(2)

 駅を出たところで携帯でシクロスの電話番号を調べ、電話を入れた。店員さんが出たので、お母さんに代わってもらった。お母さんは、僕から電話が来たことに驚いていたようだったけど、要件が娘のことだと分かって急に涙声になった。


「今、そちらに娘がいるんですか?」

「そうなんです。ちょっと精神的に追い詰められているようなので、申し訳ないんですが、お父さんと二人で急いでこちらに出向いてもらえませんか?」


 お母さんは、消息が掴めなくなった娘のことを本当に心配していたらしい。二つ返事で、すぐこちらに来ると答えた。


「お母さん、宿は取らないでください。うちに泊まって欲しいんです。親子三人だけだと、今の水鳥さんの状態では絶対に行き詰ります。うちで賑やかな年越しをするくらいの気持ちで、いらしてください」

「そんな……。ご迷惑はかけられません」

「お母さん。今はそんなことを言ってる場合じゃありません。水鳥さんの心は壊れかけてるんですよ。いいんですか?」


 お母さんはしばらく迷っている様子だったが、決心したように言った。


「すみません。ではお世話をかけますが、よろしくお願いいたします」

「お待ちしておりますので、木馬野に着いたら連絡をください」


 そう言って、携帯と店の電話番号を伝えて電話を切った。ふう。

 次はみどりだ。僕は、駅から少し高台に上がったところにあるスーパーに出向いた。


 二階の衣料品のレジ近くで、少しふっくらしたみどりが忙しそうに歩き回っていた。長かった髪をばっさり切って肩に届かないくらいまで短くし、それをさらにひっつめて額を出していた。切れ長の目と通った鼻筋は、黙っていれば端正な日本人形みたいだ。でも、ひっきりなしに他の店員やお客さんに声をかけられ、その度に人なつこい笑顔になるので、取り澄ました感じはしない。


 あまり時間がないので、側に寄って声を掛ける。


「よっ! みどり。お久しう」

「あああ、こうちゃん、なんでここに!」

「そりゃあ、早く顔を見たかったからだよ」


 さすがに、店では僕に飛びつくことも、泣き出すこともできず、みどりは変な顔でそこに立ち尽くしていた。


「でさ。早速難題発生だ」


 再会の感動に浸る間もなく、僕が変なことを言い出したのにびっくりしてる。


「なんかあったの?」

「園田さんが、壊れかけて木馬野に来てる」

「えっ? 壊れかけって、どういうこと?」

「五月病だよ。遅れてきた、ね。詳しいことは駅に戻る間に話す。今日はこれから休める?」


 みどりはちょっと考え込んでいたけど、店の奥に向かって大声で呼びかけた。


「てんちょー! てんちょー!」


 うおっ! ぱわふるー。

 伝票の束を手にしたおじさんが、ひょこっと顔を出した。


「みどりちゃん、なに?」

「ちょっと急用が入ったんです。シフト動かせませんか? 勝手を言って、済みません」


 店長さんは僕とみどりの顔を見て、何か事情があるんだなと察してくれたらしい。


「うーん。正直辛いんだけど、これまですごくがんばってくれたからね。なんとかするよ。明日以降のシフトは、また夕方に電話で相談しよう」

「ありがとうございます」


 みどりはぺこっと頭を下げて、従業員室に着替えに行った。


◇ ◇ ◇


 駅へ戻る道すがら、僕は簡単に先ほどの出来事を説明した。


「こうちゃん、本当に園田さんが来ることは知らなかったの?」

「知らないよー。向こうに戻ってからは引っ越しやバイトで忙しくて、顔を合わせる機会はなかったし、園田さん、大学止めちゃったから、学校で会うこともなくなったし」

「そうなんだあ。でも……」

「え?」

「それが園田さんには辛かったのかもね」


 冷たい空気が鼻に染みたのか、両手を顔の前に合わせたみどりが目を細めた。


「園田さん、相当こうちゃんに寄っかかってたんでしょ」

「ええっ? そんなことはないだろー?」

「鈍感ねー」


 みどりが苦笑する。


「前にも言ったでしょ? こうちゃんは、頑固なほど優しいの。優しさをもらえる人にはそれがすごく嬉しいけど、それを受け取れない人には、その優しさは残酷なの。しかも、こうちゃんはそれに気付いてないから」


