(2)
四月中旬。僕は、入ったばかりの会社から結婚休暇を踏んだくった。そして、水鳥とその両親を伴って木馬野に向かった。
特急列車は、ダンスを踊りながら谷底を突き進んで行く。僕らは水鳥の両親の
「山の中……なのね」
美里さんがぽつりと言った。
「そうです。とても不便なところです。でも……」
僕は視線を水鳥に向ける。
「ここにいると、僕らは生かされていると感じるんです。自然も、人も、木馬野の全てが僕らを支えてくれる。僕は、ここを離れてそれが分かったんです。だから……僕はどうしてもここに戻りたかった……」
水鳥は両腕を僕の二の腕に巻きつけたまま、ぴったりくっついて離れようとしなかった。美里さんは、それを眩しそうに見ていた。
「水鳥、二年以上経つのに、らぶらぶなの?」
「そりゃそうよ。こうちゃんが将来設計に全力投球するもんだから、その間わたしが寄りかかる暇なんかなかったもん。これから思い切り甘えるの」
「あーら、ごちそうさま」
哲さんは、その光景をにこにこしながら見てるだけだった。きっと……。僕らの出した結論は、哲さんにとって満足のいくものだったんだろう。僕はそう信じたい。
特急列車が木馬野に着くと、意外な人物が僕らを出迎えた。
「おーい、コウ。ひっさしぶりだなあ!」
それはリョウだった。
「あーっ! なんで分かった?」
「コウのお母さんに聞いたのさ。結婚したんだって? こっちに戻ってくるの?」
「そう。木馬野に戻るのはもうちょっと先になるけどね」
「そっかあ。賑やかになるなあ」
リョウは教育大を出て、この春から木馬野の小学校の先生に赴任していた。僕と同じように、木馬野に戻ってきたんだ。僕は、リョウに水鳥を引き合わせた。水鳥はにっこり笑って自己紹介した。
「佐川さんですか? はじめまして。園田、じゃあなかった、松木水鳥です。お噂はかねがね」
「あーもう。コウのやつがどんな言い方してるんだか。佐川良太です。よろしくお願いします。ああ、家内も紹介します」
びっくりした。予想はしてたけど、僕らが先を越されるとはね。
「こうちゃん、おひさー。園田さん、って今は違うのかー。でも名前がおんなじだから呼びにくいのよね。水鳥さんもお久しぶりですぅ」
そう言って現れたのは、赤ちゃんを抱いたみどりだった。僕と水鳥が、うっひゃあーと言って同時にのけぞった。
「聞いてへんどー!」
リョウを問いつめる。
「ああー、いわゆるデキちゃった、で」
赤くなってリョウが照れている。水鳥はぷくぷくの赤ちゃんの手を握って、感慨深そうにしている。
「かっわいー。食べちゃいたいっ!」
「食うなっ!」
僕は水鳥を制すると、みどりに聞いた。
「名前は?」
「
そう言うと、少し寂しそうな顔をした。まだ、完全に呪縛から解放されてるわけではないのだろう。僕は水鳥の両親をほったらかしにしていることに気付いて、水鳥の脇をつついた。
「じゃあ、僕らはこれから実家に行くので。また、ね。いずれこっちに戻ったら、そん時には連絡する」
「そうだな。また、おじさんの蕎麦をごちそうになりにいくよ」
「おう、待ってる」
リョウとみどりは、連れ立って帰って行った。
普通列車に乗り換えて原井で降りると、父さん、母さんが並んで出迎えに来ていた。父さんが水鳥の両親にさっと会釈した。
「園田さん、遠いところをようこそお越し下さいました。何もない田舎ですが、楽しんでいってください」
そして……。
「うちの馬鹿息子にはもったいない素晴らしいお嬢さんを、こんな田舎に閉じ込めようなんて、ちょっと後で息子に説教せなあかんな」
と言いつつ、嬉しそうにしていた。哲さんと美里さんは、二人揃って深々と頭を下げた。哲さんが口を開いた。
「躾の行き届かない娘を引き受けて下さって、本当にありがとうございます。私は娘には好きなことをさせてきました。その代わり、それによる結果は自分で負うように、と常々言い聞かせて来ました。今、ご子息と一緒になって、娘の一番大切な選択が私たちの一番大きな喜びになったことを、どうしてもお伝えしたくてこちらに参りました」
父さん母さんは、哲さんの言葉をくすぐったそうに聞いていた。母さんがみんなに呼びかけた。
「さあさ、こんな寒いところで立ち話してないで、うちにいらしてくださいな。主人が蕎麦打ちを見せると張り切っていますので、田舎料理を楽しんでいってくださいね」
そして、にっこり笑って言った。
「うちは今は雑貨屋ですが、かつては旅籠でした。どうぞ、うちを宿だと思ってゆっくりしてらしてくださいな」
店に着くと、父さんは瞬く間に人数分の蕎麦をこしらえた。その手際にも驚いていたけど、その味は、哲さん、美里さんの想像をはるかに凌駕するものだったらしい。二人とも無言で蕎麦をたぐったあと、顔を見合わせた。
「これが、蕎麦、か」
水鳥が嬉しそうに言った。
「ね? わたしがこうちゃんちに行くと、必ず太って帰るのが分かるでしょ?」
……それは違うと思うぞ、水鳥。
母さんの料理は、美里さんには新鮮に映ったらしい。僕にはごくありふれたものだったけど、台所に立って何度も作り方やコツを聞いていた。母さんには美里さんの職業は明かしていない。後で、びっくりすることだろう。
◇ ◇ ◇
翌日、僕はレンタカーを借りて、園田一家に木馬野のあちこちを案内して回った。
木馬野の周辺には、たくさんの沼や湖がある。春の渡りの季節。北帰行を前にした様々な水鳥が、湖面にたくさん浮かんで休養を取っている。そうした湖畔に車を留めて、早春の風情を楽しもうということになった。でも、水面の鳥を見つめる哲さんの目がいつもと違う。懐からいつの間にか双眼鏡を出して、じっと何かを見つめている。美里さんが首をすくめて、呟いた。
「てっちゃんの病気が始まったわ。これでしばらくここから動けないわね」
僕は何の事か分からず、首を傾げていた。美里さんが苦笑いしながら種明かししてくれた。
「あの人の唯一の、しかも病的な趣味がバードウォッチングなの。鳥を見に行くって言って家を出たら、いつ戻るか分からないのよ。分かるでしょ? 娘にあんな名前をつけるくらいだから」
驚愕! 納得! 水鳥が憮然とした表情をしている。なるほど、これじゃあ名前の話を嫌がるのも無理はない。結局、夕刻近くになって家に戻った。
店に戻ると、作次おじさんが酒瓶を下げて遊びに来ていた。下戸の僕の父さん相手じゃ飲めないけれど、水鳥のお父さんならという下心があったに違いない。その晩は、哲さん対作次おじさんという、壮絶なバトルが繰り広げられた。どちらが勝ったかは……言わないでおこう。
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