第二章 園田さん事件〜木馬野に戻る

(1)

 暮れも押し迫った28日。僕は、込み合う特急列車に揺られていた。

 帰省にかかる費用を少しでも減らしたくて、特急の始発駅に出るのに前日発の夜行バスを使ったのは大正解だった。これだと飛行機の半額以下で済む。それに早朝に駅に着くので、確実に座って木馬野に行ける。年末が近くなると、特急はいつも以上に混雑する。谷合で左右に揺られる車内に長時間立ったままでいると、どんなに揺れに強い人でも乗り物酔いしてしまう。それだけはどうしても避けたかったから。


 久しぶりのみどりとの再会に胸を躍らせながら、僕はうっすらと雪に覆われた山々を見つめていた。


◇ ◇ ◇


 午前十時過ぎに木馬野の駅に着いた。すし詰めの車内から大勢の帰省客、観光客がどっと吐き出されて、やれやれという感じで改札に流れていく。ホームの人いきれが消えて、粉雪混じりの冷たい澄んだ空気に入れ替わった。都会とは違う、その清涼感にほっとする。


 今日、みどりは早番でパートに出ている。父さんは仕入れで家を空けている。年末近くで店が忙しいので、母さんは店を動けない。出迎えは、なしだ。普通列車への乗り継ぎまでは少し時間がある。ホームのベンチに座ろうとして、ふと目が止まった。少し離れたところのベンチに、見覚えのある人が俯いて座っている。

 あれ? なんでこんなところに園田さんが? 僕は立ち上がって、園田さんに近づくと声を掛けた。


「園田さん、久しぶり。どうしたの、こんなところで?」


 園田さんが顔を上げた時、僕はその風貌の変わりように唖然とした。すっかり痩せこけてしまっている。あれだけ強かった眼力が跡形もなくなり、視線はおどおどして落ち着かない。体から溢れていたエネルギーが、完全に消え失せている。


「松木くん……」


 そう言うなり、園田さんはぼろぼろ涙をこぼして泣き出した。困ったなあ。吹きさらしのホームで話を聞くには寒すぎるし、この時期、どこの喫茶店も観光客でいっぱいだ。人目が多すぎる。そうだ。駅からは少し歩くけど、町立の図書館が静かで観光客の影響を受けない。ゆっくり話をするならそこがいいだろう。


「園田さん、立ち話するには寒すぎるから、移動しようよ。喫茶店はどこも人がいっぱいで落ち着かないから、図書館へ行かないか?」

「……図書館?」

「そう。ちょっと歩くけど、町立の小さい図書館があって、そこならブース式の閲覧室があるから落ち着けるはず」


 園田さんは荷物を持って、のろのろと立ち上がった。


◇ ◇ ◇


 図書館は空いていた。高校生が何人か参考書を開いて静かに勉強している他には、来館者はいないようだった。館内は飲食禁止になってるけど、僕はこっそり缶コーヒーを持ち込んだ。そのくらいは大目に見てもらおう。館内には、小音量だけど音楽が流れている。これなら、よほど大声を出さない限りは話し声が漏れることはない。僕らは一番奥のブースに入ってドアを閉めた。小さい机をはさんで、向かい合って座る。園田さんはずっと俯いたままだ。僕は懐から缶コーヒーを出すと、園田さんに手渡した。


「なにがあったの?」


 僕は尋ねた。園田さんは、しばらく無言のまま下を向き続けていたけど、小さな声で話し始めた。


◇ ◇ ◇


 わたしね。夏に木馬野から戻ったあとで、父とぶつかったの。親に内緒で木馬野に行ったことも、学生の本分も忘れて染めにのめり込んでいることも、わたしが中途半端に大人になった気でいるって。責められたの。売り言葉に買い言葉だった。だったらいいわよ、家を出るって。わたしは染めで身を立てるって。勢いで言ってしまった。なにもあてなんかなかったのに。わたしは頭に血が上ってた。その足で大学に行って、退学届を出した。退路を断ったつもりで。そして、菊枝さんのところに住み込むのを頼みに行ったの。わたしが頼る先はそれしかなかったから。