 うーん……。


「園田さんは、こうちゃんを失ったダメージから回復する前にご両親から厳しく当たられて、どこにも行き場がなくなったんじゃないかな」


 僕はなんと言っていいか分からなかった。


「どうすればいいと思う?」

「そうねえ……」


 みどりは、ずいぶん昔のことを思い出すかのように上を向いた。


「まず、ご両親の支えが要るわね」

「うん、そう思って、ご両親にはすぐ来るようにさっき連絡した」

「へえ、手際いいのね」

「状態が悪いからな」

「そんなにひどいの?」

「……見れば分かるよ」


 僕はジャケットのポケットから両手を出して、擦り合わせた。


「園田さんたちは、うちに呼んだ方がいいと思って、ご両親にはそう連絡してある。ホテルはこの時期どこもいっぱいだろうし、もし宿が取れたにしても、今の園田さんの状態ならすぐにお父さん、お母さんと話できるとは思えない。第三者がいるようにして、緊張させずにただ一緒にいるだけの時間を作った方がいいと思って」

「そうね」


 みどりはちょっと複雑な顔をした。本当は僕ら親子とみどりだけの、静かな年の瀬になるはずだったのだから。


「あとは……。園田さんの状況を見て、声をかけてくれると嬉しいな。さすがに、もう僕が余計なことをするわけにはいかない。みどりには、孤独との付き合い方を教えてあげてほしいんだ」

「うん。だけどね」


 みどりは僕の顔を見て、はっきりと言った。


「それはたぶん、園田さんの役には立たないよ」

「えっ?」

「わたしや徳子さんの寂しさは、深い穴に落ちてしまって、そのどん底から這い上がろうとしてつけた傷みたいなものだと思う。でも、園田さんはまだ穴の底に落ちてないから」


 そっか……。

 みどりが自分の孤独から脱出するまでにもがき続けた、その壮絶な爪痕を見せても、孤独の入口にいる園田さんには理解できないと言うことか……。


「だからね。時間が要るの。焦らずに自分と周りを見つめて、それを受け入れるための時間が……ね」


 そして僕を見て、嬉しそうに笑った。


「わたしは、やっとそれができた。こうちゃんのおかげでね」


 僕は無性に嬉しかった。そう。この笑顔が見たかったんだ。僕はみどりの笑顔さえあれば、前を向けるんだ。


◇ ◇ ◇


 駅の待合室で項垂れている園田さんを見て、そしてその憔悴具合を見て、みどりにもその深刻さが分かったらしい。


「園田さん……」


 みどりが声を掛けると、園田さんは怯えたように振り向いた。


「お腹空いたでしょ? お腹が空くと、ろくなことを考えないの」


 みどりはいつの間に買ってあったのか、まだ暖かいメロンパンを差し出した。


「わたしが山の中にいた時はね。こんなおいしいものが世の中にあるなんて、知らなかったの」


 みどりはウインクしてみせた。園田さんはおずおずとパンを受け取ると、小声で言った。


「どうして……」

「なに?」

「どうして独りで耐えられたんですか?」


 いきなり園田さんから核心の質問が来た。僕とみどりは園田さんの横に腰を下ろした。


「そうねえ」


 みどりは、ほっと溜息をつく。


「わたしが独りだったから、かな」

「えっ?」


 園田さんはびっくりしたように聞き返した。


「独りだから、って?」

「耐えるか、死ぬかしかないもの」


 ずばり。直球だ。園田さんは硬直した。みどりの言うように、まだ園田さんの孤独は波打ち際のことなのだ。でもそれをぐだぐだ説明してもしょうがない。みどりのこの言葉は、副作用は大きいけど効果は高い劇薬みたいなものかもしれない。


「わたしはね」

「……」

「死の直前に、一個の飴玉で救われたの。こうちゃんが持ってきた、ね。だから……あなたも、まず食べて。ね?」


 みどりはそう言うと、園田さんの肩をぽん、と叩いた。園田さんは小さく頷いて、パンを口に含んだ。


「おいしい……」

「でしょ? それが生きてるってことよ」


 そう言って、前を向いてにっこり笑った。


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