の工具箱に放り込んであった布切れで、ラノアさんと二人黙々と砂を落とし始めます。金属でできた放熱用のエラ、その一枚一枚も拭うわけですから、結構な作業です。手を動かしながら、私はラノアさんへ言いました。
「・・ラノアさん。」
「何だ。」
「操縦、お上手なんですね。あれほど悪い視界の中、しかも、エンジン出力が落ちた状態で機体を壊さず着陸できたのですから。」
「仕事柄、夜間飛行も多いからな。計器飛行には慣れている。」
「そうでしたか。郵便機の操縦もなかなかたいへんですよね。時間との戦い、といった要素もあるでしょうし。」
「十二時間、飛び続けることもあるんだ。同僚と交代で操縦を続けながらな。夕闇に浮かぶポート・ラウラの灯はいい道標になる。」
「空で迷わぬように、ということですね。空から見るポート・ラウラの夕景は、さぞ美しいことでしょうねぇ。」
「亡き友人へ、あるいは恋人へ手向けるには最高だろう。」
「ええ・・・。」
亡き友人。
墜落の際に亡くなられたラノアさんの同僚の方。何度も一緒に飛んだ相棒といったところでしょうか。その方へポート・ラウラの灯を捧ぐ、ラノアさんの表情を想像してしまいます。
同時に、恋人、という言葉に反応してしまう自分がちょっと恥ずかしくもあります。
「あの、つかぬことを伺いますが・・・。」
「?」
「ラノアさん。想い人といいますか、その・・、恋人的なお相手は、いらっしゃるのですか。」
「・・・なぜ?」
ラノアさん、不思議な顔でちょっと首をかしげます。
「あ、いえ、別にその、なぜといって特に理由があるわけでもないのですが、ちょっと聞いてみただけと申しましょうか・・・。おかしなことを訪ねてしまって、申し訳ありません。ポート・ラウラの夕景を手向けられるのは、いったいどのような方なのかなぁと・・・。」
ほんとに、私はいったいなんということを質問しているのでしょう。つい、口に出てしまった質問の意図を私自身、とっさには計りかね、動揺している自分がおります。
「恋人はいない。」
ちょっと間を置いて、ラノアさんはきっぱりとそうおっしゃいます。
「あ・・・。」
あ、ってなんですか、あ、て。
我ながら、そうとしか言い得ない不器用さへ赤面しそうです。やっとのこと、絞り出すように、
「そうでしたか。」
と、続けるので精一杯です。
それきり、私とラノアさんは黙ったままエンジンの砂落としを続けます。
ようやく、砂を落としきった頃には辺りも暗くなり始めていました。今日は砂嵐のせいで、予定していた半分の距離も進んでいません。
ラノアさんは、手についてオイルを拭きながら言います。
「こんなところか。シリンダーの中まで砂が入りこんでいると厄介だが・・・。」
「吸気口のフィルターが目詰まりしていましたから、かえってそれが蓋の役目を果たしてくれたかも知れません。ちょっと、回してみましょう。」
ラノアさんと二人掛かりでクランクを回します。オイルと、自分の汗の匂いが混じった言いようのない体臭がラノアさんにまで届いてしまいそうで、どうにも集中できません。
「イーミャ、エンジンスタート。」
「あ、はい!」
気づかないうちに、フライホイールの回転は十分に上がっておりました。
エンジン始動ボタンを押しますと、軽く咳き込みながらも、シリンダーのピストン運動が始まります。
プロペラは回転を続けます。今度は、ごぼごぼと不機嫌な音を発することもありません。砂塵落としが効いたのでしょう。
「大丈夫そうです! これなら明日は飛べます。」
「ああ。」
ラノアさんも、ちょっと嬉しそうに微笑みます。
離陸の目処がついたところで、急にお腹がすいてきました。今日は結局、朝以来何も食べていないのです。
「ご飯にしましょう。お腹空いちゃいました。」
オーウェンさんにもらった鮭の燻製と細切りの玉ねぎを、焼き締めたパンに挟んだ、即席のサンドイッチが今日の晩御飯です。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
