(2)

 それから一週間後、僕はアパートに引っ越した。叔父さんと叔母さんが手伝いに来てくれた。引っ越し作業と言っても、ほとんどは本棚の設置と本の整理だけ。それほど時間はかからない。僕は一人暮らしに慣れるまで、叔母さんのところのバイトを休ませてもらうと申し出て、了解をもらった。じゃ、がんばってねと言い残して、叔父さん、叔母さんが引き上げた。


 そして。僕は独りになった。生まれて初めて、本当に独りで取り残された。僕は、それを甘く見ていた。片付けの手が止まってふと気がつくと、部屋には自分以外の人の気配がない。急に落ち着かなくなる。目覚まし時計の音が、僕を切り刻むかのように大きく響く。苛々してそれを布団の中に放り込むと、今度は無音が、倒れかかる壁のように僕を押し包む。

 何かしていれば大丈夫さ。そう自分に言い聞かせるように、本棚から本を取り出して読もうとするけど、文字が一向に頭の中に入らない。本を通り抜ける僕の視線の先は、底なしの闇だ。僕はベッドの端に腰をかけて自分の頭をかきむしり、本を投げ捨ててベッドに仰向けに倒れ込んだ。一年半遅れの五月病。僕は独りになったその日のうちに、自分の心のひ弱さを思い知らされることになった。


 それからの一週間は、独房の囚人さながらだった。寂しさを紛らわせようと、ポータブルテレビを買ってきたけど、その画像でうごめいているのは、人間ではなくて宇宙人に見えた。ラジオからは常に異国の暗号が流れ、戸外に出れば、僕は誰からも相手にされない路傍の石だった。僕はここに実在しているのに、全てのものが僕を素通りしていく。僕がまるで実体を持たない幽霊であるかのように。

 大学が夏休みだということも災いした。講義に出れば、必ずクラスメートと顔を合わせる。それで紛らわせることができたかもしれない。でも、休み中ではどうにもならない。孤独が自分を食い荒らすに任せるしかなかった。


 自分の部屋にいるのに、僕には立つ場所も、座る場所も、眠る場所もなかった。もっとも過酷な拷問を受けているようだった。逃げ出したかった。叔母さんの家に戻りたかった。木馬野の実家に帰りたかった。僕を無条件で受け入れてくれる、羊水のような空間に融け込みたかった。何も食べたくない。何もしたくない。膝を抱えて、朝から晩までベッドの上でぼんやりしていた。暑くて汗をだらだら流しているのに、心の中は凍りついて寒かった。震えが止まらなかった。


 と。突然携帯が鳴った。


「はい?」

「あ、こうちゃん?」


 みどりの声を聞いた途端、僕の中で何かがぶっ壊れて流れ出した。僕はとっさに携帯を閉じて、大声で泣いた。情けない。僕は何をしているんだろう? みどりが何年も耐えてきたことに、なぜ僕は数日も耐えられないんだろう?

 みどりを支える? とんでもない! こんなに弱い自分が、どうしてみどりを支えられる? 今、みどりの声を聞くわけにはいかない。きっと僕はみどりに逃げ込んでしまう。せっかく自分の足で立とうとしているみどりを、僕が引きずり落としてしまう。


 僕は携帯の電源を切った。そして暗闇の中で、しばらく虚空を見つめていた。


◇ ◇ ◇


 一週間経って、孤独は相変わらず僕を蝕んでいたけれど、僕は心にかぎ裂きが出来た状態に慣れてきた。孤独に対処するにはどうすればいいのか? それを考えられるくらいの冷静さが戻ってきた。


 さて。まずバイトを探そう。独りでいる時間を減らすには、新しい人間関係を増やすしかない。僕はこれまで、この点が常に受け身だった。だから自分の世界が一向に膨らまない。せっかく園田さんにやり方を教わっていたのに、自分で実行しなければ宝の持ち腐れだ。仕送りだけでは足りない部分を埋める算段も必要だ。よし、飲食店関係のバイトを探そう。食費の倹約が兼ねられる方がいい。


 僕は、近所の牛丼屋でバイトを始めた。それは自発的に見つけた最初のバイト。時給は安かったし、仕事は忙しかったけど、何より余計なことを考えている暇がなかった。バイトは僕も含めてほとんど学生だったけど、それぞれに目的や仕事への取り組み方が違っていた。仕事は同じなのに、携わっている人は違う。そして、それがこの小さな店のカラーを変えていく。素直に、面白いと思った。

 そうだ。世の中は人が動かしている。そして、僕もその一人なのだ。それに気がついたところで、僕は気が楽になった。僕は孤独なのではなく、僕が孤独にしているんだ。だから……。孤独に怯えるのではなく、孤独と付き合えばいい。


 孤独から自分を解放するのは簡単なことだ。人と関わればいい。自分を隠すのではなく、曝け出して。それをみどりとの間でやったじゃないか。なんて余計なことを思い悩んでいたんだろう。


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