チャプター3 空の道行き、砂の供連れ
川のほとりは薄暗く、深々と流れる水は、静まり返った湖面のように、いっさいの音を立てていません。
少し前を、大きな人影がゆっくりと歩いています。
私もその人について行こうとするのですが、歩幅が違いすぎるのでしょうか、なかなか追いつくことができません。
不意に、川の水かさが増してきました。
人影の足元にも水が浸り出します。
私は何かを叫ぶのですが、喉から声が出ていません。
沈黙のうちにするすると水位は増し、音のない叫びが、叫ぼうとする努力に愚かしさを感じるほどの、無言の壁が、私と人影を遮るのです。
人影は水へ没する間際、こちらを振り返って微笑みました。
「お父様!」
私は自分の声に、目を覚ましました。
見ると、私の顔をのぞきこむお髭の顔。バルトもいます。
「おい、イーミャ。大丈夫か? ずいぶんうなされてたぜ。」
「え、ええ・・・。すいません、バルト。心配をかけて。」
髭をたくわえたスキンヘッドの、整備服に身を包むおじさまが、錫製のカップを差し出してくれます。
「飲め。顔が青白い。」
「あ、ありがとうございます。」
温めたミルクが、カップの中で湯気を立てているところをすすりますと、少し気分が落ち着きました。ほんのりとした、砂糖の甘さが嬉しいです。
ここはポート・ラウラ近郊の簡易補給地です。
ドーニ川のほとりにあって、往来する舟艇が故障した場合に備え、わずかではありますが燃料や食料を備蓄しています。枝を挿したカモフラージュ用ネットと木々に遮られ、非常に見つけにくくはありましたが、アマデオ班長の秘密マップに沿って、どうにか辿り着くことができたのです。
キャンバス地の広いテントの中、オイル缶に穴を開けた手製の焜炉(こんろ)に木炭が詰められ、緩やかな火が揺れています。おじさまの影が、背後に大きく踊っています。
「ミルク、美味しいです。ありがとうございます。」
私がお礼を言いますと、
「ああ。」
おじさま、短くそれだけ言って、焜炉の火に目を落とします。とても無口な方なのです。
それからさらに沈黙が続き、私がホットミルクを半分以上飲んでしまったときでした。不意に、おじさまが口を開きます。
「・・・夢か?」
「え?」
「うなされていた。」
「あ、はい・・・。時々見るのです。お父様のこと・・・。亡くなったのは、ずっと昔のことなのですけれどね。」
「そうか。」
再び、束の間の沈黙。おじさまは思い出したように言います。
「翼の損傷は、一応、応急だが修理しておいた。エンジンや主桁に被弾はない。問題なく飛べるだろう。」
「ありがとうございます。まだまだ先は長いので、破損が軽微でよかったです。」
「イスタリアまでだったな。単機でそんな遠方まで、いったい何をしに行く。」
「えと、それは・・・。」
観測原簿の複製を届けに、ということなのですけれど、気象予報は軍事作戦と密接な関係にあります。その予報の元となる原簿を運んでいる最中だとは、極力、秘密にしておく必要があるのです。例え味方であるとしても。
「軍機か。すまない、余計なことを聞いたな。」
「いえ、そんな・・・。突然、何の連絡もなくやって来て、補給を受けたり、修理をしてもらったりとお世話になっていますのに、詳しいお話しもできず・・。申し訳ありません。」
「気にするな。よくあることだ。」
微笑むおじさまの笑みは、海のように深いものでした。どこか、アマデオ班長に似ている気もします。お髭のせいでしょうか。
「おじさまは、ここにはもう長く?」
「十年近くになる。戦前は石炭の運搬をやっていてな。船で川を上下する仕事だ。だが、軍に徴用されてからはずっとここだ。陸(おか)に上がった魚みたいなもんさ。」
「そうでしたか・・・。」
あんたぐらいの、とおじさま言います。
「え?」
「ちょうど、あんたぐらいの年頃だよ。娘だ。」
「娘さんがいらっしゃるんですか?」
「生きていればの話だ。敵の落とした爆弾で、屋根の下敷きになったんだ。あっと言う間だった。瞬きする間もなく、笑顔で笑っていた娘が、もう息をしていなかった。」
「あ・・・。」
キャンバス地に浮かぶおじさまの影が、ゆらめきます。この方の寡黙な印象が根差すのは、眼前で娘を失うという、凄絶な体験ということでしょうか。私は絶句したきり、何も言うことができません。
「湿っぽい話になったな。昔のことだ。」
そう、昔のこと。そして、それを昨日のことのように思い出す、決して忘れ得ぬ記憶。
おじさまは私の姿に、亡くなった娘さんの姿を見たのでしょうか。あるいは、私がお父様のことを話したから・・?