機体のそばに起こした焚き火に当たりながら、頬張るご飯は最高です。何といっても、身体を動かした後ですからね。
ふと、ラノアさんは群青色に暗くなり始めた空を見上げて言います。
「バルトローベは遅いな。」
「そういえば。いったいどこまで飛んだんでしょうね。この近くだけでいいと言ったのに。」
ちょっと、心配になってきました。どこかで道にでも迷ったのでしょうか。
と、私達の見上げる背後に、とさ、と何か落ちる音がします。
「・・・? バルト・・!」
バルトが砂の上に力なく横たわっています。
「どうしました? 何かあったんですか?」
「・・お、おう。とりあえず、水・・。」
「水ですね。」
急いで水筒を取ってきますと、ゆっくりバルトの嘴に注いであげます。ラノアさんに続き、バルトにもこうしてお水をあげることになるとは、夢にも思っていませんでした。
「ずいぶん遅かったじゃないですか。心配したんですよ。」
バルトを膝の上に乗せてあげると、ようやく一心地ついたのでしょう。バルトが口を開きます。
「この先、十キロも行かないところで海岸線に出る。」
「ということは、ここはもう砂漠の縁、ということですね。」
「ああ。それはいいんだが、海が見えてきた辺りで、おかしな連中に追い回されてな。」
「おかしな連中? ベネヴァントの哨戒機、ですかね。でも、鴉を追い立てる軍用機なんて、聞いたこともありませんね。」
「違う。あれは軍じゃねぇ。空賊だ。」
バルトの言葉に反応したのは、ラノアさんです。
「空賊・・?」
郵便機のパイロットでしたら、空賊にも詳しいかも知れません。
「何かご存知なんですか、ラノアさん。」
「ああ。ゴザ砂漠から続く海岸線近辺で、定期便を狙った空賊が出ると聞いたことがある。確か、Camino del Cielo 空の澪(みお)、と名乗っていたか・・。しかし、なぜバルトローベを・・?」
バルトはラノアさんへ、ぶっきらぼうに返すだけです。
「知らねーよ。こっちが聞きたいくらいだ。暇にあかして、鴉でも追ってみようてことに、なったんじゃねぇの? 中型の飛行艇でさんざん追い回しやがって。低空を飛んだり、岩陰に隠れたり、必死に逃げ回ってようやくここまでたどり着いたんだぜ。」
「それは災難でしたね。うまく撒けましたか?」
「撒いたさ。ここまでついて来られたら、エウラスも見つかっちまうだろ。」
「確かに。見つかったら面倒なことになっていたでしょうね。ありがとうございます、バルト。」
「ふん。疲れたから、俺はもう寝るぜ。」
バルトはそう言い残すと、操縦席の下の定位置に潜り込んでしまいました。
私はラノアさんと顔を見合わせます。
「空賊とはまた、厄介な人たちに目をつけられたものです。」
「ああ。しかし、なぜバルトローベを・・?」
「さて。バルトはいきなり追われたと言いますけれど、なにか悪態をついたですとか、いたずらでもしたんでしょうかねぇ。」
「空賊相手にか?」
「相手が誰かなんて、あまり関係ありませんよ。自分は人間じゃない、鴉なんだから、とか言って、意に介さないことをプライドの拠り所にしているんですから。それじゃあ生きるに苦労すると、常々言っているのですけれど。」
「それこそ、鴉だから関係ない、ということなんだろうな。鳥は、人の世界で生きる苦労と、本来無縁なものさ。」
「そうは言っても、喋るのですから、あの子は。完全なる野生を決め込むにも無理がありましょう。」
「完全なる野生か。・・・イーミャ。」
「はい?」
「何も考えず、ただ、自分のためだけに飛びたいと思うことはあるか?」
「自分のためだけ、ですか。」
ラノアさんからの、唐突な問いかけです。
