(4)

 木馬野から戻った数日後。僕が仕事から帰ると、水鳥が浮かない顔で僕を待っていた。


「あれ? どうしたの?」

「どうしよう……」

「何かあったの?」

「お父さんお母さんがね。とんでもないことを言い出したの」

「えっ?」


 想像がつかない。どんなことだろう?


「こっちの店を畳んで、木馬野に移住するって言うのよ」

「げーっ!!」


 顎がはずれるか、と思うくらいびっくりした。


「なんでまた……」

「お父さんが言うには、人生の価値観がひっくり返ったんだって」

「うへえ」

「お母さんはお母さんで、追われるように料理をするのがしんどいって。もっとマイペースで、お客さんの顔を見て仕事したいんだって」

「ううむ」


 さすが、水鳥の両親だ。鉄砲玉は、ちゃんと親にも備わっていたらしい。


「二人ともね、無くした時間を取り戻しに行くって言うの」

「うーん」


 僕はしばらく考え込んでしまった。それから水鳥に聞いた。


「で、水鳥は二人にどう言ったの?」


 水鳥はにやっと笑った。


「覚悟はあるのかって、聞いてやった」


 やるなあ……。


「で、反応は?」

「お前の親なんだから、分かるだろうって。やっぱり、向こうの方がずっと上手だわ」


 水鳥は諦め顔で、肩をすくめた。


「で、どうするの?」

「どうもしないわよ。お父さんもお母さんも、やるといったらやるから。ただねえ。わたしたちが先を越されるなんて、なんかしゃくじゃない?」

「そうだけど……」


 僕はその場で指を折って、月数を計算した。


「こうちゃん、なにやってんの?」

「木馬野行きをどのタイミングでするか、考えてんのさ」

「ところで……」

「なに?」

「こうちゃん、向こうに行ったらどうするの? お父さんの店を継ぐの?」

「継がないよ。父さんもそれは望まないだろうし」

「じゃあ、なんかあてがあるの?」

「向こうでね。塾を開こうと思ってるんだ」

「塾? 学習塾のこと?」

「そう」


 僕は木馬野の事情を説明する。


「僕の子供時代もそうだったんだけど、あそこには高校まであるのに子供たちの劣等感がひどいんだ。自分達は田舎者で、ものを知らないってね。そんなことなんかないのに。だから……」

「うん」

「僕は受験のためじゃなくて、学ぶ事の喜びを教える塾を開きたいんだ。知識は、人と比べるために無理に詰め込んだんじゃ意味がない。それは、自分が豊かに暮らすためのご飯みたいなものだってことを、教えたいんだよ」

「そっかあ」

「もちろん、物書きで食ってくなんてよほどの大家じゃないと無理だからっていう、経済的理由もあるけど」

「ふーん。でも……」

「なに?」

「こうちゃんに先生なんてできるの?」

「うーむ、それについては僕も不安いっぱいさ。でも、いずれ僕らにも子供ができるんだし、僕は児童書の執筆や評論を仕事にするつもりだから、子供の目線で世界を見る訓練はいるだろ?」

「そっか。びぎなーからだね」

「そう。よろしくお願いしますね。せんせ」

「うむ、任せたまえ!」


 なんか知らんが、偉そうに胸を張る水鳥。


「で、決行の日は?」

「来年って考えてたけど、前倒ししよう。冬のボーナス貰ってとんずら、だ」

「おぬしも悪よのぉ」

「お代官さまほどではありませぬ」

「ふっふっふっふっ」

「ふわっはっはっはー」


 夜のアパートの一室で、わけの分からない迷惑な笑い声がしばらく響き渡っていただろう。周辺のみなさん、ごめんなさい。


◇ ◇ ◇


 木馬野行きは、残念ながら水鳥の両親に先を越された。哲さんはシクロスと系列店の経営権を後進に譲り、美里さんも店を辞めた。そして木馬野本町の高台にある空き家を買い取り、六月からそこに住みはじめた。悠々自適になるには早いなと思ったら、使われてない酒蔵を改造して、小さなレストランを開いた。


 歴史の中に新しさを。洋食の中に和のエッセンスを。そして何より、足を崩して肩ひじ張らずに食事のできるゆったりした空間を。ここでも、哲さんのセンスはいかんなく発揮された。田舎の店だ。どんなに繁盛するといったって、たかが知れている。でも、通い詰めるお客さんと軽口を叩きあいながら、楽しそうに料理をする美里さんは、シクロスでの姿とは全く別ものだった。


 哲さんは、店の切り盛りだけでなく、町おこしのアイデアマンとして忙しく駆り出された。忙しくと言ったって、半分以上は飲み会だ。膝詰めでわいわい言いながら、身の丈にあった企画を考え、それを楽しむ。休みになれば二人であちこちを小旅行し、バードウォッチングやら山歩きやら食べ歩きやら、時間を浪費する事を楽しむように、仲睦まじく過ごすようになったようだ。


 そして、いつまで副丘でぐずぐずしてるんだ、こっちはいいぞーと、余計なプレッシャーをかける。僕と水鳥は、ぶーっとふて腐れていた。


◇ ◇ ◇


 十二月になった。ボーナス支給を待って、僕は会社に辞表を出した。僕はバイトの期間も含めると結構長く働いていたから、会社の方もうすうすは僕の意図に気がついていたようだった。急な話だったのに、会社の上司や同僚が送別会を開いてくれた。そして、社長にこう言われた。


「松木くん、有名になったら絶対うちから本を出してくれ。そのための先行投資は惜しまないからね」


 水鳥も、立ち上げたブランドの存続を決めたようだ。そう、今は距離が障害にはならない時代。意志さえ貫けば、道が閉ざされることはないんだ。


 暮れ近くなって、僕らは木馬野に引っ越した。僕は駅近くの空き家を借り、そこに少し手を入れて塾の体裁を整えた。ただ、住むには不便なことが多かったので、実家から通うことにした。母さんが水鳥をすっかり気に入っているので、家の一角を改築し、そこを共同作業場にしようと画策しているようだ。


 そうして。慌ただしく毎日が過ぎていく。


◇ ◇ ◇


 年が明けた。塾はどうやら動き出した。僕ののんびりした雰囲気は、田舎の子供には合ったらしい。生徒もそこそこ集まり、授業も好評のようだ。


 そして……。昨日、水鳥が神妙な顔をして僕を呼んだ。


「こうちゃん。わたしね、ずっと生理が止まってるの。もしかすると、できたかも知れない。明日病院で検査してくる」


 本町の県立病院に出かけた水鳥は、自宅で待機していた僕にメールを打って来た。


『やたっ! 赤ちゃんできたよ!』


 僕は即座に返信する。


『でかしたっ! お祝いだね!』


 水鳥のにやける顔が目に浮かぶ。水鳥が木下の赤ちゃんを見ていた時のことを思い出す。僕も無性に嬉しかった。そうか。僕は、水鳥は、親になるのか。


 木馬野に育まれた僕は、木馬野にまた一つ生を捧げることになる。その希望と感謝を胸に、僕は最初の文章を刻むことにしよう。生まれてくる僕らの子に、僕と水鳥の物語を伝えよう。


 僕は、真っ白い紙にクレヨンで大きくタイトルを書く。


 み  ど  り


 ……と。



【それから 水鳥編 完】

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