私という突然の来訪者によって、おじさまの記憶を閉ざしていた重い蓋に、隙間ができてしまったのかと思うと、ちょっぴり後ろめたさを感じてしまいます。思い出さずに済んでいたことを、思い出させてしまったのですから。私として、どうすることもできない事柄ながら、おじさまの心の平穏を乱してしまった責が自分にあると、考えずにはいられません。
黙り込んでしまった私を気遣ってくれたのでしょうか。おじさまが声の調子を変えて言いました。
「明日は早朝に発つんだろう。もう寝ろ。」
「はい・・・。」
「ああ、それとな。」
「なんでしょう。」
「そのおじさまというの、やめてくれないか。むずがゆくっていけねぇ。」
おじさまは照れくさそうに笑います。
「オーウェンだ。」
「それはたいへん失礼いたしました、おじ・・、オーウェンさん。イーミャ・バスティアネリと申します。」
「バスティアネリ・・・?」
「私のことも、イーミャとお呼び下さいね。おやすみなさい、オーウェンさん。」
「あ、ああ。おやすみ、イーミャ。」
私は簡易ベッドへ横になると、毛布を頭まで引き上げました。一緒に毛布の中へ入ってきた、寒がりのバルトの羽を撫でながら、私は再び、眠りに落ちます。
翌朝。
日の出前の空には薄灰色の雲がかかっていますが、雨はまだ降っていません。
「夜までもってくれればいいですけれど・・・。」
不機嫌な空を仰ぎながらつぶやく私の肩で、バルトが大きな欠伸をします。
「この空だと、怪しいな。それより、イーミャ、あのオーウェンっておっさん、バスティアネリのこと、知ってそうな感じだったな。」
「・・・ええ。恐らく、ご存知なのでしょうね。だからと言って、どうなるものでもありませんけれど。」
「わざわざ、フルネームで名乗る必要、なかったんじゃねぇの?」
「私がバスティアネリと所縁(ゆかり)のある者だと知れても、オーウェンさんなら大丈夫かと。そもそも、名以上の意味は持っていませんから、すでに。」
「そうかも知れないが・・・。」
イーミャ、と掛ける声に振り向くと、オーウェンさんがエウラスのところで手を振っています。
「燃料と真水は満タンにしておいた。それと、これも持って行け。鮭を燻製にしたものだ。日持ちする。」
「ありがとうございます、オーウェンさん。何から何まで。」
「これが仕事だ。礼には及ばんよ。しかし、バスティアネリのイーミャといえば、あんた・・・。もしかして、バスティアネリ家の令嬢か?」
やっぱり、オーウェンさんはご存知だったようです。
「令嬢などと、ご大層なものではありません。元(もと)、が付きますしね。」
「そうか。詳しいことは知らんし、こんなこと言える立場でもないんだが・・・。苦労したな。あんたがこうして元気な姿でいることを、俺は嬉しく思う。」
「ありがとうございます。そのお心遣いに、感謝します。」
差し出された手に握手しますと、大きく包み込むような手が、オーウェンさんの人柄を表しているかのようでした。
私はエウラスの翼に立つと、オーウェンさんと協力してエンジンをスタートさせます。
声が轟音にかき消えてしまいそうな中、オーウェンさんの見送りの言葉、
良い旅を。
私は片手を振って返礼とし、ドーニ川を下流に向けて加速します。やがて、機体がふわりと宙に浮きました。離水成功です。
オーウェンさんの補給地上空を一周巡って挨拶をしたかったのですが、所在を秘匿している以上、目立った行動は取れません。私はしばらく、川面すれすれを飛んでから十分距離を取ったところで、上昇しました。
「あのおっさん、いい奴だったな。」
ぽつりとバルトが言います。
「そうですね・・。ところで、バルト。おっさんという言い方はやめなさい。ちゃんと、オーウェンさんと呼ぶんですよ。」
「おっさんはおっさんだろ。ちゃんとさん付けしてんだから、細かいこと言うな。」
「そういう問題ではないのですが。」
「それより、イーミャ。出発間際にもらったのって、鮭の燻製だろ。ちょっと味見していいか?」