「そうだ。飛びたいから飛ぶ。朝焼けの中、まだみずみずしさの残る空気を切って大地を離れる。靄の溜まる窪地の森が、草を食(は)む羊の群れが瞬く間に小さくなり、どこまでも続く空の一部になる。この世界のしがらみや束縛から完全に解放される瞬間だ。いや、自由になったと錯覚できる瞬間、といった方が正しいか。」
「そうであれば、素敵ですね。でも、私は、自分のためだけに飛ぶといった発想を、あまりしたことはありません。機体を整備してくれる方、気象班の班長、エウラスを残してくれた父のこと。色々な思いや前提があっての空ですから。独り占めになんてしたら、怒られてしまいますよ。」
「そうか。・・・そうだな。それもまた、答えだ。イーミャ。君は優しいな。」
寂しげに微笑みながら見つめるラノアさんの視線に、私はどう応えればよいのか分かりません。
「優しいなんて・・・。ただ、一人では無力なだけです。」
「自分の無力を知るからこそ、優しくも、強くもなれるんだ。一人でいるよりもはるかに。」
「お友達や、ご家族がいらっしゃるのではありませんか、ラノアさんにも。一人ではないと思うんです、どんなに孤独だと感じても。現に、ほら、こんな砂漠のど真ん中にあってすら、私とラノアさん、バルトもいれれば三人も、集まっているではありませんか。」
「・・・。君といると、不幸とはどんなものか、忘れてしまいそうだ。」
「褒め言葉、と捉えてもよろしいんですかね、それ。」
「もちろん。」
「それでは、お礼を。ありがとうございます。」
「礼を言うのは、こっちの方だ。よく、俺を見捨てずに降りてくれた。正直あの時、助けに来てくれる確証はまったくなかった。」
「こんなご時世、せめて人間らしく、というところですかね。いえ、偽善ぶるわけではありませんけれど、ラノアさんを助けなかったら、その後、幾晩もうなされそうだったもので。」
「うなされたくなかったから、俺を助けた。」
「利己的、と申しましょう。」
「結果、俺を助けることになったんだ。動機はさして、重要じゃない。」
「まぁ、そういうことになりますか。さて、もう寝ましょう。明日は、今日の遅れを取り戻さないといけませんから。」
「ああ。おやすみ、イーミャ。」
「おやすみなさい。」
砂漠の冷え切った砂の上でも、焚き火のせいでしょうかね、胸の内は、暖かく感じられるのでした。
さて、明くる日。
太陽の光を反射し輝く、蒼の水面が見え始めます。
海です。
ゴザの砂漠地帯を抜け、再び海岸線に戻ってきた、という証しです。茶色の砂だらけな大地からすると、海の輝きの眩しいことといったらありません。
「海ですよ、バルト。砂漠地帯を抜けました。」
バルトの言う通り、海岸線はもう目と鼻の先だったのです。
しかし、砂漠を抜けたというのに、バルトは浮かない顔です。
「どうしました?」
「気をつけろよ、イーミャ。昨日、空賊に追い回されたのもこの辺りだからな。」
「おっと。そうでしたね。高度を下げて、一気に飛び抜けてしまいましょう。」
こんな旅路にあって、空賊さん達に狙われても面白くありません。そもそも、金目の物など積んではいないわけですし、なおのこと襲われ損と言えなくもありません。
緑の草地へ白い岩がまばらに落ちる、海岸地形を真下に、速度を上げます。私とバルトに加え、ラノアさんも周囲の警戒に当たってくれるわけですから、相手に気づかないまま接近されるという可能性も、まぁ、ほとんどないでしょう。
警戒空域をそろそろ抜け出せたのではないか、そう安心したときです。
ひゅーん、という砲弾の独特な飛翔音が突如聞こえてきたかと思うと、いきなり目の前が真っ白になります。
「わわっ。な、なんです。」
ラノアさんが後席から叫びます。
「煙幕(スモーク)だ! イーミャ、見つかったぞ!」
まずいです。砲弾は私達の進行方向を先導するかのように発射され、いつまでたっても煙幕部分を抜け出せないのです。
「いったん、上昇します。」
地を舐めるように飛んでいたわけですが、さすがに、この視界の悪さで地表すれすれの飛行は危険です。立ち木にでも引っかかったら、目も当てられません。
