(2)
僕はすることがあるからと、早々に園田家を辞した。
叔母さんのところに戻る前に、駅前の不動産屋を何件かはしごして、物件の目星をつけた。夏はオフシーズンで、学生向けの出物は少ないけど、その分安いものを選べたのは幸いだった。
「ただいまー」
「あら、こうちゃん、もう戻ってきたの?」
「いろいろあって疲れました」
「そう。姉さんからだいたいは聞いてるわ。徳子さんはお気の毒だったわね……」
叔母さんは、そう言って一つ溜息をついた。でも、そのあとでにやにやしながら僕を見た。
「やっぱり、そうなったでしょ?」
ううう。どうやっても僕は叔母さんの掌の上なのね。僕は、大事な話を早めに切り出すことにした。
「叔母さん、僕はここを出ます」
叔母さんは目を丸くした。
「ええっ?」
「叔母さんのところは、居心地が良すぎるんです。前に叔母さんから、こうちゃんにやる気なんてあったのって言われたことがありましたよね。あの時には本当に、やる気を絞り出すのが大変だったんです」
「そう……」
「でも今回木馬野に帰って、僕の中で引っかかっていたいくつかのことが決着しました。僕にとっては走り出すチャンスなんです」
「なるほどね……。やっぱり彼女ができると、一味違うわねー」
ちょっと違うと思ったけど、あえて反論はしなかった。水鳥が契機になったことは事実だから。
「それで、どうするの?」
「こっちに戻ってくる途中で不動産屋を何軒か回って、当たりをつけてきました」
「お金はどうするの?」
「当座使わないお金を貯めていたので、手続きや引っ越しに必要な分と、二、三か月分の家賃は手元にあります」
「ふーん」
叔母さんは、腕を組んで僕をまじまじと見ていた。そして、笑顔で言った。
「矢は放たれたのね」
「はい」
「こうちゃんは、全部自分の中に溜め込もうとするから、その反動がどう出るか、すごく心配だったの」
ああ、お父さんと同じ心配をしてくれてたんだ。僕は叔母さんの心遣いが嬉しくて、涙が出そうだった。
「でも、溜め込んだエネルギーが前進するのに使われるのは、見ていてとっても爽快だわ。そうね。思い立ったが吉日。頑張ってね」
「はい。叔母さん達にはご迷惑をお掛けしますけど」
「そんなのは気にしないで。あ、うちのアルバイトはどうするの?」
「叔母さんに聞いてからと思って、まだ手配はしてませんけど、近々僕の方で何か長期のバイトを探します。それまでは、甘えさせてもらっていいですか?」
「助かるわ。私も自分の時間を確保したいから」
叔母さんは、またいたずらっぽい顔になった。
「こうちゃん、水鳥ちゃんと同棲するの?」
さすがにそれは……。僕は否定した。
「木馬野に帰っていた三日間で、やっとお互いに告白したんです。始まったばかりですよ。そんなのまだまだ先です」
「水鳥ちゃんが、そう思ってくれればいいけど……」
確かになあ……。この時僕はまだ、鉄砲玉の的が自分になったことの重大さを充分自覚していなかったんだ。
−=*=−
それから一週間後、僕はアパートに引っ越した。叔父さん叔母さんと水鳥が手伝いに来てくれた。水鳥は、僕の荷物がほとんど本だけだということに驚いていた。引っ越し作業と言っても、ほとんどは本棚の設置と本の整理だけ。これは力仕事なので、叔母さんや水鳥には何もすることがなかった。二人は、まだ開いてない段ボール箱の上に腰を掛けて、なにやら染めの話を繰り広げていた。
とりあえず、物が所定の位置に収まったところで、がんばってねと言い残して、叔父さん叔母さんが引き上げた。僕は、水鳥に冷たい缶ジュースを渡してお礼を言った。
「手伝ってくれて助かったよ。疲れたろ?」
「なんにも。わたしのやることなんか、ほとんどなかったもん」
「ははは。僕の荷物は本ばっかりだからなー」