「まだダメです。お昼にちゃんといただきますから、それまで我慢していなさい。」
「えー、いいだろぉ。ちょっとだけだからさぁ。」
「ダメと言ったらダメです。そんなに意地汚く食べていたら、太っちゃいますよ。」
「栄養はつけられる時につけとくもんだ。野生を生き抜くってのは、シビアなんだぜ。」
温かいお湯でしか行水したくないとかおっしゃる、飼い鴉の立場のどこに野生があるのでしょうね。
曇天と、時々地表を這うように出る霧のせいで、今日の視界はひどく悪いです。飛びにくいことこの上ありませんが、しかし、そのお陰で敵に見つかることなくポート・ラウラを離れることができました。
「なぁ、イーミャ。今日はどこまで飛ぶんだ?」
「今日は無人の補給施設がありますから、そこまでですね。」
「無人? 燃料なんかが、ただそこに置いてあるだけってことか? おいおい、それじゃあ、盗んでくれと言ってるようなもんだろ。」
「滅多なことでは盗まれませんよ。」
「盗まれないって、誰かが見張ってるわけじゃないんだろ。なんでそんなことが言い切れるんだよ。世の中、善人だけじゃないんだぜ。」
「場所そのものが、盗まれにくい要素となっているんです。」
「場所って?」
「ゴザの砂漠です。」
「砂漠か。なぁるほどね。そりゃ、盗みようがない、って、砂漠! 砂漠の上を飛ぶのか?」
「そうですよ。何か?」
「何か? じゃなくてさぁ。てっきり、このまま海岸線沿いに飛び続けるもんだとばかり思ってたんだが、砂漠に入るのか? 大丈夫かよ。」
「大丈夫ですよ。だって、飛んでいるのですもの。地形は関係ありません。」
「そうかも知れないけどなぁ。着陸はどうすんだよ。フロートだぞ。」
「砂地にも対応してる仕様ですから、平気ですよ。」
「仕様って、そんな仕様聞いたことないぞ。」
「平気ですってば。多分。」
「・・・出た。多分て。毎回毎回思うわけだが、イーミャの言う多分で・・・。」
「失敗したこと、ありますか?」
「・・・いや、ないけど。まったく、フロートで砂の上に着地とか、普通考えないだろ。」
バルトはぶつぶつ言っています。色々とご不満のようですが、仕方がありません。
「ゴザを突っ切らないと、ものすごく遠回りになってしまうんですよ。途中の補給地も途絶えちゃいますし。最善にして唯一のルートなんです、これが。」
「はいはい。分かったよ。ルートを決めんのはイーミャだからな。これ以上は何も言わねぇ。せいぜい、鴉のミイラにならないよう、ルートを間違えないでくれよ。」
「鴉のミイラだなんて。でも、猫のミイラはあるらしいですから、鴉もありなのかも知れませんね。」
「おい、よしてくれよ。ミイラになるなんて、ご免だぜ。」
「ふふ。冗談ですよ、冗談。」
「イーミャの冗談は、冗談に聞こえないから怖いんだっての。」
ミイラとなって鎮座するバルトの姿を想像してしまいました。当人には申し訳ありませんが、なかなかキュートなのです。
しばらく行きますと、それまで延々と東に伸びていた海岸線が、急に北へ向かいます。私達はこのまま東へ直進しなければなりません。
さらば、海よ、というやつですね。しばし、蒼い波頭に別れを告げて、内陸部へと進むことになります。海を離れるにつれ、それまで大地を覆っていた緑の草地が、急にまばらとなって行きます。赤茶けた岩地を過ぎますと、いよいよ植物の数は少なくなり、いつしか、黒糖よりもなお薄い、砂色の砂が広がる土地に入っていました。
地表の砂が増えるに反比例して、上空の雲が少なくなり、青空と、射るような日差しが照りつけるようになりました。砂漠地帯に入った実感が湧いてきます。
照りつける太陽の光は容赦なく、じりじりと、焼けるような暑さを感じます。
「急に暑くなってきたなぁ。」
バルトは羽を頭の上にかざしながら、そんなことを言います。
「黒い羽なんかまとっているからですよ。光を吸収しちゃいますから。脱いでしまえばいいんです。」
「脱げるか。自前の羽だぞ、これは。」
「それは失礼。」