エウラスを上昇させ、白煙の中から頭を出した途端、ぬぅ、と近寄る影が。
煤けたジュラルミンの地肌がむき出しになった、旧式の中型飛行艇がエウラスと並んで飛んでいるのです。ニードロート社製、ドライドMkIII、飛行艇として傑作機と呼ばれるものの一つ、無骨な外観は、まるで空飛ぶ戦車(タンク)です。四発のエンジンが轟々と回転する音は、私達を威嚇しているようにも聞こえます。
「あーっ! 昨日の空賊野郎だ! こいつら、待ち伏せしてやがった。」バルトが叫びます。
タタッ、という乾いた機銃音が響く直前、曳光弾の光跡が目の前を筋になって通過して行きます。
「イーミャ、武装は?」
と、ラノアさんがとっさに言うわけですけれど、
「申し訳ありません、ラノアさん。この機に武装は・・。お鍋を投げつける程度のことしかできないんです。」
そう応えるしかありません。
続いて、飛行艇からこちらに向けられたライトが、チカチカと明滅します。
「イーミャ、発光信号だ。」
バルトが読み上げます。
「ウ・ミ・ヘ・オ・リ・ロ。シ・タ・ガ・ワ・ネ・エ・ト。」
再び、機銃の威嚇射撃。
怒り心頭となったバルトが喚きます。
「あ、あいつらぁ。いい気になりやがって! イーミャ、逃げようぜ。あんなでかぶつじゃ、小回りのきくこっちには追いつけねぇよ。」
「ですね。黙って従うほど・・・。」
そう言って、私は機首をぐい、と3時方向、右へと向けます。
「人間、素直にはできていないですから。」
急速に遠ざかる空賊艇のエンジン音を背にして、一挙に逃げの体勢へと入ります。
「このまま・・!」
逃げ切りたいところです。
しかし、後席から叫ぶラノアさんの声と共に、その目論見は一瞬で崩れます。
「イーミャ、気をつけろ! 奴ら、何か・・!」
ぼすっ、という鈍い音響で、ラノアさんの声がかき消されます。嫌な衝撃が、操縦桿を通じて伝わってきます。左翼を見れば、なんと。
「ぁあ! 何てことを!」
空賊の奴ら・・、方々、かぎ爪つきの銛を打ち込んできたのです。銛は飛行艇とロープで結ばれ、見事に上部左翼を貫いて、エウラスは空賊の飛行艇につかまった形となっています。
なんてことをしてくれるのでしょう。大事な機体に穴が・・・!
飛行艇の窓から、何日もお風呂に入っていなそうなマッチョの方達が顔を出します。何がおかしいのか爆笑しながら、銛に結ばれているロープを引き寄せています。
慌てふためくバルト。
「お、おい、イーミャ、どーすんだよ! つかまっちまったぞ。振り切れねーのか。」
「振り切れと言われても、無理に抗えば翼がバラバラになりますよ。」
すかさず、後席からラノアさんが身を乗り出します。
「切断できないか、やってみる。」
止める間もなく翼上へ乗り移ると、ラノアさんは銛の刺さった箇所へとじりじり近づきます。
「ラノアさん! 無茶しないでください!」
「いや、イーミャだって同じようなことしてただろ。」
冷静なバルトのツッコミですが、私の時とは状況が違います。空賊の連中、ラノアさんの行動を黙って見過ごすはずがありません。
機体側面に備え付けられた機銃を、面白半分とさえ見えるような撃ち方で、撃ちまくってくるのです。翼の上にいるラノアさんのそばを、弾丸が幾発もかすめて行きます。
「くっ・・! ラノアさん。もう無理です。お戻りになってください。」
このままでは、機体がバラバラになるどころではなく、翼の上にいるラノアさんが狙い撃ちされてしまいます。
私は座席の下から、小型の信号灯を取り出すと、空賊の艇に向かって明滅させます。
シ・タ・ガ・ウ。ウ・ツ・ナ。
空賊の飛行艇は、足の遅い仔犬を無理やり引きずる非道な飼い主のごとく、ロープで繋がれたままのエウラスを引いて海面へと着水しました。
とうとう、エウラスは彼らの飛行艇に横づけされてしまいます。
