(2)

 四月中旬。僕は、入ったばかりの会社から結婚休暇を踏んだくった。そして、水鳥とその両親を伴って木馬野に向かった。


 特急列車は、ダンスを踊りながら谷底を突き進んで行く。僕らは水鳥の両親のてつさん、美里みさとさんと一緒に、車窓からの光景を眺めていた。まだ山奥は、春が浅い。雪の残る山肌に、淡い緑の塊がぽつぽつと張り付いている。午後三時を回って、日差しはそろそろと店仕舞いを始めた。哲さんと美里さんは、うごめく山の息吹をじっと眺めている。


「山の中……なのね」


 美里さんがぽつりと言った。


「そうです。とても不便なところです。でも……」


 僕は視線を水鳥に向ける。


「ここにいると、僕らは生かされていると感じるんです。自然も、人も、木馬野の全てが僕らを支えてくれる。僕は、ここを離れてそれが分かったんです。だから……僕はどうしてもここに戻りたかった……」


 水鳥は両腕を僕の二の腕に巻きつけたまま、ぴったりくっついて離れようとしなかった。美里さんは、それを眩しそうに見ていた。


「水鳥、二年以上経つのに、らぶらぶなの?」

「そりゃそうよ。こうちゃんが将来設計に全力投球するもんだから、その間わたしが寄りかかる暇なんかなかったもん。これから思い切り甘えるの」

「あーら、ごちそうさま」


 哲さんは、その光景をにこにこしながら見てるだけだった。きっと……。僕らの出した結論は、哲さんにとって満足のいくものだったんだろう。僕はそう信じたい。


 特急列車が木馬野に着くと、意外な人物が僕らを出迎えた。


「おーい、コウ。ひっさしぶりだなあ!」


 それはリョウだった。


「あーっ! なんで分かった?」

「コウのお母さんに聞いたのさ。結婚したんだって? こっちに戻ってくるの?」

「そう。木馬野に戻るのはもうちょっと先になるけどね」

「そっかあ。賑やかになるなあ」


 リョウは教育大を出て、この春から木馬野の小学校の先生に赴任していた。僕と同じように、木馬野に戻ってきたんだ。僕は、リョウに水鳥を引き合わせた。水鳥はにっこり笑って自己紹介した。


「佐川さんですか? はじめまして。園田、じゃあなかった、松木水鳥です。お噂はかねがね」

「あーもう。コウのやつがどんな言い方してるんだか。佐川良太です。よろしくお願いします。ああ、家内も紹介します」


 びっくりした。予想はしてたけど、僕らが先を越されるとはね。


「こうちゃん、おひさー。園田さん、って今は違うのかー。でも名前がおんなじだから呼びにくいのよね。水鳥さんもお久しぶりですぅ」


 そう言って現れたのは、赤ちゃんを抱いたみどりだった。僕と水鳥が、うっひゃあーと言って同時にのけぞった。


「聞いてへんどー!」


 リョウを問いつめる。


「ああー、いわゆるデキちゃった、で」


 赤くなってリョウが照れている。水鳥はぷくぷくの赤ちゃんの手を握って、感慨深そうにしている。


「かっわいー。食べちゃいたいっ!」

「食うなっ!」


 僕は水鳥を制すると、みどりに聞いた。


「名前は?」

高志たかしよ。わたしのお父さんの字を一つもらったの。リョウにはわがままを聞いてもらった。木下はもう絶えちゃったから、せめて字だけでも残したくてね」


 そう言うと、少し寂しそうな顔をした。まだ、完全に呪縛から解放されてるわけではないのだろう。僕は水鳥の両親をほったらかしにしていることに気付いて、水鳥の脇をつついた。


「じゃあ、僕らはこれから実家に行くので。また、ね。いずれこっちに戻ったら、そん時には連絡する」

「そうだな。また、おじさんの蕎麦をごちそうになりにいくよ」

「おう、待ってる」


 リョウとみどりは、連れ立って帰って行った。


 普通列車に乗り換えて原井で降りると、父さん、母さんが並んで出迎えに来ていた。父さんが水鳥の両親にさっと会釈した。


「園田さん、遠いところをようこそお越し下さいました。何もない田舎ですが、楽しんでいってください」


 そして……。


「うちの馬鹿息子にはもったいない素晴らしいお嬢さんを、こんな田舎に閉じ込めようなんて、ちょっと後で息子に説教せなあかんな」


 と言いつつ、嬉しそうにしていた。哲さんと美里さんは、二人揃って深々と頭を下げた。哲さんが口を開いた。


「躾の行き届かない娘を引き受けて下さって、本当にありがとうございます。私は娘には好きなことをさせてきました。その代わり、それによる結果は自分で負うように、と常々言い聞かせて来ました。今、ご子息と一緒になって、娘の一番大切な選択が私たちの一番大きな喜びになったことを、どうしてもお伝えしたくてこちらに参りました」


 父さん母さんは、哲さんの言葉をくすぐったそうに聞いていた。母さんがみんなに呼びかけた。


「さあさ、こんな寒いところで立ち話してないで、うちにいらしてくださいな。主人が蕎麦打ちを見せると張り切っていますので、田舎料理を楽しんでいってくださいね」


 そして、にっこり笑って言った。


「うちは今は雑貨屋ですが、かつては旅籠でした。どうぞ、うちを宿だと思ってゆっくりしてらしてくださいな」


 店に着くと、父さんは瞬く間に人数分の蕎麦をこしらえた。その手際にも驚いていたけど、その味は、哲さん、美里さんの想像をはるかに凌駕するものだったらしい。二人とも無言で蕎麦をたぐったあと、顔を見合わせた。


「これが、蕎麦、か」


 水鳥が嬉しそうに言った。


「ね? わたしがこうちゃんちに行くと、必ず太って帰るのが分かるでしょ?」


 ……それは違うと思うぞ、水鳥。


 母さんの料理は、美里さんには新鮮に映ったらしい。僕にはごくありふれたものだったけど、台所に立って何度も作り方やコツを聞いていた。母さんには美里さんの職業は明かしていない。後で、びっくりすることだろう。


◇ ◇ ◇


 翌日、僕はレンタカーを借りて、園田一家に木馬野のあちこちを案内して回った。


 木馬野の周辺には、たくさんの沼や湖がある。春の渡りの季節。北帰行を前にした様々な水鳥が、湖面にたくさん浮かんで休養を取っている。そうした湖畔に車を留めて、早春の風情を楽しもうということになった。でも、水面の鳥を見つめる哲さんの目がいつもと違う。懐からいつの間にか双眼鏡を出して、じっと何かを見つめている。美里さんが首をすくめて、呟いた。


「てっちゃんの病気が始まったわ。これでしばらくここから動けないわね」


 僕は何の事か分からず、首を傾げていた。美里さんが苦笑いしながら種明かししてくれた。


「あの人の唯一の、しかも病的な趣味がバードウォッチングなの。鳥を見に行くって言って家を出たら、いつ戻るか分からないのよ。分かるでしょ? 娘にあんな名前をつけるくらいだから」


 驚愕! 納得! 水鳥が憮然とした表情をしている。なるほど、これじゃあ名前の話を嫌がるのも無理はない。結局、夕刻近くになって家に戻った。


 店に戻ると、作次おじさんが酒瓶を下げて遊びに来ていた。下戸の僕の父さん相手じゃ飲めないけれど、水鳥のお父さんならという下心があったに違いない。その晩は、哲さん対作次おじさんという、壮絶なバトルが繰り広げられた。どちらが勝ったかは……言わないでおこう。


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