と、バルトをからかってみたところで、暑さが和らぐわけでもありません。風除けの風防ガラスが操縦席前面にある以外、コックピットはむき出しの状態ですから、直射日光にさらされてしまうわけです。
「ふぅ。やっぱり、暑いですね。」
操縦桿を太ももで固定するように押さえますと、バナナの皮を剥くみたいに、フライトスーツの上半身を脱いでしまいます。ついでに、ワイシャツの袖をまくり上げ、首元とネクタイは思いっきり緩めます。
「おい、イーミャ。だらしないぞ、その格好。」
バルトの指摘はごもっとも。ですが、
「分かっていますよ。でも、暑いんですから。操縦してる最中、熱中症なんかになるのは致命的ですからね。当面の応急処置です。」
そう返して、水筒の水を口に含みます。
空には雲がまったく見えなくなりました。一面の青、ゼニスブルーというやつです。エンジンオイルの温度が上がりすぎていないか、温度計をこまめにチェックします。もともと、エウラスのエンジンは砂漠仕様ではありませんので、極端な高熱には弱いのです。
それと見る間に、油温はすでに100度を超えています。
「いけませんね・・・。」
「どうした、イーミャ。」
「油温が100度を超えてしまってるんです。」
「まずいのか?」
「今すぐどうということはないのですけれど、このまま温度が上がると、エンジンを痛めます。外気温が下がるまで、いったん着陸して冷却した方がいいかも知れません。」
「着陸? エンジンを冷ますためにか? これだから、古い機体はやっかいなんだよなぁ。」
「どんなエンジニアリングにも、限界というものはあるんです。そこを見越した運用をするところに、パイロットの腕がかかっているんですよ。」
「分かった、分かった。で、どこに降りるんだよ。」
「そうですね。なるべくなら、木陰など日に当たらない場所がいいのですけれど。」
「木陰ねぇ。」
私達は地表を眺めるわけですが、地平線の先の、どこまで行っても砂、砂、砂。木陰など、期待できそうにもありません。
「・・・なにもねぇな。」
「そうですねぇ・・・。バルト。しばらく、目をこらしてもらっていいですか。オアシスみたいな場所が、どこかにあるかも知れません。」
「はいよ。何か見つけたら教える。」
バルトは、その鳥の目をもって周囲360度を監視してくれます。油温は現在103度。いまだ、じりじりと上昇を続けています。まさに灼熱の、とはこのことでしょう。
「あん・・?」
「どうかしましたか、バルト。木立でも見つけました?」
バルトはおかしな声を上げたかと思うと、砂漠の一点を凝視しています。
「いや・・。木、じゃねぇな。人だ。」
「人? こんな場所で? 隊商(キャラバン)ですか?」
「いや、キャラバンでもねぇな。こっち向かって手を振ってるぜ。」
「手を。どこです?」
私は、バルトと同じところ、砂丘のはるか先を凝視します。
10時の方向、さざめく砂のうねりにある黒い点。バルトの言う通り、確かに何かあります。
「行きましょう。」
私は機首を巡らせると、発見した砂上の物体に向かいます。
接近するにつれ、それはバルトの言う通りでした。両手を大きく振って、こちらに合図しているようです。その近くには、ばらばらに飛散した金属質の物体が。それらはほとんど原型をとどめていませんが、かつて飛行機であったらしいことだけは、分かります。
「墜落、したみたいですね。」
「あいつ、よく生きてたな。機体がばらばらじゃねぇか。」
「恐らく空中で脱出したのでしょう。でなければ・・・。」
とても、生き残れはしなかったでしょう。それほどまでに、機体の一部は砂に埋もれ、別のパーツは粉々に砕けているのです。
「降りましょう。」
「降り・・? 降りるって、イーミャ、まさか、あいつを助けるつもりか?」
「当たり前でしょう。こんな砂漠のど真ん中で放置されたら、数日も持ちませんよ。」
「いや、でもなぁ。見たところ、あいつ男だし、素性の知れない人間を旅の道連れにするってのも、どうかと思うぞ。」