翼から翼へと、遠慮のない土足で乗り移ってくるのは、筋肉がみっしりと詰まった両腕をぶら下げる、中年の男です。でっぷりとしたお腹の割に素早い足取りで操縦席前の翼面に立ったかと思うと、腕を組んで仁王立ちになります。
日差しが隠れ、操縦席に長い影が落ちてきます。
「金目の物を出せ! 全部だ! 隠すなよ! 隠せば即、サメの餌食だ!」
思わず耳をふさぎたくなるほど、やたら大きな声で賊と呼ばれる人々の、定型文みたいな文句をのたまいます。
飛行艇からこっちを見ていた、配下と思しき痩せぎすの男が、素っ頓狂な声を上げました。
「お頭(かしら)! そいつ、女の子ですぜ!」
「お頭じゃねぇ! キャプテンと呼べぇ!」
さらに大きな声で、お頭と呼ばれたくない空賊のキャプテンは、がなるのでした。いったいどこからあんな音が出てくるのでしょう。
「女だとぉ?」
キャプテンは身体を折り曲げるようにして私に顔を近づけると、まじまじと見つめます。その吐息は、ラム酒と、腐った魚と、生渇きの洗濯物を集めて20日間樽の中で熟成させたかのような、名状しがたい匂いを放っているのでした。
私は思わず、顔を背けます。
「確かに女だ。お前、女だてらに操縦士やってんのか。それも、こんな骨董品みてぇなボロ複葉機の。」
私はキャプテンを見据えて言います。
「ボロとは失礼な。こう見えても、最高の整備状態にあった優良機だったんですよ。それを、銛なんかで穴あきにしてしまって・・! どうしてくれるんです。」
「なんだとぉ? 空賊が獲物を捕まえて何が悪い。逃げる獲物を捉えるには、銛でも打ち込むしかねぇだろぉ。どうしてくれるも何もねぇ!」
そこまで言って、突然キャプテンは私の後ろのラノアさんへ、鋭く言います。
「おい、そこの陰気臭い野郎。おかしな動きをするんじゃねぇぞ。」
ちら、と振り向くと、ラノアさんの背後へ回されようとしていた右手が、そこで止まっています。さすがに、空賊の頭をはるだけあって、抜け目はありません。
「今も機銃がお前らを狙っていることを、忘れるな。俺の顎先ひとつで、蜂の巣にだってできる。おら、さっさと、金目の物を・・・。」
と、そこで、キャプテン、私の座席の下にうずくまる、とあるモノに気づいたようです。
「そりゃ、なんだ。」
「何、とは何ですか。何もありませんよ。」
「どけ。」
キャプテンは、無理やり私を脇へどかせると腕を伸ばし、黒いソレを鷲掴みにします。
「こいつぁ・・・。」
痩せ男が指をさして叫びます。
「お、お頭、それ、昨日のカラスですぜ! おかしな鼻歌を歌ってやがった、シャベリガラスの野郎だ。」
おかしな鼻歌って、バルト・・・。それで彼らに目を付けられたんですね。
「キャプテンと呼べと、言っただろうが! ったく、何度言っても分からねぇなぁ。シャベリガラスか・・。おい、てめぇ。何か言ってみろ。」
首筋をつかまれ、ブラブラと揺すられるバルトは、
「カ、カァ、カァ〜。」
と、鴉の鳴き真似をして見せます。
鴉がカラスの鳴き真似というのもおかしな話ですが。
痩せた男もエウラスの翼に飛び移って来て、バルトを上に下へと見つめます。
「あ、あれぇ? おかしいっすねぇ。喋りやがらねぇ。」
首を傾げる痩せ男へ、キャプテンが言います。
「お前、昨日のカラスだと言うが、そもそも見分けがつくのか、カラスの。」
「いや、こんな黒い鳥、カラス以外にねぇですよ。」
「おま・・! 馬鹿野郎! 黒い鳥がカラスだってのは分かってんだよ。こいつが喋るのかどうかって話をしてんだ。」
「喋れば、シャベリカラスですぜ、きっと。」
「あのなぁ。」
キャプテンさん、なかなか部下には苦労してそうです。と、空賊の配下達の質を心配している場合じゃありません。バルトがシャベリガラスであることは、絶対、彼らにばれてはいけません。
というのも。
キャプテンさんが言います。
「こいつが本当にシャベリガラスだというなら、同じ重さの金と取り引きできるってもんだ。」