僕は、ベッドの端に座って自分の部屋を見渡した。そう、これは生まれて初めての僕の城だ。実家でも、叔母さんの家でも、僕の部屋は僕以外の人がしつらえたものだ。どこかに庇護の影がある。それがここにはない。ただの箱。ここは僕が自分で染めるんだ。僕はなんとなく嬉しくなって、水鳥に言った。
「さあ、送ってくよ。あまり遅くなるといけないから」
でも、水鳥の返事は仰天ものだった。
「わたしは帰らないわよ」
「えっ!?」
口をぽかんと開けた僕に、笑顔で水鳥は言い放った。
「今度は、お父さんお母さんの了承も得てるから」
それって……どういう親子じゃ! さすが、経過は気にしないというお父さんのことだけある。中途半端にしなければ、そして起きた事態に自ら責任を取れば、あとは好きにしなさいということなのだろう。僕は頭を抱えてしまった。
「うー」
「いつもと逆ね」
水鳥は嬉しそうに僕をつつく。
「拙速はよくないと思うけど」
「善は急げ、よ」
「どこが善じゃ!」
「このあたりが」
水鳥がいきなり僕の首っ玉に抱きついてキスをする。そして僕をそのままベッドの上に押し倒した。僕は慌てて起き上がると、唇を引きはがして言った。
「たんま、たんま!」
「待ったなし!」
「いや、本当に待って!」
「なぁによぅ!」
せっかく盛り上がってきたのにって感じで、水鳥が膨れる。
「一つ確認」
「なによ」
「僕は水鳥のことを大事にしたいと思ってる。思い込んだら周りが見えなくなる水鳥を、僕の都合で引きずり回すことは絶対にしたくない」
「……」
「水鳥が染めを見つけたように、僕も自分の将来の道行きを考えないといけない。その間は、絶対想いが一方通行になる時期が来る」
「そうよね」
「だろ? それは僕自身のことだけじゃなくて、僕ら二人の将来のことになる。おろそかにしたくないんだ」
「うん」
「だから……。水鳥は僕に全部を注ぎ込まないように、自分にブレーキをかけてくれ。僕が常に前を見ることを意識するように、水鳥にはいつも自分の足下を見つめて欲しい。でないと……」
「どうなるの?」
「僕らは暴走する」
我に返ったように、水鳥は僕から離れた。
「……今のようにね」
水鳥が恥ずかしそうに俯いた。僕は続けて聞いた。
「お母さんが言ったよね。覚悟はあるか、と。僕は覚悟があるつもりだ。水鳥は?」
しばらく考えて水鳥が答えた。
「あるわ」
僕はそれを聞いて立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる。汗と埃ですごく汚れてるから」
僕はクローゼットから下着と替えのTシャツ、ハーフパンツとバスタオルを引っ張り出すと、浴室でシャワーを浴びた。僕が着替えて浴室を出ると、水鳥がベッドの端にぼーっと座っていた。
「どうする? 帰る? 泊まる?」
僕は、頭をバスタオルでがしがし拭きながら聞いた。
「うん……」
たぶん、水鳥はふざけてではなくて、本当に覚悟を決めてきたんだろう。でも僕が出鼻をくじいてしまったので、迷いが出たのかもしれない。
「どうしたらいいと思う?」
「そんなこと僕に聞くなよー」
「どして?」
「僕が、帰れって言うわけないだろ?」
それは水鳥が一番期待していたけど、予想してなかった返事だったみたいだ。ぱっと表情が明るくなった。
「わたしもシャワー浴びてくるね。汗かいちゃったし」
その夜。僕らはお互いを求めあった。木馬野での最後の夜にはまだかすかに残っていた、とまどいや迷いを、全て振り払うかのように。初めて同士でぎごちなかったけど、そんなことは僕らにはどうでも良かった。
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