「狭量なことをおっしゃいますね、あなたも。同じ人間、助け合わなければいけません。」
「でも、スペースとか、積載重量の問題もあるし・・・。」
「少々狭いでしょうが、荷物の間に収まってもらえればそれでいいでしょう。降ります。」
「いや、イーミャ、あのな・・・。」
なおも言い募るバルトの言葉には耳を貸さず、私はエウラスを着陸姿勢にもって行きます。砂丘のなるべくなだらかな場所を狙い、斜面を登る向きとなるよう機体を制御して・・・。
着地。
柔らかい砂とはいえ、水面への着水に比べるとかなりの衝撃です。
どすん、という、機体の骨格全体を揺るがすようなショックが去ると、あとは滑らかな砂地を登坂することで、急激に減速します。
砂丘の頂に来たところで、機首を90度右に転向させ、ぴたりと止めることに成功します。
ふふ。我ながら見事な着地。初めての砂上着陸にしては上出来です。
「ふぅ。ほら、フロートでも問題ないでしょう。」
「いや、こっちは冷や汗もんだぜ。着地の瞬間、かなりの衝撃だったぞ。」
「大丈夫ですよ。あれしきのことで壊れるほど、やわなつくりはしてませんて。」
「なら、いいけどな。・・・・。」
バルトが急に、黙ります。
「どうしました。」
「あいつ。」
「え?」
バルトの見る先へ目をやると、さっきまで手を振っていた砂漠の一人法師さん、なんと倒れているではありませんか。
「あらら。いけませんね。」
慌てて機外へ飛び出す私の背後で、バルトは不吉なことをつぶやきます。
「見っけてもらって安心したもんだから、死んだんじゃねぇの。」
「縁起でもないことを。」
私はいったん走り出しかけた足をストップして引き返すと、コックピット内にある水筒をつかみ、また駆け出します。
砂に足を取られ、走りにくいことこの上ありません。
砂の上にうつ伏せで倒れているのは、恐らくパイロットの方でしょう。見慣れないものですが、着ているのは明らかにフライトスーツです。
「ふっ・・・! よっ・・・と。」
ごろん、と転がし仰向けに寝かせます。
苦しげに口を動かしているところを見ると、やはりまだ生きています。ほとんど声になっていませんが、喉から絞り出てくる音は、みず、と言っているようにも聞こえます。
「ええ、ちょっとお待ち下さい。今、飲ませて上げますから。」
頭を抱き起こすようにして持ち、その口に水筒を当ててゆっくりと傾けます。
口に入ってきたのが水と分かると、砂漠の遭難者はもがくようにしながら激しく水を求めます。
「ゆっくり。落ち着いて飲んでください。水筒は逃げませんから。」
ごくり、ごくり、と喉を鳴らしながら、水筒にあった水の最後の一滴までを、その方は飲み干しました。
「はぁ・・はぁ・・。すまない。」
「歩けますか? ここでは日に当たりすぎます。翼の下の影に入れば、少し休めるでしょう。」
「あ、ああ。」
見慣れぬフライトスーツの方の腕を私の首へ回しますと、支えながら歩きます。弱々しい歩みではありましたが、どうにかエウラスのところまでたどり着くと、翼面下の影になっているところへ座らせてあげます。
しばらく、肩で喘ぐように呼吸をしていましたが、水を飲み、日陰に入ることで少し落ち着いたようです。
「あ・・・。」
と、その方は口を開きます。
「あ?」
「あらためて、礼を言いたい。俺はラノア。ラノア・クロイツという。・・郵便機のパイロットをしていたが、エンジンの不調で墜落したんだ。機体は・・・見ての通りだ。」
郵便機のパイロット、ラノアさんは、流暢なイストリア語で言います。
「そうでしたか・・。あの、乗っていたのはお一人・・?」
「同僚が乗っていたが、墜落時に死んだ。故郷まで連れて帰りたかったが・・・。砂の下に埋葬したよ。」
「・・・心中、お察しします。」
「あんたが通りかからなければ、俺も砂に埋もれていただろう。名を聞いてもいいか。」
「あ、申し遅れました。イーミャ・・・とお呼び下されば。」
苗字の方は・・・ちょっと伏せておくことにします。
「イーミャ、ありがとう。」
・・・んおゃ?