そうなのです。
シャベリガラスはその希少性ゆえ、喋るブラックオパールなどとも比喩される動物です。つまり、お高く取り引きされてしまうのです。
キャプテンさんはさらにバルトを揺すります。
「おい、こら、喋れって。」
「カ、カァ、カァカァ!」もう、必死のバルトです。
「てめぇ。シャベリガラスなら価値もあろうが、ただのカラスだとしたら焼いて喰うぞ。」
キャプテンさんの言葉に偽りはなさそうです。そういう目でした。
焼き鳥にされたらたまらないと、バルトも観念せざるを得ません。
「わ、分かった! 分かったから、焼いて喰うのだけはやめろ。」
「喋った! 野郎、やっぱりシャベリガラスだったんすよ。」痩せ男が嬉しそうに叫びます。
「やっぱり、じゃねぇよ。黒い鳥見てシャベリガラスだと騒ぎ立てただけだろうが。まぁ、いい。」
キャプテンさん、バルトを掲げて、にや、と凄絶な笑みを浮かべます。部下の差し出す麻の袋へ乱暴にバルトを詰め込み、
「シャベリガラスとは、なかなか悪くない獲物だ。おい、野郎ども! 残りは好きに漁れ!」
と、迷惑この上ない指示を出します。
「へい!」
わらわらとエウラスに乗り移ってくる空賊の皆さん、エウラスの機内を漁って、取れるものは根こそぎ取ろうというつもりです。
口々に、
「おい、ほんとに女だぜ。最近では、女操縦士ってのも珍しくないらしいが、初めて見た。」
「女が操縦なんてできんのかよ。」
「しけたオンボロ機だぜ。金目も何も、燃料吸い出して売ったほうが、まだ金にならぁ。」
とか、なんとか。
勝手に言われ放題ですが、機銃の銃口を向けられている手前、私達にはどうすることもできません。
私のトランクまで開けられて、中身をひっくり返されます。というか、下着を手に取って眺めないで欲しいのですが。
「あん? なんだ、こりゃあ。」
鴉はすべてシャベリガラスだと疑う例の痩せ男、言いながら手にしているのは。
「それは・・・!」
「んん?」
いけません。ここで動揺すれば、それが貴重品であると教えるようなものです。
痩せ男が手にしているのは、観測原簿の写し。この旅の核心にして、道行きに意味を与えるものです。
「た、ただの落書きですよ。」
「落書きぃ? にしては、いやに几帳面な字で細かく書いてあるな。」
この方。ただのうっかりさんではないみたいです。原簿の写しをぱらぱらとめくりながら、私の顔と中身を交互に見比べます。内容は理解できなくとも、それが私にとって重要なものか、ひいては金になるかどうか、私の反応から判断しようとしているのです。
「もともと几帳面な性格ですから。も、持っていかれたければ、どうぞ。」
冷や汗が背中に浮かぶのを感じます。
「・・・ふん。」
痩せ男は、ぽい、と原簿の写しを放り出すと、
「落書きなんて奪ったところで、金貨の一枚にもなりゃしねぇ。おっと、鍋発見。こいつはもらってくぜ。」
よかった・・・。
原簿の写しには価値なし、お鍋の方が高く売れると思ったみたいです。
散々機内を漁ってから飛行艇へと引き上げる空賊の方々、口々にたいしたもんはなかったと言うことしきりです。
「キャプテン! 機体はどうします?」若い空賊が、エウラスを指して言います。
「そんなボロ機体、売ってもたいした金にならねぇ。ほっときな。」
ボロ機体・・・。
「壊しますか?」
「馬鹿野郎!」キャプテンさんの怒声が響きます。
「壊したらその子が帰れねぇだろうが。そんなかわいそうなことするんじゃねぇ。行くぞ。」
翼に穴を開けられ、バルトを始め根こそぎ奪えるものを奪われるという状況を、かわいそう、にカウントしないつもりでしょうか。キャプテンさんの言う、かわいそうの基準がよく分かりません。
エウラスの翼に刺さった銛を乱暴に引き抜くと、空賊達はするすると飛行艇に戻って、穏やかな海を離水して行きます。
「バルト・・・。」
