最終章 木馬野を発つ

(1)

 出発の朝。


 狂乱の宴の後にしては、みんなすっきりした顔で居間に現れたらしい。ほとんど飲まなかった僕が一番最後に起きていったのは、どうにもばつが悪かった。もうみんなとっくに朝食は済ませていた。それにしても、あれだけべろべろに酔っていたはずの園田さんが、けろっとした顔をしているのには驚いた。さすがに酒豪の多い九州出身だけのことはある。


 園田さんは、おばさんが戸板に一旦戻るのに便乗して向こうを見てくるらしい。わたしにとって最初で最後、見納めだからって言って。作次おじさんが四駆を出し、リョウも一緒に行くらしい。御一行様は僕らより一足先に店を出た。リョウよ、出足は好調だぞ。がんばれー。


 僕はみどりと遅い朝食をとった。みどりは僕と一緒に食べたいと、待っててくれたらしい。何か言わなければと思っていたけど、言葉は出なかった。僕らは黙々とご飯を食べた。


 時間だ。父さんが、母さんとみどりを乗せて、軽で僕を木馬野の駅まで送ってくれた。駅に着いた時に、てっきり母さんも降りてくるのだとばかり思っていたら、出発までは二人で話しなさいなと言って、みどりを置いてさっさと帰ってしまった。

 ホームのベンチで、二人並んで黙って座っていた。分かっていても離れ離れになるのは寂しい。どうすれば、一刻も早く一緒に居られるようになるのか。どうすれば、この溢れる想いを伝え続けることができるのか。じれったい思いが僕を包んでいた。


 みどりが目を伏せたまま言った。


「ねえ、こうちゃん」

「ん?」

「わたしね、一つ気付いたことがある」

「なに?」

「うん」

「時間て、長さじゃないんだね」

「えっ?」

「わたしの今までの二十年間は、すっごく長かったなあと最初は思ってた。でもね。それよりもこの三日間の方がずっと重いの」

「……」

「神様がね。この三日間と、それまでの時間のどちらかを選べって言ったら、わたしの命の長さがそれしかなくても、三日間の方を選ぶ」

「そっか」


 僕は、この三日間を脳裏に思い浮かべた。そして、穂垂の言葉をもう一度噛みしめた。


 『いつかは尽きる。朽ち果てる。それゆえ今が、この時が愛おしい』


 みどりと一緒にいる時に、どれだけ心を通わせることができるか。それは時間の長さではなくて、想いの深さの問題だ。大事にしよう。今ここに、僕が、みどりがいることを。そして、どんなに僕らが時に押し流されていても、その手を離さないように歩いて行こう。


「僕はね」

「え?」


 みどりがこちらに振り向いた。


「必ず木馬野に帰る。僕の心はここにあるから。だから……」


 僕はみどりを引き寄せると、キスをした。そして……。


「待っててほしい。帰ってくるまで」

「うん」


 みどりはにっこりと笑って、もう一度言った。


「うんっ!」


 下りの特急列車が、ホームに滑り込む。僕が乗り込むと、余韻を味わう暇もないほどすぐにドアが閉まる。列車が動き出す。窓の向こうでみどりが手を振っている。


 それは、瞬く間に見えなくなった。


           −=*=−


 特急列車は、緑の谷底でダンスを踊る。


 時折、光の破片が投げ込まれる窓辺で、僕はいつものように本を読んでいる。僕は一人でいる。でも、一人でいる気がしない。横に。みどりがいる。穂垂がいる。出見がいる。僕は、彼らの想いと一緒に列車に乗っている。そう、僕はこれから『戻る』んじゃなくて、『行く』んだ。僕が為すために。歩き出すために。それをみどりとの未来に繋げるために。


 僕は、行く。


 本からふと目を離すと、反対側の座席のご夫婦と目が合った。あ、来る時に列車に乗っていた人じゃないか。


「またお会いしましたね」

「あら、奇遇ですね」

「ご旅行はいかがでしたか?」

「天気も良かったし、最高でした。ねえ、あなた」


 ご主人は、にこりと笑って頷いた。


「あなたは、お父様とは仲直りされたの?」

「しました。誤解が解けて、ほっとしました」

「それは良かったわ。ところで……」

「なんでしょう?」

「とても雰囲気が変わられましたね?」

「そうですか? 自分ではそんな気はしないんですけど」

「ふーん……」


 おばさんは首を傾げながら言った。


「何かいいことがあったかしら? 眼の印象が、前と全然違うような気がするんですけどねえ……」


 僕はその問いには答えなかった。代わりに、ゆっくりと微笑みを返した。


           −=*=−


 ぴいいいいいいいいっ!!


 鋭い警笛を後ろに残して。特急列車が、緑の海底を突き抜けた。そして、勢い良く真夏の光の洪水の中に……飛び込んでいった。



【 みどり編 完 】

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