先ほど助け起こしたときは、砂まみれで気づきませんでしたが、よく見ると端正な顔立ちです。鋭い視線と相まって、いわゆるイケメンの部類に入る方だと、今さらながら発見するのです。歳は・・・、私よりちょっと上くらいでしょうか。老成した雰囲気が、実年齢よりも上に見せるタイプの方です。
ちょっと陰のある微笑みは、多くの異性を虜にしてきたのではないかと、私は勝手に想像してしまいます。ほとんど無意識の内に、私は緩めまくっていた胸元の襟を合わせ、ネクタイを締めなおします。
「いえ、お礼など・・。当たり前のことをしたまでです。もし、私の機が墜落して、ラノアさんが通りかかる立場であっても、同じことをされたのではないですか。」
「・・そうだな。それでも、当たり前のことを当たり前のようにできる人間は少ない。そういう時代だからな。」
寂しそうに笑うラノアさんです。
バルトが私の肩にとまったかと思うと、嘴で耳を引っ張ります。
「ちょっと、バルト、どうしました?」
なおも、耳を引っ張るバルト。言いたいことがあれば、言えばいいものを、私の耳を引っ張るばかりで黙っています。
「すいません、ちょっと失礼を。」
と、ラノアさんに断ると、私はエウラスの向こう側に回り、機体から少し離れました。
「どうしたんです?」
「イーミャ。あいつ、やっぱり怪しいぞ。」
「怪しいってどこがですか。」
「郵便機のパイロットとか言ってるけれど、あれ、ホントか?」
「ご本人がそうおっしゃるのですから、本当でしょう。」
「いや、そうじゃなくて。嘘をついてる可能性もあるだろ。」
「嘘を? でも、ゴザの砂漠越えは最短で飛べるルートですし、民間の会社が利用しても不思議ではありませんけれど。」
「とにかくさ、あいつ、連れてくのはやめた方がいいって。あんな得体の知れない男。機を乗っ取られるかも知れないんだぞ。」
「まさか。それは考えすぎですよ。ここまで助けておいて、あとはさよなら、じゃ、いくらなんでも非人道的でしょう。バルトが何と言おうと、連れて行きますから。」
「・・イーミャ。お前、ひょっとして、あいつがいい男だからそうしたいとか、そんなこと考えてるんじゃないだろうな。」
「ちょ・・! なんと失礼な。そんな下心をもって助けたりしませんてば。魅力的な男性だからお助けするとか、まさかそんな。イーミャ・バスティアネリを、見くびらないでいただきたいです。笑みに憂いがあってカッコイイですとか、ミステリアスな雰囲気に惹かれるなどと、考えてもいませんから。」
「そんなムキになって反論しないでもいいだろが。ますます怪しい。・・・まぁ、そこまで決心してるんだったら、あとは俺がなんと言っても、覆すつもりはないんだろう。イーミャの、頑固者。どうなっても知らないからな。」
「頑固で結構。ここでラノアさんを見捨てたりしたら、一生後悔すること請け合いです。」
私は踵を返すと、ラノアさんの所へ戻ります。
「すいません、ラノアさん。失礼しました。」
「何かあったのか? 誰かと話しているようにも聞こえたが・・・。」
「ああ、いえ。ちょっと相方が騒いでおりまして。たいしたことではありません。」
「相方? 副操縦士(コパイロット)がいるのか。」
「いえ、人ではないんです。シャベリガラスを連れておりまして・・・。」
「シャベリガラス・・・。さっきの鴉か。珍しい連れだな。」
「昔、我が家で保護しましたら、それから懐かれてしまったと申しましょうか。少々うるさいところもありますけれどね。」
「そうか。・・・ところで、助けてもらったところ、さらにこのような申し出をするのは心苦しいのだが・・・。こいつに乗せてはくれないだろうか。」
こいつ、とラノアさんが目線で指すのは、エウラスです。
「あ、その件ですね。無論です。こんなところにラノアさんを置いていくようなことは、いたしませんよ。どちらまでお送りすればよろしいでしょう。」
「そこなんだが・・・。すまないが、イスタリアまで頼めないか。まだ相当な距離だが、会社の拠点がそこにあるんだ。」
「おや、奇遇ですね。イスタリアでしたら・・・。」
と、言いかける私のところへ再びバルトが飛んできて、さっきよりも強く耳を引っ張ります。
「イタたっ。ちょっと、バルト、何ですか、いったい。」
バルトは耳元で囁きます。