 でもね。父はちゃんと先回りしてた。菊枝さんのところに電話して、親子のことだから深入りしないようにって釘を刺したみたいなの。菊枝さんは優しいから、大丈夫、なんとかするからって言ってくれたけど、わたしは居心地が悪くなった。二か月くらい、菊枝さんのところに置いてもらって、染めの手伝いと店番をしたけど、わたしはいろんなことに身が入らなくなったの。それを察した菊枝さんが、篠原さんていうサークルの人を紹介してくれた。わたしはその方のお宅の一室を借りて、住まわせてもらうことにしたの。もちろん、ただでというわけにはいかないから、アルバイトをして。でも……。そこでわたしの気力が途切れたの。


 わたしは何をやってるんだろうって。わたしはなんで独りになってるんだろうって。自分の足下が真っ暗な穴になっていて、自分が果てしなくそこに落ちていってる……。誰にも頼れない。誰も味方がいない。誰もわたしに優しくしてくれない。気が狂いそう。もう染めのことなんてどうでもよくなってた。篠原さんが心配して菊枝さんに連絡したみたいで、菊枝さんが慌てて飛んできた。どうしたのって聞かれたけど、どう言ったらいいのか分からない。寂しいんですって、それだけ言った。


 菊枝さんは、わたしを実家に連れ戻すつもりだったみたいだけど、わたしは全力で拒否した。父の書いたシナリオ通りに自分が動かされるのだけは、どうしても我慢できなかった。でも……。わたしは折れてしまったの。ぽっきりと。

 十二月に入ったら、わたしはどうしようもなくなった。何もできなくなった。みんな年の瀬で忙しくしているのに、わたしだけが取り残されて一人でぽつんと膝を抱えている。


 その時にね。ここのことを思い出したの。あの賑やかな一夜のことを。そうしたら。ここにいたの。


◇ ◇ ◇


 園田さんは、また押し黙ってしまった。


 そうだ。これは僕が夏に木馬野から戻って、自活を始めた時と全く同じだ。園田さんも僕と同じ一人っ子で、家を離れたことがない。自分が、家族の無尽蔵の愛情に支えられているってことを、全く自覚できていない。体は大人でも、精神的には子供なんだ。自立の覚悟なしに家を離れてしまうと、羽も生え揃っていない雛鳥が巣から落ちたように、徒にただばたばたもがくだけで、どこにも動けない。そして衰弱してしまう。

 僕には、みどりと一緒に歩くという目標があった。それが僕の目を外に向けさせ、僕を孤独という泥沼から引き上げた。でも園田さんにとって初めての孤独の恐怖は、あれほどのめりこんでいた染めを放り出させるほど、強かったんだろう。


 ぱちっと小さな音がした。園田さんが缶コーヒーを開け、口を付けた。指が震えている。ほとんど飲まず食わずだったのかもしれない。どうしようか……。

 僕は、みどりと一緒にいろいろ考えなければならないことがある。でも、ここで園田さんを放り出すわけにもいかない。そうだな……。


 僕は考えを巡らせた。

 僕の孤独経験は底が浅い。園田さんの状況に共感はできても、解決策は与えられない。それを導けるのは、みどりか徳子さんだろう。そして……。やはり家族の支えが要る。お父さんの気遣いは策略ではなく、愛情故だということを、ちゃんとご両親の口から園田さんに伝えてもらわなければならない。僕は親元から離れて初めて、父さんの僕への想いが理解できた。園田さんも、内心ではそれに気づいているだろう。だから……機会を作ればいい。


 僕は慎重に園田さんに話しかけた。


「園田さん。取りあえずうちに来なよ。まず、気分を落ち着けないと何もできないよ」


 園田さんは力なく頷いた。僕らは連れ立って駅に戻った。暖房の入った待合室の椅子に座って、園田さんに話しかける。


「ごめん。ちょっと寄るところがあるんだ。三十分くらいここで待っててくれる?」


 園田さんは無言で、こくんと首を振った。


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