私には、水平線の彼方へ吸い込まれて行く銀翼の簒奪者、獲物の鴉を冠した彼らを、呆然と見つめることしかできませんでした。
シャベリガラスとばれましたから、バルトの身の安全は保証されているでしょうけれど、あのキャプテンさんに、彼を逃すほどの隙があるとも思えません。
いったい、どうしたら・・・。
嵐のような空賊さん達の強奪が去ってみると、急に恐怖が湧いて起こります。よく助かったものです。金品を奪うことが目的である以上、私達を生かしておく必要はなかったのですから。
座席の立って翼の上に突っ伏しておりますと、ラノアさん、穴の空いた翼面をしきりにチェックしています。
「・・・ラノアさん?」
「イーミャ、行けるか?」
「行ける、とは、どこへ?」
「バルトローベを助けにだ。他にどこへ行くというんだ。」
「助けにって・・・、ラノアさん、本気ですか? 彼らの武装、見たでしょう。近付くことすらできませんよ。」
「だったら、どうする。バルトを諦めるとでも言うのか。」
「諦めるだなんて、そんな・・! バルトは私が小さい頃から一緒だった、姉弟(してい)のようなものです。諦めるとか、そういう話にはなりません。」
思わず、語気が強まります。
「だろう。だったら、助けるしかない。」
「けれど、どうやって? 彼らがどこに行ったのかも分からないんですよ。」
「向かった場所なら検討がつく。地図はあるか。」
「ありますけれど・・。」
検討がつく、とはどういうことでしょう。
翼の上に地図を広げますと、私はおおよその現在位置を指します。
「私達は今、このあたりにいます。空賊達は北上して行きましたけれど・・。」
地図上の北側へ指でなぞっても、その先には何もありません。ただ、海が広がるばかりです。
ラノアさんは、ちょっと考えてから言います。
「離水時の滑走距離からして、奴らはほとんど燃料を積んでいない。ここから飛ぶとしても、半径50キロ圏を大きく越えることはないだろう。この近辺には地図上にない小さな離島が多く点在している。おそらく、その内の一つを根城にしているはずだ。」
「・・・ずいぶんお詳しいんですね。」
郵便会社で得た知識でしょうか。それにしても、ずいぶん具体的です。まるで、空賊相手に立ち回りを経験したことがあるような、と申しましょうか。
私の言葉には応えず、ラノアさんは続けます。
「戦利品を一度にまとめて売ると、そこから足のつく可能性がある。奴らは一時的に根城へ溜め込んで、小分けにした物(ぶつ)をあちこちの宝石商などに売るんだ。」
「じゃあ、バルトもすぐには売り飛ばされないと・・・。」
「ああ。もっとも高値で買い取る相手を探すはずだ。当分は、例のキャプテン殿のお相手、ということになるだろうな。」
「しかし、根城にバルトがいるとしても、どうやって取り返せば・・・。」
「戦利品を得た後の奴らの取る行動は、決まっている。」
「取る行動?」
「呑むんだよ、酒を。金の種が手に入ったんだからな。浴びるほど飲む。狙うなら、今が好機なんだ。」
「なるほどですね。」
「現在地を基点として、扇状に探索すれば奴らの根城はすぐに見つかるはずだ。行くぞ。」
「はい!」
エウラスの翼に穴は開いておりますものの、飛行には支障なさそうです。幸い、羽布を貼るための骨組みは逸れておりました。
奪われたら奪い返す。
大事なバルトを盗られたのですから、それは取り返さねばなりません。いたって単純な理屈ではありますが、混乱した私には、いいえ、混乱していなくとも、奪い返す、という発想が私にはありませんでした。何かを守ったり、貫こうとした場合、時に少々強硬な手段をも、選ばなければならないのです。ラノアさんの背中には何か、戦う、という行為が染みているような、そんな印象を受けずにはいられませんでした。
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