「目的地とか、ほいほい教えるんじゃねぇよ。一応、観測原簿のことは軍機でもあるんだぜ。」
「分かった、分かりましたよ。いちいち耳を引っ張らないでください。耳たぶが取れちゃいますよ。」
不思議そうに私とバルトのやり取りを見つめるラノアさん。曖昧な笑みでごまかしつつ、私は言いました。
「あ、はは。たびたびすいません。それで、イスタリアでしたね。そこでしたら、近くまで飛ぶ予定がありますから、問題ないですよ。ご同乗ください。」
近くまで飛ぶも何も、そこが目的地なんですけれどね。
「ありがとう、イーミャ。それから、君も。」
と、ラノアさんはバルトに向かって丁寧に頭を下げます。
「・・・おう。」
そっぽを向いて、バルトはいかにも面白くなさそうな顔で返事をするのです。
「こちらはバルトローベ。バルトとお呼び下さい。」
そう言ってラノアさんへ紹介するのですが、バルトはラノアさんと仲良くするつもりなど、さらさらないといった感じで、ぱっ、と飛び立ち上空で旋回を始めてしまいました。
「すいません。あの子、ヘソを曲げるとちょっと難しいですから。」
「いや。初対面の人間を信頼しろというのも無理な話だ。構わない。」
淡々とした口調でラノアさんは言います。
「それでは、ラノアさん。体力が落ちているところ申し訳ないですが、そろそろ出発しなければなりません。エウラスに乗っていただけますか。あ、エウラスというのは、この機の名前です。」
「エウラス、東風(こち)の神か。いい名前だ。」
ラノアさんはそう言って、そっとエウラスの胴部を撫でます。エウラスのことを褒められると、なんだかむずがゆくなるような、嬉しいような。どうやらこの方、飛行機好きのようです。
飛行機乗りには二種類います。
機体に愛着を持つ人と、道具として割り切る人。
もちろん、単なる乗り物なわけですから、期待した性能をきちんと発揮してくれればそれでいいという、後者の方のスタンスを批判するつもりは毛頭ありません。が、私は前者のタイプなものですから、ラノアさんの取られた態度が、少し嬉しかったのも事実です。
ラノアさんに手を貸し、トランクやお鍋が放り込んである後部座席へ収まってもらいます。
恒例のエンジンスタート。
クランク棒を差し込んで、うんうん言いながらフライホイールを回しておりますと、
「手動か。手伝う。」
いつの間にか、ラノアさん、後部座席から出てきて、クランク棒をつかんでいます。
「大丈夫ですよ。いつも一人でやってることですから。まだ、無理をなさらず・・・。」
「フライホイール式で手動回転となると、相当な重さだろう。ただ乗せてもらうだけというのも忍びない。」
そう言って、ぐいぐいとクランク棒を回してくれるのです。
というか、近いです。
一本のクランク棒を、二人とも翼に乗っかった状態で回しているのですから、どうしても身体が重なるような体勢になってしまいます。
・・・・ラノアさんから、砂の匂いがしました。
「イーミャ、そろそろ、いいだろう。エンジンのスイッチを。・・・イーミャ?」
「あ、あの、はい? あ、エンジンスタートですね。分かっております。」
顔がひどく火照るのは、こんな砂漠のど真ん中、灼熱の太陽の下全力で、クランク棒を回したからでしょう。それ以外の理由なんてありません。本当ですよ。
私は操縦席に飛び込むと、スタータースイッチを入れました。
エウラスは全身を身震いさせるようにして、プロペラの回転を始めます。
「バルトー! 出発しますよ!」
いまだ上空を旋回しているバルトに声を掛けますと、一直線に急降下してきてそのまま、私の座席下に潜り込んでしまいました。バルトの機嫌はその内なおるでしょう。彼が懸念するほどに、ラノアさん、悪い人ではなさそうですから。
砂煙りを巻き上げながら、砂上で速度を増すエウラス。
「砂塵が多いと、エンジンが傷みそうですね・・。」
砂丘の斜面を下りながら速度を稼ぎ、一気に離陸します。着陸してエンジンを休ませた効果はありました。油温は許容範囲内に収まっています。
砂漠はまるで海に似て、うねり、盛り上がりながら、どこまでも単調な景色を見せています。
砂漠の操縦士。旅の道連れ、ラノアさんを得て、延々と続く砂の上を私達は一路東へ進みます。
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